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2018年1月31日 (水)

■0131■

ユジク阿佐ヶ谷にて、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』。
Mv5byzq3zjkxztatodrjyy00nwe5ltgwnjyルキノ・ヴィスコンティ監督の処女作、1943年版である。1981年にリメイクされたやつはエロっぽい路線で、中学生の僕は「見てはいけないもの」と忌避していた。だが、ネオレアリズモの嚆矢とされるヴィコンティ版、レンタル店にないならミニシアターで観るほかあるまい。
さて、色恋がらみで殺人の起きる破滅的な内容のこの映画、どこがそんなに画期的だったかというと、前年に『カサブランカ』が公開されていた……と聞けば、星目がちなロマンスとは程遠い殺伐としたムード、ロケを多用したザラついた撮影、安定感のない構図にキレの悪いカットワーク、それらによって醸し出される「性愛」「愛欲」の匂い立つような泥沼感が、いかにハリウッド・メジャーと真っ向から対峙していたか、分かろうというものだ。


この映画に欠点があるとしたら、小説を原作にしたせいか、何もかもセリフで説明してしまうところ。目をつむって、セリフさえ聞いていれば、なんとなく分かった気になってしまう。「あらすじ」ってやつ。トーキーが開発されてから、「あらすじ」の質は激変した。極端な話、舞台劇をロングショットのフィックスで二時間撮りきれば、それで劇映画は成立してしまう。
「それではあんまり格好がつかない」と言うので、セオリーどおり、申し訳程度にカットを割っただけの映画は、それこそ数え切れないぐらいあると思う。

なので、セリフに頼らずにどう見せているかに注目せざるを得ない。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』でいうと、夫を謀殺した人妻が、若い恋人を尾行して、彼が入っていったアパートを見張るシーン。
人妻は、カフェの座席に座ったまま、じっとアパートのほうを見ている。彼女はハッと目を上げる。観客は「ああ、恋人が出てきたんだな」と分かる。妻は立ち上がり、カフェから出ていく。凡庸な映画なら、ここでカットを割るだろう。ヴィスコンティは、そうしなかった。妻の歩いていく方向をそのまま追って、街へカメラを出す。
すると、妻の向かう先には、恋人が若い女と連れ立って歩いているではないか。妻は大胆にも二人の間に割り込む。相手を見つけるだけでなく、相手の元へ歩いていって、行く手をふさぐ。これをワンカットで撮ることで、彼女の焦りと勇気と危なげな行動力が一気に爆発する瞬間を、観客は目にすることになる。

実は、この人妻が恋人を尾行しはじめるシーンも、ワンカットで撮られていて、見事な緊張感を生んでいる。同時期にハリウッドが甘受していた適当なカットバックなど、ひとつもない。その緊張感は十年後の、ロッセリーニの『イタリア旅行』まで持続しているかに見える。


朝からTwitterを見ていて、うんざりさせられた。
脚本家の荒井晴彦が発行人をつとめる「映画芸術」誌が、今年のベスト&ワーストの選出からアニメ映画を除外するとは聞いていた。最新号の中から、除外する理由に触れた誌面を写真に撮って、憤慨した方が画像をアップしていた。

まあ、そこまではいいんですよ。個人的に腹が立ったということでしょう。
だけど案の定、自分では情報ソースの「映画芸術」に当たらず、ただ恣意的に抜き出された画像を見ただけで「ひどい」「アニメを排除するとは何事か」と、他人の怒りに便乗して自説をのたまう人たちの多さ。これにゲンナリする。
「実写だって、こういう欠点があるだろ?」「アニメだって、実写と同じぐらい苦労して作ってるんだぜ?」と、実写vsアニメの対立図式に落とし込んで、「映画芸術こそワーストだ」って流れになっている。毎度お定まりの「評論家こそ人を感動させる作品をつくれよ」まで、いつもの揚げ足とりと論理のすり替え、不毛な議論の大安売り。


そもそも「映画芸術」がどういう雑誌で、荒井晴彦が誰なのかも調べてない、知ろうともしない、「面倒だ、知ったこっちゃない」という人が大多数ではないだろうか。
別に「映画芸術」の肩を持ちたいとも荒井晴彦を擁護したいとかでなくて(と書いたところで「アイツは擁護派だ」って振り分けられるところがSNSの地獄)、最低限、叩く相手のことぐらい知っていたほうが説得力が出るのに、それすらサボって「とにかく俺が怒っているのだから相手とフェアに戦うつもりなんかない」と思っているなら、ハナっからあなた方の負けですよ。

日本映画、そんなにたくさん観てるんですか? 「映画芸術」のベスト&ワーストなんて、毎年気にしてるんですか? そんなに影響力があるんだろうか、あのマイナー誌に?
俺の好きなアニメを排除されたらしいので、どういう文脈で相手が誰かもよく知らないけど、SNSで怒ると溜飲が下がって気持ちがいいぜって人ばかりじゃないのか?
「怒る」って気持ちいいんだよ。自分の非が見えなくなって被害者意識に甘えられるから、いつでも怒っている人がいる。怒るための燃料を、常に探している人がいるよね。

その「怒る」なんていう低俗で手軽な娯楽の燃料に、好きなはずのアニメや映画を使っちゃっていいの? 本気で事態を変えたいなら、良識にのっとった、正当な抗議の仕方が社会に用意されているはずだよ。SNSに罵声や小言を書き込んでも、何の実効力もないよ。 

(C)Ajay Film Company Photographer: Osvaldo Civirani

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2018年1月28日 (日)

■0128■

タイムボカンシリーズ 逆転イッパツマンCOMPLETE  BOOK
Duimkkmu0ae7lip●インタビュー① 笹川ひろし×小山高男(現・高生)
●インタビュー② 押井 守
●インタビュー③ 天野嘉孝(現・喜孝)

合計4名の方たちにインタビューさせていただきました。押井さんの絵コンテも掲載されており、ちょっとしたコラムも書かせてもらっています。

内容はエピソードガイドや膨大な設定資料のほか、キャラクター原案やメカ作画の分析、オープニング絵コンテや関連グッズの紹介など、「これ以上は不可能」というぐらい完璧な資料集となっています。


レンタルで、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』。
Mv5bnjk5mdc0nzexm15bml5banbnxkftztgこれもまた、中学時代にテレビで観たぐらいで分かった気になっていた一本。
冒頭とクライマックスに、数十人が入れ乱れた尽きることのない銃撃戦がある。適当に「撃つ」「撃たれる」画を繋いでいるのではなく、誰が誰を撃ったか、なるべく因果関係が分かるように編集している。最初に肩や足を撃たれ、次に胸を撃たれて倒れるといった段取りを丁寧に踏んでいる。
馬に乗った男が大きくフレームインしたかと思うと、二階のベランダから床ごしにライフルを撃つ敵がいる。床に穴があく、もうひとつあく、あわてて馬で逃げようとする、追いかける……といったプロセスをワンカットずつ割って、一秒以下のフレーム数で繋いでいく。

また、建物の屋上で撃たれた男が地面に落下するのを、3カットに分けて、他の銃撃の合間にはさんでいる。その落下するカットはスローモーションだ。
さらに、馬に乗って逃げようとする男が撃たれて、洋服屋の中に倒れる。ガラスが割れて男が店内に倒れこんでくるカットを、四つに分けて、その間に、やはり別々の銃撃戦が入る。馬と男がガラスを破って倒れる派手なカットは、やはりスローモーションで撮られている。
つまり、ここには一秒間24コマの世界と一秒間48コマ、あるいは72コマ以上の世界とが共存している。男が屋上から落ちる、馬が洋品店に突っ込むアクションは、他のカットを見せている間に終わってしまうほど短いはずだ。だが、スローモーションで撮ることによって、他のカットと併走可能になっている。


すさまじい銃撃戦の中、砂埃の中を抱き合って立っている幼い子供たちがいる。彼らのアップの次に銃撃戦がつづくと、まるで子供たちが間近に銃撃戦を目撃しているかに見える。
だが、その視覚効果が錯覚にすぎないことは、1922年にレフ・クレショフが証明している。一秒間のアクションを48コマで撮影して時間を引き延ばすことも、いわばルール違反だ。だが、映画という手続きによってしか存在できない純度の高い「映画的な」時間と空間が、『ワイルドバンチ』の銃撃シーンには露呈しているといえる。


アニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』、どうも今週金曜(2/2)で終わってしまうらしい。Twitterで本国公開時から情報発信していたアカウント、「大聖の水道工場」さんの作成したキービジュアル()に心が震えた。転載させていただきます。
Clxhuojukaekivh
中国で大ヒットしようと、それが日本国内でのセールストークにならないことは百も承知だ。マスコミ試写に来ていたはずの業界人たちは、この映画を黙殺した。悪いんだけど、「見る目がない」ね。話題性が保証されてないと何も動こうとしないあなた方の情けなさ、ぜんぶ上に書いてある。

お客さんや読者さんのこと考えて仕事してるかよ? 上司のごきげんがとれれば、自分の名前に箔がつけば……そんなことばかり考えて仕事した気になってないか? 映画が存在するのも公開されるのも、世の中を良くするためだよ。俺たちの仕事も、記事を読んでくれる人たちの心をちょっとでも明るくして、世間の風とおりをよくして、良い方向へ回すためだろう?
どうやら、そう考えている人が少ないようで、ガッカリさせられる局面が多いんだが……。

「気が変わりやすいやつ、過去を捨てられぬやつ、真面目な顔で出鱈目を言ってるやつ、いい加減に生きているやつ、堕落しているやつ、始めを恐れ、終わりも恐れているやつ」、ヒーローが死んだと聞いて喜んでいるやつ。「キミもその中の一員?」
世の中でいちばんみっともないのは、勇気がないことだよ。違うかい? 

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2018年1月26日 (金)

■0126■

モデルグラフィックス 2018年 03 月号 発売中
0000000033962●組まず語り症候群 第62回
今回は、クリアパーツにメッキを施し、その上から部分塗装までされた「輝羅鋼」パーツを紹介するため、連載5年目にして初のカラーページとなりました。
今号の77ページに、かねてから聞かされていたハン・ソロとルークの頭部塗装済みキット()も紹介されています。完成品フィギュアで使われている技術の転用らしいのですが、組み立てキットに応用されると「タブーを侵している」ように受け取られる点が面白いです。
組み立てと塗装は別の楽しみなのに、「模型は塗るもの」という固定観念が強すぎたんじゃないでしょうか。僕は誰が組んでも同じ成果が得られるプラモデルの民主化、大歓迎です。


『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』、3度目の鑑賞。「もう十分だ、もう分かった、終わりにしよう」と思いながらも、あと一週間しか上映しないらしいので、すでに4度目を観るつもりになっている。
Twitterでは、主役の斉天大聖に恋する女性ファンが相次ぎ、ようやく盛り上がってきたのに……本当に、もったいない。『マイマイ新子と千年の魔法』のように、第二のウェーブを起こすにはどうしたらいいのか、考えてしまう。

『西遊記』というメインタイトルが、あまり良くないのかなとも思う。ファンの人たちが「ヒーロー・Duxq2trvwactluy イズ・バック」と、サブタイトルで呼びたがる気持ちはよく分かる。『西遊記』なら子供の頃に見たよ、知ってるよと敬遠されてしまうのかも知れない。せめて英文タイトルに準じて『モンキー・キング』という邦題なら、もっと新鮮な、クールな印象を与えられたのではないだろうか。
また、ディズニー&ピクサーやドリームワークスのような米国のCGアニメと比較され、それらに追いつくべき発展途上の作品と誤解されがちな点でも損をしている。パンフレットを読めば分かるが、『ヒーロー・イズ・バック』は「黄色い白人(外見はアジア人だが中身は白人同様の華人)」の演技にならないよう、かなり苦心しているし、工夫もしている。キャラクターの造形と質感はもちろん、背景の透明感、シズル感は欧米のアニメでは決して見られないものだ。曖昧さを残した繊細な感情表現も……。
『西遊記』と冠しておきながら、ほぼオリジナルな展開である点からも、作家本位の「尖った作品」なのだと思う。やはり、単館でのレイトショーが似合っている。
(中国でも、最初は田舎の小さな劇場一館のみで公開された。)


さて、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』日本語版の主演声優である咲野俊介さんの仕事を見たくて、『テッド2』を借りてきた。前作は、原語版で映画館で鑑賞している。
Main_large咲野さんはテッドではなく、『フラッシュ・ゴードン』オタクのマーク・ウォールバーグの吹き替え担当。最初から最後まで、まんまと面白かった。
ところで、僕らはジャージャー・ビンクスを毛嫌いするくせに、なぜテッドの存在を許せるのだろう? 『テッド2』のクライマックスはコミコン会場で、多数のコスプレ・キャラが登場する。それらは俳優が着ぐるみをまとって演じているが、テッドはCGキャラだ(なのに「今日は三度もイウォークに間違われたよ」とぼやくところが粋なのだが)。

俳優はフィルムに記録されたものだが、CGキャラは後から付け足されたものだ。実物を記録したものではない。しかし、誰もテッドを「本物ではない」などとは攻撃しない。
むしろ、僕らはCGキャラが俳優と会話する違和感を積極的に楽しんでさえいる。「ぬいぐるみが勝手に動くわけがないから、何かのトリックを使わねば成立しない」と、どこかで自分を納得させている。『テッド』を観る上でCGキャラを受け入れるのは、いわば映画の提出した議定書にサインすること、映画と協定を結ぶことなのだ。


だが、『テッド2』は観客との約束事に甘んじることなく、周到に外堀を固めている。ラストカットは主人公たちの暮らす建物からカメラがトラックバックしていくのだが、このショットは丸ごとCGで作成されている。ファーストカットはユニバーサルのロゴから地球へ、さらに教会までワンカットで寄るので、やはりCGだ。
最初と最後のカットをCGで作成して、ブックエンドのように映画全体をCGでサンドイッチしてリアリティを相殺している。儀礼的な構造だし、何よりも品がいい。下品なジョークの応酬にも関わらず、理性的な映画なのだ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)Tippett Studio/Universal Pictures and Media Rights Capital

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2018年1月23日 (火)

■0123■

レンタルで、1946年のソ連映画『石の花』。
Myt3s3n95j93f08fomszawjvqyx中学時代にテレビ放映され、その異様な色彩の人工美は漠然と記憶していた。ソ連初のカラー作品とのことだが、アメリカでは1932年にディズニーがアニメ映画『シリー・シンフォニー』で、初のテクニカラー方式の映画を実現している。少なくとも、原初期においては、カラー映画はアニメや特撮のジャンルに属していたような気がする。
『石の花』も光学合成を駆使した特撮ファンタジー映画で、監督は『妖婆 死棺の呪い』で独創的な世界観を醸していたアレクサンドル・プトゥシコだ。『石の花』は、全編がセットというよりは大規模な舞台装置上で撮影されている。
したがって、俳優の背後は書き割りでふさがれており、演技はもっぱら、その手前で行われる。いきおいカメラアングルは限定され、カットワークは単調となる。

しかし、そうした演出の稚拙さを補って余りある色彩の美しさに目を奪われた。


結婚式のシーンで、民俗音楽にあわせて男たちが踊る。その衣装がキラキラと金属的な光沢を放って、綺麗なんだ。この宴のシーンは尺も長く、大きな見せ場となっている。
また、主人公の青年を誘惑する石の女王の衣装がシーンごとに変わって、全身がブルーなのにイヤリングだけ赤く照り返しているとか、現像段階で何か工夫したんじゃないかと思う。

また、俳優が老若男女とわず青白いドーランを塗っていて、誰もが不健康な顔色をしている。ソ連では初のカラー作品なので、誤ってモノクロ映画向けの大げさなメイクをしてしまっているのではないか?と早合点してしまう。しかし、中盤以降に登場する衣装の繊細な色彩感覚を考慮すると、俳優のメイクにも何らかの狙いがあったような気がしてくる。

どうしても、カラー・トーキーが当然の時代に生まれた僕らは、モノクロ・サイレント映画を下位において考えてしまいがちだ。構図やカットワークといった映画固有の文法は、モノクロ・サイレント時代に開発され、発展した(クレショフ効果が発見されたのは1922年のこと)。その認識がないと、4DXで水をかけられたり椅子を揺さぶられたりするのを「最も進化した映画」と勘違いしてしまう。


「約束の時間に間に合う人と間に合わない人」(

この解説、そのまんま仕事の話に当てはまる。「時間の価値が分からず相手の時間を粗末にする」、だから、スケジュールを決めようともしないし、守らなくても何とかなると思っている。
良い悪いではなく、そういう性格の人は自分の人生から排除していく、これだけだ。それだけで納得のいく良い仕事ができるし、イライラしなくてすむ。ダメな相手と仕事していると、仕事と関係ないことでも心が疲れてしまうんだよな。

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2018年1月21日 (日)

■0121■

【ホビー業界インサイド第31回】女子高生を1/35でキット化! 「35ガチャーネン -横山 宏ワールド- JKフレンズ」に秘められた “理想のプラ模型像”を、海洋堂・宮脇修一センムが語る!
T640_749784カプセルトイといえども、インジェクション・キットとして女子高生フィギュアを成形しているのだから、プラモ文化という側面から光を当てるべきと考え、取材をお願いしました。
結果、文房具屋で売られていた“吊るしプラモ”、エアフィックス~フロッグ系の英国製プラ模型の質感など豊かなお話を聞くことができました。というより、宮脇さんの「プラ模型」という素朴な呼び方が、すでにガンプラ登場以前の概念を言い表していると思います。
こういう実体験的なお話は、ガチャーネンが売れるとか売れないとか、出来がいいとか悪いとかは直結しないように思います。「熱い」とか「こだわりがある」「プラモ愛」って誉め方も、ちょっと論点が違うような気がします。○○愛って言葉は、危険ですね。


アキバ総研の担当編集さんのスケジュール管理能力……というより、危機管理能力のおかげで、海洋堂さんへの取材申し込みと記事掲載はスムースでした。
実は、来月掲載分の取材も、昨年中に終わっています。僕が早め早めに申し込んでいたせいもありますが、担当さんが「もしコレがダメなら、以前に話が出ていたアレでいきましょう」と先手を打ってくれるから、一回も休まずに続けていられるんです。(それと、責任分担がハッキリしているので判断が早い。)

どんな仕事でも、段取りが8割でしょうね。実力だの才能だのは、僕は2割以下だと思ってます。2割以下で比率が低いから手を抜くのではなく、2割しかないんだから、実作業はおのずと一生懸命やることになる。実作業に集中するには、スケジュールに余裕がなければならない。
いつまで経っても、それが分からない人がいる。「誰かがどっかで無理すれば終わる」と漠然と、曖昧に考えている。「スケジュール」という概念がない人たちがいて、その人たち同士で仕事を回しあっている。ダメな人たちは、ダメ同士でかばい合ったり誉め合ったりするから、すぐ分かる。
危機を察知する感度が高ければ、ピリッと緊張感をもっているはず。ナアナアでやっている人には、独特のだらしなさがある。


レンタルで、『サウンド・オブ・ミュージック』。
Mv5bmtk5mzq4odi0mf5bml5banbnxkftzty『鴛鴦歌合戦』()は、歌が映画を駆動させていたのに、『サウンド・オブ・ミュージック』は飽くまでも俳優が歌っている。四角四面に「ここからここまでが歌です」と決まっている。

『鴛鴦歌合戦』はトーキー化から10年後の映画だが、そこには無声映画から掬い上げた「形として」美しい肉体が力強くダンスしている。
そして、無声映画の残した遺産はトーキー化によって、どんどん忘れられていったのだろう。『サウンド・オブ・ミュージック』を見ると、よく分かる気がする。

(C)20th Century Fox - All Rights Reserved

 

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2018年1月19日 (金)

■0119■

今週から、いろいろ仕事が入りはじめたので、水曜日に『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の二回目に行ってきた。シアタス調布の平日昼間の回なので、さすがに客は10人ぐらい。しかし、小学生の男子3人組が来ていて、ちゃんと画面に反応して笑い声をあげていた。
僕は前から二番目の席で見たので、ようやく視界を覆いつくすぐらいの大画面で観られた。まだまだ、見落としている細かな演出がいっぱいあった。壮大で透明感のある背景には、観るたびに心が洗われる。雨粒が葉に落ちて揺れる、その一瞬を見逃すまい、と思う。

白龍という、真っ白な巨大な龍が登場する。
640 言葉をしゃべらないので、何を考えているのかは分からない。斉天大聖(孫悟空)は「どうして白龍を怒らせたんだ? 食われるところだったんだぞ」と、主人公の少年に怒鳴る。白龍の息にはタコの足やヒトデが混じっているので、海から内地の河まで渡ってきたのだろう。
白龍は悠然と空を舞いながら、その場を去る。斉天大聖は、「白龍は自由だ。それに、美しい」と、ひとりごとのように言う。その一言に、善悪や敵味方を超えた雄大なスケールを感じる。この作品には、あちこちにポカッと穴が開いている。だが、そこには勝手気ままな風が吹いていて、どうとでも受けとれるようになっている。

公開前は一週間限定上映と聞いていたが、新宿ピカデリー以外は、あと一週間は上映するらしい。映画館によっては平日夜のレイトショーもあるので、是非どうぞ()。


レンタルで、フェリーニの『甘い生活』。
Mv5bmji2nji0nje3mf5bml5banbnxkftztcフェリーニといえば、実は『道』『8 1/2』『アマルコルド』『そして船は行く』『ジンジャーとフレッド』、そんなところしか見ていない。大学生のころ、やはりブームとなって、過去作も上映されていた。
『無防備都市』の脚本にフェリーニが参加していて、「えっ?」と思ったのだが、それから15年後の作品は豪華絢爛、美男美女が昼夜をとわず遊び回る賑やかな大作となった。

アメリカから大女優がローマに到着し、記者たちから「ヌーヴェル・ヴァーグをどう思うか」「ネオレアリズモは生きていると思うか?」と質問される。通訳は「イエスと答えておけ」とアドバイスする。言うまでもなく、ネオレアリズモが用済みになったことを皮肉っているのだ。


黒澤明の、人物関係を際立たせる凛とした構図、ヒッチコックの観客の裏読みを誘導する機能的なカメラワーク、カットワーク。それら計算されつくされた巨匠たちの作品と対峙するようにして、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグが台頭してきたのだと思う。
フェリーニは、ネオレアリズモを出発点にしたはずだ。
しかし、『甘い生活』はつかみどころがない。構図にもカメラワークにも必然性がない。だからといって、考えのない素人のような撮り方をしているわけではない。
会話シーンには、古典的なリヴァース・ショットも使われている。二人の人物が電話で話すシーンはクロス・カッティングだ。しかし、それら凡庸な演出を凡庸と感じさせない、解釈不能な情報量が、とりとめなく画面からあふれ出している。

こういう映画と対面したとき、新しい物差しが必要になるんだ。


「おまわりさんだと,男子中学生に淫行しても,逮捕されないし,顔写真も出ないし,実名報道もされない

https://this.kiji.is/326628875621663841 …

他方,一般人だと,昨日,電車内で男子高校生に痴漢したとして,逮捕され,本人の否認にもかからわず,実名顔写真報道。ネットで顔写真が超速拡散中→なお,検察は勾留せず」(

こういう話題に対して、「まあ仕方がないのでは」とあきらめていると、あなたの自由は全速力で遠ざかり、心の奴隷化が始まる。このツイートに対して「皆殺しでいいぞ」「消えてなくなれ」と威勢のいいことを言っている人がいるが、実社会で抵抗できるほど勇気のある人は、驚くほど少ない。
どんな創作的な才能があったって、どんなに好奇心が強くて行動力があったって、勇気がなければ人生は腐る。「賢い臆病者」なんてものはいなくて、臆病者はみんな、人生の敗残者。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)Cineteca di Bologna / Reporters Associati

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2018年1月15日 (月)

■0115■

レンタルで、オーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』と、マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』。
Mv5bnjhmztdjyzmtnwy4mi00ntmxltkznwq 『黒い罠』は、ダイナマイトの時限着火装置のタイマーのアップから始まり、クレーンで爆弾の仕掛けられた車に乗る男女を俯瞰でとらえ、さらに大通りに出た車にカメラがぴったりと併走するファースト・カットが素晴らしかった。ようやくカットが変わったと思ったら、それは爆発する車をとらえたショットだ。つまり、時限爆弾が爆発するまでの過程を、完全なリアルタイムで追っている。
ただ、ファースト・カットが完璧だった分、編集段階で大幅に削られたり付け足された痕跡が分かって、そこで白けてしまう。それでも、公開当時にゴダールやトリュフォーは絶賛したというから、カイエ・デュ・シネマの批評力は底知れない。


前回、アニメーションの気持ちよさはサイレント映画時代の「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れた、純粋な身体の運動」に通ずるのではないか、と四方田犬彦さんの著著を引用しながら、牽強付会に言いきった。
Singing_lovebirds_1『鴛鴦歌合戦』は、1939年に公開された和製ミュージカルだ。もちろんトーキーなのだが、そこには音楽に秩序立てられた「純粋な身体の運動」をありありと見てとることができる。人物はセリフで感情表現するのだが、そのセリフが歌となる。誰かが歌っている間は、周囲の人物もリズムにのって体をゆらしたり、楽器を演奏したりする。音楽が、人物の動きをコントロールしている。
歌の合間にセリフが入るので、セリフも音楽のような名調子である。

片岡千恵蔵の演じる三人の女性にモテモテの浪人・禮三郎が、ヒロインのお春(市川春代)と話している。2人は惹かれあっているが、嫉妬深いお春はツンケンして、自分の気持ちに素直になれない。
禮三郎「ふふふ、妬いてるね」
お春「誰が?」
禮三郎「お春さん」
お春「ちぇっ!」
禮三郎「ふふふ。ああ、いいもんだね。恋の絵日傘、紅傘か。青い水玉、浮き心……」
セリフが五七調となり、歌のようなリズムをはらんでいく。このシーンでの片岡千恵蔵は、「妬いてるね」で市川春代をピッと指差し、「恋の絵日傘」で目をそらして、傍らに置いてある傘を手にとる。演技に、音楽のような優雅な流れがある。

掘り出し物の古い茶碗を買った志村喬が、「アッハッハ」と笑いながら、茶碗の入った箱を両手で前に突き出して、画面手前へ来る。ところが出口を間違えていて、くるりと振り返って、箱を手にして小走りする。まったく不要な芝居なのだが、この段取りがシーン転換へのリズムを生んでいる。


圧巻は、女好きの殿様の家来を相手に、片岡千恵蔵が大立ち回りを演じるアクション・シーンだ。
効果音もセリフもなし、アップテンポの軽快なジャズが流れる。家来たちは刀で切りかかるが、丸腰の千恵蔵は右に左にヒラリヒラリと身をかわし、相手の頭を素手でコンと叩く。よろめいた家来が、わざわざカメラの前まで来て、痛そうに顔をゆがめる。
タタタッと走ってきた千恵蔵が、ピタリと止まって、取り囲んだ家来たちをグッとにらみつける。この間合い、まるで金田アクションである。斬られたら血が出るようなリアリズムではなく、迫力あるカットワークでもなく、被写体の踊るような動きが快感を生み出している。
あるいは、セリフのテンポが演技と調和して、音楽的な面白みとなっている。

意外と、「雨の中で思いのたけを叫ぶ」式のルーティンな演出にも“型”があって、ルーティンなりの出来不出来があるような気がしてきた。

(C)1939年日活株式会社

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2018年1月14日 (日)

■0114■

上映期間が短く、一日の上映回数も少なかったりするCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』。応援の意味も兼ねて、13日初日、新宿ピカデリーの夕方からの回へ行ってみた。
640半分も埋まっていれば御の字だな……と思っていたのだが、後から後からお客さんが入ってきて、空席が見当たらない! 127席の狭いシアターとはいえ、ほぼ満席という盛況ぶりで、場内のあちこちから笑い声が聞こえてきて、とても楽しい雰囲気だった。
小さな丸太にサーフィンのように飛び乗った少年が、何百メートルもの斜面を滑走する。5百年の眠りから覚めた斉天大聖(孫悟空)が、サーカスのように木々の間を跳躍する。彼らのアクロバティックな動きを、カメラは限界を無視して縦横無尽に追いかける。随所に挟まれるギャグは、体を張ったスラップスティックなものが多い。

ようするに、ぜんぜん「リアル」ではない。
CGキャラクターは、しばしば「ウソ」「作り物」として攻撃されることがある。『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』のジャージャー・ビンクスが、世界でもっとも忌み嫌われているCGキャラだろう。


まず、ジャー・ジャー・ビンクスの話から始めたい。もともとはジャージャーはフルCGではなく、体はダンサーのアーメド・ベストが着ぐるみ姿で演じ、首から上だけをCGで作成する予定だった。全身をCGで描いたほうが早くて安上がりなので、アーメドの動きはアニメーションの参考用とモーションキャプチャ収録用にのみ使われた。
Openuri20150608276741babdql55472407ひょっとしたら、胴体を着ぐるみ、首から上をパペットやアニマトロニクスで動かしていたら、こんなに嫌われなかったんじゃないかと思う。誰もがジャー・ジャーに抱く嫌悪感、その正体は生身の俳優たちの中にCGで作られたアニメーションが紛れ込んでいる違和感にあるのではないだろうか。
なぜなら、映画の本質とは「カメラによる被写体の記録」だからだ。僕らは、フィルムに収まったものはすべて「本物」と信じている。チャチな特撮であっても、それがミニチュアを記録した「本物」だと知っているから、許せてしまう。
しかし、CGのキャラやメカは、フィルムに記録されたものではない。形や動き、質感を後から付け足したのだと、僕らは知っている。だから、ジャー・ジャーを仲間はずれにせずにいられない。「記録されていない」=「本物ではない」からだ。


だが、『エピソード1』の音声解説を聞くと、ジョージ・ルーカスは「無声映画のような雰囲気を出してセリフも映像も音楽の一部のようにつくり、ストーリーも言葉より映像で表現するようにした」と語っており、メイキングではシナリオ執筆時に無声映画時代のコメディを見ている。
800pxsafetylast1いわば、ハロルド・ロイドやバスター・キートンのように体の動きで笑わせる無声映画時代のコメディ・リリーフとしてジャージャー・ビンクスを位置づけていた……と考えると、あの大げさな演技にも納得がいく。
(左の画像は、ハロルド・ロイド主演の『要心無用』より)

無声映画の時代は1928年、すべてトーキーでつくられた『紐育の灯』の公開によって幕を閉じた。
だが、映画理論家のルドルフ・アルンハイムによると「映画はモノクロであり、またサイレントであるがゆえに、豊かな色彩と音響にあふれた現実の世界とはまったく別個の、自立した世界を構築することができた。つまり現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術として価値付けられた」(四方田犬彦『映画史への招待』より)。
“現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術”……まるで、今日のCGアニメを指しているように聞こえないだろうか?


「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れて、純粋な身体の運動を映像としてとらえ続けていたいという欲望」が、サイレント映画の消滅後も繰り返されてきたと、四方田犬彦は指摘する。
映画がトーキーになって以降、舞台劇の映画化、小説の映画化が激増し、映画の登場人物は高いところから落ちそうになったり、疾走する車から車へ飛び移るようなアクロバティックな肉体を喪失して、脚本に書かれたセリフによって内面や心情を語る存在になってしまった。最近の邦画では「泣きながら思いのたけを叫ぶ」なんてシーンが、内面吐露の典型パターンとなってしまった。

だが、『RWBY』や『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』のアクション・シーンはどうだろう? あるいは、どんな手描きアニメを思い浮かべてもらっても構わない。僕らがアニメを見て気持ちいいのは「純粋な身体の運動」が表出する瞬間ではないだろうか?
もちろん、キャラクターの動きだけでなく、木々がそよいだり、山が割れるのでもいい。「運動」が誇張され、むき出しになるから、アニメは面白いのではないだろうか。

乱暴に言うと、実写映画とアニメを分かつのは、運動の純粋さであるような気がする。
無論、実写映画もアニメもトーキー化されており、セリフによる演劇性を宿してはいる。だが、「劇」は映画に固有の本質ではない。映像作品に対する「お話がなっていない」という批判を聞くたび、僕はいつも首をかしげてしまう。

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2018年1月13日 (土)

■0113■

レンタルで、ヴィットリオ・デ・シーカ『ひまわり』とヒッチコック『汚名』。
Mv5bmtcyndc5odm1nl5bml5banbnxkftz_2最初から最後まで目が離せなかったのは、ヒッチコックの『汚名』だ。1946年だから、イングリッド・バーグマンは『カサブランカ』に出演したあと。ロッセリーニに手紙を書く前の時期だ。

『汚名』のバーグマンは秘密結社の男の妻となり、彼らの情報を暴くスパイを演じている。その任務を彼女に与えるのが、FBI捜査官のケーリー・グラントだ。
ケーリー・グラントの登場の仕方からして、奮っている。バーグマンは父親が有罪判決を受けてしまったので、自暴自棄になって家でパーティをしている。画面では数人の男女が踊ったり酒を飲んだりしている。……が、画面のいちばん手前に、男の後頭部が映っている。バーグマンが「どこかでお会いしたかしら?」といぶかしむが、不気味なことに男は黙っている。そのシーンは、正体不明の男の後頭部が画面中央に来たところで終わり。
つづくシーンは、やはり男の後頭部。カメラが回り込むと、その男はハンサムなケーリー・グラントであり、べろべろに酔ったバーグマンに誘いをかけていると分かる。でも、「後頭部のアップ」という共通点があるから、この男は怪しいのではないか?と、観客は気になる。構図によって、セリフでは説明できない効果をもたらす。「ああ、映画というメカニズムが歯車を回しているな」と、僕は嬉しくなる。


秘密結社のメンバーの妻となって、邸宅に侵入捜査するバーグマンは、ワインの貯蔵庫が怪しいと踏む。そして、貯蔵庫のカギを盗むのだが、このシーンも素晴らしい。
夫に抱き寄せられるが、バーグマンは両手のコブシをギュッと握りしめている。なぜなら、手の中にカギを隠しているから。カメラはカギが隠されているであろうコブシに寄る……夫が右手のコブシを開かせる……だが、カギはない。ならば、左手でカギを握っているはずだ。カメラは、今度は左手に寄る。この容赦のないカメラワークが、すさまじい緊張感を生む。

セリフでは、カギのことなんて一言も話してない。セリフと関係なく手のアップばかり念入りに撮るカメラワークは、シュールですらある。だけど、観客は何が問題なのか理解している。これもやっぱり、映画だけが持つ機能だと思う。


果たしてワイン貯蔵庫に秘密が隠されていたのだが、何がどう秘密なのかはどうでもいい。みんなが「ネタMv5bywyymdcwymqtytqymy00mtywlthjn2i バレ」と言いたがるところだろうけど、別に何でもいいんだよ。発覚したらヤバいものであれば。

バーグマンが組織の秘密を知ってしまったので、夫と義母はバーグマンを毒殺しようとする。そのシーケンスでは、やたらとコーヒーカップをアップにする。テーブルの上に、誰かが飲み終えて空になったカップがある。そのまま、ワンフレームで庭を歩くバーグマンへ寄る。彼女は気分が悪そうにヨタヨタと歩いている。
3回目ぐらいにコーヒーカップが出てくるシーンでは、義母がコーヒーを淹れている。気分の悪そうなバーグマンの前にカップが置かれる。そのカップは、人物の手前に、やけに大きく映りこんでいる。この異様な構図によって、どうやらカップが重要らしいぞ、と観客は気がつく。
これが、映画の面白さでしょ? 「ストーリー」ではないよね? 強いて言うなら、「ストーリー」をカットや構図で解き明かす具体的な「プロセス」や「方法」が面白いのであって、「ストーリー」という文脈や概念だけがポンと観客に手渡されるわけではないと思うんだよな。

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2018年1月 9日 (火)

■0109■

アニメ業界ウォッチング第41回:“やさぐれた孫悟空”の中年らしい魅力を引き出す! 「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」日本語吹替制作監修、宮崎吾朗の語る3DCGアニメの魅力とは?
T640_748636この取材記事は、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会の翌日に企画して、すぐに宣伝会社に申し込みました。それから10日間も音信不通で、配給会社へは年末ギリギリになって連絡があったそうです。まあ、はっきり言うと宣伝会社はやる気がない。公式Twitterでも、試写を見た人たちの感想をリツイートもしない、映画の魅力が伝わるツイートもない。
そんな逆風の中で、「宮崎吾朗さんが監修ではダメだろう」「吹き替えは山田康雄さんが良かった」など、思いつきと当てずっぽうの下馬評ツイートがチラホラと目に飛び込んできて、これはもう、興行はダメだろうな……と、覚悟はしています。短いところでは一週間のみの公開ですので、志ある方は13日(土)の公開初日に駆けつけたほうがよいでしょう(上映劇場→)。

記事を読んでもらえれば分かるように、宮崎吾朗さんが日本語版の監修についたのは、監督からの直接のお願いであって、別に箔付けのためではないんです。宮崎さんも、ご自分の立場をよくわきまえておられるだろうと思います。誠実な仕事をなさっています。
「宮崎吾朗だからダメ」「中国アニメだからダメ」、そうやってどんどん、自分の世界が矮小化していくんですよ。


レンタルで、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。
640ヒューマンで痛快だった『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ監督なので借りて見たが……、前半、ほぼ主人公のナレーションで進行する。その日に何があったか、今どう思っているか、ぜんぶ細かなモノローグで説明する。
トーキー映画の利便性は、こういう安易なシナリオを生んでしまう。むしろ、過剰なナレーションで埋め尽くすスタイルを徹底させれば、どこかで映画のメカニズムとカチッと噛み合ったような気がする。
ところが後半、出会うべき人物と人物が揃った時点で、ナレーションは後退して、いつもの、切り返しによる表情と会話による「演劇」だけが残される。
そしてみんな、「劇」の中身の話ばかりするでしょ? 主人公に共感したとか、あんな男は許せないとか、最後に二人は結ばれるとか別れるとか。それらはすべて、映画の内側に入り込んだ「劇」の感想であって、映画の感想ではないわけです。

僕も「劇」だけを素直に楽しんでいた時期もありました。今は、そういう気持ちにはなれないです。そうすると、借りてこられる映画の種類が減ってしまうんだけどね。


これは、ちょっと前から気になっていた事件だけど……。

とある新聞の「児童ポルノ購入者」の職業が完全に名指しをしている件について
検事や議員、警察官の実名は出さないけど、『るろうに剣心』の作者と書いてしまったら、もちろん仕事はなくなるし、社会的に抹殺されますよね。なぜなら、「児童ポルノ」と聞いたら、誰もが「自分の頭で考えられる最悪」を想像してしまうから。
僕も警察に電話して、どういうものがアウトなのか具体的に教えてほしいと聞いたけど、「ケースバイケース」と誤魔化された。その時は過去に出版された写真集だと思ったが、今回は何? 記事では「わいせつDVD」と書いているから、わいせつ性が問題視されているわけですよ。つまり「少女を見て興奮しているヤツは罰する」「そして身内である警察官の名前は隠すが、漫画家ごときは実質的に実名を出すから覚悟しておけ」ってことでしょ?

何より気になっているのは……、一年前、二年前であれば、漫画業界が猛然と抗議したんじゃないだろうか?ってことです。同士である漫画家が晒し者にされたのに、シーンと静まっているのが、僕にはちょっと怖い。
「われわれは漫画やアニメの表現を規制から守りたいのであって、少女のわいせつDVDを所持していたら、たとえ漫画家だろうと守るに値しない」ってことなんだろうか? いずれにせよ、ついに「わいせつな」「児童ポルノ」を理由に、漫画ファンが漫画家を見捨てた。そのように見えるのは、僕の勘違いだろうか? 警察は警察官をかばっているぞ。こんな世の中を受け入れるのか?

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2018年1月 8日 (月)

■0108■

レンタルで、テオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』。
Mv5botgyntrlntmtzjnlny00njgwlwi3ztg大学生のころ、同級生から「『旅芸人の記録』は観た?」と聞かれた覚えがある。実に30年前の話だ。何しろ3時間50分もの長尺であり、上映時間の長さも話題になった。1985年に日本語吹き替えされて、テレビで3回に分けて放映されたそうなので、そのタイミングで「観た?」と聞かれたのだろう。今回が初見である。

第二次世界大戦を挟んだ1939~1952年までのギリシャの近代史を、断片的に描いている。旅芸人一座が過酷な歴史に遭遇するのだが、誰が主人公で何を考えていて、何を成し遂げたのか、そんな通俗的なドラマとは無縁の映画だ。何しろ、切り返しで会話するような分かりやすい文法のカットは皆無で、ほとんどのシーンで人物は豆粒ほどのロング、数分間の長回しである。
さもなくば、人物のひとりがしっかりとカメラを見つめて (つまり観客と対面しながら)自分がどんな目に遭わされてきたか、えんえんと語る。話の内容はあまりにローカルなので、字幕を追っても無駄である。


ロングショットで美しいのは、旅芸人の一座が列車で駅に到着したシーンだ。
画面左手から列車がフレーム内に進入してきて、右手奥で停車する。列車から降りた一座が画面手前に歩いてくる。と同時に、画面外から、元気のいい歌声が聞こえてくる。
カメラは旅芸人一座が歩くのより早く画面左方向にPANする。すると、画面奥にたくさんの人々がパレードしているのが見える。画面をまっすぐに線路が横切り、その奥に人々が隊列をなしていて、さらに水平線が画面中央をきれいに横切っている。
続くカットで、カメラは画面奥、右手から左手にかけてパレードする人々を撮っている。先ほどのカットとは違って、画面左手にはギリシャの国旗を掲げた小さな町が映っている。パレードの人々は、ギリシャ人の誇りを称える歌を元気に歌いながら、画面手前へ行進してくる。カメラは左手にPANする。町の路地から、荷物を下げた旅芸人の一行が歩いてくる。彼らはパレードの人々に手を振ったり、笑顔で歩いてくる。やがて、一座とパレードの人々は合流して、一緒になって画面左手へ歩いていく。

どうやら、何か民族的に喜ばしい祝日らしい……程度にしか、事実関係は分からない。
だが、いかに歴史に無知であっても、画面奥から斜めに歩く旅芸人一行に比べて、きっちり水平線と並んで真横に行進している人々が何かの規律や秩序と共にあることは、構図を見れば明らかだ。パレードの人々と同じフレームに入ることで、旅芸人一座が大きな歴史の流れと出会った、歴史に飲み込まれたことと理解できる。


別の年代、別のシーン。広場にアメリカ、ソ連、ギリシャの国旗を掲げた人々が集まっている。カメラは、彼らの背後から俯瞰で集まった人々を撮っている。群集の奥では、アコーディオン奏者が演奏しており、人々は声高らかに合唱している。
Thiasos7_0ところが、一発の銃声が鳴り、人々は一斉に逃げまどう。カメラは群集を追うようにゆっくりと画面左方向にPANを始める。三つに路地が分かれており、人々は三方向に分かれて逃げていく。
そのまま、カメラは360度PANして、閑散とした広場に戻ってくる。撃たれた誰かが倒れている。アコーディオン奏者は画面中央にうずくまっている。すると、画面右手から民族衣装を着た人物がフレームインして、バグパイプを演奏しながら、まっすぐ広場を横切って、画面左手へアウトしていく。
カメラは再び、360度、ぐるりとPANを開始する。アコーディオン奏者は逃げ出すが、人々の散っていたった路地から、「イギリス帝国主義者は出ていけ」と書かれたプラカード、ソ連の旗を持ったデモ隊がぞろぞろと歩いてくる。広場は赤旗で染まる。

このカットは5分間あるが、リアルタイムで5分間の出来事を描いているとは思えない。
映画は直線で囲まれた四角いフレームでしかなく、『旅芸人の記録』では、真四角な建物、水平線、道路などがフレームと並列して収められる。まるで儀式のように、人々がフレームを真横に横切ることも多い。それは目の前で起きているドラマというより、図像を用いた象徴だ。
(調べてみると、上記カットはシンタグマ広場で起きた血の日曜日事件と、後に起きる内戦の対立図式を描いているようだ。)
カットバックで「人物の内面」を描いた分かりやすい映画に慣らされていると、ついつい映画の構造、映画のメカニズムを忘れてしまう。あるいは、気がつかないまま「人物の内面」が描かれていないと文句をつけて、自分は少しも変化しないまま硬化した価値観に埋もれてしまう。「面白くない」、「分からない」から価値がないと決めつけてしまうのだ。

特に、星五点評価とネタバレ禁止だのネタバレ注意だのは、時代・地域の異なる映画を一種類に均質化してしまう。さまざまな映画が同時に存在しているし、その価値もさまざまな角度から推し量ることが出来るはずだ。

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2018年1月 6日 (土)

■0106■

明日7日は、ひさびさにスーパーフェスティバル()に参加。いつもどおり、素組みのプラモデルを売ります。


レンタルで『偉大なるアンバーソン家の人々』。1942年の作品。
Mv5bmtg4ndu0mzgxnl5bml5banbnxkftztc確かに素晴らしいショットもあるのだが、ナレーションの多用、フェードアウトやディゾルブといった凡庸なシーン転換も多く見られる。微に入り細を穿って、徹底的に計算されたショットを特撮的に構成した『市民ケーン』には程遠い。
ちょっと調べてみたら、『市民ケーン』は興行面で失敗し、翌年の『偉大なるアンバーソン家の人々』は大幅にカットされ、ラストも勝手に変えられて公開されたのだという。黒澤明にとっての『白痴』のような苦境に立たされた映画だったのだ。

しかし、オーソン・ウェルズ監督の意図どおりに復元されたとしても、その評価はまた別のものになるだろう。トリュフォーは、「まるで『市民ケーン』を毛嫌いした別の映画作家が謙虚さの規範を示してみせたような作品」と、舌鋒鋭く辛口の評価をくだしている。


四方田犬彦『映画史への招待』を、図書館で借りてきた。第一章で、いきなりジャブをかまされた。
四方田先生は、大学の講義で学生たちに4種類のフィルムを見せたのだという。
一本目は、自分が高校時代に適当に撮った8ミリの自主映画。
二本目は、実験映画作家スタン・ブラッケージの難解な映像。
三本目は、『カサブランカ』のワンシーン。
四本目は、インド映画『プレグ・ログ』の大ミュージカルシーン。

結果、学生たちがひとりの例外もなく受け入れたのは、三本目の『カサブランカ』のみだったという。『カサブランカ』を「何の障害もなく受け入れてしまう者は、実のところ、一九一〇年代から四〇年代において古典的ハリウッドが構造化することに成功した映画の観念に、どっぷりと漬かりきっているだけである」と、四方田先生は結論づける。
「映画はかならず美男美女のスターが登場するエンタテインメントでなければならないという、ハリウッドの了解については、いうまでもない。登場人物は人格的に一貫性をもち、二人で向き合うときにはけっして真正面から撮った顔を続けて並べてはいけない。三十度か四五度か、いくぶん傾けた場所にカメラを置き、そうして得られた映像を交互に繋げていくことで、二人が見つめあっているという同時の事件を語ってみせなければならない。こうした約束ごとを定式化したのがハリウッドであって、以来その映画観は世界中を席巻してきた」。

このブログで、さんざんカットワークや構図の機能性を書き記してきたが、それは1940~60年代のハリウッド映画を起点にしている。無意識のうちに、そうなってしまっている。
これは、警戒せねばならない。


ここのところ、映画レビュー5点評価に対して「○億点」「○兆点」といった記述を続けて見かけた。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は教科書的に完成度の高い『駅馬車』をバージョンアップしたような作品だと思っているが、どうも『キック・アス』(あとはタランティーノ作品かロドリゲス作品)と並んで「ルール破りのカッ飛んだ映画」という認識が行き渡っているようだ。

それらの作品をダメだという気はなくて、呉越同舟というか、誰も彼もが同じ映画観しか持ち得ていないのではないか? それを危惧する。
インターネットは、同質性を求める。商業映画の公開がどんどんイベント化してネタ化して、滅多に観られないマイナーな映画を探したり、研究のために古い映画を求める映画ファンが減ってしまった(あるいは見えづらくなってしまった)。
高校時代、戦争映画・SF映画・アクション映画にしか興味のなかった僕は、不感症だったのだと思う。今はただ、自分を熱中させているものの正体を見極めないまま死ぬのが嫌だと思っている。

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2018年1月 4日 (木)

■0104■

【懐かしアニメ回顧録第38回】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のストーリーを前に進めるのは“セルで描かれたおいしそうな焼き肉の質感”である!()
61rvij0nyzl『栄光のヤキニクロード』は、アナログからデジタルへの過渡期の作品で、後半ではポリゴンのしんちゃんも出てくるし、ワンカットだけ手描きの背景動画ではなく、3DCGの背景もありました。その一方で、70年代のアニメのように、キャラクターが絡まないかぎりは、洋服も食べ物も美術として描いています。今なら、テクスチャを貼って質感を統一するところですが、実務的な都合から、焼き肉がセルだったり美術だったりする。
だけど、セルで描かれた肉は人間に近い、柔らかくておいしそうな感じがします。人間は必ずセルに描かれるので、セルに描かれたものは温かくて柔らかいものに見える。そこに鈍感であってはならない、すべてが脚本に描いてあるとは限らないのです。


レンタルで『無防備都市』と『映画に愛をこめて アメリカの夜』。
Mv5bndyyzdqxntitnzc1my00zji2lthlnju『無防備都市』は初見だった。ロッセリーニ映画祭で観たのは『ドイツ零年』のほうだった。それぐらい、両者は作風が異なる。ありがたいことに、レンタルDVDなのに文字による解説が入っていて、すさまじい物質不足の中で撮影されたことが分かる。ニュース映画用のフィルムを使ったそうなので、ワンカットが短いのはそのせいかも知れない。カットワークが、ちょっと白けるぐらい端正で手堅い映画だ。

それよりも重要なのは、ムッソリーニが欧州のハリウッドを目指して建設したチネチッタ撮影所が空襲で被害をこうむったため、オールロケで撮影が敢行されたこと。スタジオで撮影できないため、苦肉の策でロケしたわけだが、その逼迫した制作状況がネオレアリズモのスタイルを決定したのだろう。


しかし、プロの俳優がずらりと並び、女優はメイクを決めた美人ぞろいだ。(通りすがりの人Mv5bndm4nda5mjitytk1nc00nzfmlwfhnwe を撮るのではなく)エキストラを集めているし、カットワークもしっかりしているし、ドキュメンタリーのような生々しい迫力はない。オールロケとのことだが、ドイツ将校たちがくつろぐ大広間は、まるでセットのように広々としていて、照明もしっかり組まれている。
三年後に公開された『ドイツ零年』のほうが、敗戦国の窮乏した環境を生々しく伝え、ひとつひとつのシーンにのっぴきならない切実さが漂っていた。お金がなくて環境が悪化すると、劇映画は、ウソで固められたヴェールを脱ぎ捨てていく。セットが使えないと構図は限られてしまうし、フィルムの無駄使いを抑えようとすると、カット数を減らさざるを得ない。

『無防備都市』は戦勝国のアメリカで公開され、大評判となった。イングリッド・バーグマンは作品に惚れこんでロッセリーニに手紙を書き、映画史に残るスキャンダルを起こした。
そんな華やかな尾ひれも含めて、どうも『無防備都市』には誠実さを感じられないんだよなあ……。


『アメリカの夜』は大学時代に観て、かなり好感をもった映画だ。
Mv5bmjqyogzmmjitzdhmnc00ndezlwfhytgトリュフォーは、『大人は判ってくれない』『ピアニストを撃て』で映画を街中に解き放つと同時に、熱烈なシネフィル、優れた評論家としても活躍を続けた。彼はロケ撮影を好んだが、その一方でセットを組んでフィルターで昼間の風景を夜にする「映画のウソ」への偏愛を隠さなかった。『アメリカの夜』で撮られる劇中劇は、街をまるまるひとつ作ったセット、雇われたエキストラたち、消防車を動員した雪の再現など、バカバカしいまでに大仕掛けなハリウッド式の劇映画をなぞっている。
処女作『大人は判ってくれない』でデビューしたジャン=ピエール・レオも出演しているし、トリュフォーの創作・言論活動の集大成のような映画だ。

小道具係の持ってきたネコが言うことを聞かず、有能な衣装係が別のネコを調達してくる。画面は、ネコを撮影している“カメラの主観カット”となり、画面外から「ピントが外れたぞ」など撮影スタッフの声が入る。映画は、意図とメカニックによって成立している。
だが、劇映画の構造を“劇映画の形のまま”あけすけにしたのがゴダールであり、初期のトリュフォーだった。あの過激さは、十数年をへた『アメリカの夜』には見られない。
トリュフォーが十数年の間、何をしていたのか、敷衍するような映画だと思う。分かりやすく噛み砕いたから、世界で大ヒットした。20歳そこそこの僕でも、理解できたのだ。

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2018年1月 1日 (月)

■0101■

レンタルで『ゴダールの決別』と『007 スカイフォール』。
Photo『ゴダールの決別』の主演は、なんと前年に『1492 コロンブス』に出ていたジェラール・ドパルデューである。そんなメジャー大作に出ていた俳優が、ゴダールの難解な映画に出てしまうギャップが凄い。というより、こんなに意味不明の『ゴダールの決別』が商業映画であることに何より驚かされた。
『気狂いピエロ』から30年ちかく経過した1993年の作品だが、基本的に作風は変わりがない。
シーンの途中だろうと何だろうと、無作法に挿入される黒字に白の文字列。画面外から聞こえてくる、その場の状況と関係あるようなないような哲学的なナレーション。カメラの位置や動きを意識して動いたり止まったりする不自然な演技の俳優たち。つながらないショットとショット。しかし、湖畔の風景や女優は美しく撮られていて、まったく飽きない。
何かに似ていると思ったら、『化物語』にそっくりだ。


『ゴダールの決別』では、「この男優とこの女優は夫婦を演じている」「ある日、夫に異変が起きた」……など、劇中の筋書きは確固として存在する。しかし、劇とは関係なくナレーションが進行し、画面外から乱入する断片的なセリフによって、劇の進行は大きく乱される。
映画における劇、お話は、バラバラに撮られたショットを分かりやすく並べてあるから観客に理解可能なのであって、ショットひとつひとつは意味を持たない。ショットを分かりやすく組み立てないと、お話などあっさり空中分解してしまう。劇映画の脆弱さを、ゴダールは暴きつづける。

僕が学生のころはミニシアターが増えていた時期で、ゴダールの映画はちょっとしたブームになっていた。自主制作の8ミリ映画でも、ゴダールのように切れ切れのショットを、難解なセリフで繋いだ作品が散見された。
ヌーヴェル・ヴァーグによって、映画は解放された。ゴダールやトリュフォーの気ままな撮り方は、商業映画の中で希釈され、浸透していった。たとえば、岩井俊二や是枝裕和のロケ重視のラフな撮影方法は、ヌーヴェル・ヴァーグに根拠を求めることができる。口あたりよく薄められているから、鈍感な僕らはついつい見過ごしてしまうのだ。


『007 スカイフォール』にしても同じことであって、ヌーヴェル・ヴァーグの片鱗が見られない代わりに、絵コンテでサスペンス・シーンを効率的に組み立てるヒッチコックの撮り方、あるいはオーソン・ウェルズのように画面に何かを象徴させたり、構図で展開を暗喩したり……といったクラシカルな演出は、現在の娯楽映画の中にも薄められて紛れこんでいる。
愚鈍な僕らは、目の前のショットの連なりを見ずに、ショットの組み立てによって伝えられるストーリーの中に浸って、その中で起きた(ように製作者が見せている)出来事についてしか発言しない。これは、怠慢である。

冒頭のバイク・チェイスのシーンを見てみよう。
Mv5bmtm4mjc4oduxnf5bml5banbnxkftztc 悪役の乗ったバイクを、ダニエル・クレイグ演じる007が追いかける。ワンショットの中で、画面右から左へ走っている。ところが、悪役はトラックに道をふさがれてバイクを急停止させる。次のショットで、バイクは左から右へ、建物の階段を駆け上がる。ずっと画面右から左へ走っていたはずのバイクが、急に逆方向へ走る画が入るので、ちょっとギクシャクする。
だが、そのショット以降は街中ではなく建物の屋上でバイクを走らせる、つまり新たなシーンへ展開するので、逆方向の絵が入ったほうがいい。走る向きが変わるときには、必ずキーとなるような、あるいはクッションとなる画が入っている。……いま、確認のためにスローで再生したら、ちょっと編集が荒いことに気がついた。同じアクションを重ねてしまって、部分的に流れが悪くなっている。

ようするに、劇映画は、ひとつひとつのショットを編集者が判断して繋いでいるわけで、意図的に情報が組み立てられているのだ。僕らはその作為を無視して、いきなり「バイク・チェイスがカッコよかった」「いや、あのシーンは余計だ」とか、ストーリーの内部の話題から入る。それは、眠ったまま夢の話をしているようなものだ。


と偉そうに言ったものの、『007 スカイフォール』を観たキッカケは、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』とよく似ている、と聞いたからだ。何が似ているかといえば、ストーリーを構成する要素が似ている。
Mv5bmtfjndrjm2qtyzbhny00otm2ltkyzde『007』シリーズも23作目、スパイ合戦だのペン型爆弾だの、60年代は斬新だったアイデアが古くなってしまった。『スカイフォール』は、シリーズを存続させる意義に自己言及して、ストーリーの存立基盤であるイギリス秘密情報部を解体する話まで出てくる。ジェダイ騎士団の存在価値を疑った『最後のジェダイ』と、確かによく似ている。 
面白い/面白くないといったレベルの話ではない。劇映画の体裁を使ったシリーズ論なのだから、その領域で評価せねばならない。

『007』シリーズを頭からちゃんと観たことは一度もないのだが、『スカイフォール』がシリーズのマンネリ化と誠実に向き合っていることは、よく理解できた。『スター・ウォーズ』も『007』も、アイデアやルックスを新しくすればするほど、シリーズを継続する意義を問われる。したがって、『スカイフォール』のクライマックスでは懐かしのアナログ兵器に活躍の場が与えられ、かろうじてのアイデンテイティを保つ。
「ただの娯楽映画なのだから、楽しめたか楽しめなかったかだけで判断すればいい」という態度は僕は嫌い。なぜ楽しめたのか、その理由を知らないまま死にたくない。

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