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【懐かしアニメ回顧録第38回】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のストーリーを前に進めるのは“セルで描かれたおいしそうな焼き肉の質感”である!(■)『栄光のヤキニクロード』は、アナログからデジタルへの過渡期の作品で、後半ではポリゴンのしんちゃんも出てくるし、ワンカットだけ手描きの背景動画ではなく、3DCGの背景もありました。その一方で、70年代のアニメのように、キャラクターが絡まないかぎりは、洋服も食べ物も美術として描いています。今なら、テクスチャを貼って質感を統一するところですが、実務的な都合から、焼き肉がセルだったり美術だったりする。
だけど、セルで描かれた肉は人間に近い、柔らかくておいしそうな感じがします。人間は必ずセルに描かれるので、セルに描かれたものは温かくて柔らかいものに見える。そこに鈍感であってはならない、すべてが脚本に描いてあるとは限らないのです。
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レンタルで『無防備都市』と『映画に愛をこめて アメリカの夜』。『無防備都市』は初見だった。ロッセリーニ映画祭で観たのは『ドイツ零年』のほうだった。それぐらい、両者は作風が異なる。ありがたいことに、レンタルDVDなのに文字による解説が入っていて、すさまじい物質不足の中で撮影されたことが分かる。ニュース映画用のフィルムを使ったそうなので、ワンカットが短いのはそのせいかも知れない。カットワークが、ちょっと白けるぐらい端正で手堅い映画だ。
それよりも重要なのは、ムッソリーニが欧州のハリウッドを目指して建設したチネチッタ撮影所が空襲で被害をこうむったため、オールロケで撮影が敢行されたこと。スタジオで撮影できないため、苦肉の策でロケしたわけだが、その逼迫した制作状況がネオレアリズモのスタイルを決定したのだろう。
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しかし、プロの俳優がずらりと並び、女優はメイクを決めた美人ぞろいだ。(通りすがりの人
を撮るのではなく)エキストラを集めているし、カットワークもしっかりしているし、ドキュメンタリーのような生々しい迫力はない。オールロケとのことだが、ドイツ将校たちがくつろぐ大広間は、まるでセットのように広々としていて、照明もしっかり組まれている。
三年後に公開された『ドイツ零年』のほうが、敗戦国の窮乏した環境を生々しく伝え、ひとつひとつのシーンにのっぴきならない切実さが漂っていた。お金がなくて環境が悪化すると、劇映画は、ウソで固められたヴェールを脱ぎ捨てていく。セットが使えないと構図は限られてしまうし、フィルムの無駄使いを抑えようとすると、カット数を減らさざるを得ない。
『無防備都市』は戦勝国のアメリカで公開され、大評判となった。イングリッド・バーグマンは作品に惚れこんでロッセリーニに手紙を書き、映画史に残るスキャンダルを起こした。
そんな華やかな尾ひれも含めて、どうも『無防備都市』には誠実さを感じられないんだよなあ……。
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『アメリカの夜』は大学時代に観て、かなり好感をもった映画だ。トリュフォーは、『大人は判ってくれない』『ピアニストを撃て』で映画を街中に解き放つと同時に、熱烈なシネフィル、優れた評論家としても活躍を続けた。彼はロケ撮影を好んだが、その一方でセットを組んでフィルターで昼間の風景を夜にする「映画のウソ」への偏愛を隠さなかった。『アメリカの夜』で撮られる劇中劇は、街をまるまるひとつ作ったセット、雇われたエキストラたち、消防車を動員した雪の再現など、バカバカしいまでに大仕掛けなハリウッド式の劇映画をなぞっている。
処女作『大人は判ってくれない』でデビューしたジャン=ピエール・レオも出演しているし、トリュフォーの創作・言論活動の集大成のような映画だ。
小道具係の持ってきたネコが言うことを聞かず、有能な衣装係が別のネコを調達してくる。画面は、ネコを撮影している“カメラの主観カット”となり、画面外から「ピントが外れたぞ」など撮影スタッフの声が入る。映画は、意図とメカニックによって成立している。
だが、劇映画の構造を“劇映画の形のまま”あけすけにしたのがゴダールであり、初期のトリュフォーだった。あの過激さは、十数年をへた『アメリカの夜』には見られない。
トリュフォーが十数年の間、何をしていたのか、敷衍するような映画だと思う。分かりやすく噛み砕いたから、世界で大ヒットした。20歳そこそこの僕でも、理解できたのだ。
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