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2017年10月 8日 (日)

■1008■

レンタルで『突然炎のごとく』。
Ce020c8ef73e3486『ピアニストを撃て』のほうがショックが大きかったが、やはり現場で思いつきのまま撮ったようなルール不在の奔放さは健在であった。
いちばん驚いたのは、女優の表情を印象的に見せるために、ワンカットの中で何箇所か、動きをピタリと止めてしまうこと。つまり、現像したフィルムを見ながらトリュフォーが「この表情がいい」と気に入ったフレームを何十コマも複製して繋いでいるのだ。
それまでの映画は、過ぎ去っていく一瞬をいかに観客の印象に残すか、それに腐心してきたはずだろう。前後のカットや芝居、カメラワークを工夫して、俳優の表情を印象づけるのが「演出」ではないだろうか。
しかし、トリュフォーは、そんなことお構いなしだ。「観客に長く見せたい」と思ったら、そこでフィルムの流れを止めてしまう。わがままで、お茶目で痛快なルール違反なのである。


見せたい表情を、ほんの一瞬だけ「止める」。しかし、フィルムは絶えず動きつづけているので、ビデオの一時停止とは違う。二秒間止めたければ、48コマも同じ絵を繋げなければならない。
映画は、終わるまで一度たりとも止まらない。始まった瞬間から、終わりに向けて突進している。トリュフォーは、それに抗おうとした。しかし、一瞬をフリーズさせるためには、一瞬の何十倍ものフィルムが必要だ。それが、映画の宿命なのである。

俳優が、カメラの前で思いついた演技をする。カメラは、それを「現在」として記録する。その結果、大量のフィルムが残される。いわば、映画の正体は過去の累積である。しかし、映画を見るとき、われわれは瞬間瞬間、「いま起きている新しい出来事」として俳優の演技を見る。過去を未来と錯覚する。

さらに言うなら、「映画は一度たりとも止まらない」、これも錯覚である。映写機にかけられた映画は、実はちょっとずつ止まっては送られ、止まっては送られているからだ。これを間欠運動と呼ぶ。知覚できない無数の「静止」を、われわれは「動き」と錯覚しているのだ。
結局、トリュフォーは、「静止」をもって「静止」を表現したことになる。彼は、カメラと映写機が共犯してわれわれを騙していることに気がつき、映画の目論見の裏をかいたのかも知れない。


さて、アニメーションである。生身の俳優は、自分の演技が無数の「静止画像」として記録されているとは自覚していない。カメラと映写機の存在を意識していない。だが、映画を撮るとは、無数の静止画像を作ることに他ならない。
アニメーションは、「静止画像を作る」ことに自覚的だ。3秒間、俳優の動きを撮った場合、実写映画では72枚の少しずつ違った静止画像が自動的に生成される。アニメーションでは、72枚も必要ない。3コマ打ちなら、24枚の絵を描けば、3秒間の動きを生み出すことが出来る。生身の俳優が24コマ分動いたとしたら、それはどうあがいても1秒にしかならない。

一秒間24枚の静止画に対して、どのような意識と経路でアプローチしているか。それがアニメ映画と実写映画の違いなのではないだろうか。
だとするなら、俳優の芝居を誉めるように、動画を誉めてもいいはずなのだ。……ということに、『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローがピタッ、ピタッと止まりながら演技するカットを見て、ようやく理解できた。
(C)1962 by Raymond Cauchetier

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