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レンタルで、ジョン・フォード監督の『駅馬車』。学生時代に授業で見せられた気もするが、部分的に見せられただけだったんだと思う。やっぱり、頭からちゃんと観ておくにこしたことはない。片時も目を離せず、画面に釘付けだった。1939年、映画がトーキー化されてからほんの10年で、この完成度だからね。
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馬車がインディアンに襲われるアクション・シーンばかり有名だが、停車する町々での出来事が見せ場だ。
僕が好きなのは、妊娠している貴婦人が、夫が負傷したと聞いて倒れ、その小さな町で出産するシーン。酔っ払いで町を追放された医者が、同じように追放された娼婦を助手に、出産を手伝う。
外では、コヨーテが夜空に遠吠えしている。やることのない男たちは、部屋でカードをしている。画面手前、4人の男たちがテーブルを囲んでいる。画面奥は白い廊下で、そこだけポカンと空間が空いている。赤ん坊の泣き声に反応して、男たちは廊下のほうを一斉に振り返る。
だが、その廊下をさえぎるように、御者の男が右から左へと歩きながら「コヨーテの遠吠えは、人間の赤ん坊の泣き声そっくりだ」と言う。「なんだ、コヨーテか」と納得したように男たちは顔を見合わせる。誰もが、婦人の出産を気にしているのだ。
ところが、男たちが再びカードに熱中しはじめたそのタイミングで、廊下に女性の影がチラリと映る。医者の助手をしていた娼婦が、笑顔で赤ん坊を抱いて、廊下を歩いてくる。男たちは無言で立ち上がる。
このカットが美しいのは、赤ん坊の誕生を「今か今か」と気にしている男たちの「意識」を、画面中央にぽっかりと空いた空間で表現しているからだ。男たちは一言も発しない。構図が、彼らの心中を表わしているので、セリフは必要ない。
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その少し後、娼婦が寂しそうに廊下を立ち去っていくのを、ジョン・ウェイン演じるリンゴ・キッドが見ているカットも好きだ。このカットも、中央に細く伸びた構図が、娼婦の孤独を鮮やかに表現している。
自分と同じく根なし草である娼婦を、リンゴは気にかけている。だから、廊下を立ち去る娼婦の背中を追って、歩き出す。ところが、画面左側の部屋から御者が出てきて、リンゴを止める。娼婦とリンゴは垂直に歩くが、彼らの行く末を案じる御者は水平に移動する。構図が、すべてを表現している。
そして、御者の忠告には耳を貸さず、リンゴは娼婦の背中を追って悠然と歩きだす。この構図は、そのままラストの展開を暗示している。実に見事、あっぱれと言うしかない。
決闘を終えたリンゴが、娼婦のもとへ戻ってくる。画面にリンゴはいないのだが、娼婦にカメラがゆっくりとトラック・アップする。そのカメラの動きだけで、リンゴが勝った、戻ってきたと分からせる。そして、観客をじらすようなタイミングで生還したリンゴがフレーム・インする。すべての構図、カメラの動きに必然がある。つまり、機能美がある。
オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮るときに参考にした、という逸話も納得だ。
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ちょっと嫌な夢を見て、思い出した。最近は次から次へと話題が移って忘れてしまいがちだが、中学生の野球選手たちが稲村亜美さんを揉みくちゃにした事件は、ほんの二週間前だ(■)。
検索していたら、大学の野球部員たちが集団で痴漢行為を行っていた事件が出てきた。野球部だけじゃない、ラグビー部、スキー部、駅伝部……ぞろぞろ出てくる。
やっぱり、力の強い者が弱者を蹂躙する図式が腹立たしい。オタクは遵法意識が強いと言われるけど、社会性がなくて奴隷根性が発達しているだけだと思う。性犯罪って、むしろ社会性の高い強者でないと行えないんじゃないだろうか。
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