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2018年2月24日 (土)

■0224■

モデルグラフィックス 2018年 04 月号 本日発売
Dwpvhu8u8aaido_●組まず語り症候群
第94回目となる今回は、プラッツさんの「1/12 リアリスティックハンドガン」を取り上げました。

●1/12 バンダイ ハン・ソロ コラム
顔面塗装済みで発売されるハン・ソロのキットについて、ヘッドライントピックスでコラムを書きました。
ちょうど、他媒体でバンダイさんに取材して、テストショットを目の前に説明を聞いてきたばかりだったので、正確な情報と印象を書いています。


ヒッチコック監督の『トパーズ』とタルコフスキー監督の『鏡』、レンタルで。
Mv5byzdjntnjnwqtm2m0ni00mjc5ltg0zde 『鏡』は1975年の作品だが、僕が大学生だった1986年に『サクリファイス』が公開されたため、ちょっとしたタルコフスキー・ブームがあった。タルコフスキーを好きだという人と話してみると、「映像が美しい」。ほぼ例外なく、こんな感想が返ってきた。僕も草原だとか炎だとか、分かりやすい映像美を記憶していて、それでタルコフスキーを理解した気になっていた。

いまタルコフスキー作品を見ると、その長回しぷりに驚く。カメラは人物の前に後ろに回りこんで、刻々と構図を変えていく。ワンカットの中で雨が降り出したり、タイミングよく風が吹いたりする。ロケ現場に装置を仕込んで、何度もリハーサルを繰り返したはずだ。
(海外のメイキング画像を見るとヘリコプターが映っているので、ヘリコプターを飛ばして風を起こしたのかも知れない。)


『鏡』ではカットを割るかわりに、手持ちカメラで人物の間を歩きながら構図を変えていく。さまよい歩く人物の後ろに密着して、えんえんとカメラを回す。タルコフスキーはカットワークに興味がないかのように思える。
だが、後半の会話シーンではかなり凡庸な切り返しが使われていて、ちょっと驚く。2人以上の人物を使って会話劇を撮ろうとすると、ロングの長回しで撮るか、アップの切り返ししか選択肢はなくなる。「劇」が、映画表現にカセをはめていることは間違いない。
とはいえ、政治的な記録映像まで使った『鏡』には、ストーリーらしきものはない。なので、後半の単純な切り返しが浮いて見える。

たぶん、僕の見てきた映画の七割以上はハリウッド映画だと思う。ハリウッド映画は『カサブランカ』あたりで効率的な撮り方、「劇」「ストーリー」の伝達方法や約束事を完成させてしまい、音楽や俳優の美しさに酔いしれるなど、観客の消費行動もパターン化された。
第二次大戦後、ハリウッド・スタイルの撮り方や消費のされ方に反旗を翻すように、自由で獰猛でドキュメンタリックな映画群が、イタリアとフランスで発生した。
それらの映画を昨年は追いかけて見たつもりだったが、人生の半分を1940年代に完成されたハリウッド・スタイルの映画に埋没させてきた事実は変わらない。いまだに、単純なカットワークで「劇」を進行させる映画に出会うと、安心感をおぼえる。
その安心感は、いわば「習性」でしかない。「習性」は、もっとも感動とは遠いものだ。


どれだけ派手なアクションや爆発や暴力が描かれていようと、カットワークが凡庸なら、それは保守的な映画である。われわれの「習性」を利用しようとする映画は、ちっとも過激ではない。

僕は「習性」に甘えて、眠りこんだまま人生を終えたくない。容易に了解できない、生の驚きに裸眼で接してみたい。

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2018年2月20日 (火)

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荒牧伸志×神山健治 2人の監督がつくりあげる“楽しいアニメ制作の現場”【アニメ業界ウォッチング第42回】
T640_752346昨年夏に荒牧監督にインタビューした際、作品タイトルが発表になったら、神山監督とのダブル・インタビューをさせてくださいとお願いしました。今回は、モーションキャプチャーの収録現場を見学させていただいたうえでの取材です。


記事中に「果たして、モーションキャプチャーを使った方法を“アニメーション”と呼ぶのかどうか」という発言があるように、モーキャプの現場は実写映画の撮影に近かったです。
撮影というより、「記録」といった方がいいのかも知れない。実写映画はカメラで俳優を記録することによって、一秒あたり24枚の静止画をつくる。
アニメーションは、2Dであれ3Dであれ、あるいは人形アニメーションであれ、俳優を使わずに24枚分の静止画素材をあらかじめ用意して、それをカメラで記録する。映画評論誌が選考対象からアニメ映画を外したとき、なぜか、アニメーションの原理の話にはならなかった。どっちが上か下か、「アニメを差別するな」といった感情論しか見かけませんでした。

実写映画で、俳優が「今の動きは何コマ分だ」と計算することは、それほどないと思います(監督は、撮影中にコマ数を考えると聞いたことがあります)。
アニメーションでは、「この動きに何コマ使う」という計算が最初にあります。だから、偶発的な要素が入りづらい。「原理として」予定された動きしか入らないわけです。先に素材を用意せねばならないから、貧しい動きになる場合もあれば、現実離れした豊かな動きも描ける。それどころか、用意できた素材が乏しい時にだって、予想だにできなかった表現が可能となるのです。


ただし、実写映画でも、セットを建てるお金もなくプロの俳優も用意できない貧しい現場から、ドキュメンタリックで先鋭的な表現が生まれてくる場合もあるので、一概に何が上とか下とか言えないはずです。
だから、「五点評価をやめろ」と言うのです。数値化できない、予想できないから表現は面白いはずであって。昨日つまらなかった映画が、明日には面白く見えることだってあるし、厳然と評価を決めつけた瞬間に、作品との流動的な生き生きした関係はたちまち硬化して、あなたの人生は枯渇するよって話です。

まったく同じように、「アニメはゼロから動きを生み出す、実写映画より凄い表現だ」と言った瞬間、ごっそりとアニメの価値が損なわれると思うのです。
僕がアニメを見つづけている理由のひとつに、「見やすさ」があります。原理的に、用意された材料のみで構成されているから、安心して見ていられる。絵があまり動かなくても、声優さんの演技で理解できてしまう。それで白ける場合もあれば、救われる場合もあります。「まあ、そこそこ面白ければいいじゃん?」という気軽さは、むしろ実写映画に対しては抱けないのです。

視点や視野をしょっちゅう変える柔軟さがないと、何を見ても面白くないだろうし、面白くないからこそ「○○の方が高尚だ」と、強引に権威づけしたくなるではないでしょうか。

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2018年2月16日 (金)

■0216■

レンタルで、デレク・ジャーマン監督の『カラヴァッジオ』。
Mv5bmtewnze3ndgzntzeqtjeqwpwz15bbwuデレク・ジャーマンは『エンジェリック・カンバセーション』を吉祥寺バウスシアターで観た記憶があるが、あまりに抽象的なので『カラヴァッジオ』も似たようなものだろうと勝手に思い込んでいた。とんでもない。濃密な質感、シズル感にあふれた撮影に、魂を吸い込まれた。字幕を邪魔だと感じるぐらい。

僕は、映画は図像だと思ってきた。フレームがあり、しかるべき位置と面積に被写体が捉えられ、フレーム内の情報の変化によって文学的な情報を伝える。黒澤明やヒッチコックが撮ったのと同じ構図を組んで、同じコマ数でカッティングをトレースすれば、同じ演出効果が得られるはずだ。
ところが、『カラヴァッジオ』は違う。男たちの鍛え上げられた筋肉と、その妖艶な肌。病床にある男の、窓から差し込む明かりにより、克明なコントラストで浮かび上がる白髪まじりの髭と眉、まつ毛。黒々とした爪の汚れや、腫れ上がったまぶたの赤味。CM出身の撮影監督、ガブリエル・ベリスタインは徹底的に計算して照明を組んだはずだし、被写体のテクスチャーが強調されるよう、慎重に現像処理が行われたはずだ。

しかし、おそらく当時の撮影のレシピは失われているだろうから、『カラヴァッジオ』の撮影は二度と繰り返すことはできない。
何より、構図や被写体の変化を図像として分解することができない。ここでPANすればいい、このロングの次にこのアップをつなげばいい、と図解に還元できない。


では、絵画的なシズル感のある絵をただ並べただけの映画かというと、そうではない。
カラヴァッジオが、闘技場で見かけた男を金で雇い、絵のモデルにする。男に半裸でポーズをとらせ、助手にレフ板を持たせて、自分は絵を描く。近くでは、男の恋人が椅子で眠っている。
カラヴァッジオは男にコインを投げ渡す。男は、コインを口に含んでポーズをとりつづける。カラヴァッジオはパレットで絵の具を混ぜて、カンバスに叩きつける。再び、男にコインを投げる。男はコインを口に含む。絵の具を混ぜ、カンバスに叩きつける。またコインを投げる。この反復がどんどん早くなっていき、同じアクションが二重に繋げられたりする。
同じアクションをテンポを上げて繋ぐことで、絵を描く行為が、次第に熱を帯びていく……ように見える。そのように編集している(よく見ると、同じカメラ位置から撮った別テイクを何度か流用しているのが分かる)。
映画をワンカットで完結する「映像」と割り切っているなら、このようなカットワークは思いつかない。レフ板を持った助手が眠りそうになるアップ、椅子でウトウトしている恋人のアップを挿入することで、時間経過をも表現している。

しかし、このシーンの主役はパレットの上で、カンバスの上でこねられる絵の具の光沢と厚みであり、投げ渡されるコインを口に含む下賤かつエロティックな行為なのだと思う。
デレク・ジャーマンは絵画から創作の世界に足を踏み入れ、美術スタッフとして映画界でのキャリアをスタートさせた。ハリウッドだとかヌーヴェル・ヴァーグだとかの映画史とは無縁のところから出てきた監督だ。だが、日本の良識ある出版社から、彼の日記が90年代に出版されたし、研究家もいる。
孤高の作家だが、文化人として認められたのだ。

(C) Courtesy of Zeitgeist Films

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2018年2月13日 (火)

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主役メカは左右どちらを向いている? 「超時空要塞マクロス」の対立図式を“メカの向き”から解読する!【懐かしアニメ回顧録第39回】
514csart4wlこの連載は、ここ何度か新しい切り口が見つからずに悩んでいますが、被写体が向いている方向によって対立関係を示すのは、基本中の基本です。というより、2人の人物がどちらも右を向いたまま会話していたら、誰と誰が話しているのか分からなくなるから、イマジナリーラインが必要なんです。

どちらが右方向から来て、どちらが左方向から来て、それぞれどんな効果があるのかは富野由悠季さんの『映像の原則』にも書かれています。


僕がすぐに思い出すのは、ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』の冒頭シーンです。右から歩く足と、左から歩く足とが交互に映される。最終的に、この2人の人物はぶつかります。
2人がぶつかるようにシナリオに書かれているなら、右から撮ろうが左から撮ろうが関係ないだろう……と思っている人がいるかも知れないし、実は、いきなり人物の左右が入れ替わってしまう映画やアニメも、たまにあります。すると一瞬、誰が誰だか分からなくなる。
その違和感を、わざと狙った演出もあります。

だけど、ほとんどの人はキャラクターだとかストーリーについて話すのが好きで、それは構わないのですが、最近は「好き」について話すことが「正しい」と見なされる風潮が強くなっている気がします。
普段から「好き」の感情だけを最優先しているから、小部数のマイナー映画評論誌が、たかが年に一度の選考作品からアニメを除外しただけで「あいつらは間違っている」「差別するな」「アニメは正しい」の大合唱になってしまう。しかも、その声が多数派か少数派かで正しさを証明しようとする。

アニメや映画の演出、原理に興味をもって接していれば、アニメと映画の差異について考えるキッカケに出来たはずです。
「ネタバレあり/なし」「星五つで何点か」、これは海外にもある即物的レビュー方式ですが、観客の認識力を低下させ、動物的な反射を促進し、心の余裕と主体性を奪うだけなので、関わらないほうが良いです。


細馬宏通さんの『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか―アニメーションの表現史』によると、初期のアニメーションには実写パートがあったり、ショーの一環として生身の興行師がアニメの画面に飛び込むような演出があったそうです。
最初は絵が緻密に動く新奇さが売りで、カット割やズーム、PANなど実写映画の演出が導入されたのは、もう少し後のようです。しかし、リップ・シンクや遠近法など、アニメにはアニメならではの技術面での進歩がありました。こうした面白さは、「好き」「嫌い」を超越したもの、数値化できないものです。

娯楽にかぎらず、政治でも社会問題でも、考える前に「相手は敵か味方か」「自分は多数派か」ばかり即断されていって、怖いです。
マイノリティの人が、「力で相手をねじ伏せる」権力者の論理を平然と行使しているのを見ると、絶望的な気持ちになります。

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2018年2月10日 (土)

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フィギュアメーカーが提案する“組み立てキット”の役割とは? 田中宏明(グッドスマイルカンパニー)、インタビュー【ホビー業界インサイド第32回】
T640_751506元バンダイの田中宏明さんに、良いタイミングでお話をうかがうことが出来ました。取材はご本人への直接申し込みだったので、段取りはスムースでした。
サターンロケットはスケール表記こそされていますが、手すりなどスケールキットでは確実に折れそうなパーツは太めに成形され、さまざまな状態を再現するプレイバリューに重きが置かれています。
最近は中国の新興メーカーのプラモデルを組み立ててきましたが、やはり時間とお金に余裕があると、際限なく細かいパーツ分割になってしまうのかも知れません。今までプラモデルとは縁遠かったユーザーを迎え入れるには、スケールキット、もっというとプラモデル文化にすら距離感のある田中さんのようなフレッシュな人材、因習にとらわれない発想が必須と思います。

けれども、こういう話題を模型雑誌に載せようとすると、「さあ徹底的にディテールアップしましょう、カッコよく塗装しましょう」という古い切り口しか許されない風潮があります。だから、僕は「アキバ総研」に居場所をつくったのです。


先週、4,400円もする国内メーカーのスケールキットを買ってきたんですが、あまりにもパーツの精度が大雑把で、1/3ぐらいまで組み立てた時点で、放棄せざるを得ませんでした。
ただでさえ見づらい説明図を何度も見返しながら組み進めても、パーツの誤差が1mm以上あって、接着面積はもっと狭い。なんとか接着しても、その次の工程でミシッと割れてしまう。これが何十年も前のキットなら分からなくもないけど、一昨年発売されたものですからね。信じられないです。
他の商材で4,400円もとっておきながら形にならないなんて、決して許されないと思います。本なら落丁・乱丁レベルなので。だけど、プラモデルはユーザーに組み立てがゆだねられるので、「買ったヤツが頑張って完成させろ」という話に落ち着いてしまう。「初心者は修行して、ダメなキットでも完成できるように精進しろ」とか、精神論でごまかされてしまう。

工具も塗料も接着剤も別売り、箱を見ても中身がどれぐらい細かいのか、どれぐらいの精度かも分からない。説明図を開いて、ようやく「ドリルで穴を開ける」工程に気づかされる。こんな不親切な製品を売っていおいて、「作れないヤツは上達しろ」。そんな状況を許しておいて新規ユーザーが増えない、模型人口が減ってるとしたら、そりゃ当たり前ですよ。
だけど、みんな老舗メーカーに愛着があるから悪口を言えない。メーカーも、その風潮に甘えている。とてもじゃないけど、未来を感じられません。


オマケ程度に無駄話をすると、模型文化の退嬰は、よく「小さな町の模型屋さんが潰れる」と言い換えられます。実際にはアマゾンや量販店で買い物しているくせに、甘美なノスタルジアで都合のいい犠牲者を仕立て上げる。その無責任な懐古趣味もまた、「模型文化」の一断面なんですよね。「いまの子供たちはモノ作りの楽しさを知らない」とか、実感を欠いた決まり文句。
模型文化が退嬰するとしたら、その原因は「初心者は上級者に学んで上達すべし」という幼稚な体育会的な根性論で一見さんを追い返す排他的なムードですよ。
学びたい人にだけ教えればいいのであって、それで何かを救った気になるのは、やはり傲慢だと感じる。

僕は誰にも学びたくないし、どのキットを買うときにも、永遠に初心者でいたい。上手いとか下手とか、誰かの設定したレースに乗る気はない。競争したくないし、誰かの上に立ちたいとも思わない。ひたすら自由でありたい。「本気を出すと上手い」とか、そういうポテンシャルにも興味ない。バカにされてもいいから、いつも素手でいたい。好奇心だけ持っていたい。

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2018年2月 8日 (木)

■0208■

東京での上映が本日まで、その他の地方も明日金曜で終了とのことで、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』に行ってきた。劇場では、4度目。この3週間で25回も見た熱狂的なファンがいるので、上映前から煽ってきた身としては、ちょっと恥ずかしいような気がする。
640しかし、これほどファンの動向が気になった作品もない。宣伝会社は予算がないのかやる気がないのか、その両方なのか、取材()の段取りに時間がかかったし、公式アカウントはTwitterでの発信力が弱かった。その一方で「中国産のアニメなんか興味ない」「宮崎吾朗が監修だから心配だ」、そんな無責任な下馬評にイライラさせられた。
しかし、もっともハッとさせられたのは、「中国で記録的な大ヒットになった作品の日本公開に二年もかかり、公開されても話題になっていない現状は、けっこう深刻でないか」という意味のツイートだった。中国はいまや、ハリウッドですら顔色をうかがわざるを得ないほど巨大な映画市場だ。その中国で生まれ、ハリウッド製CGアニメからの影響を意図的に排した作品が『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』だ。
日本公開にあたっては『RWBY』や『パシフィック・リム』日本語版で、アニメ声優の潜在能力を引き出した打越領一さんが吹き替え演出を務め、配役も申し分ない。なのに、「ハリウッドっぽい」「ジブリっぽい」など、的外れな感想が散見された。

CGアニメだからハリウッドっぽい、宮崎吾朗さんが監修だからジブリっぽい。日本の観客が、聞きかじった情報だけで脊髄反射に陥っているとしたら、やはり深刻な事態なのだと思う。


もうひとつ、「中身が薄い」、「ストーリーが弱い」、「説明不足」といった批判も目にした。

今日観ていて、あらためて本作の自然描写の美しさに目を見張った。河や沼地など水面はシズル感たっぷりに、フォトリアルに描写され、木々は陽光を透かして風にそよいだり、雨粒に打たれて揺らいだりする。真っ青な翅の蝶が木の葉にとまる苔むした山岳地帯の風景は、奥へ行けば行くほど、山水画のように透明感を増していく。
もっとも唸らされたのは、小坊主であるリュウアーが行方不明になった後、ホタルが無人の森を飛ぶのを、じっくりとカメラで追った長めのショットだ。ホタルはリュウアーの行方を捜すような挙動を見せながらも、結局は誰にも辿り着かず、暮れかけた空の彼方に飛んでいく。次のショットは、リュウアーを探す師匠の姿だ。
つまり、どこへともなく彷徨うホタルはリュウアーの身を案じる師匠の心情描写にも、あるいは暗い森の中で迷子になったリュウアー自身を暗喩しているとも読みとれる。それ以前に、日が暮れてもリュウアーの安否が分からない不安な状況を、端的に物語っている。

いずれにしても、多様な解釈を許す美しいショットだ。しかし、ひょっとするとキャラクターが映らずセリフもない、ただ美しいだけの自然描写を前にして「ストーリーが進んでいない」「中身がない」と即断する観客が多くなっているのではないか。
モノローグでも字幕でもナレーションでも、とにかく一から百まで解説してもらいたい観客が増えてしまっているのではないか。
「西遊記なのに、どうして三蔵法師や沙悟浄が出てこないのか」「ほとんど何の役割も果たしていない猪八戒こそ不要ではないのか」といった意見にも、同じ危うさを感じる。

すべての登場人物に等しく役回りが割り振られ、均等に活躍の場が与えられ、それぞれに感情表現や内面吐露があり、監督の設定したテーマなりメッセージなり「意味」なりが作品から読みとれなければマイナスに感じてしまう、偏差値の高いウェルメイドな作品しか受けつけられなくなっているとしたら、そのような観客の鑑賞に堪えうる作品は数えるほどではないか、それこそ全世界向けに分かりやすくブレンドされた(フールプルーフの施された)ハリウッド映画しかないのではないか……という気がしてくる。


ただし、愚かな観客ばかりだから、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の興行がパッとしなかったというつもりはない。
観客の審美眼が貧しくなったのには理由があって、そのひとつが作品タイトルを検索するだけで「この作品の評価は?」と採点を迫り、見たくもない点数を表示する映画情報サイトだ。
僕は本作の公開初日、ぴあの出口調査で「何点でしたか?」と聞かれて、おおいに戸惑った。後ろの女性は「85点」と答えていた。ネット環境のおかげで、「映画は点数や星の数で採点するもの」、すなわち「劣った映画と優れた映画の二種類があり、自分も必ずどちらかの判断を下さねばならない」と信じ込まされてしまっている。

ネットだけでなく、酒の席でも「○○は観ましたか? 廣田さんは肯定派? それとも否定派?」「今年上半期のベスト映画は?」「ネタバレOKですか?」などと聞いてくる人が沢山いる。
即断と採点が最終最短目標の「映画好き」同士の会話が、どんどん僕らの頭をカラッポにしているとは言えないだろうか。映画評論家は公開前の映画を「つまらなかった、面白かった」と観客に保証するディーラーのような存在と思われているし、本人たちもそのように振舞っている。

そこへ加えて、中国に対する嫉妬とも嫌悪ともつかない複雑な感情が渦巻いているのだとしたら(『スター・ウォーズ』最新作に出演している女優はベトナム系アメリカ人なのに悪口を書かれるときは決まって「中国人」だ)、映画を公開する側からすれば、日本はなんと魅力に乏しい国だろう。
『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』はウェルメイドな作品ではなく、あちこちに曖昧さや余白を残した作品だ。それでいながら、キャラクターは互換性がきかないほど強固に造形されている。さらに、アクション・シーンのカメラワークは複雑を極め、明らかにオーバースペックだ。これほど強烈な個性を持ったわがままな映画が、なぜか中国では大ヒットしてしまった。たくさんの若いファン、日本でいうオタク層に支持されている。その事実に、僕は戦慄に近いもの、畏敬のような感情を抱いてしまう。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment

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2018年2月 6日 (火)

■0206■

レンタルで、1941年のヒッチコック監督作品『断崖』。
Mv5bmtmzmzcxmtexof5bml5banbnxkftzty冒頭からして、素晴らしかった。真っ暗な画面に汽笛の音が入り、「おっと失礼しました」と男性の声が重なる。フェードインすると、そこは列車の客席で、女性の向かい側に男性が座るところだ。「トンネルの中で、見えなかったもので」と、男性が謝っている。
暗闇で女性の前に陣取った男の態度は、明らかに怪しい。そして、女性が向かい側に座った男性をいぶかしむ不安の構図は、この映画を最後の数秒前まで支配しつづける。
『見知らぬ乗客』では、右から歩いてくる足と左から歩いてくる足をカットバックさせることで二人の男の対立図、映画の全体像を示した。『断崖』の冒頭カットは落ち着いたシンメトリの構図だが、暗闇からフェードインすることで不気味な緊迫感を映画に付与する。


女性(ジョーン・フォンテイン)は、後に男性(ケーリー・グラント)と結婚するが、まともな仕事につかないくせに、どこからか大金を手に入れてくる夫を信用できないでいる。
Mv5bmjawmzeynjezmv5bml5banbnxkftzty夫が友人を殺したと疑った妻は、今度は自分が毒殺されるのではないかと怯える。夫は、妻のために飲み物をもって階段を上がってくる。直前、時計の振り子がアップになる。それは言うまでもなく、妻の鼓動の早さを表現している。妻の不安そうな表情に頼らず、やや大仰とはいえ、別の被写体に彼女の緊張を代弁させる、このメカニカルな発想が好きだ。

さて、夫が白い液体の入ったコップを持って、階段を上がってくる。彼の顔は、(『市民ケーン』でよく使われていた演出だが)まったく照明が当たらず、真っ黒く塗りつぶされている。かわりに、彼の持った飲み物だけが白く輝いている。表現主義的というか絵画的というか、1941年時点で古臭さすら感じさせる演出だが、どこの誰が見ても確実に毒殺を想起させる照明効果、見事なものだと思う。
『市民ケーン』は『断崖』と同年公開であり、映像から多様な意味を感じさせる点では『市民ケーン』のほうが抜きん出ている。だけど、ヒッチコックのキワモノすれすれのサスペンス、あり得ないほど甘ったるい美男美女のラブロマンスにも捨てがたい魅力がある。

また、モノクロ映画時代の手練手管を尽くした撮影技法、マットペインティングやミニチュア、スクリーンプロセスの多用に、はかなげな美しさを感じる。それらがロケ中心のネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグの台頭で「作り物」と見破られてしまう構図も含めて愛らしい。


NHK記者、暴行の疑いで逮捕 「事実ない」と否認(

このニュースをNHKが報道した形跡はない。
そして今日、NHKから受信料の払い込み用紙が届いた。「文書・電話・訪問などを通じてお支払いいただくための活動を進めています」と書かれているが、なぜ訪問するのにケーブルテレビ局や宅配便業者を装わなければならないのだろうか? どうしてウソをつくのだろう? 「それでもなお、理解が得られない場合、やむを得ず、裁判所を通じた法的手続きを実施しています」と、誇らしげに下線が引かれている。

僕はNHKの集金人に、「ドアを開けなければ、ここで個人情報をバラしますよ」と大声で脅されたことがあるが、そこまでして、いったい何を「理解」させたいというのだろう?
NHK職員が暴行で逮捕された等の重要なニュースを報じないで、なぜ受信料がとれると考えられるのか、僕にはさっぱり分からない。理不尽と傲慢しか感じない。

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2018年2月 2日 (金)

■0202■

レンタルで、チャールズ・チャップリン監督の『街の灯』。
Mv5bmtk5otuwmtuzmf5bml5banbnxkftztc途中、チャップリンが笛を飲み込んでしまい、しゃっくりをするたびに笛の音が鳴るギャグがある。笛の音が鳴らないと、まったく面白さが伝わらないシーンなので「上映当時はサイレントでも笑えたのだろうか?」と疑問に思っていたら、なんとこの映画はセリフこそ入っていないものの、音楽と一部の効果音だけはサウンドトラックに録音されて公開されたのだという。
1931年の公開だから、1927年の『ジャズシンガー』、1928年の『紐育の灯』による完全トーキー化完了後、サイレントへの回帰を志した作品だったのだ。セリフは、すべて字幕だ。


盲目の花売り娘が、チャップリン演じる浮浪者に親切にされる。
花を買ってもらった娘は浮浪者の胸に花を飾ってやり、お釣りを渡そうとするのだが、浮浪者の後ろから立派な紳士が歩いてきて、タクシーに乗り込む。その音を聞いて、娘は浮浪者がタクシーに乗って立ち去ったものと勘違いする。もちろん、当の浮浪者はその場に残っており、娘の思い込みを壊さないよう、足音を立てぬようにその場を立ち去る。
このシーンは「音」がドラマの要素であるにも関わらず、効果音は入っていない。芝居の段取りだけで娘と浮浪者の行き違いを見せている。

やがて、娘は手術によって目が見えるようになる。
Mv5bngnlmzniy2utmjaznc00nwy1lwjmymm彼女は浮浪者と再会するのだが、初めて会ったときはタクシーに乗れるぐらいのお金持ちだと勘違いしていたので、みすぼらしい身なりの浮浪者にお金を恵んでやろうとする。だが、彼の手に触れたとき、花を飾ってやったときの感触が記憶によみがえり、恩人と再会したことに気がつく。
このシーンでは、娘が浮浪者に触れる手だけをアップで抜いている。彼女の手は、かつて盲目だったころのような手つきになって、浮浪者の手と胸を撫でるように触る。これだけで、観客は彼女の心のうちが手にとるように分かる。「あなたでしたのね」「見えるようになった?」と字幕が入るが、これは余計だろう。
カットワークは凡庸な切り返しなのだが、小道具と仕草だけで、セリフに頼らないドラマが成立している。このシーンは、映画でなくとも演劇でも再現可能だ。だが、サイレント映画の雄弁さを伝える美しいシーンであることは間違いない。


演劇で再現可能ならば、それは映画である必要はない。上で書いたことは、実は脚本や演劇への評価であって、映画を誉めていない。
『街の灯』を見て、僕は涙をにじませたが、「映画の機能に感動したわけではない」と冷徹に割り切らなければ、映画の本質は見えてこない。「泣いた」「感動した」なんてことに重点を置きすぎると、結局は粗雑な作品鑑賞しか体験できないのだと思う。

代替可能な要素は、そのメディアの本質ではない。
実写映画は、目の前の現象を記録することで24枚の静止画を得る。アニメーションは、先に静止画を作成して、それを記録する。両者にはフレームやカットなどの共通概念があるので、「生身の俳優か絵で描かれた人物の差しかない」ように見えるが、全工程の中で「撮影」が正反対に位置している。よって、同じ表現とは言いがたいと思う。


しかし先日、あるCGアニメ作品のモーションキャプチャの収録現場を見学させてもらって、おおいに当惑した。いくつもの役をたった三人で演じ分けているのだが、俳優のアドリブもあれば、うまくセリフを言えない場合は、予定されていたカットを変更したりもする。小道具が必要になったり不要になったり、現場で予測不可能な事態が起きる。
つまり、静止画を得るために目の前の物理現象を記録する工程が必要であり、その内容は被写体の特性に大きく左右される。ロト・スコーピングでも、同じことが言えるかも知れない。

「被写体が絵だからアニメ」というわけではないのは、確かなことのようだ。
僕は『RWBY』を観るとき、構図やカット割はいっさい頭に入らず、もっぱらキャラクターの表情、芝居やセリフに夢中になっているが、あの作品がモーションキャプチャを使っていることと無縁ではないような気がしてきた。 

(C)1931 - Warner Bros. All rights reserved.

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