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2018年1月 6日 (土)

■0106■

明日7日は、ひさびさにスーパーフェスティバル()に参加。いつもどおり、素組みのプラモデルを売ります。


レンタルで『偉大なるアンバーソン家の人々』。1942年の作品。
Mv5bmtg4ndu0mzgxnl5bml5banbnxkftztc確かに素晴らしいショットもあるのだが、ナレーションの多用、フェードアウトやディゾルブといった凡庸なシーン転換も多く見られる。微に入り細を穿って、徹底的に計算されたショットを特撮的に構成した『市民ケーン』には程遠い。
ちょっと調べてみたら、『市民ケーン』は興行面で失敗し、翌年の『偉大なるアンバーソン家の人々』は大幅にカットされ、ラストも勝手に変えられて公開されたのだという。黒澤明にとっての『白痴』のような苦境に立たされた映画だったのだ。

しかし、オーソン・ウェルズ監督の意図どおりに復元されたとしても、その評価はまた別のものになるだろう。トリュフォーは、「まるで『市民ケーン』を毛嫌いした別の映画作家が謙虚さの規範を示してみせたような作品」と、舌鋒鋭く辛口の評価をくだしている。


四方田犬彦『映画史への招待』を、図書館で借りてきた。第一章で、いきなりジャブをかまされた。
四方田先生は、大学の講義で学生たちに4種類のフィルムを見せたのだという。
一本目は、自分が高校時代に適当に撮った8ミリの自主映画。
二本目は、実験映画作家スタン・ブラッケージの難解な映像。
三本目は、『カサブランカ』のワンシーン。
四本目は、インド映画『プレグ・ログ』の大ミュージカルシーン。

結果、学生たちがひとりの例外もなく受け入れたのは、三本目の『カサブランカ』のみだったという。『カサブランカ』を「何の障害もなく受け入れてしまう者は、実のところ、一九一〇年代から四〇年代において古典的ハリウッドが構造化することに成功した映画の観念に、どっぷりと漬かりきっているだけである」と、四方田先生は結論づける。
「映画はかならず美男美女のスターが登場するエンタテインメントでなければならないという、ハリウッドの了解については、いうまでもない。登場人物は人格的に一貫性をもち、二人で向き合うときにはけっして真正面から撮った顔を続けて並べてはいけない。三十度か四五度か、いくぶん傾けた場所にカメラを置き、そうして得られた映像を交互に繋げていくことで、二人が見つめあっているという同時の事件を語ってみせなければならない。こうした約束ごとを定式化したのがハリウッドであって、以来その映画観は世界中を席巻してきた」。

このブログで、さんざんカットワークや構図の機能性を書き記してきたが、それは1940~60年代のハリウッド映画を起点にしている。無意識のうちに、そうなってしまっている。
これは、警戒せねばならない。


ここのところ、映画レビュー5点評価に対して「○億点」「○兆点」といった記述を続けて見かけた。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は教科書的に完成度の高い『駅馬車』をバージョンアップしたような作品だと思っているが、どうも『キック・アス』(あとはタランティーノ作品かロドリゲス作品)と並んで「ルール破りのカッ飛んだ映画」という認識が行き渡っているようだ。

それらの作品をダメだという気はなくて、呉越同舟というか、誰も彼もが同じ映画観しか持ち得ていないのではないか? それを危惧する。
インターネットは、同質性を求める。商業映画の公開がどんどんイベント化してネタ化して、滅多に観られないマイナーな映画を探したり、研究のために古い映画を求める映画ファンが減ってしまった(あるいは見えづらくなってしまった)。
高校時代、戦争映画・SF映画・アクション映画にしか興味のなかった僕は、不感症だったのだと思う。今はただ、自分を熱中させているものの正体を見極めないまま死ぬのが嫌だと思っている。

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