■0126■
モデルグラフィックス 2018年 03 月号 発売中●組まず語り症候群 第62回
今回は、クリアパーツにメッキを施し、その上から部分塗装までされた「輝羅鋼」パーツを紹介するため、連載5年目にして初のカラーページとなりました。
今号の77ページに、かねてから聞かされていたハン・ソロとルークの頭部塗装済みキット(■)も紹介されています。完成品フィギュアで使われている技術の転用らしいのですが、組み立てキットに応用されると「タブーを侵している」ように受け取られる点が面白いです。
組み立てと塗装は別の楽しみなのに、「模型は塗るもの」という固定観念が強すぎたんじゃないでしょうか。僕は誰が組んでも同じ成果が得られるプラモデルの民主化、大歓迎です。
■
『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』、3度目の鑑賞。「もう十分だ、もう分かった、終わりにしよう」と思いながらも、あと一週間しか上映しないらしいので、すでに4度目を観るつもりになっている。
Twitterでは、主役の斉天大聖に恋する女性ファンが相次ぎ、ようやく盛り上がってきたのに……本当に、もったいない。『マイマイ新子と千年の魔法』のように、第二のウェーブを起こすにはどうしたらいいのか、考えてしまう。
『西遊記』というメインタイトルが、あまり良くないのかなとも思う。ファンの人たちが「ヒーロー・
イズ・バック」と、サブタイトルで呼びたがる気持ちはよく分かる。『西遊記』なら子供の頃に見たよ、知ってるよと敬遠されてしまうのかも知れない。せめて英文タイトルに準じて『モンキー・キング』という邦題なら、もっと新鮮な、クールな印象を与えられたのではないだろうか。
また、ディズニー&ピクサーやドリームワークスのような米国のCGアニメと比較され、それらに追いつくべき発展途上の作品と誤解されがちな点でも損をしている。パンフレットを読めば分かるが、『ヒーロー・イズ・バック』は「黄色い白人(外見はアジア人だが中身は白人同様の華人)」の演技にならないよう、かなり苦心しているし、工夫もしている。キャラクターの造形と質感はもちろん、背景の透明感、シズル感は欧米のアニメでは決して見られないものだ。曖昧さを残した繊細な感情表現も……。
『西遊記』と冠しておきながら、ほぼオリジナルな展開である点からも、作家本位の「尖った作品」なのだと思う。やはり、単館でのレイトショーが似合っている。
(中国でも、最初は田舎の小さな劇場一館のみで公開された。)
■
さて、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』日本語版の主演声優である咲野俊介さんの仕事を見たくて、『テッド2』を借りてきた。前作は、原語版で映画館で鑑賞している。咲野さんはテッドではなく、『フラッシュ・ゴードン』オタクのマーク・ウォールバーグの吹き替え担当。最初から最後まで、まんまと面白かった。
ところで、僕らはジャージャー・ビンクスを毛嫌いするくせに、なぜテッドの存在を許せるのだろう? 『テッド2』のクライマックスはコミコン会場で、多数のコスプレ・キャラが登場する。それらは俳優が着ぐるみをまとって演じているが、テッドはCGキャラだ(なのに「今日は三度もイウォークに間違われたよ」とぼやくところが粋なのだが)。
俳優はフィルムに記録されたものだが、CGキャラは後から付け足されたものだ。実物を記録したものではない。しかし、誰もテッドを「本物ではない」などとは攻撃しない。
むしろ、僕らはCGキャラが俳優と会話する違和感を積極的に楽しんでさえいる。「ぬいぐるみが勝手に動くわけがないから、何かのトリックを使わねば成立しない」と、どこかで自分を納得させている。『テッド』を観る上でCGキャラを受け入れるのは、いわば映画の提出した議定書にサインすること、映画と協定を結ぶことなのだ。
■
だが、『テッド2』は観客との約束事に甘んじることなく、周到に外堀を固めている。ラストカットは主人公たちの暮らす建物からカメラがトラックバックしていくのだが、このショットは丸ごとCGで作成されている。ファーストカットはユニバーサルのロゴから地球へ、さらに教会までワンカットで寄るので、やはりCGだ。
最初と最後のカットをCGで作成して、ブックエンドのように映画全体をCGでサンドイッチしてリアリティを相殺している。儀礼的な構造だし、何よりも品がいい。下品なジョークの応酬にも関わらず、理性的な映画なのだ。
(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)Tippett Studio/Universal Pictures and Media Rights Capital
| 固定リンク
コメント