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阿部社長は、両親や教師以外で初めて出会う大人であり、思うように生きる、やりたいようにやる自由人でした。今でも変わらず飄々として、新しいことに興味津々な方です。
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レンタルで、ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』。佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』を読んで、20代のころに見ていたはずだが、この歳で見直して良かった……。なにしろ、「夫婦が車に乗ってイタリアを旅する」程度しか、内容を覚えていなかった。若いころの経験なんて、たいして当てにならんのだなと再認識。
『イタリア旅行』は1954年の公開。ネオレアリズモ映画として捉えると、かなり後期に属する。しかし、ゴダールの『勝手にしやがれ』が1959年だから、ヌーヴェル・ヴァーグとは直結する。
街中にカメラを持ち出して、当時そのままのイタリアの風景をラフに撮るスタイルはトリュフォー、ゴダールに受け継がれている。
ただ、『イタリア旅行』はちょっと凝っていて、イングリッド・バーグマンが車内でクラクションを鳴らす(車内はスタジオで撮っている)、人々が車を避ける(ロケ撮影)。ちゃんとシーンが繋がるよう、ある程度は演技や編集を見越して撮影している。しかし、車を避ける人々はエキストラではなく、たまたまその場に居合わせた本物の通行人だ。
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そのような即興的スタイル以上に驚かされたのが、茫洋としたプロットである。
関係の冷えきった夫婦がイタリアを旅行する。夫はパーティに出かけて女たちと仲良くなるが、妻はやることがないので、美術館や観光名所を訪れる。後者に尺を多く使っており、特に何か事件が起きるわけではない。美術品ばかり撮っていて、人間すら映っていないカットが続く。だが、シーン全体にピリピリとした緊張感が漂っていることは確かだ。
夫と妻は、ついに離婚話を始めるのだが、間の悪いタイミングで、現地の知り合いにポンペイの遺跡へ案内される。かなり唐突な展開だ。遺跡から男女二人の遺体が発掘されるのを見て、妻はその場を立ち去る。夫婦は車で移動するが、祭のパレードに出くわして、立ち往生する。祭の日を狙ってロケ撮影しているらしく、臨場感がすごい。俳優もカメラも、人波にもまれている。
人混みにまぎれこんでしまった妻は、懸命に夫のところにたどりつく。そして、いきなり夫に「愛している」と告げて、二人は離婚を撤回する。劇的な必然性は、ほとんど感じられない。しかし、街中に無防備に投げ出された俳優、コントロール不可能な群集を見ていると、なんとなく流れに納得がいくのである。
脚本段階で綿密に組み上げられたプロットでなくとも、時間とともに変化していくフレーム内の情報が説得力を発揮する場合もある。「映画」と「ストーリー」との距離は、おそらく言葉のない、何をも指し示さない映像の中に存している。「ストーリーがない」「物語の内容がない」と言われようとも、必ず誰かが覚えておかなくてはいけない。
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