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レンタルで、クロード・シャブロルの『いとこ同士』。ヌーヴェル・ヴァーグの先陣を切ったといわれる作品だが、後に続くトリュフォー、ゴダールとはずいぶんな違いがある。図書館で借りてきた『ヌーヴェルヴァーグの現在』には、「ロメール、リヴェット、シャブロル そして彼らの後継者たち…」と表紙に書かれており、トリュフォーとゴダールは含まれていない。
『いとこ同士』を見てびっくりしたのは、あまりにカッティングが明晰かつ的確で、『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』のように、カットとカットの間で芝居がダブって繰り返されたり、あるいは同一カットの中で芝居を飛ばしたり止めたり……といった奔放さがないこと。あの初々しい素人くささがない。
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『いとこ同士』で印象的なのは、ジュリエット・メニエルの演じる、2人の男の間を渡り歩くヒロインだ。ヒロインは二度、妖しい登場のしかたをする。左のスチールは、二度目の登場カットだ。
もちろん、思わせぶりな女優の表情も魅力的なんだけど、扉の陰から入ってきて、無言で歩く様をカメラがPANで追っている。ゆっくりと追うので、ミステリアスな雰囲気が出る。
照明は、最初は右後ろから、つづいて左前から当てられる。PANの途中で、一瞬、彼女の顔はほぼ闇に沈む。ライティングの設計によって、余計に神秘的なイメージが増すわけだ。
彼女にうっとりと見とれる男優の顔をインサートするのも「効果的な」演出なのだが、そんな「機能的な」カットワークを蹴り飛ばしたところにヌーヴェル・ヴァーグの価値があるんじゃないのか? どうも、僕が勉強不足だったようだ。
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当時、ヌーヴェル・ヴァーグを生み出した評論誌カイエ・デュ・シネマでは、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』派、フェデリコ・フェリーニの『道』派に分かれて論争があったそうだ。シャブロルは「ロッセリーニ主義者としての影は薄く、何よりもヒッチコック主義者だったようだ」と、『ヌーヴェルヴァーグの現在』には書かれている。
それを読むと、『いとこ同士』の全体を貫く「機能的な」演出にも納得がいく。あらゆるカット割りやカメラワークが劇、ドラマ、ストーリーの伝達に追従している。でも、そうした技術は観客の視界を「劇」の中に埋没させる一方であって、ヒッチコックがやり尽くしたことじゃないか。
僕は、「劇」そのものを評価することには興味がもてない。「劇」はいかにして成り立っているのか? フレームの外で、カットとカットの間で何が起きているのか? 映画の余白に、映画そのもので切り込んだのが『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』ではないだろうか。
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試写で観たCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』(■)。取材を申し込んで返事を待っている最中なので、あまりネガティブなことは言いたくないのだが、前売り券は「親子ペア券」のみ。上映は一週間限定という過酷な状況のようだ。『マイマイ新子と千年の魔法』が、まさに親子向けに宣伝され、3~4週間でファースト・ランを終えてしまった8年前を想起せずにおれない。
公式サイトには動画が一本もなく、日本語版吹き替えキャスト名すら記載されていない(追記:15日にリニューアルされました)。Twitterアカウントは、決して点数が高いとはいえないレビューサイトをリンクさせてしまうし、これでは宣伝が映画を殺しにかかっているようなものだ。
『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』は、海外の二次創作を見れば分かるんだけど、実はBL好きの女性の皆さん向けでもある。孫悟空もオリジナルの悪役“混沌”も、二枚目だから。その2人がリュウアーという少年を奪い合うんだから、そりゃあ二次創作も描きたくなるでしょうよ。
そっち方面にリーチできていないのが、本当に、本当にもったいない。親子ペア券で観に行くとしたら、お母さんがときめくような映画なんですよ。もちろん、アニメからクールな中年キャラが消えてしまったとお嘆きのお兄さんたちにも。
「CGアニメだから子供向け」って……あまりに視野が狭すぎる。BL好きの皆さん、この傑作を救ってくださいと、かなり本気で願ってます。
(C)2015 October Animation Studio,HG Entertainment
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