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【懐かしアニメ回顧録第37回】ボクサーたちの身体を包むコートやスーツ……、さまざまな「布」が「あしたのジョー」の人間関係を浮き彫りにする!(■)「出崎演出」「止め絵」など定番のキーワードに足をとられないよう、新鮮な気持ちで劇場版『あしたのジョー』を見直してみました。
すると、人物同士の別れや出会いのきっかけとしてコートやオーバー、スーツなど、服が効果的に使われていることに気がつきます。
僕には、あらすじよりも演出テクニックのほうが映像作品の「ネタ」に思えます。
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映像作品に対する「ネタバレ禁止」「つっこみどころ満載」などの常套句には、本当にうんざりさせられていて、本当は『スター・ウォーズ/
最後のジェダイ』についても書きたくないのだけど……非常に理知的な映画なので、感心させられた。『スター・ウォーズ』をつくり続ける意義について自己言及した、挑戦的な試みだと思う。
『フラッシュ・ゴードン』など30年代のシリアルを70年代の技術で蘇らせた『スター・ウォーズ』は、誕生した時点ですでに様式化されていたため、数多くの類似作品を生み出した。様式化されすぎているがゆえに、『スター・ウォーズ』らしい、らしくないといった印象だけで判断されがちだ。
前作『フォースの覚醒』は、観客の印象に訴えかけ、動物的な反応やノスタルジアを喚起するだけの空疎な映画だった。『最後のジェダイ』でも、ファースト・オーダーとレジスタンスがどのくらいの規模の組織で、何を巡って戦っているのか、あいかわらず分からない。なぜ両者の戦いにルーク・スカイウォーカーが必須だったのか、『最後のジェダイ』を見た後でも、やはり分からない。もちろん、『帝国の逆襲』で失われたはずのライトセーバーを誰が見つけ出して30年間も保管していたのか、まったく明かされない。多くの欠点を、前作から引き継いでしまっている。
だが、薄っぺらなノスタルジアを打ち砕くパワフルなプロット、シンプルで落ち着いた美術と衣装、一瞬後を予期できないシャープなカットワークに魅了された。SFXでも、ハイパードライブを使った新たな攻撃方法、白い大地を砕きながら赤い土煙をあげて疾走する旧時代のスピーダーなど、高度にデザイン化されたビジュアルが頻出する。
そして、アイデアが斬新であればあるほど、『スター・ウォーズ』の様式は破壊される。様式がどんどん壊されて、作り手が次々と便利な武器を失って、それでも綱渡りのように進んでいく様が、とにかくエキサイティングだった。
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面白いのは、若い世代のレイが「あなたは伝説のジェダイ騎士なのだから、かつてのように戦ってほ
しい」とルークに求めるところだ。そのセリフ自体が、すでに様式なのである。みんなの大好きな“『スター・ウォーズ』らしい”セリフなのである。R2-D2が運んできたレイア姫のメッセージそっくりなので、老いたジェダイ騎士に助けを求める展開自体をパロディにして茶化しているかのようなシーンまである。
何よりもルーク自身が伝説化されることに飽き、英雄や神話や伝統に頼る危険性を語るのだから、こんな痛快なことはない。『スター・ウォーズ』の神格化をやめろ、と『スター・ウォーズ』を使って訴えているのだから、あっぱれと言うほかない。
僕らの知っている『スター・ウォーズ』なら、第二作目のラストは「つづく」で終わるところだが、それはもう他の娯楽大作でさんざん模倣されている様式だ。『最後のジェダイ』は、その陳腐な様式を、もちろん破壊する。前作が残した余計な枝葉をきれいにそぎ落として、去るべき人は去っていった。そして、光も闇もない、正義も悪もない、二項対立で考えるから進歩がないんだとベニチオ・デル・トロの演じる脇役までもが、繰り返し証明していく。
これ以上、何を語るというのだろう? もはや解決すべき劇的葛藤は残っていない。次回作など必要ない。僕たちは「キャラクターのその後の運命」を暴きたがるパパラッチと化していたのではないだろうか。意地悪だし、大胆不敵だし、肝の座った映画だった。
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