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レンタルで、『マルタの鷹』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』。 『マルタの鷹』は、後に『007 カジノロワイヤル』を撮ることになるジョン・ヒューストン監督のデビュー作で、『カサブランカ』の前年、1941年に公開された。
こうした四角四面の舞台劇をそのまま映像に置き換えたような作品がアカデミー賞をとったと聞くと、十数年後に活躍するヒッチコックがキワモノ扱いされて批評の対象にならなかったことには納得がいくし、その状況に憤ったのがトリュフォーら、カイエ・デュ・シネマの面々であることは筋が通っている。
(トリュフォーは、「トーキーの発明以後、ハリウッドは、オーソン・ウェルズという例外をのぞけば、真に偉大な視覚的才能を持った強烈な個性をまったく生み出さなかった」と、『映画術』で明快に書いている。ほとんどの映画が、セリフに頼りすぎているのだ。)
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『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、多くの岩井俊二監督の作品と同じように、主演女優のPV
のような撮り方をしている。主演の黒木華の友人たちはキャバ嬢やAV女優という設定なのに、主人公は彼女たちの職業を理解しようとも近づこうともしない。その無神経なまでの潔癖さは、一種のアイドル映画なのだと考えれば納得がいく。
ひとつだけ、感心させられたシーンがある。
結婚相手の家族をだました黒木華が、今度は相手の母親に陥れられ、家を出ていくことになる。彼女は結婚式で偽の家族を用意してくれた詐欺師のような男(綾野剛)に頼るしかなく、路上で、荷物を抱えたまま電話を受ける。
綾野に「今どこにいるんですか?」と聞かれた黒木は、「自分がいま、どこにいるか分からないんですけど……」と繰り返す。もちろん、そのセリフは具体的な場所が分からないだけでなく、家庭にも社会にも居場所がなくなってしまった黒木の困惑を語っている。
だが、それ以上に「ここはどこですか?」と不安にならずにおれないような、何でもない場所――鉄柵の向こうに何台もバスが停まっていたり、石垣の向こうに工場のような建物があったり、視界をふさぐように団地が並んでいたり、日本のどこにでもある、誰でもが見覚えのある退屈で平凡で殺伐とした風景を切り取った、そのセンスに唸らされた。
それはいわば、他人の顔をしたよそよそしい風景だ。
そのシーンでは、手持ちカメラの効果もよく出ていた。
というより、手持ちカメラでなければ主人公の不安を演出することは出来ず、カメラワークが劇を説明するのではなく、表現のイニシアチブを握っていた。
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また、家族を失った黒木華が偽装家族のアルバイトを請け負い、たまたま居合わせた人々と束の間、本物の家族のような雰囲気に包まれるシークエンス(シーンの連なり)もよかった。やはり、手持ちカメラと自然光による実体験感がシチュエーションとマッチしている。
ひさびさに最近の日本映画を観てみたが、漫画原作の学芸会のようなコスプレ映画を避けようとすると、どうしても是枝裕和作品か岩井俊二作品になってしまう。
刹那的に泣けた、瞬間的にネタとして楽しめた、それが映画を観る動機になっている現状では、映画をつくる動機が消失して当たり前なのかも知れない。
(C)RVWフィルムパートナーズ
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