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レンタルで、『3月のライオン 前編』と『三度目の殺人』。
『三度目の殺人』は、ラスト近くに異様な演出があった。
役所は殺人容疑で逮捕されたはずなのだが、どうやら父親から性的虐待を受けていた娘を助けるために殺したらしい。判然としない役所の犯行動機に対して、福山は「ようするに、あなたは誰かの殺意を代替して行使する、器なのですね」という意味のことを告げる。
それだけ言うと、福山はスッと体を引く。すると、重なり合っていた役所の半透明の顔だけが画面に残る。
ようするに、役所の顔は「器」としてガラス面に映っており、福山の顔が「器」である役所の顔に「入り込んでいる」のだ。「器」の概念をセリフで終わらせず、文字どおり映像化するとしたら、おそらくこの構図しかない。
全体を通じて見ると、邦画によくある無意味なドリー移動が多いのだが、このラスト近くの難解な構図には唸らされた。僕は、(物語などの)概念を図像で示すのが、映画だと思っているので。
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平成ガメラを配信で探していたら、『小さき勇者たち~ガメラ~』に行き当たった。
12年前の公開以来だ。当時も好感をいだいていたのだが、こんなにロケ撮影が多いとは思わなかった。残骸の町を少年が延々とさまよい歩く様は、まるで『ドイツ零年』か『大人は判ってくれない』だ。引きの絵も、すごく多いし。
冗談でも何でもなく、それまでセットと書き割り、時にはミニチュアで処理されてきた劇映画の舞台を本物の街に広げ、舞台俳優ではなく素人の肉体を撮りはじめたのはネオレアリズモでありヌーヴェル・ヴァーグであり、その撮影法は模倣され拡散され希釈されて、商業映画の中に息づいてきた。
『ビリギャル』を観ていても「まるでトリュフォーだな」と苦笑いしてしまうようなカットがあった。走る自転車を車で真正面から撮りつづけたり、はしゃぐ少女たちをスローで撮ったり……。半世紀も世界中で模倣されてきたから、パクリとかオマージュとか言われなくなっただけのことだ。
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そして、ガメラのエネルギー源となる赤い石を、お互いに顔を知らない子供たちが次々とリレーして送り届けるクライマックスが泣けるわけだが、最初に石を持っていた夏帆が病気のため「動けない」ことに留意すべきだろう。
僕たち観客は、映画を観ているあいだはシートに縛りつけられているため、劇中に「動けない」人物が登場すると、いつの間にか親近感をおぼえる。意識にのぼらないぐらいのレベルで。
ヒッチコックの『裏窓』が典型的だ。『ダイ・ハード』にのめりこめるのは、目の前で民間人が殺されるのを黙って見ているしかないシーンが最初のほうにあるから。
どんな脇役でもいいから「意のままに動けない」人物が映ると、映画に対する親近感が増す。ウソだと思ったら、「動けない」人物を探してみてほしい。
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僕は反権力的な、左翼がかった人間だと思うのだが、ミュージシャンが愛国ソングを歌ってもまるで気にならない。疑いなく「愛国ソングを潰そう」とする人たちのほうが怖い。
表現を守ることって、考えを守ることと同義だと思う。表現に寛容になれば、ありとあらゆる思想や嗜好を許すことに繋がるんじゃないだろうか。自由な世の中になるんじゃないだろうか。だから僕は、今の日本では「表現ぐらいしか守るべきものがない」と思っている。モラルが高くなければ、表現を守ることって不可能だと思うし。
(C)2017フジテレビジョン アミューズ ギャガ
(C)2006「小さき勇者たち〜ガメラ〜」製作委員会
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