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2018年3月20日 (火)

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レンタルで、『白い恐怖』『グラン・プリ』『狼たちの午後』。
Mv5bmtk5mjg0nja1nl5bml5banbnxkftztc『狼たちの午後』は、中学か高校のころにテレビでチラッと目にしただけで観た気になっていた。おお、怖い。知ったかぶりほど自分を視野狭窄に陥れるものはない。この歳で観てよかった。ほぼリアルタイムで進行するせいもあるけど、これは終わってほしくない映画だった。

まず、カメラワークがラフなところがいい。『白い恐怖』は、屋外のシーンはスクリーンプロセスかマットペインティングだ。しかし、ヌーヴェル・ヴァーグ以後、映画はカメラを街に連れ出した。冒頭、ニューヨークの何気ない日常……プールやテニスコートで遊ぶ白人、野良犬、行くあても路傍に座り込む黒人、工事現場で働く労働者たちをとらえたカットがあるが、街をぶらつきながら思いつきで撮ったようなアバウトさがいい。これは、自由についての映画だ。
人生に行き詰った銀行強盗よりも、鬱屈を抱えた気まぐれな名もなき人々こそが主人公なのだ。


映画の前半は、PANもズームも手持ちなので、ずいぶんラフなカメラワークだ。アル・Mv5bmtq0ndqxmdyxov5bml5banbnxkftztc パチーノの計画も杜撰なら、警察の対応もいい加減なので、カメラはラフでいいのである。
僕が気に入ったのは、銀行の裏手に警官が忍び寄ってきて、それにアル・パチーノが気づいて発砲するシーン。

アル・パチーノは銀行の地下室にあるエアコンを見に行くのだが、何かに気づいて廊下で立ち止まり、裏窓のほうへ歩き出す。手前には書類棚が無造作に積んであり、彼の顔は完全に隠れてしまうのだが、カメラは構わずに回りつづける。
どうだろう、主人公の顔が隠れてしまったことで、何か不明瞭な事態が起きていると予感させないだろうか? 少なくとも、僕は不自然に感じた。書類棚をどけてしまえばアル・パチーノの顔は見えるのに、それをやらない。わざと隠している。

アル・パチーノは廊下を走って仲間に伝え、また同じ場所に戻って、窓に発砲する。この余計な段取りも、イライラ感を醸し出していて好きだ。発砲直後、警官隊や群集が蜘蛛の子を散らすように逃げる様が、12カットもインサートされる。発砲後にいきなりテンポ感を出して、メリハリをつけるセンスがいい。

「映画が面白い」って、こういうことだと思う。フレーム内の情報が変化して、違うフレーム同士が組み合わさったりズレたりして、緊張や弛緩を生み出す。このシンプルゆえに無限の応用範囲を秘めたメカニズムこそが、映画の正体なのだと僕は信じている。


もちろん、マスコミや群集たちのリアクションも面白い。主人公がゲイである設定も、むしろ今のほうが訴求力があるように思う。
だが、映画の後半は長い会話シーンが多くなり、あのダラダラしたカメラワークは失われていく。事件の主導権が権力側に少しずつ移行していくのだから、整然とした理性的なカメラワークで正解なのかも知れない。

ラストカット、FBIに拘束されたアル・パチーノが空港の滑走路を歩かされていく。カメラはどんどん引いて、濡れた地面にパトライトが反射している様を撮っている。いや、撮っているというよりも、何も撮っていない。「無関心」の中に、映画は突き放されていく。ただ、カメラが回っているだけ。音楽もなく、環境音だけ。

劇中、人質たちのキャラクターや犯人たちの人生観・宗教観すら仔細に描かれたはずなのに、ラストカットでは何も起きなかったかのように人物を突き放して、無味乾燥とした風景だけを撮っている。この達観ぶり、実に知的だと思う。

(C)1975 - Warner Bros.

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