« 2017年11月 | トップページ

2017年12月13日 (水)

■1213■

レンタルで、クロード・シャブロルの『いとこ同士』。
Mv5by2zkn2u2ytitodnlyi00ywnilwjmmjiヌーヴェル・ヴァーグの先陣を切ったといわれる作品だが、後に続くトリュフォー、ゴダールとはずいぶんな違いがある。図書館で借りてきた『ヌーヴェルヴァーグの現在』には、「ロメール、リヴェット、シャブロル そして彼らの後継者たち…」と表紙に書かれており、トリュフォーとゴダールは含まれていない。
『いとこ同士』を見てびっくりしたのは、あまりにカッティングが明晰かつ的確で、『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』のように、カットとカットの間で芝居がダブって繰り返されたり、あるいは同一カットの中で芝居を飛ばしたり止めたり……といった奔放さがないこと。あの初々しい素人くささがない。


『いとこ同士』で印象的なのは、ジュリエット・メニエルの演じる、2人の男の間を渡り歩くヒロインだ。
Mv5bnwm1ntcyodgtodrimc00odc2ltkwz_2ヒロインは二度、妖しい登場のしかたをする。左のスチールは、二度目の登場カットだ。
もちろん、思わせぶりな女優の表情も魅力的なんだけど、扉の陰から入ってきて、無言で歩く様をカメラがPANで追っている。ゆっくりと追うので、ミステリアスな雰囲気が出る。
照明は、最初は右後ろから、つづいて左前から当てられる。PANの途中で、一瞬、彼女の顔はほぼ闇に沈む。ライティングの設計によって、余計に神秘的なイメージが増すわけだ。
彼女にうっとりと見とれる男優の顔をインサートするのも「効果的な」演出なのだが、そんな「機能的な」カットワークを蹴り飛ばしたところにヌーヴェル・ヴァーグの価値があるんじゃないのか? どうも、僕が勉強不足だったようだ。


当時、ヌーヴェル・ヴァーグを生み出した評論誌カイエ・デュ・シネマでは、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』派、フェデリコ・フェリーニの『道』派に分かれて論争があったそうだ。シャブロルは「ロッセリーニ主義者としての影は薄く、何よりもヒッチコック主義者だったようだ」と、『ヌーヴェルヴァーグの現在』には書かれている。
それを読むと、『いとこ同士』の全体を貫く「機能的な」演出にも納得がいく。あらゆるカット割りやカメラワークが劇、ドラマ、ストーリーの伝達に追従している。でも、そうした技術は観客の視界を「劇」の中に埋没させる一方であって、ヒッチコックがやり尽くしたことじゃないか。

僕は、「劇」そのものを評価することには興味がもてない。「劇」はいかにして成り立っているのか? フレームの外で、カットとカットの間で何が起きているのか? 映画の余白に、映画そのもので切り込んだのが『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』ではないだろうか。


試写で観たCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』()。
Ph12_2取材を申し込んで返事を待っている最中なので、あまりネガティブなことは言いたくないのだが、前売り券は「親子ペア券」のみ。上映は一週間限定という過酷な状況のようだ。『マイマイ新子と千年の魔法』が、まさに親子向けに宣伝され、3~4週間でファースト・ランを終えてしまった8年前を想起せずにおれない。
公式サイトには動画が一本もなく、日本語版吹き替えキャスト名すら記載されていない。Twitterアカウントは、決して点数が高いとはいえないレビューサイトをリンクさせてしまうし、これでは宣伝が映画を殺しにかかっているようなものだ。

『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』は、海外の二次創作を見れば分かるんだけど、実はBL好きの女性の皆さん向けでもある。孫悟空もオリジナルの悪役“混沌”も、二枚目だから。その2人がリュウアーという少年を奪い合うんだから、そりゃあ二次創作も描きたくなるでしょうよ。
そっち方面にリーチできていないのが、本当に、本当にもったいない。親子ペア券で観に行くとしたら、お母さんがときめくような映画なんですよ。もちろん、アニメからクールな中年キャラが消えてしまったとお嘆きのお兄さんたちにも。
「CGアニメだから子供向け」って……あまりに視野が狭すぎる。BL好きの皆さん、この傑作を救ってくださいと、かなり本気で願ってます。

(C)2015 October Animation Studio,HG Entertainment


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月11日 (月)

■1211■

アニメ業界ウォッチング第40回:美術監督・秋山健太郎が語る「はいからさんが通る」の美術の秘密、手描き背景の面白さ
T640_746299『輪るピングドラム』、『惡の華』でインタビューさせていただいた秋山健太郎さんに、三度目の取材をお願いしました。
『はいからさんが通る』はそろそろ上映が終わりそうですが、背景は見る価値があります。

GoodsPress 2018年 01月号 発売中
特集『傑作品 GP AWARD 2017 ベストバイ』の「プラモデル部門」で、コメントしています。
文章は編集部が書いたものですが、僕からはバンダイ「1/72 ミレニアム・ファルコン」とタミヤ「1/6 Honda CRF1000L アフリカツイン」を推しておきました。


レンタルで、『気狂いピエロ』。1965年のゴダール作品。
Mv大学時代に見たはずだが、「主人公が観客に話しかける」「ダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する」など断片的な、どこででも言及されているシーン以外、まったく覚えていなかった。
本に書かれていたことを鵜呑みにして分かった気になる、これは初歩的なミスだ。

図書館で『ヌーヴェルヴァーグの現在』を借りてきて斜め読みしてみたら、“映画の二つ目の真実は「記録」である”という言葉に行き当たった。
「記録」を手がかりにしつつ、またゴダールがドキュメンタリー映画を撮っていたことを念頭に置くと、彼は劇映画ではなく「劇映画が撮影されている状態」を記録していたのかも知れない。ゴダールの作品は「シュールな劇映画」と理解されがちだが、劇映画をつくっていく過程を記録しようとした結果、シュールに見えてしまうだけではないのか。


それまでの映画は、スタジオの中に擬似的な現実をつくり、カットを割ることで時間を再構成して「劇」を成り立たせていた。今のハリウッド映画も、CGを使いながら「劇」に説得力を持たせようとしている。映画批評は、すなわち「劇」への評価になりかわってしまった。

だが、ゴダールはスタジオを抜け出し、街の中で「劇を演じている現実」を記録しようとしたんだ。そのため、カットを割ることをほとんどしない。人々は、撮りやすいように壁を背にしてカメラのほうを向いて会話する。殺人シーンが多く出てくるが、なんと手で突き飛ばされただけでパタリと倒れて死んでしまう。
登場人物の死を伝えるだけなら、それで十分なはずだ。特殊メイクをほどこしてシーンに技巧をこらし、あの手この手で「リアリティ」を与えて観客を騙すより、よほど誠実かも知れない。映画は作り物であっても、「映画を作ること」は赤裸々な現実なのだ。

なのに、若い僕たちは「感性」とやらでゴダールを好きだとか嫌いだとか言い合っているだけだった。「感動した」「号泣した」「心が温かくなった」式の映画批評も、作品と誠実に向き合っているとは言いがたい。
映画が、いかに巧みに「嘘」を構築しているか。そこに目を向けねばならない。嘘そのものではなく「構築」「構造」を評価せねばならないのだ。


NHKから、受信料の督促状が届いた。「受信料制度についての理解促進活動」→「文書・電話・訪問などによるお支払いのお願い」→「裁判所を通じた法的手続きの実施」と刷られている。
僕は文書と無礼きわまる訪問は受けたが、最初の「受信料制度についての理解促進活動」、これを受けた記憶はまったくない。理解できれば、僕は喜んで受信料を払う。集金請負業者からは「ここで個人情報をバラしてもいいんですか?」とマンションの廊下で怒鳴られ、ドアを開けないでいたら電話がかかってきて、無言のまま切られた。
さすがにNHKにクレームを入れたが、一言のお詫びもない。お詫びがないまま、「裁判所を通じた法的手続きの実施」をちらつかせる、その脅迫的態度には抵抗せざるを得ない。

払いたくないというより、脅迫に屈したくないだけだ。

(C)1965 - SNC

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 7日 (木)

■1207■

〈物語〉Febri  発売中
Dp9c1pnumaa_wb3●Febri Art Style
本誌と同じように、美術監督へのインタビュー+美術ボードで記事を構成しています。
今回は、〈物語〉シリーズのほとんどの美術を担当された飯島寿治さんへの取材で、『偽物語』の放送直前以来、5年ぶりのインタビューとなりました。美術ボードは本誌より多く、計6ページ掲載しています。


昨日は、来月公開のCGアニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会へ。
Photoこの映画、ネットでPVを見てから国内公開を心待ちにしていた。2017年公開予定と聞いたきり新たな情報が出てこないまま、今年4月のオーストラリア行きの機内で原語バージョンを観ることができた。
単純明快なプロットに、どこか屈折した、生きることに飽いたようなニヒルな中年ヒーロー。崖だらけの地形を縦横に生かした、乗り物酔いしかねないほど自由闊達、融通無碍なアクションにつぐアクション、アクション、アクション! 3D映画は嫌いだが、これは3Dで見てみたい。試写室の小さなスクリーンでは、ぜんぜん物足りない。
タイトルから『西遊記』のアニメ化だと勘違いする人が多そうだが、孫悟空と猪八戒のキャラクターだけを拝借した、オリジナル・ストーリーである。天竺まで行く旅ではない。

誤解されるのを覚悟で言うなら、『ルパン三世』が『ドラゴンボール』の世界で大暴れするような感じ。殴られるたび、何十メートルも飛んでいって地面にめり込むとか、かめはめ波みたいなビームを撃って、よけると岩が砕け散るとか、どこかで見たような演出センスが気持ちいい。あと30分ほどアクションを足して、2時間の映画にしても良かったのに。
口を開けば不満ばかり出てくる疲弊気味の孫悟空を、咲野俊介さんが魅力たっぷりに演じている。来月13日公開、お忘れなく。


帰宅してから、『LOGAN/ローガン』。
Logan_2017_highonfilmsスチールの雰囲気から、勝手に『都会のアリス』のヒーロー版だろうと推測していたのだが、とんでもない。奇声を発しながら大人の男に飛びかかり、両手の爪でめった刺しにする少女の暴力はショッキングだが、そうしないと生き残って来られなかった不遇な立場の表明ともなっている(本作は、映倫審査でR15指定)。
舞台は、テキサス州のメキシコ国境からノースダコタ州のカナダ国境まで。人身売買され、ミュータントに改造されたヒスパニック系の少年少女たちが国境を越えていく。驚いたことに、まだ12歳のヒロインは、スペイン語で話す。改造されたのはアメリカ国民ではなく、メキシコ出身の子たちばかりなのだ。この凄惨なまでにリアルな設定。


メジャー会社のアクション映画は日本語吹き替えで見るようにしている。ヒロインのスペイン語はさすがに原語のままかと思ったら、なんと12歳の子役が吹き替えしていた()。
640_1『Xメン』シリーズの第一作が公開された17年前は、友人で映画監督だった須賀大観が、推薦の言葉を新聞広告に載せたりしていた。ヒーロー物にここまでのリアリティを持たせられるのかと感心したものだったが、現実感を出そうとしすぎると、こうまで過酷になってしまうのか。

ヒーローたちは「映画の登場人物」ではなく、その後の運命や若いころの体験を根掘り葉掘り暴かれる「キャラクター」として消費されるようになってしまった。『スター・ウォーズ』に新シリーズが予定され、テレビシリーズまで企画されるのは「キャラクター」の保有数が多いからだろう。物語上の要請ではない。
ヒーローだけじゃない、『ダンケルク』に登場した飛行機だって、「キャラクター」扱いされて、映画本編とは切り離されて評価された。


NHK受信料の合憲判決が、ネットを騒がせている。
僕が夜中にテレビをつけっぱなしにして寝るのは、YouTubeで雨や波の音を聴くため。地震速報や天気予報は、スマホから得られる。
テレビの役割、情報の質は激変した。利権を得つづけたい人たちが、鈍感なふりをしているだけ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 4日 (月)

■1204■

ゴダールが、1958年に公開されたベスト・フィルムとして選んだ『悲しみよこんにちは』。レンタルで。
14606787_sx540_現在のシーンをモノクロ、回想される海辺の別荘のシーンをテクニカラーで撮影している。色、特に登場人物たちの衣装が美しくて、画面に釘づけになってしまった。淡い色のシャツやドレスばかりなんだけど、ふわっとした中間色を使っている。

主演のジーン・セバーグは真っ赤な水着をまとって鮮烈に登場して以降、ほぼ全シーン、違う衣装で登場する。
回想シーンの明るい衣装に比べて、悲劇が起きたあとの現在のシーン(モノクロ撮影)で、セバーグは真っ黒なドレスを着ていることに気づかされる。そのしっとりした黒の落ち着き具合が、また美しい。

カメラの動きも、素晴らしいものだった。人物の動きをなめらかに追って、常にベストな構図を維持している。俳優の動きとカメラの動きが、エロティックなほど濃密にシンクロしている。
特に、ジーン・セバーグが自ら仕組んだトラップに父親が引っかかり、彼が浮気をしている現場を目撃するシーン。ロングで2人の人物を撮っているだけの単調な構図のはずなのだが、カメラの動きが妖しいほどに優雅で、あまりにも品のいい撮影テクニックに陶酔させられた。


もっと詳しく解説したいんだけど、『悲しみよこんにちは』の面白さを裏づけているのは、この映画を見て感激したゴダールが、翌年に『勝手にしやがれ』を撮ったってこと!

『勝手にしやがれ』はプリ・プロダクション段階だったそうだけど、ジーン・セバーグに出演依頼したのは『悲しみよこんにちは』で魅了されたから。
だけど、『悲しみよこんにちは』はテクニカラーでシネマスコープ。その仕様だけで、超大作です。とても贅沢な企画。カメラの動きが良いということはドリーやクレーンなどの機材を現場に持ち込んで、リハーサルを繰り返すゆとりがあったということ。
それなのに、ゴダールは優雅なカメラワークと丁寧なカッティングを目の当たりにしながら、どうして『勝手にしやがれ』のような「思いつきでカメラを回す」「ワンショットの中でカットを割ってしまう」なんて荒技を、平然とやれのだろうか!?

自らの絶賛した映画を自らぶっ壊すような、愚弄してションベンを引っかけるようなデタラメな映画を、わざわざ同じ女優を主演にして撮っている!
その無神経さ・図々しさと背中合わせの勇気と大胆さに、ひたすら敬服するよね。カッコいいのかバカなのか、よく分からない。


皆さん、映画を観て感激したり人生が変わったり、いろいろあると思いますが……、断言してもいい。『悲しみよこんにちは』を観たゴダールが『勝手にしやがれ』を撮らなかったら、映画は今のようにバラエティ豊かになっていなかったはず!
ゴダールは批評家だったから、映画を批評することって、こんなに破天荒な歴史的発明を生むんだって証明できたと思う。少なくとも、18歳ごろから無作為に映画を観てきて、『勝手にしやがれ』→『悲しみよこんにちは』のコンボほど興奮したことってないなあ……。

やっぱり、映画ってモンタージュ理論の確立された無声映画時代に一度、そしてトーキーになって黒澤明やヒッチコックが活躍した50年代に一度、少なくとも二度は完成を迎えているんだよ。撮影所の中で、プロたちの手によって。
厳格なロジックと潤沢なバジェットに支えられたプロの映画をぶっ壊して、素人に開放したのがヌーヴェル・ヴァーグでしょう! クロード・シャブロルやエリック・ロメールもジャック・リベットも見ないといかんよなあ……今さらだけど。
若いころは50年代の映画を無視して、いきなりロメールだけ観ていたからね。

「○○監督の新作が」とか、「□□シリーズの続編が、リブートが」って話題より、1960年前後にどんな破壊と創造がもたらされたのか、そっちの方がケタ違いにエキサイティングだね。今の僕にとってはね。
(C)1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月 3日 (日)

■1203■

レンタルで、ゴダールの『勝手にしやがれ』。在庫の多いTSUTAYAでも、ゴダールの劇映画は3本ぐらいしか見当たらなかった。『勝手にしやがれ』は、昨年デジタル・リマスター版が公開されたせいか、新訳となっていた。
Mv5bmtuzodc1ndawn15bml5banbnxkftztc大学時代に見て以来、約30年ぶり。案の定、ラストシーンぐらいしか覚えていなかった。
1960年、ゴダール初の劇映画。トリュフォーが原案なので、急展開する無理やりなサスペンスと、甘ったるい会話と女優の美しさに頼ったロマンスは『ピアニストを撃て』(1956年)に、よく似ている。大学のころは、その辺りの文脈は飛ばして、「最低でもゴダールとトリュフォーは見ておかないと友だちに笑われる」程度の認識だったからね。

こんな素人が撮ったようなデタラメな映画が、ちゃんと吹き替えされて地上波で放映されたなんて、日本の映画文化はヌーヴェル・ヴァーグをどのように受容していたのか気になる。
僕が子供のころ、両親が新聞のテレビ欄を見ながら「今日の洋画は何?」といった会話をかわしていて、商業映画の消費のされ方自体、現在よりアバウトだった気がする。


『勝手にしやがれ』は、ジーン・セバーグのキュートさもあいまって、まんまと面白かった。
適当な長回しで撮っておきながら、あちこちでカットを切っているのため、「会話は続いているのに絵が繋がっていない」という不条理な事態に陥っている。そのカットに流れている30秒は、現実の30秒とは違う。

ゴダールは『勝手にしやがれ』の前にドキュメンタリー映画を撮っているし、乱暴に言うなら、ドキュメンタリーの手法で劇映画を撮ったのがヌーヴェル・ヴァーグと言えるかも知れない。
エキストラを使っていないから、街中のシーンでは、通行人がカメラのほうを振り返る。ドキュメンタリーなら当たり前の光景だが、劇映画でカメラの存在がバレてしまうのは致命的失敗のはず。映画の構造が露呈してしまうのを、まったく恐れずにやってしまったから、ヌーヴェル・ヴァーグは過激だし、批評的でもあった。


冒頭に「B級映画会社モノグラム・ピクチャーズに捧ぐ」の一文が映る。ゴダールが批評家以前に、強烈なシネフィルであったことが分かる。一時期のタランティーノのように、映画文化そのものを好きだったんだろうな。
ジャン=ポール・ベルモンドが、映画館の前で立ち止まる。ハンフリー・ボガートの写真が飾られていて、ベルモンドは写真と同じような顔つきをする。そのシーンは、ベルモンドの演じる主人公がボガートの顔真似をしている、それだけのシーンなのだろうか? 過去の有名な映画俳優だって、きっとこうやってカメラの前で表情をつくっていたに違いない。映画って作り物なんだよ、だから愛しいんだよとでも言いたそうに、僕は感じた。

ヌーヴェル・ヴァーグ以降、ドキュメンタリックな撮り方をする劇映画は激増するけど、批評性や映画文化への偏愛がないんだよな。主演女優への私情たっぷりの傾倒ぶりとか。『勝手にしやがれ』は60年経った今でも、まぶしいぐらいに初々しい。


12月は、仕事はそこそこ。映画も観られるしワインも飲めるし(二日酔いしないし)、いい生活ペースだ。だが、旅行で使ったお金と何よりキャバクラ代が響いているので、もっと仕事しなくては……。寂しいのが好きなので、年末年始をひとりで過ごすのは楽しみだ。

(C)Rialto Pictures/StudioCanal

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年11月 | トップページ