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2018年4月 9日 (月)

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ルイス・ブニュエル監督の『欲望のあいまいな対象』、ジョン・フォード監督の『アパッチ砦』、李相日監督の『怒り』をレンタルで。
640_3僕は、映画は図像だと思っているので、色さえ映画の本質とは無関係な“テクスチャー”に感じる。カラーになっても、トーキーになっても、映画の表現形式が抜本的に変わることはなかった。
だから、『怒り』で日本の俳優たちが見せた強烈な存在感、奇跡的なほど自然な演技の間合いに感嘆しつつも、構図やカッティングが機能的ではないことに苛立ちを感じた。
もしかすると、脚本や俳優の存在すら“テクスチャー”にすぎず、ほとんどの観客は“テクスチャー”だけを楽しんでいるのではないだろうか。その疑いは、たぶん間違っていない。僕も脚本や演技のできばえだけに一喜一憂している自分に、気がついていた。


それほどまでに、『怒り』に出演した俳優たちの演技には、魂をつかまれた。「日本には、こんな俳優がいのたか」と驚いてキャストを調べてみると、名の知れた俳優ばかりだった。
640_2まだ新人と言っていい広瀬すずは、まさかと思うほどの辛らつな修羅場を見せ、森山未來は二重三重にウソで固めた複雑な人物を、まるで僕の知り合いでもあるかのように生々しく演じた。
脚本も李相日監督によるもので、人間への観察眼が深いのだと思う。不自然なセリフが、ひとつもない。
立場や境遇の理不尽さを、シンプルなやりとりで伝える。

ただ、三箇所で展開するストーリーを、カットバックで見せる手法には、かなり混乱させられた。宮崎あおいと松山ケンイチがデートに出かけるシーンの直後、すでにデートしている広瀬すずと佐久本宝のシーンが入る。後者は顔を見せずに会話から入るため、前者のシーンが継続しているものと勘違いしてしまった。
もっとも、この映画は三箇所、3人の似たような男たちを描いているので、わざと混乱させるよう構成したのかも知れない。最初はひとりの人物の現在や過去が併走して語られているのかと思ったほどだが、それが狙いだったのだろうか。


確認のため、シーンをスキップしながら観なおしてみた。すると、しょせんは映画の脚本などテクスチャというか、“スキン”に過ぎないという感触が強まってきた。
脚本、ストーリー、お話、スジ、どう言ってもいい。不自然に感じないよう、ほどほどに構成されていれば、僕はそれで満足だ。お話のオチなど、たいてい忘れてしまうので、なぜ「ネタバレ」がそんなに重要なのか、さっばり分からずにいる。

映画の冒頭、凄惨な殺人の現場が映される。洗面所に、大量の髪の毛が落ちている。
映画の中盤、周囲に殺人犯ではないかと疑われはじめた綾野剛が、鏡に向かってハサミで自分の髪の毛を切っている。冒頭シーンと同じように、真上から撮ると、洗面所に大量の髪の毛が落ちている。綾野剛の演じる若者こそが犯人ではないかと、ハッとさせられるわけだ。
このような図像による効果こそが、映画の本質だ。図像が感情を動かす、図像が何かに気づかせてくれる、そんな瞬間を僕は待ちつづけている。

(C)2016 映画「怒り」製作委員会

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