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2017年12月 3日 (日)

■1203■

レンタルで、ゴダールの『勝手にしやがれ』。在庫の多いTSUTAYAでも、ゴダールの劇映画は3本ぐらいしか見当たらなかった。『勝手にしやがれ』は、昨年デジタル・リマスター版が公開されたせいか、新訳となっていた。
Mv5bmtuzodc1ndawn15bml5banbnxkftztc大学時代に見て以来、約30年ぶり。案の定、ラストシーンぐらいしか覚えていなかった。
1960年、ゴダール初の劇映画。トリュフォーが原案なので、急展開する無理やりなサスペンスと、甘ったるい会話と女優の美しさに頼ったロマンスは『ピアニストを撃て』(1956年)に、よく似ている。大学のころは、その辺りの文脈は飛ばして、「最低でもゴダールとトリュフォーは見ておかないと友だちに笑われる」程度の認識だったからね。

こんな素人が撮ったようなデタラメな映画が、ちゃんと吹き替えされて地上波で放映されたなんて、日本の映画文化はヌーヴェル・ヴァーグをどのように受容していたのか気になる。
僕が子供のころ、両親が新聞のテレビ欄を見ながら「今日の洋画は何?」といった会話をかわしていて、商業映画の消費のされ方自体、現在よりアバウトだった気がする。


『勝手にしやがれ』は、ジーン・セバーグのキュートさもあいまって、まんまと面白かった。
適当な長回しで撮っておきながら、あちこちでカットを切っているのため、「会話は続いているのに絵が繋がっていない」という不条理な事態に陥っている。そのカットに流れている30秒は、現実の30秒とは違う。

ゴダールは『勝手にしやがれ』の前にドキュメンタリー映画を撮っているし、乱暴に言うなら、ドキュメンタリーの手法で劇映画を撮ったのがヌーヴェル・ヴァーグと言えるかも知れない。
エキストラを使っていないから、街中のシーンでは、通行人がカメラのほうを振り返る。ドキュメンタリーなら当たり前の光景だが、劇映画でカメラの存在がバレてしまうのは致命的失敗のはず。映画の構造が露呈してしまうのを、まったく恐れずにやってしまったから、ヌーヴェル・ヴァーグは過激だし、批評的でもあった。


冒頭に「B級映画会社モノグラム・ピクチャーズに捧ぐ」の一文が映る。ゴダールが批評家以前に、強烈なシネフィルであったことが分かる。一時期のタランティーノのように、映画文化そのものを好きだったんだろうな。
ジャン=ポール・ベルモンドが、映画館の前で立ち止まる。ハンフリー・ボガートの写真が飾られていて、ベルモンドは写真と同じような顔つきをする。そのシーンは、ベルモンドの演じる主人公がボガートの顔真似をしている、それだけのシーンなのだろうか? 過去の有名な映画俳優だって、きっとこうやってカメラの前で表情をつくっていたに違いない。映画って作り物なんだよ、だから愛しいんだよとでも言いたそうに、僕は感じた。

ヌーヴェル・ヴァーグ以降、ドキュメンタリックな撮り方をする劇映画は激増するけど、批評性や映画文化への偏愛がないんだよな。主演女優への私情たっぷりの傾倒ぶりとか。『勝手にしやがれ』は60年経った今でも、まぶしいぐらいに初々しい。


12月は、仕事はそこそこ。映画も観られるしワインも飲めるし(二日酔いしないし)、いい生活ペースだ。だが、旅行で使ったお金と何よりキャバクラ代が響いているので、もっと仕事しなくては……。寂しいのが好きなので、年末年始をひとりで過ごすのは楽しみだ。

(C)Rialto Pictures/StudioCanal

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