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フィギュア原型師・林浩己が“ストーリー性のあるフィギュアを目指す意味”を語る!【ホビー業界インサイド第34回】(■)十数年前、離婚と同時に模型趣味に戻ってきたとき、模型ファクトリーで見かけたのが林さん原型のレジン製フィギュアでした。各社の発売しているウェザリング用マテリアルやアフターパーツと一緒に、いっぺんに僕の心をとらえた「2010年代の豊かな模型状況」の中に、間違いなく林さんの1/20スケールのフィギュアも位置しています。
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吉祥寺オデヲンで、『パシフィック・リム:アップライジング』。クライマックスの東京バトルは、たぶん日本に観光に来た中国人たちへのサービスではないかと思う。少なくとも、日本人に媚びたわけではない。というのも、お台場にあるはずのガンダム立像が戦場のど真ん中にあり、(エンディングにサンライズの名前が表記されているので納得したが)不自然にも破壊されることがなかったからだ。
もはやロボット映像の「本物」は暴れ狂うイェーガーたちの方であって、あの世界でも『ガンダム』は虚構のままで、だからこそ壊さないでそっとしておいてやるよ、と目配せされたような気分になった。
「ガンダム、恐るるに足りず」と言われたような気がしたのだ。
ほんの一瞬、『ガンヘッド』が夢見た日本アニメならではの知性とセンスで、「本物の」ロボット映画を作ってハリウッドに一泡ふかせる、という試みは、もう十分すぎるほど達成されたと思う。何なら、『ロボ・ジョックス』からアーカイヴして、いかにして日本風ロボットの映像化が洗練されてきたか、歴史を紐解いてもいいぐらいだ。
日本人のプロデューサーが見つけた実写ロボット映画の製作意図は少しも間違っていなくて、この20年間、単に日本人を排斥した形でハリウッドのSFXアーティストたちの手で着々と完成に向かっていた。ゲームや製作ツールの進化も、呼応していたはずだ。
『ロボ・ジョックス』から『パシフィック・リム』まで見事にバトン・リレーされているマスター・スレーブ方式の操縦方法は好きではないのだが、日本式のレバー操作ロボットがハリウッドで「実用化」されることは、おそらく無いだろうと思う。実写ロボットの洗練化・様式化は、もはや達成されているからだ。
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その一方で、僕はビルとビルの間を飛んだり跳ねたりしながら戦うロボットたちのアクション・シーンに感心しながら、これの何がそんなに感動的なのか、じっと考えていた。
四方田犬彦さんが、サイレント映画時代のアクション俳優たちを引き合いに出しながら語っ
た「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れて、純粋な身体の運動を映像としてとらえ続けていたいという欲望」、それがCGロボットによって達成されてるからじゃないか、と気がついた。つまり、延々とつづく戦闘シーンは、サイレント映画的で、その間だけは「ドラマ」がストップしている。純粋なアクションだけが映画を支配している。
どうしても僕たちは、登場人物の「内面」が「セリフ」として言語化されていたり、泣き叫ぶ・激怒するなどの視覚化された「感情描写」がないと「中身が無い」などとバカげた評価をくだしがちだ。この映画の「中身」は、ありありとスクリーン上に表出した「純粋な身体の運動」だ。誰もが、その目で見ているはずだ。
この映画は、ロボットの数だけは多いのに、アクションのパターンが少なすぎるように思った。そのような批判なら、分かる。登場人物の過去がどうの、という批判は「ウサギを追いはじめている」、つまり目の前にないはずの抽象概念に振り回されてるんじゃないだろうか。
銀座の裏庭に富士山がある、この幼児的な箱庭感覚は事実誤認なのではなく、この映画の美学なんだと思う。
(C)Legendary Pictures/Universal Pictures.
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