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2017年11月22日 (水)

■1122■

昨夜は、新宿ピカデリーでのイベント上映「マイマイ新子と8年目の魔法」へ。
Dscn6970_4079_4『マイマイ新子と千年の魔法』本編の上映後、福田麻由子さんと片渕須直監督の舞台挨拶は楽しかった。監督が9年目、さらに10年目を念押ししてしてくれたのが、とても頼もしかった。
8年前の僕は、新宿ピカデリーで昼間の舞台挨拶を見てから、夕方に友人と待ち合わせて、その日二度目の上映を観たのであった。
(左の画像は、入場者プレゼントのアートカード復刻版で、当時よりサイズが大きいうえに、監督やスタッフの苦肉の自主制作ではなく、ちゃんと大判で印刷されている。8年前のアートカードは、マッドハウス内のプリンターを使った手作りだったのです)。


さて、もう何十回目の鑑賞になるのか数えることすらしていないが、まだまだ、見落としていることが沢山あった。
気になったのは、全体にアップテンポなこの映画の中で、貴伊子の家に初めて新子が訪ねていくシーンの「長さ」である。このシーンだけ、ゆったりと静謐な時間が流れている。
貴伊子が階段を上がりきったころ、新子は「階段なんて家の近所にもないよ」と、まだ階下にいる。同い年の2人の子供の時間が、明らかにズレている。貴伊子のもっている時間と新子のもっている時間は、そう簡単に重ならない。「同じ場所にいるのだから同じ時間を感じているに違いない」というほど、人間も映画も単純ではない。


決定的なのは、貴伊子の自室のシーンだ。幼児の姿のまま時を止めた西洋人形、編みかけの裁縫道具、読みさしの本……すべてが静止している。

新子の視線を追うと、貴伊子の勉強机の上に、彼女が赤ん坊だったころの肖像画が飾られている。カメラは新子の主観カットからオーバーラップし、そのまま肖像画からパン・ダウンして、現在の貴伊子をとらえる。横顔の貴伊子は沈黙している。代わりに、コチ…コチ…と、時計が秒を刻む音が流れている。
赤ん坊の貴伊子から現在の貴伊子へ、ワンカットで8年か9年の時の流れを追っているのだが、冷たい時計の音は、客観的な時間の経過のみを伝える。
リーン、リーンと時計が時報を知らせる。その時報を合図にして、静止していた貴伊子は「牛乳、飲もうか」と席を立つ。おそらく、いつもこの時間になると、彼女は牛乳を飲むように習慣づけられているのだろう。それは、貴伊子を外部から支配する時間だ。

一階のガス冷蔵庫を前に、新子は自分の家の氷式冷蔵庫の話をする。カットバックで、氷0254_001 を切る職人の姿が、短く2カット入る。その勝手気ままな回想カットが、新子の所持している時間の自由さを象徴している。
間髪をいれずに新子は、「テレビを見たことがあるか」と、貴伊子にたずねる。
ところが、新子のペースは直後のカットで崩される。なぜなら、広角気味に捉えられた広い食堂で、新子はバタバタと奥へ走っていくが、すでに貴伊子は机の後ろに位置しており、牛乳をコップに注いでいるからだ。新子はコップに手を伸ばすが、届かない。
新子はセリフも動作も明らかに「速い」のだが、口数の少ない貴伊子がことごとく先回りをしている。階段のシーンから、ずっとだ。


つづくカットは、貴伊子がオルゴールの蓋を開けるアップだ。オルゴールから流れる音楽もまた、時計の音と同じように、時間を無慈悲に均質化する。
0263_3_00051色鉛筆と香水を戸棚にしまおうと歩く貴伊子を、新子は立ち止まったまま、目で追っている。新子はもはや、貴伊子に話しかけるタイミングすらつかめなくっている。新子はその場に止まっているが、貴伊子は歩く。しかし、貴伊子を支配しているのは時計の音やオルゴールの曲といった、機械が生成する客観的な外部の時間だ。

つづいて、新子は麦畑の向こうに見える自分の家を、貴伊子に案内する。「それから、あれが家のおじいちゃん」「あれが家のおばあちゃん」と、視点がめまぐるしく変わる。
大きく広がる空間の中を「こっちを見て」「次はこっちを見て」と視覚的に誘導するのが、新子の持っている世界観だ。時計やオルゴールなど、外部から告知される縦軸の時間に支配されていない。横の広がりがある。
時間が縦ではなく、千年前まで横に広がっている。それがこの作品の個性であり、難解さでもある。


もうひとつ。三田尻駅についたばかりの貴伊子は、タクシーに揺られて田舎道を行く。
すっかり見落としていたのだが、貴伊子の乗ったタクシーが追い越していく自転車。その自転車に乗った警官は、タツヨシの父ではないだろうか。貴伊子は、ちらっとタツヨシの父を見る。
タツヨシの父は劇中、具体的な描写が無いまま自死してしまう。その事件が新子たちの希望を打ちくだいて、彼女たちに最大の困難を与える。新子はもちろん、実の息子すら置いてきぼりにして「先へ行ってしまう」タツヨシの父を、冒頭近くで貴伊子は「追いこしている」のである。

タクシーのシーンは、(新子ではなく)貴伊子が「最大の困難」を克服する伏線になってはいないだろうか。
0972_4_00128千年前の世界を特権的に体験したのは、新子ではなく貴伊子だった。その貴伊子は、ラスト近くの夜の道で、新子を自分の足で「追いこしている」。
同じ距離を違う速度で移動するのだから、やはり2人は同じ時間を共有してはいないのだろう。しかし、それぞれの個体が異なる時間を体感していようと、それでも構わないじゃないか。そうした大らかな、すべてを許容する巨大な時の流れ(映画の中で何度も繰り返される「明日」)に抱かれているからこそ、この映画で描かれる肉親や友人との別れは、ちっとも悲しくない。雄大な「明日」が、ありとありゆる出来事を肯定してくれているからだ。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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コメント

1月は偶然席がお隣になり、今回もお姿を探したのですがお会いできず残念でした。

バウス上演前当時の廣田さんのブログを改めて読んでいたら偉そうにコメントしていたのを見つけて恥ずかしくなりました。

やっぱり熱を出していたんですね...

投稿: やっさん | 2017年11月23日 (木) 22時05分

■やっさん様
こんばんは。1月の新宿ピカデリーでは、本当に驚きましたよね。今回も、もしお見かけしたらご挨拶しようと思っていました。

>バウス上演前当時の廣田さんのブログを改めて読んでいたら偉そうにコメントしていたのを見つけて恥ずかしくなりました。

いえ、誰よりも偉そうに振舞っていたのは、僕でした。スタッフや監督に対しても酷いことを書いているので、恥ずかしくて読み返していません。
舞台挨拶で、ちょっとだけバウス上映時の話が出ましたが、ほぼ公開前後の話題で、良かったと思います。

投稿: 廣田恵介 | 2017年11月23日 (木) 23時28分

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