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ヒーローが目覚める瞬間は、こうして生まれる!「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」日本語吹替版主演・咲野俊介、独占インタビュー!【アニメ業界ウォッチング第45回】(■)ソフト発売のタイミングで主演声優の咲野俊介さんのインタビューをお願いしたら、配給会社さん、メーカーさんが頑張ってくださいました。吹き替えの技術的な話も聞けて、大満足です。
中国ではオタク層の熱烈な支持を受けて大ヒット、咲野さんが着てらっしゃるTシャツも、ファンたちが「もっと大人っぽいデザインにして!」と要望して路線変更したグッズの一部だそうです。
本国版・海外板のポスター・ビジュアルは、いずれもアーティスティックでクールなものばかり。こんな子供っぽい宣伝をやったのは日本だけのようで、世界から取り残された感覚があります。吹き替え板が出色のクオリティであることが救いです。
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「Nintendo Labo」、少しずつキット内容を組み立てている。組み立てる過程がメインなのだから、やはりプラモデル的な製品なのだと思う。ゲームは(よく出来ているけど)、あまりにシンプルでオマケみたいな感じ。プラモデルと違って、「Labo」はいちいち組み立てている相手のことを気にして、「疲れたかな? ちょっと休もうか」「ここはちょっと難しいよ」「でも間違っても大丈夫だよ」「いい仕事したぜ!」など、あれこれ話しかけてくれる。もう、それが嬉しくて嬉しくて、涙ぐみながら組み立てている。ドーパミンがどばどば出ているのが、よく分かる。首筋の裏側のあたりが、シュワーッと炭酸のように泡立つ感じがするのだ。
あるいは、「脳にアイロンをかけられる」と表現してもいい。ダンボールの部品を切り抜きながら、ときどき笑わせられ、誉められてホロリとして、だけど終わってから手に入るのはダンボール製の玩具と簡単なゲームだけ……なんだか、自分が無垢で純粋な子供に戻ったような気持ちになる。
おそらく自己啓発セミナーっぽいんだ、この世界……こういう書き方をすること自体、すでに予定調和のような、言いくるめられたような、不気味な快楽に漂っている。
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だけど、もう逃れられない。明日も誉めてもらいたさに、ダンボールを切り抜くだろうと思う。そして、自分の感情の素朴さに酔いしれ、脳内快楽物質のトリコになるんだろうと思う。もう後戻りは出来ない……こんな新鮮で危険な感覚を味わうのは、20代の後半以来だと思う。
で、僕は「Nintendo Labo」を模型メーカーは真似すべきだと単純に考えていて、タミヤですら説明書が難解だという以前からの疑念に確信がもてた。タミヤ製キットの組み立て説明図の分かりづらい部分をメモするのは、「Labo」に触る前からやっているので。「Nintendo Labo」はダンボールを折りたたむべきところでは、ポワッと白い煙が出る。“漫符”の導入によって「折る」ことの重要性を示しているわけだが、バンダイは何年も前からニッパーで切るところに火花のような記号を配置して「切る」感触を強調しているし(本文中では四角い枠のニッパーのアイコンとなる)、音がするまで押し込むところには「パチン!」と擬音が書いてある。
むしろ、細かくて効率的にパーツ分割されたタミヤ製品が、直感的な説明をできずに損をしていると以前から思っていた。負けるな、プラモデル。応援するぞ。
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ひさびさの映画は、ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』。
1946年だから、『市民ケーン』より5年後か。酒場で手術するシーンは、『市民ケーン』のように計算されたライティングだったが、全体にセリフに頼った凡庸な出来だと思った。それでも、いつくか感心させられるシーンがある。
理髪店でヒゲを剃ってもらっていたワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)。その店内に、銃弾が飛び込んでくる。酔っ払ったインディアンが暴れているのだ。
画面左手に建物があり、インディアンが立てこもって銃を撃ったり火を放ったりしている。ワイアット・アープは画面右手にある階段を昇り、画面左手(つまりインディアンの立っている側)の2階窓を蹴破って、建物に潜入する。
アープが窓から建物内に入るとき、女性の悲鳴があがり、アープの「失礼、ご婦人方!」というセリフが聞こえる。まあ、それはアクセントにすぎないんだけど、なかなか気のきいた演出だ。
さて、2階窓から建物に潜入したアープはどうするつもりなのか? 心配そうな人々の様子がインサートされた後、アープは一階の玄関から、気絶したインディアンの足をつかんで、ずるずると引きずって出てくる。
アープが建物内でインディアンをKOしたこと、アープが凄腕であることが一瞬で分かる。それは画面左に向かったアープが、左から右に歩いてくる、つまり「行って戻ってきた」ことで強調される。
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土砂降りの中、牛の番をしていたアープの弟が殺されているのが見つかる。
雨に打たれる死体を見せる前、雨水であふれた鍋、皿を映す。この方が、いきなり死体を見せるより不吉な予感がする。
ラストの決闘シーン、男が銃を構えて移動する……が、手前に柵がある。あるいは、手前で馬たちが動いている。視界に障害物を入れて、ストレスを感じさせる。ついには、右往左往する馬だけを撮る。こちらは決闘を見たいのに、あえて馬を見せる。画面いっぱいにうごめく馬たちは、「決闘はどうなるんだ?」と焦る僕たちの気持ちと同調する。
僕にとって、映画の「本体」とはシーンやシチュエーションを描写する力であって、全体的なストーリーは気にならないというか、意味をなさないことが多い。
「Nintendo Labo」を経験しても、映画の見方は変わらなかった。
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