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2017年12月30日 (土)

■1230■

レンタルで、『マルタの鷹』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』。 
Mv5bmty2mtu0mja1ml5bml5banbnxkftzty『マルタの鷹』は、後に『007 カジノロワイヤル』を撮ることになるジョン・ヒューストン監督のデビュー作で、『カサブランカ』の前年、1941年に公開された。
こうした四角四面の舞台劇をそのまま映像に置き換えたような作品がアカデミー賞をとったと聞くと、十数年後に活躍するヒッチコックがキワモノ扱いされて批評の対象にならなかったことには納得がいくし、その状況に憤ったのがトリュフォーら、カイエ・デュ・シネマの面々であることは筋が通っている。
(トリュフォーは、「トーキーの発明以後、ハリウッドは、オーソン・ウェルズという例外をのぞけば、真に偉大な視覚的才能を持った強烈な個性をまったく生み出さなかった」と、『映画術』で明快に書いている。ほとんどの映画が、セリフに頼りすぎているのだ。)


『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、多くの岩井俊二監督の作品と同じように、主演女優のPVRvw_postercut_large のような撮り方をしている。主演の黒木華の友人たちはキャバ嬢やAV女優という設定なのに、主人公は彼女たちの職業を理解しようとも近づこうともしない。その無神経なまでの潔癖さは、一種のアイドル映画なのだと考えれば納得がいく。

ひとつだけ、感心させられたシーンがある。
結婚相手の家族をだました黒木華が、今度は相手の母親に陥れられ、家を出ていくことになる。彼女は結婚式で偽の家族を用意してくれた詐欺師のような男(綾野剛)に頼るしかなく、路上で、荷物を抱えたまま電話を受ける。
綾野に「今どこにいるんですか?」と聞かれた黒木は、「自分がいま、どこにいるか分からないんですけど……」と繰り返す。もちろん、そのセリフは具体的な場所が分からないだけでなく、家庭にも社会にも居場所がなくなってしまった黒木の困惑を語っている。
だが、それ以上に「ここはどこですか?」と不安にならずにおれないような、何でもない場所――鉄柵の向こうに何台もバスが停まっていたり、石垣の向こうに工場のような建物があったり、視界をふさぐように団地が並んでいたり、日本のどこにでもある、誰でもが見覚えのある退屈で平凡で殺伐とした風景を切り取った、そのセンスに唸らされた。
それはいわば、他人の顔をしたよそよそしい風景だ。

そのシーンでは、手持ちカメラの効果もよく出ていた。
というより、手持ちカメラでなければ主人公の不安を演出することは出来ず、カメラワークが劇を説明するのではなく、表現のイニシアチブを握っていた。


また、家族を失った黒木華が偽装家族のアルバイトを請け負い、たまたま居合わせた人々と束の間、本物の家族のような雰囲気に包まれるシークエンス(シーンの連なり)もよかった。やはり、手持ちカメラと自然光による実体験感がシチュエーションとマッチしている。

ひさびさに最近の日本映画を観てみたが、漫画原作の学芸会のようなコスプレ映画を避けようとすると、どうしても是枝裕和作品か岩井俊二作品になってしまう。
刹那的に泣けた、瞬間的にネタとして楽しめた、それが映画を観る動機になっている現状では、映画をつくる動機が消失して当たり前なのかも知れない。

(C)RVWフィルムパートナーズ

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2017年12月29日 (金)

■1229■

レンタルで、イタリア・フランス・ドイツ合作映画『ドイツ零年』。
Mv5bmtgyndq0mze2m15bml5banbnxkftztg20代のころ、吉祥寺ジャブ50でロッセリーニ映画祭があって、トイレを我慢しながら観たのが同じロッセリーニ監督の『無防備都市』だったと記憶する。しかし、『ドイツ零年』の後半、敗戦直後のドイツの廃墟を、少年が行く宛てもなくさまようシーンには確かに見覚えがあった。
1948年の公開だから、先日観た『カサブランカ』とは戦争をはさんで6年の差がある。ほとんとがセットで撮影されている『カサブランカ』に対して、『ドイツ零年』はオールロケ。本物の廃墟で撮影されている。室内シーンもロケセットなので、狭い室内で苦心して撮った跡がうかがえる。長回しが多い。

では、素人のような苦しまぎれな撮り方をしているのかというと、そんなことはない。病床にある少年の父親が、戦争や自分の過去について長々と話すシーンがある。カメラは父親、姉、兄、そして少年の顔へとゆっくりPANしていく。少年が立ち上がって別室へ行ったところで、カットは切り替わる。だが、父親のセリフはつづいている。少年は室内で紅茶を用意しているのだが、彼は家族に見られないかを気にしている。少年と父の顔がカットバックする。少年は画面右方向をチラチラと気にしていて、父親の顔は画面左方向を向いている。すると、少年が父親に対して何か意図をもっていると分かる。いつも書いているように、向かい合うように配置された二人の人物のカットが続くと、まるで会話しているように見える。二人の間に、何らかの関係が生じる。
少年は家族のいる部屋に戻ってきて、紅茶を淹れると、父親のもとへ持っていく。もちろん、画面左から右へ歩いていく。さもなくば、少年と父親のカットバックが台無しになってしまう。
本当にでたらめな映画は、人物の位置関係にルーズだ。人物がどちらを向いているか留意した映画は、たったそれだけで劇的効果を生み出す。

このシーンの意図は、少年が父親に毒を飲ませた、と観客に理解させることだ。上記のカッティングで、ちゃんと異変が起きていることが伝わってくる。


貧しさのあまり、父親を毒殺せざるを得なかった少年は、家を出て徹底的に破壊されたドイツの街をさまよう。ここが、『ドイツ零年』の本当の見せ場だろう。
Mv5bn2mxmdjkzgqtymvjoc00mdqyltgymjg冒頭で解説されるように、この映画は敗戦直後のドイツの風景を記録することを目的にした劇映画だ。(このセミドキュメンタリー技法は、ロッセリーニ監督の助手だったトリュフォーや、ゴダールに受け継がれていく。ただし、ヌーヴェル・ヴァーグには、ネオレアリズモの悲壮さや義務感はなく、ただ放埓さだけがある。)

とても好きなシーンがある。
父親の死を見届けて、誰からも相手にされず、ひとりで廃墟を歩く少年のバストショット。不意に、パイプオルガンの荘厳な音色が響き、少年は顔を上げる。カメラが少年の背後に回りこむと、そこには焼け残った教会がそびえている。
教会の中で、神父がオルガンを弾いている。教会の周囲では、道行く人々が立ち止まり、教会を見上げている……が、少年はその場を立ち去る。道路には、斜めに建物の影が落ちている。少年は、その影の中に入るのである。
パイプオルガンが背後に流れている。だが、少年は寂しそうな顔で歩きつづける。父親を殺した彼には、救いなどない。その冷淡な事実が、一言のセリフもなしに伝わってくる美しいシーンだ。アップとロングの使い分けも、カメラの動きもいい。


僕は今年になってヒッチコックの優れた娯楽サスペンス映画群にはまって、では、なぜヒッチコックを高く評価していたトリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグのような自由放埓な映画を撮りはじめたのか、興味をもった。

日大の映画学科でも映画史の授業があったはずだが、ネオレアリズモもヌーヴェル・ヴァーグも、僕は佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』で知った。しかし、いきなりロッセリーニやトリュフォーを見はじめても、その価値は分からない。
1940~50年代にかけて、大衆娯楽として完成された映画を経ないと、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグがどれほど衝撃的だったのか理解することは不可能だと、この歳で知った。若いころの“感受性”など、何の役にも立っていない。

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2017年12月27日 (水)

■1227■

どうしても日本語吹替え版も観ておきたくて、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』、二回目。
Star_wars_bag_1この映画はシーンの終わりでキャラクターの名前、またはキャラクターを想起させるセリフを入れて、続くカット頭で関連のありそうな人物のアップから始める、思わせぶりなシーン転換が多い。それが上手くいっている箇所もあれば、あざとい箇所もある。
「シーン転換があざとい」なら、映画への批判として成立すると思う。「そんな技が使えるなら、なぜ先に使わないのか」などは、ストーリー批判であって、映画批判になっていない。誰がどんな技を使うとか最後に誰が死ぬだとかは、映画を観なくてもプロットを読めば分かる。

たとえば、レイがスノークによって宙吊りにされて絶叫しているシーン。レイの体はあおむけになり、頭は画面右にある。そのシーンが途中で切れた直後、気を失っていたポーが目覚めるシーンへ繋がる。ポーは、頭を画面右に向けた状態から起き上がる。つまり、前シーンのレイと体の向きが同じなわけ。
レイとポーは出会っていないし、作劇的なつながりもない。単に視覚的テンポをつけるために、構図を似せている。これを「テンポのいいカットワーク」と認めるか、「中身のないハッタリ」と批判するか……それなら、議論する価値がありそうだ。シーン転換やカット割りは、僕らの生理に直接訴えてくるし、映画の思想・方向性って、そういうところに宿ると思う。


もうひとつ。
昨日の『カサブランカ』の記事()に書いたこととも関連するけど、映画は別々の場所で撮った映像を編集することで、シーンを作り上げる。人物Aが画面右を向いてるショット、人物Bが画面左を向いているショット。これを繰り返すと、撮影現場では別々に撮った映像であっても、同じ場所でリアルタイムに会話しているように見える。
10年前に撮った人物Aの映像であっても、アングルさえ同じであれば、人物Bと会話させることが出来る。映画っていうのは、そういうメカニズム、機能をもっている。

『最後のジェダイ』を批判しているラジオでも触れられていたけど、レイとベンの会話シーンは、もっとも原初的な「右を向いた人物A」と「左を向いた人物B」、ふたつのショットの切り返しのみで成り立っている。
Httpsjphypebeastcomfiles201708http2ただし、レイの背景は惑星上の島。ベンの背景は敵軍の基地内。島で雨が降っているなら、ベンのいる基地のガラス窓も濡れていて、窓外では火花が散っていて、ちょっと雨っぽいイメージになっている。
(ベンが上手方向、つまり右を向いている場合が多かったと思う)
レイが振り向いて左を向いたとしたら、ベンも振り向いて右を向く。しかし、背景はまったく別。もちろん撮影現場も別。構図の一致だけで、身近で会話しているように見せている。
『最後のジェダイ』だけでなく、カメラを複数台回してない以上、劇映画の切り返しは、必ず別の時間・別の場所で撮っている。劇映画って、そういうウソのうえに成立している。ウソとウソを繋げて、本物のように見せている。レイとベンのテレパシーのシーンは、映画のウソを逆転利用して非現実感を出しているわけで、たいへん感心させられた。


そのような劇映画に特有の原理、機能が、『最後のジェダイ』では有効に使われている。「一本の映画として」批評する以上、劇映画の根本原理を無視していいわけがない。

だけど、『最後のジェダイ』にかぎらず、「ここが変だよ、矛盾しているよ」「このキャラクターは、なんでこんなに頭が悪いんだよ」といったストーリー批判しか、インターネットでは見かけない。ストーリー批判でなければ、「この映画は何が言いたいんだ?」と、目に見えないメッセージ批判へ飛躍してしまう。

また、『最後のジェダイ』では、この映画を誉めているヤツが気に食わない、出演女優の顔が嫌いといった幼稚なヘイトやルッキズムが目立つ。僕も、茶化されたり噛みつかれたりした。政治の話題ではヘイトは珍しくないけど、自由であるはずの映画の世界にまで、どちらが多数派で正しいだとか、敵の味方は敵といった考え方が浸透していくのだろうか。
映画を誉めたり貶したりする人が映画評論家だと思われている現状では、モラルの崩壊も仕方がないのかも知れない。

『カサブランカ』のDVDには映画評論家ロジャー・エバートの音声解説が付いていて、霧の中で飛行機の飛び立つ美しいラストシーンで、「ハンフリー・ボガートも飛行機に乗って逃げればいいのに、どうしてわざわざ飛行場に残るのだろうか? まるで分からない」と矛盾を指摘したあとで「だけど、いちばん好きな映画だ」と結んでいる。
ロジャー・エバートも点数をつけたり貶したりするのが好きな人だったけど、『最後のジェダイ』をとりまく現状は、個人の好みの問題を越えてしまっているかに見える。

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2017年12月26日 (火)

■1226■

レンタルで、『カサブランカ』。1942年、戦時下でつくられた映画だ。
Mv5bmtm5mdm0nduyov5bml5banbnxkftzty20代のころに知り合いからVHDプレーヤーをもらって、一緒にもらった何枚かのソフトの中に『カサブランカ』が入っていた。そのときに観て、あまりのセリフの難解さに閉口したものだった。僕らの親の世代にはオールタイム・ベスト・ムービーとして愛されているというのに。

果たして、30年近くたって再見した『カサブランカ』は、設定も晦渋なら人間関係もややこしい。最低でも、当時のカサブランカが親ナチスのヴィシー政権下に置かれていて、ハンフリー・ボガートがアメリカへ亡命したい人々を手助けする“逃がし屋”であることは踏まえておかねばならない……そのバックボーンを差し引けば、ほろ苦いメロドラマに過ぎないかに見える。

だが、ラストシーン、霧につつまれた夜の飛行場の美しさは30年前と変わりなく、息をのんだ。霧の向こう、ぼんやりと点った誘導灯の中を飛び立つ飛行機。そのはかなげな姿は、セリフに頼った煩雑な「物語」などより、よほど雄弁に先行きのない未来を語ってるかに見える。


先日触れた『イタリア旅行』にも出ていたイングリッド・バーグマンがアップになると、フォグ・Mv5byzy3zthimgety2nioc00ymfklwjmn2i フィルターで淡く輪郭をぼかしした撮り方になる。バストショットでハンフリー・ボガートと並んでいるショットでは、フィルターなんてかけられていないのに、アップになると急にぼやけた画面になる。ようするに、ショットとショットの間で、絵が繋がっていない。
また、回想シーンではスクリーンプロセスが多用されているのだが、車で都会を走っていたはずなのに、背景のみオーバーラップして森林の中へ移行する。つまり、ワンカット内でシーンが飛躍してしまっている。
しかし、当時の人々はリアリティなんかより、様式化された美しさを求めていたんじゃないだろうか。ようするに、「お芝居」として映画を観ていたように思う。舞台のほとんどは一軒のカフェである。ということは、舞台劇のように“ドラマ”が進行し、俳優のセリフと芝居から、われわれは“ストーリー”を読解する。

“ストーリー”は、映画に原理的に備わっているものではない。演劇から持ち込まれたものだ。
1922年に、レフ・クレショフが実証したように、われわれは別々の場所で撮られた関連のない映像を並べられると、無意識に意味を感じとってしまう。ハンフリー・ボガートのアップの次にイングリッド・バーグマンのアップが続いているからといって、「二人がその場で見つめあっている」と読みとってしまうのは、物理的には誤りである。だが、心理的には正しい。
映画には“ストーリー”がある……これは、われわれの思い込みだ。ゴダールやトリュフォーは、劇映画がカメラによって記録された断片的な映像の連なりにすぎないことを暴露した。
24枚の静止画と24枚の黒い画面の間欠運動を、われわれは「連なった動き」と錯覚してしまう。映画は、まやかしの上に成り立っている。


われわれがCGで作成されたキャラクター、俳優そっくりに作られたCGを本物と信じられないのは、どこかで「そんな生物やメカニックは実在しない」「その俳優は他界している」と聞いたからだ。
映画の本質は記録なので、実在しない人や生き物を記録することはできないと、われわれはいずれかの段階で知ったのだ。つまり、スクリーンに映写されるすべてを「記録されたもの」と認識するようになった。「CGなし、ぶっつけ本番のカーアクション」と情報を吹き込まれると、それをカメラの前で実際に記録されたものと信じ込む。「やはり、本物は迫力が違う」などと言う。撮影可能な被写体がCGで描画されていても、われわれには本物かCGかを見分けることは出来ない。

“ストーリー”は、もっとも見破られやすい映画のウソである。だから、たいていの映画は「ストーリーが面白い」「ストーリーがつまらない」ですまされてしまう。
ただの上薬にすぎない“ストーリー”が剥がれたところで、面白い映画は山ほどある。映画が錯覚の上に成り立っていることさえ忘れなければ、ストーリーの矛盾や誤りや欠落ごときで、映画がつまらなくなるわけがない。

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2017年12月24日 (日)

■1224■

ホビー業界インサイド第30回:株式会社WAVE・阿部嘉久社長が振り返る、1983年・吉祥寺周辺のホビーシーン
T640_747174高校時代、店頭コンテストに出品して何度か最優秀賞をいただき、初めて商品原型の仕事を回してくださったのがWAVEさんでした。大学に入ってからは、帰りに事務所によって、何かしら原型や塗装の仕事を手伝っていたので、若くて未熟で鬱屈していた僕にとっては居心地のいい場所だったのでしょう。

阿部社長は、両親や教師以外で初めて出会う大人であり、思うように生きる、やりたいようにやる自由人でした。今でも変わらず飄々として、新しいことに興味津々な方です。


レンタルで、ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』。
Mv5bmda1zti2m2utzdlhmy00m2q5ltljmtc佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』を読んで、20代のころに見ていたはずだが、この歳で見直して良かった……。なにしろ、「夫婦が車に乗ってイタリアを旅する」程度しか、内容を覚えていなかった。若いころの経験なんて、たいして当てにならんのだなと再認識。

『イタリア旅行』は1954年の公開。ネオレアリズモ映画として捉えると、かなり後期に属する。しかし、ゴダールの『勝手にしやがれ』が1959年だから、ヌーヴェル・ヴァーグとは直結する。
街中にカメラを持ち出して、当時そのままのイタリアの風景をラフに撮るスタイルはトリュフォー、ゴダールに受け継がれている。
ただ、『イタリア旅行』はちょっと凝っていて、イングリッド・バーグマンが車内でクラクションを鳴らす(車内はスタジオで撮っている)、人々が車を避ける(ロケ撮影)。ちゃんとシーンが繋がるよう、ある程度は演技や編集を見越して撮影している。しかし、車を避ける人々はエキストラではなく、たまたまその場に居合わせた本物の通行人だ。


そのような即興的スタイル以上に驚かされたのが、茫洋としたプロットである。
関係の冷えきった夫婦がイタリアを旅行する。夫はパーティに出かけて女たちと仲良くなるが、妻はやることがないので、美術館や観光名所を訪れる。後者に尺を多く使っており、特に何か事件が起きるわけではない。美術品ばかり撮っていて、人間すら映っていないカットが続く。だが、シーン全体にピリピリとした緊張感が漂っていることは確かだ。

夫と妻は、ついに離婚話を始めるのだが、間の悪いタイミングで、現地の知り合いにポンペイの遺跡へ案内されMv5bm2fkowzlzgytzji3mc00zmvilwexn2qる。かなり唐突な展開だ。遺跡から男女二人の遺体が発掘されるのを見て、妻はその場を立ち去る。夫婦は車で移動するが、祭のパレードに出くわして、立ち往生する。祭の日を狙ってロケ撮影しているらしく、臨場感がすごい。俳優もカメラも、人波にもまれている。

人混みにまぎれこんでしまった妻は、懸命に夫のところにたどりつく。そして、いきなり夫に「愛している」と告げて、二人は離婚を撤回する。劇的な必然性は、ほとんど感じられない。しかし、街中に無防備に投げ出された俳優、コントロール不可能な群集を見ていると、なんとなく流れに納得がいくのである。
脚本段階で綿密に組み上げられたプロットでなくとも、時間とともに変化していくフレーム内の情報が説得力を発揮する場合もある。「映画」と「ストーリー」との距離は、おそらく言葉のない、何をも指し示さない映像の中に存している。「ストーリーがない」「物語の内容がない」と言われようとも、必ず誰かが覚えておかなくてはいけない。

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2017年12月22日 (金)

■1222■

モデルグラフィックス 2018年 02 月号 25日発売
Drky0hcv4aun88m●組まず語り症候群第62夜
今回はトランペッター社の「1/35 ソビエト軍 2K11A 対空ミサイルシステム クルーグ」で、ひさびさに自主映画『亜空間漂流ガルダス』に触れています!

●ランナーを見比べないと分からない“些細な変更点”を探せ! 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』版キットの本当の楽しみ方とは?
バンダイ製『スター・ウォーズ』キットの、公にされていない些細な仕様変更を編集者に話していたら「それを記事にまとめてほしい」と言われて、ヘッドライントピックスに書きました。完成品では決して味わえない、組み立てキットならではの面白みです。


試写会で、湯浅政明監督の『DEVILMAN crybaby』の第1話~第3話まで。
Devilman_201711_04_fixw_640_hq_2 もしこれをイベント上映しようものなら、ぶっちぎりでR18+です。人間がデーモン化していくシーンは、見たことを後悔するほどのグロテスクさです。セックスシーンもいっぱい出てきますが、例えが古いけど『くりぃむレモン』から続く、セル画のフェティシズムによる予定調和のエロさは皆無で、やはり目をそむけたくなるような描写をされています。海外のエロサイトって、たとえ合法でも生々しすぎてオエッてなるじゃないですか。ああいう描き方をしている。
見たくなかった、今まで見まいとしていた、見なかったことにしていた、だけど醜悪で残酷な現実は確実にそこにある。勇気をもってそこに立たないと、倫理を語ることは出来ない。


デビルマンのアクションシーンは、腕がぐにょっと伸びたりして、カートゥーンのような極端なアレンジがされているんだけど、それがカッコいい。たくましく変貌した不動明が食欲むきだしで食事するシーンも、どちらかというとコミカルなディフォルメがされているんだけど、かえってそれが怖い。「2Dアニメでかっこいい絵とはこういう描き方」「エロい絵とはこういうもの」という固定観念を揺さぶってくる。 

線が多くて、丁寧に影がつけてあって、ロトスコープのような写実的な芝居をするものだけをリアルだと思っていたら、それはアニメーションに対する思い違いなんですね。
『TAMALA2010 a punk cat in space』なんかもそうだったんだけど……、絵のもっている抽象性、見方によって可愛くも気持ち悪くも見える性質を、やや露悪的に使っているとも言える。


見世物小屋を舞台にした『フリークス』って映画があるでしょ? ちょっと感銘をうけたというか、嫌な意味でハッとさせられた話があって。
大学時代だから30年ほど前のことだけど、僕の友達が、『フリークス』のビデオを家で見ていたそうです。人形のように美しい、妖艶といってもいいぐらいの20代の女友達と一緒に。すると、その子が小人症とか半身が欠損した出演者たちが出るたび、それぞれに酷いあだ名をつけて「かわいい!」と言ってゲラゲラ笑っていたそうです。
その女性の人権意識を疑うとかいう以前に、人間ってそういうもんだと思ったんです。僕の中にも、障害者をあざ笑うような醜い部分は絶対にある。あまりに救いがたい現実を前にすると、人は嘲笑することによって、その場を逃れようとするのかも知れない。

『DEVILMAN crybaby』には、ちょっとその感覚がある。
牧村美樹というヒロインは美しいんだけど、美しいがゆえにもっとも汚い部分と繋がりやすい。ただ、脚本がぎりぎりストップをかけている。「こいつは悪いヤツだから殺しても大丈夫」「不動明に理性は残っているから、そこまではやらない」と、暴れ狂う絵を矯正している。
脚本が、絵に対するガイドラインとして機能している。だけど、そのガイドラインを超えちゃってないかな?と危惧してしまうほど、獰猛な表現欲にあふれた作品です。


「マジNHK時間考えろよ。
家までの帰り道、妹からSOSのLINEがきたので交番行って事情説明してミニパトの後ろ乗って静かに帰宅…到着したら、さっきまで居座ってたのに帰ったところだった。
玄関のドアを何度も何度も強く叩き、大声を上げ、玄関先に居座る…」(

上記のツイートを拝見した矢先、“NHK職員を懲戒免職処分 37歳男性職員が受信料58万円着服「言語道断 厳しく対処」”()。記事の最後に「NHKは刑事告訴を検討している」。NHKが被害者なの? 受信料をだましとられた人がNHKを告訴するなら分かるんだけど、なぜNHKが元職員を告訴する? この責任転嫁が、本当に浮世離れしてるよなあ……。

(C)Go Nagai-Devilman Crybaby Project

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2017年12月20日 (水)

■1220■

レンタルで、2016年のボスニア・ヘルツェゴビナ映画『サラエヴォの銃声』。
640サラエヴォの高級ホテルに、百年前に起きたサラエヴォ事件の式典に出席するため、政府関係者が到着する。屋上では、ユーゴスラビアのたどった歴史について、テレビクルーたちがドキュメンタリー番組を収録している。ホテルの従業員たちは、給与の未払いに立腹してストライキを計画している。
これら三つのエピソードが並列して描かれる、グランド・ホテル形式だ。ほとんどがワンシーン=ワンカット。ということは、ほとんど時間の飛躍はない。リアルタイムで進行する。登場人物の背中を追うようにカメラが動き、誰かが部屋から出ていくと、そこでシーンが切れる。全編にわたって、ドキュメンタリーのような手法で撮られている。


一方で、架空のドキュメンタリー番組を撮っている屋上のシーンは手が込んでいて、本人役で登場している出演者たちのうち、ひとりは俳優が演じている。インタビュアーの女性と口論になり、「本当に演技なのか?」と疑ってしまうほどの大激論になる。彼らが人種的に対立しているのか政治的に対立しているのかは、会話の内容が専門的すぎて分からない。
しかし、戦争に関する白熱した彼らの議論が、バックヤードで展開するホテル経営者と従業員の対立と重なっていくのは、ちゃんと分かる。

なぜなら、ホテル経営者はギャングのような連中を裏で雇っていて、ストライキの首謀者を640_1 暴力でねじ伏せているからだ。ギャングたちが駐車場で従業員を殴っているシーン、経営者が助けを求めてきた受付係の女性の服を脱がせるシーン。これら目に見える暴力が、歴史を巡る難解な議論を敷衍するというか、補うような構造になっている。
いわば、これも一種の戦争映画なのだ。歴史とは無縁のように見えるホテルの従業員たちですら、経営者と戦っているじゃないか。いくらセリフの内容が難解であろうとも、それぐらいは理解できる。言葉に落とし込むことができなくても、画面をみれば分かるようになっている。やっぱり、映画ってストーリーじゃないんだよ。


図書館で、トリュフォーがヒッチコックにインタビューした『映画術』を借りてきた。
Photoトリュフォーが映画評論家に徹している時代にインタビューしたのかと思ったら、収録されたのは1962年。
『大人は判ってくれない』、『ピアニストを撃て』、『突然炎のごとく』、三本も長編を撮った後だ。あんな支離滅裂、自由奔放な映画(ようするにヒッチコックの厳格な文法をズタズタに破壊したような映画たち)をのびのびと撮っていたトリュフォーだが、その博覧強記ぶりには、心から感心させられる。

何しろ、トリュフォーはヒッチコック作品の一本一本、どんなカット割だったか、俳優がどう動いていたか、どのシーンでオプチカル合成を使っているか、仔細に解析しているのだ。「ストーリーが面白いですね」なんて間抜けなことは、間違っても言わない。
そもそも、映画評論家であれば、映画づくりの技術的知識を持っていないと監督にインタビューなんて出来ないんだよ。素人目線からレコメンドしたり、映画に点数をつけたり、年間ベストテンを決める人が映画評論家だと思われている……。あとはせいぜい、映画のつくられたバックボーンだとか監督の人となりを解説とか、そんな程度でしょ?

サラエヴォの銃声』の画像を探していたら、星ひとつのレビューが目に入った。「話の内容が難しくて分からない」から、評価が低いんだそうだ。自分には分からないからダメな映画、価値のないもの……そんな狭い認識で生きていたら、何も学べない。
難しくて分からないなら距離を置くなり、調べるなりすればいいだけなのに、採点を迫るところがネットの罠だよな。

(C) Margo Cinema, SCCA/pro.ba 2016

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2017年12月18日 (月)

■1218■

レンタルで、黒澤明の『羅生門』。大学の授業で見て、そのあと最低一回は観ているので、細かいセリフもよく覚えていた。
Mv5bmtq4odq0ody1ov5bml5banbnxkftztc雨の降りしきる羅生門から、志村喬の回想シーンへと移行する。回想シーンの最初のショットは、森の中から見上げた太陽だ。雨から太陽へ、フィックスから移動撮影へ。この鮮やかなシーンの転換。鉞(まさかり)をかついで森の中を歩く志村を、カメラは追いつづける。
PANやティルトを織りまぜながら、画面左から右へと歩きつづける志村を、ときには真正面や真後ろから撮る。
ところが、カメラはふいに志村の手前を横切ると、さらにPANして志村を追う。すると、志村は画面右から左へと歩くことになる。以降、すべてのショットで志村は右から左へ歩いている。なぜ、いきなり進行方向を逆にしたのか? 志村が死体を発見する前の予兆として、違和感を出したのではないだろうか。死体を発見した志村は、今度は画面左から右へと逃げ出す。最初の進行方向に戻ったわけだが、状況は激変している。

フレーム内の人物のサイズに緩急を持たせ、出来事に応じて進行方向を変える。「志村喬が森の中で死体を発見する」、この劇中の事実だけを効果的に伝えるためにカメラの動きを計算しながら撮影し、秩序にしたがって編集する。これが1950年に到達した、映画演出の完成形だった。


三船敏郎に犯された京マチ子が、小刀を手にしたまま、夫の前で狂乱する。
Mv5boge0mwy2ymmtmdjhnc00ogywlthjmje京は後ずさり、にじり寄り、右に左に揺れ動く……が、京はつねに画面の真ん中に位置している。つまり、フレームの中で京が動くのではなく、背景が揺れ動くのだ。
京の混乱した心理を、左右に揺れる背景で表現している。「劇」をセリフや俳優に任せずに、カメラの動きで構成している。高いレベルで完成に達した劇映画の姿を、『羅生門』で誰もが確かめることができる。好きとか嫌いとかの問題ではない。
ヌーヴェル・ヴァーグもアメリカン・ニューシネマも『スター・ウォーズ』も、すべてその後の話である。立脚点を定めなくてはならない。 


『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が賛否両論になることは予想していた。しかし、「この展開は不自然だ」「登場人物の行動に納得いかない」などはストーリーへの反応にすぎず、映画への批判になっていない。劇映画の「劇」にしか関心がないから、「ネタバレ」という概念が出てくる。
「劇」の外側に立って映画の価値を推し量るのが、まずは一苦労のはずなのだが、今度は監督や俳優のインタビューにすがる人たちが出てくる。撮影現場のメイキング映像に真実が隠れていると思いこみ、「監督の意図」を評価基準にしてしまう。

「面白い、つまらない、酷評、絶賛、感情移入できる/できない、星5点で何点」――それらストーリーに対する感想が、ウェブを基盤にした映画言論の限界なのだと思い知った。図書館に行けば、カットワークや構図から映画を解き明かそうとする本物の評論家、研究家たちの知恵が書棚からあふれている。
本年度のベストだのワーストだのにも僕はいっさい興味が持てないので、レンタル店で半世紀前の映画から半年前の映画まで、何でも漁る。映画の正体など、そう簡単にはつかめないからだ。


「廣田恵介さま宛てに……が届いております」と宅配業者を装って、NHKの集金人が訪れた。ものすごい力でドアを開けようとするので、さすがに恐ろしくなって「警察に電話します」と言ったら、無言で逃げ出した。
あまりに酷いと思ったので、NHKふれあいセンターに報告し、「こんな脅迫みたいな恐ろしい目に合わされて、あなたは納得してお金を払う気になれますか?」と聞いた。ふれあいセンターのイノマタさんは、二度、沈黙した。絞り出すように出た言葉は「……個人的意見は、差し控えさせていただきます」。

彼らも、脅しや嫌がらせで金をとるのは不誠実だと気がついている。
脅迫に屈すれば、あなたのその後の人生は汚れる。自由は遠ざかり、あなたの主体性は内側から蝕まれていく。

(C)1950角川映画

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2017年12月16日 (土)

■1216■

【懐かしアニメ回顧録第37回】ボクサーたちの身体を包むコートやスーツ……、さまざまな「布」が「あしたのジョー」の人間関係を浮き彫りにする!
51dasdha0l「出崎演出」「止め絵」など定番のキーワードに足をとられないよう、新鮮な気持ちで劇場版『あしたのジョー』を見直してみました。
すると、人物同士の別れや出会いのきっかけとしてコートやオーバー、スーツなど、服が効果的に使われていることに気がつきます。
僕には、あらすじよりも演出テクニックのほうが映像作品の「ネタ」に思えます。


映像作品に対する「ネタバレ禁止」「つっこみどころ満載」などの常套句には、本当にうんざりさせられていて、本当は『スター・ウォーズ/Mv5bmje3ndi5njc1n15bml5banbnxkftztg 最後のジェダイ』についても書きたくないのだけど……非常に理知的な映画なので、感心させられた。『スター・ウォーズ』をつくり続ける意義について自己言及した、挑戦的な試みだと思う。

『フラッシュ・ゴードン』など30年代のシリアルを70年代の技術で蘇らせた『スター・ウォーズ』は、誕生した時点ですでに様式化されていたため、数多くの類似作品を生み出した。様式化されすぎているがゆえに、『スター・ウォーズ』らしい、らしくないといった印象だけで判断されがちだ。
前作『フォースの覚醒』は、観客の印象に訴えかけ、動物的な反応やノスタルジアを喚起するだけの空疎な映画だった。『最後のジェダイ』でも、ファースト・オーダーとレジスタンスがどのくらいの規模の組織で、何を巡って戦っているのか、あいかわらず分からない。なぜ両者の戦いにルーク・スカイウォーカーが必須だったのか、『最後のジェダイ』を見た後でも、やはり分からない。もちろん、『帝国の逆襲』で失われたはずのライトセーバーを誰が見つけ出して30年間も保管していたのか、まったく明かされない。多くの欠点を、前作から引き継いでしまっている。
だが、薄っぺらなノスタルジアを打ち砕くパワフルなプロット、シンプルで落ち着いた美術と衣装、一瞬後を予期できないシャープなカットワークに魅了された。SFXでも、ハイパードライブを使った新たな攻撃方法、白い大地を砕きながら赤い土煙をあげて疾走する旧時代のスピーダーなど、高度にデザイン化されたビジュアルが頻出する。

そして、アイデアが斬新であればあるほど、『スター・ウォーズ』の様式は破壊される。様式がどんどん壊されて、作り手が次々と便利な武器を失って、それでも綱渡りのように進んでいく様が、とにかくエキサイティングだった。


面白いのは、若い世代のレイが「あなたは伝説のジェダイ騎士なのだから、かつてのように戦ってほLastjedi_pic_01 しい」とルークに求めるところだ。そのセリフ自体が、すでに様式なのである。みんなの大好きな“『スター・ウォーズ』らしい”セリフなのである。R2-D2が運んできたレイア姫のメッセージそっくりなので、老いたジェダイ騎士に助けを求める展開自体をパロディにして茶化しているかのようなシーンまである。
何よりもルーク自身が伝説化されることに飽き、英雄や神話や伝統に頼る危険性を語るのだから、こんな痛快なことはない。『スター・ウォーズ』の神格化をやめろ、と『スター・ウォーズ』を使って訴えているのだから、あっぱれと言うほかない。

僕らの知っている『スター・ウォーズ』なら、第二作目のラストは「つづく」で終わるところだが、それはもう他の娯楽大作でさんざん模倣されている様式だ。『最後のジェダイ』は、その陳腐な様式を、もちろん破壊する。前作が残した余計な枝葉をきれいにそぎ落として、去るべき人は去っていった。そして、光も闇もない、正義も悪もない、二項対立で考えるから進歩がないんだとベニチオ・デル・トロの演じる脇役までもが、繰り返し証明していく。

これ以上、何を語るというのだろう? もはや解決すべき劇的葛藤は残っていない。次回作など必要ない。僕たちは「キャラクターのその後の運命」を暴きたがるパパラッチと化していたのではないだろうか。意地悪だし、大胆不敵だし、肝の座った映画だった。

(C) 2017 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

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2017年12月15日 (金)

■1215■

本当に今さらながら、しかし今しか分からないと思って、トリュフォーの『大人は判ってくれない』をレンタルで。
Mv5bmji0mtk2mdywof5bml5banbnxkftztc大学の友だちに薦められて見て「すごかったろ?」と聞かれたのだが、ラストのストップモーションしか覚えていなかった。しかも、主人公の少年が海岸まで逃げてきてストップモーションになるのではなく、護送車に乗せられたところでストップモーション……と勘違いしていた。この30年間、ずーっと。
なので、若いころに勢いで見た映画の記憶は、まったく宛てにならない。せいぜい30代になってから見ないと、その価値が分からない。


トリュフォー、初の長編だが、『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』に比べると、かなり大人しい。ただ、ひとつだけ言えることがある。構図やカメラワークを計算せず、俳優の演技を「ただ撮っているだけ」。投げやりな撮り方だが、しかし台詞と芝居さえ確実に見せておけば、それで「劇」は伝わるだろう? 他にどんな方法がある?とでも言いたげな傲岸不遜さは、なかなか頼もしい。

たとえば、主人公の少年が家出して、牛乳を盗む。物陰で、牛乳を飲むのだが、それがやけにでかい牛乳瓶なのだ。だから、息継ぎしながら、何度かに分けて飲む。それをずーっと、飲み終わるまで撮っている。それは演技……というより、俳優のアクションを即物的に「記録している」に過ぎない。だから、芝居をまたいでカット割ることは、ほとんどしていない。カットを割ったら「記録」ではなくなるから。

トリュフォーの「記録」に対する素朴な信頼心が、どんなに言葉を尽くすより切実に伝わってくるのは、鑑別所を抜け出した少年が、海を目指してえんえんと走り続ける、このまま終わらないのではないかと思うほどの長回し。
結局、「劇」「あらすじ」に飼いならされた僕らは少年の走りつづける姿に共鳴したり、なにか文学的なメッセージや問題提起を読みとろうとしてしまう。だけど僕は、登場人物の行動を「粉飾せずにそのまま」撮ったトリュフォーの純粋さに、胸を打たれる。


もうひとつ、秀逸なシーンがある。

少年が、仲間と一緒にタイプライターを盗み出す。二人がタイプライターを抱えて歩く姿を、カメラは望遠で盗み撮りしている。周囲の大人たちは、怪訝そうに少年たちを振り返ったり、声をかける人もいる。黙々と歩く少年たちは、大人たちに何度もぶつかりそうになる。
このシーンは、完全にドキュメンタリーの手法で撮られている。ヒッチコックなら、大通りのセットを作って、何百人ものエキストラを雇うところだ。
ようするに、トリュフォーは嘘をつくまいとしたあまり、セットではない本物の街中で、本当に少年たちを歩かせた。それだけの事なんだ。ゴダールは、エキストラとして雇った人たちに「普段はどんな仕事をしている?」と、映画の中でインタビューしてしまう(笑)。

トリュフォーは、そこまでひねくれてはいないものの、「映画を撮る」「映画を作る」行為に自覚的で、それまでの劇映画が熟成してきた複雑なテクニックを、ほとんど放棄している。そういう意味では、やっぱり過激だったと思う。


『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』は、公式サイトに完成したばかりの日本語予告編やキャHeroisback_201712_fixw_640_hq スト情報などコンテンツがどっさり追加され()、プレスリリースも各社に出回ったそうで、あちこちで記事になっている。
あと、Twitterでは海外アニメ事情に詳しい方たちが、続々と応援ツイートを書いてらっしゃいます。あと、僕の調査不足でしたが、先に本編をご覧になっている方たちは、pixivなどでファンアートを書かれてますね。

『RWBY』が成功したのは、ファンアートを公式側が認めて、むしろ国内の絵師さんたちに描いてもらって、展覧会まで開いたこと。どういうファンに受け入れられるか、ちゃんとリサーチして、しっかり届いた。来月13日公開、それまでにプロのライターとしてやれることは必ず遂げさせていただきます。

(C) 2015 October Animation Studio,HG Entertainment

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2017年12月13日 (水)

■1213■

レンタルで、クロード・シャブロルの『いとこ同士』。
Mv5by2zkn2u2ytitodnlyi00ywnilwjmmjiヌーヴェル・ヴァーグの先陣を切ったといわれる作品だが、後に続くトリュフォー、ゴダールとはずいぶんな違いがある。図書館で借りてきた『ヌーヴェルヴァーグの現在』には、「ロメール、リヴェット、シャブロル そして彼らの後継者たち…」と表紙に書かれており、トリュフォーとゴダールは含まれていない。
『いとこ同士』を見てびっくりしたのは、あまりにカッティングが明晰かつ的確で、『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』のように、カットとカットの間で芝居がダブって繰り返されたり、あるいは同一カットの中で芝居を飛ばしたり止めたり……といった奔放さがないこと。あの初々しい素人くささがない。


『いとこ同士』で印象的なのは、ジュリエット・メニエルの演じる、2人の男の間を渡り歩くヒロインだ。
Mv5bnwm1ntcyodgtodrimc00odc2ltkwz_2ヒロインは二度、妖しい登場のしかたをする。左のスチールは、二度目の登場カットだ。
もちろん、思わせぶりな女優の表情も魅力的なんだけど、扉の陰から入ってきて、無言で歩く様をカメラがPANで追っている。ゆっくりと追うので、ミステリアスな雰囲気が出る。
照明は、最初は右後ろから、つづいて左前から当てられる。PANの途中で、一瞬、彼女の顔はほぼ闇に沈む。ライティングの設計によって、余計に神秘的なイメージが増すわけだ。
彼女にうっとりと見とれる男優の顔をインサートするのも「効果的な」演出なのだが、そんな「機能的な」カットワークを蹴り飛ばしたところにヌーヴェル・ヴァーグの価値があるんじゃないのか? どうも、僕が勉強不足だったようだ。


当時、ヌーヴェル・ヴァーグを生み出した評論誌カイエ・デュ・シネマでは、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』派、フェデリコ・フェリーニの『道』派に分かれて論争があったそうだ。シャブロルは「ロッセリーニ主義者としての影は薄く、何よりもヒッチコック主義者だったようだ」と、『ヌーヴェルヴァーグの現在』には書かれている。
それを読むと、『いとこ同士』の全体を貫く「機能的な」演出にも納得がいく。あらゆるカット割りやカメラワークが劇、ドラマ、ストーリーの伝達に追従している。でも、そうした技術は観客の視界を「劇」の中に埋没させる一方であって、ヒッチコックがやり尽くしたことじゃないか。

僕は、「劇」そのものを評価することには興味がもてない。「劇」はいかにして成り立っているのか? フレームの外で、カットとカットの間で何が起きているのか? 映画の余白に、映画そのもので切り込んだのが『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』ではないだろうか。


試写で観たCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』()。
Ph12_2取材を申し込んで返事を待っている最中なので、あまりネガティブなことは言いたくないのだが、前売り券は「親子ペア券」のみ。上映は一週間限定という過酷な状況のようだ。『マイマイ新子と千年の魔法』が、まさに親子向けに宣伝され、3~4週間でファースト・ランを終えてしまった8年前を想起せずにおれない。
公式サイトには動画が一本もなく、日本語版吹き替えキャスト名すら記載されていない(追記:15日にリニューアルされました)。Twitterアカウントは、決して点数が高いとはいえないレビューサイトをリンクさせてしまうし、これでは宣伝が映画を殺しにかかっているようなものだ。

『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』は、海外の二次創作を見れば分かるんだけど、実はBL好きの女性の皆さん向けでもある。孫悟空もオリジナルの悪役“混沌”も、二枚目だから。その2人がリュウアーという少年を奪い合うんだから、そりゃあ二次創作も描きたくなるでしょうよ。
そっち方面にリーチできていないのが、本当に、本当にもったいない。親子ペア券で観に行くとしたら、お母さんがときめくような映画なんですよ。もちろん、アニメからクールな中年キャラが消えてしまったとお嘆きのお兄さんたちにも。
「CGアニメだから子供向け」って……あまりに視野が狭すぎる。BL好きの皆さん、この傑作を救ってくださいと、かなり本気で願ってます。

(C)2015 October Animation Studio,HG Entertainment


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2017年12月11日 (月)

■1211■

アニメ業界ウォッチング第40回:美術監督・秋山健太郎が語る「はいからさんが通る」の美術の秘密、手描き背景の面白さ
T640_746299『輪るピングドラム』、『惡の華』でインタビューさせていただいた秋山健太郎さんに、三度目の取材をお願いしました。
『はいからさんが通る』はそろそろ上映が終わりそうですが、背景は見る価値があります。

GoodsPress 2018年 01月号 発売中
特集『傑作品 GP AWARD 2017 ベストバイ』の「プラモデル部門」で、コメントしています。
文章は編集部が書いたものですが、僕からはバンダイ「1/72 ミレニアム・ファルコン」とタミヤ「1/6 Honda CRF1000L アフリカツイン」を推しておきました。


レンタルで、『気狂いピエロ』。1965年のゴダール作品。
Mv大学時代に見たはずだが、「主人公が観客に話しかける」「ダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する」など断片的な、どこででも言及されているシーン以外、まったく覚えていなかった。
本に書かれていたことを鵜呑みにして分かった気になる、これは初歩的なミスだ。

図書館で『ヌーヴェルヴァーグの現在』を借りてきて斜め読みしてみたら、“映画の二つ目の真実は「記録」である”という言葉に行き当たった。
「記録」を手がかりにしつつ、またゴダールがドキュメンタリー映画を撮っていたことを念頭に置くと、彼は劇映画ではなく「劇映画が撮影されている状態」を記録していたのかも知れない。ゴダールの作品は「シュールな劇映画」と理解されがちだが、劇映画をつくっていく過程を記録しようとした結果、シュールに見えてしまうだけではないのか。


それまでの映画は、スタジオの中に擬似的な現実をつくり、カットを割ることで時間を再構成して「劇」を成り立たせていた。今のハリウッド映画も、CGを使いながら「劇」に説得力を持たせようとしている。映画批評は、すなわち「劇」への評価になりかわってしまった。

だが、ゴダールはスタジオを抜け出し、街の中で「劇を演じている現実」を記録しようとしたんだ。そのため、カットを割ることをほとんどしない。人々は、撮りやすいように壁を背にしてカメラのほうを向いて会話する。殺人シーンが多く出てくるが、なんと手で突き飛ばされただけでパタリと倒れて死んでしまう。
登場人物の死を伝えるだけなら、それで十分なはずだ。特殊メイクをほどこしてシーンに技巧をこらし、あの手この手で「リアリティ」を与えて観客を騙すより、よほど誠実かも知れない。映画は作り物であっても、「映画を作ること」は赤裸々な現実なのだ。

なのに、若い僕たちは「感性」とやらでゴダールを好きだとか嫌いだとか言い合っているだけだった。「感動した」「号泣した」「心が温かくなった」式の映画批評も、作品と誠実に向き合っているとは言いがたい。
映画が、いかに巧みに「嘘」を構築しているか。そこに目を向けねばならない。嘘そのものではなく「構築」「構造」を評価せねばならないのだ。


NHKから、受信料の督促状が届いた。「受信料制度についての理解促進活動」→「文書・電話・訪問などによるお支払いのお願い」→「裁判所を通じた法的手続きの実施」と刷られている。
僕は文書と無礼きわまる訪問は受けたが、最初の「受信料制度についての理解促進活動」、これを受けた記憶はまったくない。理解できれば、僕は喜んで受信料を払う。集金請負業者からは「ここで個人情報をバラしてもいいんですか?」とマンションの廊下で怒鳴られ、ドアを開けないでいたら電話がかかってきて、無言のまま切られた。
さすがにNHKにクレームを入れたが、一言のお詫びもない。お詫びがないまま、「裁判所を通じた法的手続きの実施」をちらつかせる、その脅迫的態度には抵抗せざるを得ない。

払いたくないというより、脅迫に屈したくないだけだ。

(C)1965 - SNC

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2017年12月 7日 (木)

■1207■

〈物語〉Febri  発売中
Dp9c1pnumaa_wb3●Febri Art Style
本誌と同じように、美術監督へのインタビュー+美術ボードで記事を構成しています。
今回は、〈物語〉シリーズのほとんどの美術を担当された飯島寿治さんへの取材で、『偽物語』の放送直前以来、5年ぶりのインタビューとなりました。美術ボードは本誌より多く、計6ページ掲載しています。


昨日は、来月公開のCGアニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会へ。
Photoこの映画、ネットでPVを見てから国内公開を心待ちにしていた。2017年公開予定と聞いたきり新たな情報が出てこないまま、今年4月のオーストラリア行きの機内で原語バージョンを観ることができた。
単純明快なプロットに、どこか屈折した、生きることに飽いたようなニヒルな中年ヒーロー。崖だらけの地形を縦横に生かした、乗り物酔いしかねないほど自由闊達、融通無碍なアクションにつぐアクション、アクション、アクション! 3D映画は嫌いだが、これは3Dで見てみたい。試写室の小さなスクリーンでは、ぜんぜん物足りない。
タイトルから『西遊記』のアニメ化だと勘違いする人が多そうだが、孫悟空と猪八戒のキャラクターだけを拝借した、オリジナル・ストーリーである。天竺まで行く旅ではない。

誤解されるのを覚悟で言うなら、『ルパン三世』が『ドラゴンボール』の世界で大暴れするような感じ。殴られるたび、何十メートルも飛んでいって地面にめり込むとか、かめはめ波みたいなビームを撃って、よけると岩が砕け散るとか、どこかで見たような演出センスが気持ちいい。あと30分ほどアクションを足して、2時間の映画にしても良かったのに。
口を開けば不満ばかり出てくる疲弊気味の孫悟空を、咲野俊介さんが魅力たっぷりに演じている。来月13日公開、お忘れなく。


帰宅してから、『LOGAN/ローガン』。
Logan_2017_highonfilmsスチールの雰囲気から、勝手に『都会のアリス』のヒーロー版だろうと推測していたのだが、とんでもない。奇声を発しながら大人の男に飛びかかり、両手の爪でめった刺しにする少女の暴力はショッキングだが、そうしないと生き残って来られなかった不遇な立場の表明ともなっている(本作は、映倫審査でR15指定)。
舞台は、テキサス州のメキシコ国境からノースダコタ州のカナダ国境まで。人身売買され、ミュータントに改造されたヒスパニック系の少年少女たちが国境を越えていく。驚いたことに、まだ12歳のヒロインは、スペイン語で話す。改造されたのはアメリカ国民ではなく、メキシコ出身の子たちばかりなのだ。この凄惨なまでにリアルな設定。


メジャー会社のアクション映画は日本語吹き替えで見るようにしている。ヒロインのスペイン語はさすがに原語のままかと思ったら、なんと12歳の子役が吹き替えしていた()。
640_1『Xメン』シリーズの第一作が公開された17年前は、友人で映画監督だった須賀大観が、推薦の言葉を新聞広告に載せたりしていた。ヒーロー物にここまでのリアリティを持たせられるのかと感心したものだったが、現実感を出そうとしすぎると、こうまで過酷になってしまうのか。

ヒーローたちは「映画の登場人物」ではなく、その後の運命や若いころの体験を根掘り葉掘り暴かれる「キャラクター」として消費されるようになってしまった。『スター・ウォーズ』に新シリーズが予定され、テレビシリーズまで企画されるのは「キャラクター」の保有数が多いからだろう。物語上の要請ではない。
ヒーローだけじゃない、『ダンケルク』に登場した飛行機だって、「キャラクター」扱いされて、映画本編とは切り離されて評価された。


NHK受信料の合憲判決が、ネットを騒がせている。
僕が夜中にテレビをつけっぱなしにして寝るのは、YouTubeで雨や波の音を聴くため。地震速報や天気予報は、スマホから得られる。
テレビの役割、情報の質は激変した。利権を得つづけたい人たちが、鈍感なふりをしているだけ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2017年12月 4日 (月)

■1204■

ゴダールが、1958年に公開されたベスト・フィルムとして選んだ『悲しみよこんにちは』。レンタルで。
14606787_sx540_現在のシーンをモノクロ、回想される海辺の別荘のシーンをテクニカラーで撮影している。色、特に登場人物たちの衣装が美しくて、画面に釘づけになってしまった。淡い色のシャツやドレスばかりなんだけど、ふわっとした中間色を使っている。

主演のジーン・セバーグは真っ赤な水着をまとって鮮烈に登場して以降、ほぼ全シーン、違う衣装で登場する。
回想シーンの明るい衣装に比べて、悲劇が起きたあとの現在のシーン(モノクロ撮影)で、セバーグは真っ黒なドレスを着ていることに気づかされる。そのしっとりした黒の落ち着き具合が、また美しい。

カメラの動きも、素晴らしいものだった。人物の動きをなめらかに追って、常にベストな構図を維持している。俳優の動きとカメラの動きが、エロティックなほど濃密にシンクロしている。
特に、ジーン・セバーグが自ら仕組んだトラップに父親が引っかかり、彼が浮気をしている現場を目撃するシーン。ロングで2人の人物を撮っているだけの単調な構図のはずなのだが、カメラの動きが妖しいほどに優雅で、あまりにも品のいい撮影テクニックに陶酔させられた。


もっと詳しく解説したいんだけど、『悲しみよこんにちは』の面白さを裏づけているのは、この映画を見て感激したゴダールが、翌年に『勝手にしやがれ』を撮ったってこと!

『勝手にしやがれ』はプリ・プロダクション段階だったそうだけど、ジーン・セバーグに出演依頼したのは『悲しみよこんにちは』で魅了されたから。
だけど、『悲しみよこんにちは』はテクニカラーでシネマスコープ。その仕様だけで、超大作です。とても贅沢な企画。カメラの動きが良いということはドリーやクレーンなどの機材を現場に持ち込んで、リハーサルを繰り返すゆとりがあったということ。
それなのに、ゴダールは優雅なカメラワークと丁寧なカッティングを目の当たりにしながら、どうして『勝手にしやがれ』のような「思いつきでカメラを回す」「ワンショットの中でカットを割ってしまう」なんて荒技を、平然とやれのだろうか!?

自らの絶賛した映画を自らぶっ壊すような、愚弄してションベンを引っかけるようなデタラメな映画を、わざわざ同じ女優を主演にして撮っている!
その無神経さ・図々しさと背中合わせの勇気と大胆さに、ひたすら敬服するよね。カッコいいのかバカなのか、よく分からない。


皆さん、映画を観て感激したり人生が変わったり、いろいろあると思いますが……、断言してもいい。『悲しみよこんにちは』を観たゴダールが『勝手にしやがれ』を撮らなかったら、映画は今のようにバラエティ豊かになっていなかったはず!
ゴダールは批評家だったから、映画を批評することって、こんなに破天荒な歴史的発明を生むんだって証明できたと思う。少なくとも、18歳ごろから無作為に映画を観てきて、『勝手にしやがれ』→『悲しみよこんにちは』のコンボほど興奮したことってないなあ……。

やっぱり、映画ってモンタージュ理論の確立された無声映画時代に一度、そしてトーキーになって黒澤明やヒッチコックが活躍した50年代に一度、少なくとも二度は完成を迎えているんだよ。撮影所の中で、プロたちの手によって。
厳格なロジックと潤沢なバジェットに支えられたプロの映画をぶっ壊して、素人に開放したのがヌーヴェル・ヴァーグでしょう! クロード・シャブロルやエリック・ロメールもジャック・リベットも見ないといかんよなあ……今さらだけど。
若いころは50年代の映画を無視して、いきなりロメールだけ観ていたからね。

「○○監督の新作が」とか、「□□シリーズの続編が、リブートが」って話題より、1960年前後にどんな破壊と創造がもたらされたのか、そっちの方がケタ違いにエキサイティングだね。今の僕にとってはね。
(C)1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.

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2017年12月 3日 (日)

■1203■

レンタルで、ゴダールの『勝手にしやがれ』。在庫の多いTSUTAYAでも、ゴダールの劇映画は3本ぐらいしか見当たらなかった。『勝手にしやがれ』は、昨年デジタル・リマスター版が公開されたせいか、新訳となっていた。
Mv5bmtuzodc1ndawn15bml5banbnxkftztc大学時代に見て以来、約30年ぶり。案の定、ラストシーンぐらいしか覚えていなかった。
1960年、ゴダール初の劇映画。トリュフォーが原案なので、急展開する無理やりなサスペンスと、甘ったるい会話と女優の美しさに頼ったロマンスは『ピアニストを撃て』(1956年)に、よく似ている。大学のころは、その辺りの文脈は飛ばして、「最低でもゴダールとトリュフォーは見ておかないと友だちに笑われる」程度の認識だったからね。

こんな素人が撮ったようなデタラメな映画が、ちゃんと吹き替えされて地上波で放映されたなんて、日本の映画文化はヌーヴェル・ヴァーグをどのように受容していたのか気になる。
僕が子供のころ、両親が新聞のテレビ欄を見ながら「今日の洋画は何?」といった会話をかわしていて、商業映画の消費のされ方自体、現在よりアバウトだった気がする。


『勝手にしやがれ』は、ジーン・セバーグのキュートさもあいまって、まんまと面白かった。
適当な長回しで撮っておきながら、あちこちでカットを切っているのため、「会話は続いているのに絵が繋がっていない」という不条理な事態に陥っている。そのカットに流れている30秒は、現実の30秒とは違う。

ゴダールは『勝手にしやがれ』の前にドキュメンタリー映画を撮っているし、乱暴に言うなら、ドキュメンタリーの手法で劇映画を撮ったのがヌーヴェル・ヴァーグと言えるかも知れない。
エキストラを使っていないから、街中のシーンでは、通行人がカメラのほうを振り返る。ドキュメンタリーなら当たり前の光景だが、劇映画でカメラの存在がバレてしまうのは致命的失敗のはず。映画の構造が露呈してしまうのを、まったく恐れずにやってしまったから、ヌーヴェル・ヴァーグは過激だし、批評的でもあった。


冒頭に「B級映画会社モノグラム・ピクチャーズに捧ぐ」の一文が映る。ゴダールが批評家以前に、強烈なシネフィルであったことが分かる。一時期のタランティーノのように、映画文化そのものを好きだったんだろうな。
ジャン=ポール・ベルモンドが、映画館の前で立ち止まる。ハンフリー・ボガートの写真が飾られていて、ベルモンドは写真と同じような顔つきをする。そのシーンは、ベルモンドの演じる主人公がボガートの顔真似をしている、それだけのシーンなのだろうか? 過去の有名な映画俳優だって、きっとこうやってカメラの前で表情をつくっていたに違いない。映画って作り物なんだよ、だから愛しいんだよとでも言いたそうに、僕は感じた。

ヌーヴェル・ヴァーグ以降、ドキュメンタリックな撮り方をする劇映画は激増するけど、批評性や映画文化への偏愛がないんだよな。主演女優への私情たっぷりの傾倒ぶりとか。『勝手にしやがれ』は60年経った今でも、まぶしいぐらいに初々しい。


12月は、仕事はそこそこ。映画も観られるしワインも飲めるし(二日酔いしないし)、いい生活ペースだ。だが、旅行で使ったお金と何よりキャバクラ代が響いているので、もっと仕事しなくては……。寂しいのが好きなので、年末年始をひとりで過ごすのは楽しみだ。

(C)Rialto Pictures/StudioCanal

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