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2018年3月30日 (金)

■0330■

Figure-rise LABO ホシノ・フミナ) 6月発売予定
01fumina_01製品にはまったくタッチしていないのですが、説明用の資料、キャッチコピー、コラム、これまでのFigure-rise Bustシリーズの解説など、いろいろ書きました。今年冬のワンダーフェスティバルのバンダイ・ブースでFigure-rise Bustが展示されましたが、その解説も書きました。
ただ、僕の考えたキャッチコピーはプレスリリースには使われているようですが、「あなたが作って、あなたと進化する」という素晴らしいコピーは、僕の書いたものではありません。商品の特性を的確に言い当てた名文だと思います。
というか、僕の書いた文は(今のところ)ワンフェス以外では露出していないので、ひょっとして、ぜんぶ没なんじゃないかと思っています。本当に、夢みたいなお仕事だったので。


これまで、プラモデル周辺の文章って、プラモデルを改造したり塗装して綺麗に仕上げられる人たちだけが担ってきたんじゃないでしょうか。
僕は、プラモデルに色は塗りません。もちろん改造もしません。箱の中のパーツを素組みして何が出来るのか知りたいだけの人間です。ここ数年、モデルグラフィックス誌の連載をもらったり、ホビージャパン誌からレビューを頼まれたり企画を持ち込んだりしていますが、最初の頃は「作れもしないくせに」と、Twitterで笑われていました。

パーツの合わせ目を消して、綺麗に塗装できる人にだけ「プラモデルの面白さを語る資格がある」と、そういう認識が現在でも生きていると思います。だけど、ガンプラに限らずバンダイのプラモデルは20年ほどかけて「塗装しなくても組み立てるだけで見栄えがする」メソッド、価値観を確立し、今もアップデートを繰り返していますよね。
誰が作っても、不器用な人が作っても、同じクオリティのものが手に入る。プラモデルの民主化です。というより、プラモデルという工業製品は、もともと民主的だったのでしょう。工作・塗装という側面だけが肥大しすぎたような気がします。
結果、「作れもしないヤツが偉そうに語るな」という風潮が消え去らず、ガンプラを気軽に素組みしている人たちは肩身の狭い思いをしてるんじゃないでしょうか。


だけど、まったく塗装しない、ニッパーと接着剤だけで最低限のプラモデル趣味を楽しんでいる素人の僕のところに、メーカーさんから公式な文章を書いてほしいと話が来ました。
Dscn8145_4912直接的には、ホビージャパン誌の2018年1月号で、Figure-rise Bustシリーズのミニ特集を構成したことが契機だと思います。家に素組みしたキットはあったのだけど、ランナー状態のものはなかったので、新たに全キットを買いなおしました。
完全に「好き」だけで企画した特集で、もちろん作例はありませんが、ちゃんとバンダイさんは「商品の特徴や魅力を文章で伝える」部分を見ていてくれたのだと思います。あと、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』()もお読みいただけたそうで……。
今回のFigure-rise LABOは、それこそ打ち合わせの翌日には最初のテキストを提出して、自主的に何度も書き直しました。

ライター生活20年目にして「こういう嬉しいこともあるんだなあ」と喜びを噛みしめると同時に、企画担当の方がホビー事業部から異動になると聞いて、少し寂しい思いもしています。
いま、プラモデル関連の企画をいくつも提出しています。昨日も、ある出版社で打ち合わせがありました。Figure-rise LABOの仕事を立脚点に「作れもしないヤツ」がどこまで面白いプラモデルの本を作れるか、楽しみに待っていてください。

(C)創通・サンライズ

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2018年3月25日 (日)

■0325■

レンタルで、ジョン・フォード監督の『駅馬車』。
Mv5bmtkxnja4ntg2of5bml5banbnxkftztg学生時代に授業で見せられた気もするが、部分的に見せられただけだったんだと思う。やっぱり、頭からちゃんと観ておくにこしたことはない。片時も目を離せず、画面に釘付けだった。1939年、映画がトーキー化されてからほんの10年で、この完成度だからね。


馬車がインディアンに襲われるアクション・シーンばかり有名だが、停車する町々での出来事が見せ場だ。
僕が好きなのは、妊娠している貴婦人が、夫が負傷したと聞いて倒れ、その小さな町で出産するシーン。酔っ払いで町を追放された医者が、同じように追放された娼婦を助手に、出産を手伝う。
外では、コヨーテが夜空に遠吠えしている。やることのない男たちは、部屋でカードをしている。画面手前、4人の男たちがテーブルを囲んでいる。画面奥は白い廊下で、そこだけポカンと空間が空いている。赤ん坊の泣き声に反応して、男たちは廊下のほうを一斉に振り返る。
だが、その廊下をさえぎるように、御者の男が右から左へと歩きながら「コヨーテの遠吠えは、人間の赤ん坊の泣き声そっくりだ」と言う。「なんだ、コヨーテか」と納得したように男たちは顔を見合わせる。誰もが、婦人の出産を気にしているのだ。

ところが、男たちが再びカードに熱中しはじめたそのタイミングで、廊下に女性の影がチラリと映る。医者の助手をしていた娼婦が、笑顔で赤ん坊を抱いて、廊下を歩いてくる。男たちは無言で立ち上がる。
このカットが美しいのは、赤ん坊の誕生を「今か今か」と気にしている男たちの「意識」を、画面中央にぽっかりと空いた空間で表現しているからだ。男たちは一言も発しない。構図が、彼らの心中を表わしているので、セリフは必要ない。


その少し後、娼婦が寂しそうに廊下を立ち去っていくのを、ジョン・ウェイン演じるリンゴ・キッドが見ているカットも好きだ。このカットも、中央に細く伸びた構図が、娼婦の孤独を鮮やかに表現している。
自分と同じく根なし草である娼婦を、リンゴは気にかけている。だから、廊下を立ち去る娼婦の背中を追って、歩き出す。ところが、画面左側の部屋から御者が出てきて、リンゴを止める。娼婦とリンゴは垂直に歩くが、彼らの行く末を案じる御者は水平に移動する。構図が、すべてを表現している。
そして、御者の忠告には耳を貸さず、リンゴは娼婦の背中を追って悠然と歩きだす。この構図は、そのままラストの展開を暗示している。実に見事、あっぱれと言うしかない。

決闘を終えたリンゴが、娼婦のもとへ戻ってくる。画面にリンゴはいないのだが、娼婦にカメラがゆっくりとトラック・アップする。そのカメラの動きだけで、リンゴが勝った、戻ってきたと分からせる。そして、観客をじらすようなタイミングで生還したリンゴがフレーム・インする。すべての構図、カメラの動きに必然がある。つまり、機能美がある。
オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮るときに参考にした、という逸話も納得だ。


ちょっと嫌な夢を見て、思い出した。最近は次から次へと話題が移って忘れてしまいがちだが、中学生の野球選手たちが稲村亜美さんを揉みくちゃにした事件は、ほんの二週間前だ()。
検索していたら、大学の野球部員たちが集団で痴漢行為を行っていた事件が出てきた。野球部だけじゃない、ラグビー部、スキー部、駅伝部……ぞろぞろ出てくる。

やっぱり、力の強い者が弱者を蹂躙する図式が腹立たしい。オタクは遵法意識が強いと言われるけど、社会性がなくて奴隷根性が発達しているだけだと思う。性犯罪って、むしろ社会性の高い強者でないと行えないんじゃないだろうか。

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2018年3月24日 (土)

■0324■

モデルグラフィックス 2018年 05月号 発売中
4910187470588 ●組まず語り症候群 第95回
今回は、暖炉のある豪華な応接間を半立体でキット化した、カワイの『憩い』を取り上げています。

●『ゾイド』新シリーズからランナーが消えた? これを機会に、組み立て玩具の持つ“プラモデル性”を考えてみよう!
ヘッドライントピックスの記事を書きました。新シリーズ『ゾイドワイルド』はランナーではなく、袋からバラバラのパーツを取り出すよう仕様変更されたので、それについて何か一言、というお題です。

【ホビー業界インサイド第33回】プラモデルなのに、塗装の必要なし! バンダイ「スター・ウォーズ」シリーズ、「1/12ハン・ソロ ストームトルーパーVer.」の“本当にすごいポイント”とは?
T640_755728目や眉、頬の赤味などが印刷された『スター・ウォーズ』新キットについて、企画担当の方にお話をうかがいました。
複雑な立体面への印刷技術自体は以前からあるものですが、今回は同じクオリティのパーツを大量生産するため、3軸制御の治具を開発したことがポイントになっています。

かつてのプラモデルは塗装必須でしたから、「自分で苦労して作り上げる」「世界にひとつだけの作品を手にする」ことが目標だったかも知れません。だけど、ここ20年ほどのバンダイは「誰もが同じ品質の完成品を手に出来る」ことを至上価値に邁進してきました。
優劣の問われない民主的な模型趣味の実現です。バンダイは、プラモデルを買う人みんなを平等にしたわけで、その実績はもっと評価されるべきだと思います。


吉祥寺オデヲンで誕生月割引が使えるので、『ブラックパンサー』を観にいってきた。
640マーベル映画は『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でゲップが出てしまい、『アントマン』『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』まで観て、以降の作品は無視していた。結局は『アベンジャーズ』続編に繋がるわけだから、一本の映画として完結させる気がないのは見え見えだ。
おそらく、僕がしつこく追いつづけている『スター・ウォーズ』も、興味のない人から見れば同じように感じられるのだろう。

『ブラックパンサー』は架空のアフリカの国での王位継承をめぐる戦いで、いつもの「正義とは?」「戦う理由とは?」といった賢しらぶったテーマが出てこない分、そこそこ楽しむことができた。
この手の映画は、(もしかすると『スター・ウォーズ』もそうなのかも知れないが)被写体だけが大事なのだと思う。監督が現場にいなくても、大勢のスタッフによってカット割や構図がおのずと決まっていく、そういうタイプの映画だろう。膨大なポスト・プロダクション作業が待ち構えているので、監督のインスピレーションで屋内のシーンを屋外に変更したりはできない。
なので、被写体について話をしたい。


『ブラックパンサー』の舞台となるアフリカの国家・ワカンダは、万能の鉱石によって無限エネルギーの恩恵にあずかる超文明国で、高層ビルの間をリニア・モーターカーが走り回っている。テレ・プレゼンスによる無人自動車や無人飛行機も実用化されている。
640_2これは、西欧文明の思い描く理想郷だ。本作は「アフリカ文化が類型化されて描かれている」と批判されているようだが、それ以前の問題だと思う。他の国からは貧しい農業国として軽視されているのに、どうしてマシンエイジにアメリカやフランスで夢見られたような工業化社会が、アフリカの未開地域に勃興しているのだろう? 

グローバリズムをむき出しにしたかのような絵づらに、僕はハリウッドの、ディズニーの傲慢を感じざるを得なかった。大げさに言うと、こんな大都市を本気で理想郷として描いているなら、未来は暗い。誰もが気軽に観るヒーロー映画だからこそ、暗澹たる気持ちにさせられた。

(C)Marvel Studios 2017

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2018年3月22日 (木)

■0322■

レンタルで、川村元気原作の『世界から猫が消えたなら』、イングマール・ベルイマン監督『夏の恋』。
041214e41a63c6c6『夏の恋』は1951年の作品で、ベルイマンにしては宗教色皆無の恋愛映画である。マイ・ブリット・ニルソンの演じる若いバレリーナのマリーが、小さな島ですごした甘酸っぱい恋愛の日々をみずみずしく描いている。

夏の休暇の間、マリーは島の小さな小屋で寝起きしている。奥にベッドがあり、手前に洗面所があるぐらいの、本当に狭い間取りなのだが、寝具の趣味がよくて小奇麗な部屋だ。
マリーは目覚まし時計でベッドから起きると、口笛をふきながらカーテンとドアを開ける。鳥のさえずりが、海のほうから聞こえてくる。マリーの表情は、ぱっと明るくなる。鼻歌をうたいながら、マリーはベッドの手前にある洗面所で歯を磨く。だらしがない寝起きのはずなのに、鍛えられた肉体が内側からしなやかな、きびきびした動作を形づくる。

このシーンは、ワンカットの長回しである。画角も、セットも綺麗に決まっている。だけど、何よりも女優がその年齢のときにだけ保持しているキュートな魅力、そして衣装のセンスがカット全体を生き生きと引き立てている。マリーは、水着姿でつり竿をたずさえ、意気揚々と小屋を飛び出す。
この美しく溌剌としたカットだけでも、十分に観る価値はある。


回想シーンが端正に、シャープに構成されているのに比べて、ちょっと歳をとったマリーを描いた現代パートには、ギスギスした構図が多用されている。
顕著なのは、マリーが控え室で演出家と口喧嘩しているシーン。そこへ、マリーの旦那が訪れる。マリーは正面を向いて座っている。マリーと対面している演出家の顔は、鏡に映っている。なので、マリーと演出家は並んで座っているように見える。
その控え室へ、マリーの背後から旦那が入室してくる。すると、三人はバラバラの方向を向いて視線を合わせていないのに、観客の位置からは全員がこちら側を向いて見える。三人は互いに嫌悪しあっているので、このカットは生理的に落ち着かない。

こうした嫌なカットと、マリーが小屋で起きるだけのシンプルな美しさを持ったカットが、同じ映画の中にあるだけで、驚嘆する。


片や、「主人公が不治の病で死ぬ」「死神と取引する」「周囲の大切なものに気づく」式の、転生トラックもかくやというべき今風のテンプレ満載の『世界から猫が消えたなら』。
Sub13_largeこちらのほうが、実は学ぶべき点は多いような気がする……。三回泣かせるよりも十回泣かせた映画のほうが市場価値が高い、という商業映画のメソッドが、剥き出しになっている。
何しろ、主要人物の全員に「泣き叫ぶ」「目に涙を浮かべる」「嗚咽する」など、必ず「泣く=内面を吐露する」記号的シーンが用意され、回想につぐ回想で、文脈は分断されている。しかし、観客にもらい泣きさせるのに文脈は余計だろう。

たとえば、雨の夜に猫が行方不明になったのに、主人公は傘もささずに走り出して、路上で転倒する。そんな体たらくで、猫が見つかるわけがない。
『風立ちぬ』のように、やれる仕事だけ鞄につめて飛び出し、汽車の中で仕事しながらも、どうしても書類のうえに涙が落ちてしまう。その実務と感情の綱引きこそが生きることの実相ではないかと思うのだが、おそらくそれでは「商業的に泣かせる」上では効率が悪すぎるのだ。


木曜昼間、吉祥寺オデヲンで、『リメンバー・ミー』(日本語吹き替え版)。半分以上、併映の『アナと雪の女王/家族の思い出』が目当てだったんだけど……。
640メキシコが舞台の映画なので、原語版ではスペイン語圏の俳優がアフレコしている。劇中の死者の世界が楽園のように賑やかに描かれているのは、ラテン・アメリカの死生観を豊かに反映している。

しかし、プロットの運びやクライマックスの危機感の演出は、よくあるフォーマットの組み合わせにすぎない。これなら舞台でも実写映画でもいいではないか……とあくびが出たころ、ラスト数分前になって「なるほど、これを3DCGアニメで動かしたかったのか!」と、一気に目が覚める。
やっぱり、ピクサーは死んでなかった。数億人に伝わるテンプレにつぐテンプレの果てに、20年前に獲得した創作の快感を、しっかりと温存していた。陳腐な表現だけど、クリエイターなんだなあ……魂を売っていないというか。映画が面白い・面白くないのとは別に、この泰然自若とした姿勢は高く評価したい。やっぱり、ストーリーがどうとかじゃないんだよ。

(C)1951 AB Svensk Filmindustri
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

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2018年3月20日 (火)

■0320■

レンタルで、『白い恐怖』『グラン・プリ』『狼たちの午後』。
Mv5bmtk5mjg0nja1nl5bml5banbnxkftztc『狼たちの午後』は、中学か高校のころにテレビでチラッと目にしただけで観た気になっていた。おお、怖い。知ったかぶりほど自分を視野狭窄に陥れるものはない。この歳で観てよかった。ほぼリアルタイムで進行するせいもあるけど、これは終わってほしくない映画だった。

まず、カメラワークがラフなところがいい。『白い恐怖』は、屋外のシーンはスクリーンプロセスかマットペインティングだ。しかし、ヌーヴェル・ヴァーグ以後、映画はカメラを街に連れ出した。冒頭、ニューヨークの何気ない日常……プールやテニスコートで遊ぶ白人、野良犬、行くあても路傍に座り込む黒人、工事現場で働く労働者たちをとらえたカットがあるが、街をぶらつきながら思いつきで撮ったようなアバウトさがいい。これは、自由についての映画だ。
人生に行き詰った銀行強盗よりも、鬱屈を抱えた気まぐれな名もなき人々こそが主人公なのだ。


映画の前半は、PANもズームも手持ちなので、ずいぶんラフなカメラワークだ。アル・Mv5bmtq0ndqxmdyxov5bml5banbnxkftztc パチーノの計画も杜撰なら、警察の対応もいい加減なので、カメラはラフでいいのである。
僕が気に入ったのは、銀行の裏手に警官が忍び寄ってきて、それにアル・パチーノが気づいて発砲するシーン。

アル・パチーノは銀行の地下室にあるエアコンを見に行くのだが、何かに気づいて廊下で立ち止まり、裏窓のほうへ歩き出す。手前には書類棚が無造作に積んであり、彼の顔は完全に隠れてしまうのだが、カメラは構わずに回りつづける。
どうだろう、主人公の顔が隠れてしまったことで、何か不明瞭な事態が起きていると予感させないだろうか? 少なくとも、僕は不自然に感じた。書類棚をどけてしまえばアル・パチーノの顔は見えるのに、それをやらない。わざと隠している。

アル・パチーノは廊下を走って仲間に伝え、また同じ場所に戻って、窓に発砲する。この余計な段取りも、イライラ感を醸し出していて好きだ。発砲直後、警官隊や群集が蜘蛛の子を散らすように逃げる様が、12カットもインサートされる。発砲後にいきなりテンポ感を出して、メリハリをつけるセンスがいい。

「映画が面白い」って、こういうことだと思う。フレーム内の情報が変化して、違うフレーム同士が組み合わさったりズレたりして、緊張や弛緩を生み出す。このシンプルゆえに無限の応用範囲を秘めたメカニズムこそが、映画の正体なのだと僕は信じている。


もちろん、マスコミや群集たちのリアクションも面白い。主人公がゲイである設定も、むしろ今のほうが訴求力があるように思う。
だが、映画の後半は長い会話シーンが多くなり、あのダラダラしたカメラワークは失われていく。事件の主導権が権力側に少しずつ移行していくのだから、整然とした理性的なカメラワークで正解なのかも知れない。

ラストカット、FBIに拘束されたアル・パチーノが空港の滑走路を歩かされていく。カメラはどんどん引いて、濡れた地面にパトライトが反射している様を撮っている。いや、撮っているというよりも、何も撮っていない。「無関心」の中に、映画は突き放されていく。ただ、カメラが回っているだけ。音楽もなく、環境音だけ。

劇中、人質たちのキャラクターや犯人たちの人生観・宗教観すら仔細に描かれたはずなのに、ラストカットでは何も起きなかったかのように人物を突き放して、無味乾燥とした風景だけを撮っている。この達観ぶり、実に知的だと思う。

(C)1975 - Warner Bros.

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2018年3月17日 (土)

■0317■

【懐かしアニメ回顧録第40回】「もののけ姫」のスケール感は、“見えないはずのものを目撃する”主人公の視界から生まれる。
Dydzw3ivmaevpoアシタカという主人公は、いつも事態が起きた後に遅れてくる主人公です。ただし、彼が聞かされたり自分で想像することは、あたかもアシタカが肉眼で目撃したかのような演出がなされています。その演出を、カット単位に分けて分析しています。

決定的な事態を目撃できない無力な主人公に、いかにして物事の全貌を把握させるか。その課題を解決するための“演出”を評価すべきであって、それは『もののけ姫』が面白いかどうか、感動したかどうかとは別のフィールドで為されるべきと考えます。


「剣道20年やってた感触として、武道やってると礼儀正しくなるのではなく、人より強いという感覚を得ると傲慢で傍若無人になりがちなので礼儀をセットで教え込まないといけない」
ゲームデザイナー、簗瀬 洋平さんの言葉。

朝青龍が児童向け漫画を頭ごなしに怒鳴りつけたのも、中学生球児たちが無防備のグラビア・アイドルを揉みくちゃにしたのも、「人より強いという感覚」を得て「傲慢で傍若無人に」なった結果だろう。
こと、プロとして認められるほどの体力の持ち主は社会的に優位に立てるわけで、気に食わない相手は体力でねじ伏せられるわけで、組織的に優遇されているから暴力沙汰を起こしても不起訴になって示談で無罪放免なわけで、こいつらをどうにかしないと、世の中は明るくならないですよ。

バイブ万引き、当直室の肉体関係……北海道警「隠された不祥事」の実態
これも凄まじい内容のレポートだけど、警官とか教師とか、優越的な立場を得ると、人間は支配欲が丸出しになるという良い例。だから、学校ではセクハラが起きやすい。親たちが教師をかばうので、いちばん弱い被害児童が泣き寝入りさせられる。

この前、ひさびさに三鷹警察署の前を通ったら、誰を殴るつもりなのか木刀をもった巨漢が2人も入り口に立っていて、とても道を聞きに入れる雰囲気じゃない。あんな威嚇的なムードで、性犯罪の被害にあった女性が(署内でセクハラ、いや強制わいせつされる危険をおかして)助けを求められるわけがない。
体力のある者が権力をバックにえばりちらす、この歪みきった社会図式を、まずはみんな認めるべきだよ。みんな警察と戦うのが怖いから、ポルノ撲滅に話をすりかえてるけどね。


桂春蝶とかいう、ガキみたいな顔をしたネトウヨ落語家が“世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ”)と放言したけど、師弟関係とか上下関係で成り立っている世界は、どうしても密室化して腐敗するのだと思う。学校の部活なんかも、全部そうでしょ?
桂春蝶を支持して生活保護叩きしているネトウヨの皆さんも、「反日勢力が悪い」「生活保護の不正受給をしている在日外国人が悪い」など、日本社会には何がしかの問題があって解決すべきだと思っているわけだよね?
だけど、彼らは権力の怖さを知っているから強いものに媚びへつらって、矛先をずらして不満を解消しようとする。ネトウヨの皆さんも、生きづらさを抱えた被害者だよね。

労死遺族に「週休7日が幸せ?」 ワタミ渡辺氏が謝罪
この件にしても、週休7日が幸せに決まっているでしょ? そのうえで、やりたいことに時間や労力を使うのが人間らしい生き方だよ。「好きなことを仕事にするなら賃金は安くてもいいよな」「仕事ってのは辛い状況に耐えることだよな」と、いちばん奴隷根性の肥大したヤツが大声で説教する世の中。

主権在民のはずなのに、誰もが義務に追いまくられている。NHKの集金方式はヤクザだし、三鷹市役所は僕のことを税金を生み出す家畜のように扱う。
ちょっとでも気を許したら、彼らに屈服することになる。強いものへのあきらめは、いつでも口を開けて僕らを呑み込もうとしている。

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2018年3月15日 (木)

■0315■

EX大衆 2018年4月号
81ecvetjl●監督で見る『ルパン三世』クロニクル 構成・執筆
最初期の『ルパン』を撮った大隈正秋監督、宮崎駿監督、第4シリーズの総監督を務めた友永和秀さん、そして『次元大介の墓標』と『血煙の石川五ェ門』で新境地を切り拓いた小池健監督まで、好きなように語り下ろしました。
チャーリー・コーセイさんがラフに歌い上げたファースト『ルパン』のサントラ盤が、完全な形で実現していないことにも触れています。音楽の使い方はフランス映画『冒険者たち』の影響を感じるんですけどね……そこまでは書けませんでした。


レンタルで、ギレルモ・デル・トロ監督の『ミミック』。
Mv5bmtu4odm5mtkzmf5bml5banbnxkftztc疫病を滅ぼす目的で、遺伝子操作された新種の昆虫が作られる。この昆虫が地下鉄で人間大に進化してしまうのはナンセンスだが、なんと彼らは人間に擬態する。これはなかなか気の利いたアイデアで、黒いコートを着てマスクをかぶった怪人が悪役なのかと思って観ていると、そのマスクは昆虫の器官の一部であることが明かされる。
それ以外にも、数センチ~数十センチ大の奇怪な昆虫がいろいろと登場し、それらはCGやアナマトロニクスで愛情たっぷりに作られており、昆虫を解剖して体液を体に塗りたくるようなシーンが続出するため、ギレルモ監督の嗜好を理解するには非常に役立つ一本だ。巨大な昆虫の繭なども、いっぱい出てくる。

『パシフィック・リム』でも、グロテスクな怪獣の内臓や皮膚につく寄生虫がライフサイズで精巧に作られていた。また、分厚い鉄の扉の内側から菊池凛子が外の様子をうかがう、あの陰気さがいい。
「怪獣好きの陽気なオタク」という通俗イメージは、ギレルモ監督のセルフ・プロデュースの結果だという気がする。


日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟の主催した野球大会の件、ネットでは早くも鎮火に向かっている。
中学生が実名でツイートしていたため、なんと中学校に電話して、校長に訴えた勇気ある人がいる()。「学校外の事は学校側としては関係ない」「もし被害届が出されたら対応する」程度の対応だそうで、この人のツイートに「学校は関係ない」と突っかかっている事なかれ主義の無気力男どもにもウンザリさせられる。

税金の相談に、ひさびさに三鷹市役所の納税課へ行った。
滞納者の自動車に取り付けるための、巨大なストッパーが置かれている。「滞納は見逃しません!」と刷られた脅迫的なポスターが貼られていて、帰り道では怒りと情けなさで目眩がした。
社会は、強者と弱者とで成り立っている。弱者は、従わされているから弱者なのだ。耐えている、堪えている、待っている者は弱者だ。強者の側に回りたいわけじゃない。弱者の立場のまま、強者に抗いたいんだ。

(C)1997 Dimension Films

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2018年3月13日 (火)

■0313 日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟へ行ってきた■

野球大会で、稲村亜美さんが中学生選手たちに揉みくちゃにされた件。現場にいた選手たちの、あまりに無反省な下卑たツイートが許せず、昨日夜、大会を中止するよう改めて日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟にメールした。
Kimg0958今朝になっても返事がなかったため、東京駅日本橋口すぐ、サピアタワーにある日本リトルシニア~関東連盟の事務所へ行ってきた。もちろん、アポなしである。


オフィスエリアの受付で、「アポはないのですが、メールの返事を聞きたい」とお願いしたところ、関東連盟事務局長の三木慶造さんという方が、「事務所はごった返しているので、受付までうかがいます」と降りてきてくださった。
ビルの二階に座れる場所があるというので、ベンチで少しだけ話をすることが出来た。

単刀直入に「大会を中止にできないのでしょうか?」と聞いてみた。
ちょうど昨日、事務局内で今後の対応を協議していたそうで、「中止すべき」との意見も出たそうだ。しかし、始球式は10日に行われたものの、大会そのものは2月から継続しており、今から中止にするのは難しいとのこと。ただ、上層部内で「中止すべき」という意見も出たことを、三木さんは強調してらした。
ただ、連盟として「何も考えていないわけではない、事態を重く受け止めている」ことを示すため、とりあえず公式HPに謝罪文()を掲載したとのこと。


それ以外の対応としては、各チームに向けて注意勧告をメールで送信したとのこと。
ただし、その注意内容が選手に伝わるのは、今週末の大会での冒頭になるようだ(連盟の主催する大会は、土日しか実施していないため)。
Kimg0960もうひとつ、とても気になっていたTwitterでの発言について聞いてみた。事件後、選手たちが「全員倒れて稲村亜美も倒れて、俺っちチームのやつの上に乗っかってた」「みんなで突っ込んで稲村亜美を抱きついてた」など、面白がってツイートしていた。分かりやすいよう、何枚かコピーして持っていった。
三木さんは「これには、本当に困りました」「これでは痴漢行為やセクハラがあったと思われても仕方がない」と眉をしかめ、それぞれ誰がツイートしたのか本人特定したので、すでに選手たちに個別に注意したとのこと。アカウントが消えていたりするのは、そのためではないだろうか。

「稲村さんはテレビなどで何でもないと言ってくださっているが、我々の認識不足があったのは事実だし、プラカードより前には出ないように注意したのに選手たちが決まりを守ってくれなかったことにショックを受けている」と、三木さんはため息をついてらした。抗議のメールにはすべて目を通しているが、取材や電話の対応で、返事ができていないとのこと。
これ以上、連盟を責めても意味がないように感じ、サピアタワーを後にした。「こんな遠くまで来ていただいて申し訳ありません」と、三木さんは頭を下げた。


この件の最大の問題は、野球選手ならば「グラビアアイドルに集団でたかって、もし触っても問題にならない」「とりあえず俺らは絶対に責められない」、そうした身分差別、優越的な社会通念が常識化していることだ。
神宮球場の地獄図は、日本社会の縮図だと思う。つまり、大人から身分を保証され、体力的に優れた男たちは、女性をどうしようと決して咎められない。社会的なパワーバランスが性犯罪を引き起こし、温存する。やり放題だ。
二年前、警視正が痴漢行為をした事件を思い出した()。この件は示談で収束し、警視正は告訴されず、罪に問われなかった。
四年前、新宿で多数の女子学生が昏倒した事件()。有名大学のスポーツサークルが関与していた。だが、誰も罪に問われなかった。

国内では警察官や教師の性犯罪、世界的にはカトリック教会の神父による児童への性虐待が後をたたない。社会的身分が高ければ高いほど、性犯罪は多くなる。だが、権威に立ち向かう人は少ない。こうまでありありと敵の存在が明確なのに、どうして誰も怒らないのだろう? 権力が怖いから? 勇気がないから?

今朝も、こんなことがあったよ。“警官逮捕、異例の非公表「被害女性への配慮」”()。権力側は優遇されている。やりたい放題。こんな世の中で、本当にいいの?

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2018年3月12日 (月)

■0312■

●スーパーミニプラ大全 発売中
91uamyrhxml企画者・開発者6人の座談会のみ、原稿をまとめさせていただきました。スーパーミニプラの企画・開発体制はなかなか複雑ですから、この時点でチームの役割分担を整理できて良かったと思います。

●始めよ、大人のガンプラ道! 発売中
こちらは、1/100ダブルゼータガンダムについて、編集者との座談会形式で少しだけコメントしています。


レンタルで、『蜘蛛巣城』。
Mv5bmty1otuymjgzml5bml5banbnxkftztc大学の授業で観たときは、三船敏郎の首に突き刺さる矢、地面を埋め尽くした森が実際に動くシーンを見て驚愕した程度だった。
30年ぶりに観たが、カットワークの精緻さに、じっくり見入ることができた。
まず、馬に乗った三船敏郎と千秋実が、霧の中で迷うシーン。真っ白な霧の中、画面奥から手前に、2騎が駆けてくる……が、画面手前で怪訝な表情になって、再び画面奥へ戻っていく。同じ動きを、なんと10回も繰り返している。後半はやや左右への動きが加わるものの、奥から手前への動きは守られている。
被写体の進む方向を「奥→手前」にすると、進んでいるようには見えない。(森に迷い込む前、馬は「左→右」、次カットで「右→左」へ走っているため、ちゃんと前進しているように見える。)


もののけから謎めいた予言を受けた三船敏郎は、やがて奥方(山田五十鈴)にそそのかされて、部下を手にかける。
そのシーンで、奥方が毒薬の入った酒壺を用意する。真っ暗なふすまの奥へ、奥方が歩いていく。奥方が暗闇に消えてからも、カットは変わらない。5~6秒後、壺をもった奥方が暗闇から歩いてくる。
完全なシンメトリの構図で、衣づれのかすかな音以外、セリフもBGMもない。シンプルな構図とシンプルな動き、そぎ落とした情報で、ただごとではない企みが進行していると分からせる。

三船が、千秋実の亡霊を幻視するシーンもシンプルだ。誰も座っていないはずの席にカメラを振ると、亡霊のメイクをした千秋が座っている。カメラは千秋をフレームから外し、錯乱した三船を撮る。再びカメラが戻ってくると、席には誰も座っていない。
つまり、現実と幻覚を同一フレーム内で等価値に扱っている。映画にとっては、どちらも同じぐらい重要だし、同質のものだからだ。

『パシフィック・リム』で、菊池凛子がイェーガーのコクピットから幼少時の記憶の中へ移行するシーン転換でも、ふたつの世界をひとつのフレーム内で見事に表現していた。作品の品格、作家の世界観は、技法にこそ現われる。ストーリーが面白いとかいう問題ではなく、映画の価値は、何をどう撮るかで推し量られる。


稲村亜美さんに数千人の中学球児殺到 「紛れもなく痴漢」など怒りの声続々、運営平謝り

日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟の開会式で、タレントの稲村亜美さんに中学生選手たちが殺到。Twitterではかなりの発言が消されてはいるものの、「触ろうとした」「絶対痴漢している奴がいる」などと選手同士で笑いあっている。
だから、こういうことです。実際に堂々と性犯罪するのは、体力的・社会的に優位に立っている強者たち。彼らは、大人社会に許してもらえると分かっているから、こうして犯罪をおかす。

早速、稲村さんの「大丈夫でした」というツイート()に、「俺たちが悪いのにありがとうございます」と調子にのった中学生選手たちが感謝している。強者が弱者を弄ぶ、この構造を壊さないと、何も改善しない。
朝一で日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟に「どういう認識でいるのか」と、メールした。ふともも写真展を中止にするなら、実際に性犯罪の起きた野球大会も中止にしないとな。

(C)1957 - Toho

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2018年3月10日 (土)

■0310■

立川シネマシティで、『シェイプ・オブ・ウォーター』。
6402008年に『パンズ・ラビリンス』を観て、そのグロテスクで耽美的なセンスに魅せられた。『ヘルボーイ』『パシフィック・リム』は良くも悪くも通俗的で、なかなか同じ監督の作品とは信じられなかった。
同じように異形クリーチャー好きのピーター・ジャクソン監督も、『バッド・テイスト』や『ブレインデッド』など、低予算ゲテモノ路線に徹するのかと思いきや、唐突に文学的な美しさをもつ『乙女の祈り』を撮った。超大作『ロード・オブ・ザ・リング』を撮れたのは、『乙女の祈り』でマニア的な狭い視野を脱することが出来たからだろう。『ロード・オブ・ザ・リング』のクリーチャーは、低予算時代と同じレベルの奇形的な醜さを保っていて、何だかホッとさせられたのを覚えている。
そして、ギレルモ・デル・トロ監督にとって『乙女の祈り』に相当する作品が、『パンズ・ラビリンス』だったのだろうと、僕は勝手に解釈していた。


『パンズ・ラビリンス』は、年端もいかない少女が幻想の世界で醜いクリーチャーたちと出会い、理不尽な困難を乗りこえ、現実世界では絶命するが幻想世界では祝福される甘美なパラドックスで僕を幻惑してくれた。
『パンズ・ラビリンス』に比べると、『シェイプ・オブ・ウォーター』は、かなり明暗・善悪のはっきりした予定調和だ。半魚人のデザインはシャープでカッコいいし、研究対象として虐げられる彼に、言葉のきけない心優しい女性が惹かれていくプロットも、拍子抜けするほどストレートに進行する。窓を流れる雨水と浴槽の波紋をシーン転換に使ったり、クラシカルといっていいほどの常套的演出が続く。

いちばん気になったのは、半魚人があまり気持ち悪くなかったことだ。
モンスターと美女が性交する、異種姦というポルノ・ジャンルがある。『シェイプ・オブ・ウォーター』にも、異種姦は出てくる。ポルノ的な演出は周到に避けられ、そう悪い体験ではなかった、とジョークのネタにされるほどあっさり描かれる。ポルノにする必要はないが、人間同士ではあり得ないほどの快感だったとか、気持ち悪いけど我慢したとか、少しでいいから深く掘り下げてほしかった。
観客に嫌悪感をもたれないよう配慮したとしか思えない。他人が引くような行為でも、本人たちが幸せならばいいじゃないか、と振り切ってほしかった。


ギレルモ監督は、日本特撮に対する造詣が深くて、僕らオタクの味方、友達だということになっている。バルタン星人の着ぐるみに抱きつく画像が、Twitterにアップされている。
だけど、ギレルモ監督は僕が思っていたよりもずっと常識的で節度があって、何よりも社会的成功者なんだな……と、『シェイプ・オブ・ウォーター』によって目を覚まされた。
640半魚人がスマートで大人しくて、人の傷を癒す優しい神様であり、美女から無条件に愛されるイケメンであったことに、何よりガッカリした。主人公の女性も、セリフで「今ひとつのルックス」とわざわざ敷衍しなければならないぐらいの美人俳優だった。
ハリウッド映画でサエない女性を演じるのは、過去に賞をとって評価の確立した女優ばかり。モテない男を演じる男優も、実生活では何度もの結婚歴がある金持ちのイケメン。つまり、商業映画で恵まれないマイノリティを描くには、構造的にウソをつかなくてはいけない。

ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグは、セット撮影が不可能だからロケに徹するしかなかった。機材は乏しく、俳優も素人で補うしかなかった。映画の迫真性は、撮影現場の事情が生み出す。金のかかったセット、プロの俳優では、むきだしの異端者の姿は描けない。
僕は『シェイプ・オブ・ウォーター』で疎外感を味わったが、いつかはギレルモ監督の誠意を汲み取れるだろうと信じている。ネットでは「純情なオタク監督が怪獣愛をつらぬいた」美しい物語だけが一人歩きしすぎている。「僕に向けられた映画じゃなかったなあ……」と、ひとりでトボトボ帰る道こそが、僕の人生の真実なのだ。

(C)2017 Twentieth Century Fox

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2018年3月 7日 (水)

■0307■

小津安二郎の『東京暮色』、レンタルで。
Img_2小津版の『エデンの東』があると聞いていて、何となく勘で『東京暮色』を借りてみたら、ドンピシャであった。先日、ベルリン国際映画祭で4K版が上映されたばかりなので、そのニュースが記憶に残っていたのかも知れない。『エデンの東』の兄弟が、『東京暮色』では姉妹になっており、母親を求めて悲痛な思いをするのは、妹の有馬稲子だ。

冒頭から、小津安二郎特有の、真正面からバストサイズで人物をとらえた切り返しが相次ぐ。『カサブランカ』あたりを基準にすると、人物を45度ぐらいの角度からとらえるのが常識的な、安定した構図である。
ところが、小津作品の登場人物たちはカメラのやや上方を睨んでいる。まるで、対面している人物同士の中間に座らされているような居心地の悪さを感じる。

この異様な構図は、映画後半、有馬稲子が母親のことを姉(原節子)に問いつめるシーンで、たちまち威力を発揮する。観客は、有馬の鋭い追及に自分自身がさらされているような緊張感をおぼえる。それは、「真正面から俳優を撮る」演出のなせる技である。


なぜ小津安二郎が、真正面から人物をとらえる攻撃的な構図を好むのか、僕には分からない。『カサブランカ』の斜め45度からとらえた切り返しは、80年近くたった今でも有効で、多くの劇映画が無意識に反復している。
小津安二郎の撮り方は突然変異的で、映画の文学性を分断する。セリフのうえでは劇が継続していても、ショットとショットが空中で衝突するため、文脈が途切れる。そのアクシデントのようなカットワークが、国境をこえて映画作家たちに衝撃を与えたのではないだろうか。

「とにかく泣けた」「なんとなく好き」ではダメで、第三者に検証可能な方法で推し量らねば、作品の価値は伝えられない。ネットでは、「どれほど自分の感情が振り切れたか」アピールが多すぎると思う。


コロコロコミック販売中止 購入済みは払い戻しも

“「やりすぎ!!! イタズラくん」については表現に注意した上で、掲載を続けていくという。” ……出版社が作家を切り捨てるという、最悪のパターンは避けられた。暴力沙汰を起こすような社会的強者が若手の漫画家を叩きのめす、そのゆがんだ構図を少しは押し返すことが出来た。
ふともも写真展も、別の形で開催するそうで、あまり応援する気にはなれないが、ふてぶてしく頑張れ、とだけ言っておく。議論の土俵に乗ろうとしない匿名のクレームによって表現者が萎縮する事態だけは、避けねばならない。

後者については、制服のコスチュームをまとったモデルの足を「ポルノ」と呼び捨てる人たちの神経の雑さに嫌気がさした。「ポルノ」=「性的に興奮させるコンテンツ」がいけない、「ポルノをなくそう」という話になっている。僕が「児童ポルノ」という呼び名を変えようと主張したのは、「興奮させるコンテンツを禁ずる」と、法の趣旨が歪められているからだ。
ふともも写真展を中止にして、さて性犯罪が減ったのだろうか。日々繰り返される痴漢行為が減ったのだろうか。
原因は、もっと厄介なところに巣食っているはずだ。強者が弱者をいいように弄んで黙らせる社会構造から変えていかねばならない。強姦容疑の男性ジャーナリストが、逮捕直前で見逃された件、社会的強者が好きなよう暴力をふるって許されている典型でしょう? 強いものが弱いものを弄ぶ、その悲惨な構造の中で、あなたの敵は誰なんだ? 「抑圧者にあらがえ」、それしか答えはないように思う。

(C)1957/2018松竹株式会社

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2018年3月 4日 (日)

■0304■

チンギス・ハンを茶化したおかげで問題視された児童向け漫画『やりすぎ!!!イタズラくん』。51z9kaxhrel_sx314_bo1204203200_ 第一巻しか読んでないが、口うるさい校長先生やコンビニにたむろしている怖い不良たちにイタズラをしかける痛快な内容だった。強者や権威を茶化す姿勢がいい。
Twitterで、ある人から作者のデビュー作『悪魔製菓』も教えてもらった()。小学館のサイトなので、リンクを貼っても問題ないだろう。
デビュー作の方が分かりやすいと思うが、吉野あすみという作家は罪悪感をテーマにしているように見える。ウソをついたり、過激なイタズラをしかける主人公ばかりで、子供たちに悪影響はないのか? あるかも知れない。だけど、そこから先はひとりひとりの子供たちの心の問題なので、たかが大人が偉そうに口出しする領域ではないと僕は考える。
雑菌や汚濁にまみれて罪悪感や自己嫌悪に苦しみながら、何が大切なのか、何が美しいのか、もがきながら自らの手で掴み出していくのが人間じゃないのか? 子供をなめるなと言いたい。

子供というより、他人の心の内側をコントロールできる、コントロールしてもいいと過信している傲慢な大人たち、あなた方のほうが、よっぽど有害だよね。
誰の心にも、他人に言うことを聞かせたいコントロール欲があって、その幼稚な欲望に抗えないあなた方は見苦しいよねって話。


そもそも、Twitterの中だけで何でもかんでも済ませすぎなんだよ。落ち着いてソースの信憑性を検証したり、裏をとることなく、いきなり「これはアウト」「これはNG」と判断してしまう。
テレビか何かのキャプチャ画像だけ貼って、番組名も何も書いてないのに「これはマズイでしょ!」と即断する。ニュースサイトが、これまた裏をとらずに「ネットやSNSで反響があった」と取り上げてしまう。ポスト・トゥルースだよね。
いつか、もっと酷くなるんじゃないかと危惧していたら、もうとっくに酷くなっていた。慎重に、丁寧に行動する人は少なく、責任を引き受ける人はもっと少なく、自分のその場の衝動的感情だけを優先させていく。日本に貧困なんてないとか、生活保護は不正受給ばかりだとか、反日だとかパヨクだとか、フェミだとかクソオスだとか、すべて表か裏かってだけで、思慮の浅さは同じだよ。

ふともも写真展中止「お客様からのご意見を受け」

この件にしても、クレームを出す側、受け入れる側、どちらも深く考えていないんだなと思う。似たもの同士が、勝手にやり合っているだけじゃないだろうか。
学生時代に痴漢被害にあった人が、女子高生を性の対象にする表現をイヤだと思うのは、理解できる。だけど、この展覧会を中止にしても、痴漢被害が減るわけではない。何となく鬱憤が晴れた、目の前から汚物がなくなってスカッとしただけではないのか……。

男社会が維持されているのは、肉体的・社会的強者が好き勝手にふるまっているからであって、彼らと対決しないと痴漢も性犯罪もなくならないと思う。どうして、痴漢加害者に警察官がこんなに多いのか、教師がこんなに多いのか。
「他人をコントロールしたい欲求」は、権力と仲良しなんだ。なのに、表現者ばかりが叩かれて、権力者たちは一石二鳥でメシウマだろうな。


今日は日曜なので、NHKの集金人が来た。今度は「この建物の放送設備を担当しておりますレジェンド」と名乗ったが、いつもNHKとは言わない。
最初が「テレビ会社の者です」、次が「あなたの個人情報をバラします」、その次が「廣田恵介様に~が届いております」、いつも正直に名乗らないし、いつも警察を呼ぼうとすると退散するので、彼らもNHKも「後ろめたいことをしている」と分かっているはずなんだよな。

訪問員による嫌がらせ、そうでなければ「やむなく告訴します」の二通りの方法しかないのに、それで勝ててしまう。本来なら成り立たない無理を押し通そうとするから、力で殴りつけるしかなくなる。正面から話して理解してもらうのが無理だから、騙すか脅すしかない。

NHK受信料徴収員の男が訪問先でキスし逮捕「仲良くなったと思い…」

こんな事件もありました。権力と性犯罪ってのは、いつもセットなんじゃないかという気がする。表現は議論する余地を与えてくれるが、権力は議論そのものを奪うからね。

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2018年3月 1日 (木)

■0301■

確定申告もやらなきゃいけないし、原稿も進めたいのですが、どうしても腹が立って。
チンギス・ハンを侮辱したことを理由に、あちこちで販売中止になっている「月刊コロコロコミック3月号」()、近所のTSUTAYAでも置いてなかった。TSUTAYAは一斉に販売を取りやめたのではなく、店舗ごとの判断らしい。

この件については論点が複数ある。外務省が小学館に圧力をかけたのが良くない、当該漫画(『やりすぎ!!!イタズラくん』)ではチンギス・ハンだけでなく、ナポレオンやアインシュタイン、足利義満も落書きされているとか。
だけど、モンゴル大使館が抗議する前に、朝青龍がTwitterで怒っているよね。第68代横綱、モンゴル国民投資銀行の経営者だってね。権力者とまでは言わないけど、社会的強者であることは間違いない。
かたや、問題視された漫画を描いた吉野あすみって人は、検索しても過去作が出てこないし、おそらく新人漫画家だよね。で、さっそく吉野さんを犯人扱いして顔写真を探してるヤツがいる。「コロコロの休刊が妥当な線だろう」とか、無責任な下馬評も見かける。

ようするに俺は、肉体的にも経済的にも強い著名人が、無名の漫画家を潰しにかかっている、この構図が徹底的に気に入らない。嵩にかかって、出版社や漫画表現、さらに漫画家を叩きにかかっている連中も含めて。


朝青龍は2010年に暴行事件を起こして、引退した。
だけど、社会的に抹殺されたかというと、そんなことはない。その後も、山ほど暴力沙汰を起こしている。だけど、平然と国技館に現われたり、テレビに出たりしている。
ようするに、スポーツの出来るヤツ、プロ級のヤツは人を殴ろうが罵倒しようが許される世の中だよね。僕が苦しんだ高校の教室と、何も変わっていない。腕力があって、スポーツが出来るヤツは無条件に許される。高校野球に出てくれるから、教師たちも野球部の連中をかばう。女子生徒も、彼らのセクハラをなかったことにして応援する。

そんなスポーツ大好きな陽気なクラスメイトが暇つぶしに虐げていたのは、誰だ? 俺みたいに、教室の隅で漫画を描くしか脳のなかったオタクだよ。漫画が描けるとか、プラモデルが得意な子供なんて、大人は応援しないんだ。小学校から大学にかけて、叩きこまれたよね。スポーツの出来る暴れん坊を、大人は好きなんだ。無条件に。その構図は、何十年もビクともせずに厳然と存在しつづけている。
まずは、その無様で汚らしい社会の構造を認めるべきだし、恥に思えって話だよ。体力のあるヤツが体力のないヤツに対して威張ってないか? 性暴力だって、警察官が起こした事件は不起訴でうやむやにされるし、そもそも誰も怒らないし追求もしないよな? 被害を受けているはずの弱者こそが力の強いほうに擦り寄り、擁護し、保身のために媚を売ってないか? 自分の胸に聞いてごらんよ。


もし、吉野あすみって漫画家を「失敗したのだから謝罪すべき」「社会的に罰を受けるべき」だというなら、朝青龍にも同じことを言ってくれ。暴行事件後もピンピンしてるし、銀行家だから金もたっぷり持っている。吉野さんは、下手をすれば廃業、無職じゃないのか?
男社会はイヤだ、力の強い側が威張る世の中はイヤだって人たちは、なんでスポーツだけは美しいと思うの? 痴漢を空手で撃退してやった、有段者だから軟弱な男どもを気絶させてやったぜってツイートをしている女性が複数いるけど、その話が事実であれ架空であれ、体力で圧倒すれば理屈なしに正義だと考えてないか?

大金持ちのスポーツ選手が、新人漫画家を怒鳴りつけた。その構図だけで、漫画家の味方をするには十分すぎる。そして、味方になれるのは、やっぱり教室の隅でビクビクしていた僕のような人間しかないし、この件に対して黙っていることを、僕は恥ずかしいと思う。力の強いものの前に理不尽に屈服する、それだけはイヤだ。
とりあえず、『やりすぎ!!!イタズラくん』の第1巻を購入したから、作者に印税が入りますように。

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