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レンタルで、黒澤明の『羅生門』。大学の授業で見て、そのあと最低一回は観ているので、細かいセリフもよく覚えていた。
雨の降りしきる羅生門から、志村喬の回想シーンへと移行する。回想シーンの最初のショットは、森の中から見上げた太陽だ。雨から太陽へ、フィックスから移動撮影へ。この鮮やかなシーンの転換。鉞(まさかり)をかついで森の中を歩く志村を、カメラは追いつづける。
PANやティルトを織りまぜながら、画面左から右へと歩きつづける志村を、ときには真正面や真後ろから撮る。
ところが、カメラはふいに志村の手前を横切ると、さらにPANして志村を追う。すると、志村は画面右から左へと歩くことになる。以降、すべてのショットで志村は右から左へ歩いている。なぜ、いきなり進行方向を逆にしたのか? 志村が死体を発見する前の予兆として、違和感を出したのではないだろうか。死体を発見した志村は、今度は画面左から右へと逃げ出す。最初の進行方向に戻ったわけだが、状況は激変している。
フレーム内の人物のサイズに緩急を持たせ、出来事に応じて進行方向を変える。「志村喬が森の中で死体を発見する」、この劇中の事実だけを効果的に伝えるためにカメラの動きを計算しながら撮影し、秩序にしたがって編集する。これが1950年に到達した、映画演出の完成形だった。
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三船敏郎に犯された京マチ子が、小刀を手にしたまま、夫の前で狂乱する。
京は後ずさり、にじり寄り、右に左に揺れ動く……が、京はつねに画面の真ん中に位置している。つまり、フレームの中で京が動くのではなく、背景が揺れ動くのだ。
京の混乱した心理を、左右に揺れる背景で表現している。「劇」をセリフや俳優に任せずに、カメラの動きで構成している。高いレベルで完成に達した劇映画の姿を、『羅生門』で誰もが確かめることができる。好きとか嫌いとかの問題ではない。
ヌーヴェル・ヴァーグもアメリカン・ニューシネマも『スター・ウォーズ』も、すべてその後の話である。立脚点を定めなくてはならない。
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『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が賛否両論になることは予想していた。しかし、「この展開は不自然だ」「登場人物の行動に納得いかない」などはストーリーへの反応にすぎず、映画への批判になっていない。劇映画の「劇」にしか関心がないから、「ネタバレ」という概念が出てくる。
「劇」の外側に立って映画の価値を推し量るのが、まずは一苦労のはずなのだが、今度は監督や俳優のインタビューにすがる人たちが出てくる。撮影現場のメイキング映像に真実が隠れていると思いこみ、「監督の意図」を評価基準にしてしまう。
「面白い、つまらない、酷評、絶賛、感情移入できる/できない、星5点で何点」――それらストーリーに対する感想が、ウェブを基盤にした映画言論の限界なのだと思い知った。図書館に行けば、カットワークや構図から映画を解き明かそうとする本物の評論家、研究家たちの知恵が書棚からあふれている。
本年度のベストだのワーストだのにも僕はいっさい興味が持てないので、レンタル店で半世紀前の映画から半年前の映画まで、何でも漁る。映画の正体など、そう簡単にはつかめないからだ。
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「廣田恵介さま宛てに……が届いております」と宅配業者を装って、NHKの集金人が訪れた。ものすごい力でドアを開けようとするので、さすがに恐ろしくなって「警察に電話します」と言ったら、無言で逃げ出した。
あまりに酷いと思ったので、NHKふれあいセンターに報告し、「こんな脅迫みたいな恐ろしい目に合わされて、あなたは納得してお金を払う気になれますか?」と聞いた。ふれあいセンターのイノマタさんは、二度、沈黙した。絞り出すように出た言葉は「……個人的意見は、差し控えさせていただきます」。
彼らも、脅しや嫌がらせで金をとるのは不誠実だと気がついている。
脅迫に屈すれば、あなたのその後の人生は汚れる。自由は遠ざかり、あなたの主体性は内側から蝕まれていく。
(C)1950角川映画
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