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2017年10月31日 (火)

■1031■

レンタルで、ベルイマン監督の『冬の光』。
Mv5bzjkxztqzowetotmxmc00ngu2ltgwzme信仰をめぐる映画なので、難解な会話劇が主体だ。左のカット、苦悩したマックス・フォン・シドーが主人公の神父(グンナール・ビョルンストランド)に相談しにくるものの、幻滅した様子で去っていく。
この構図のまま、カメラは取り残された孤独な神父の顔に、グーッと寄っていく。それこそ、「これ以上アップにしたら、もはや人間の顔だと識別できなくなるのではないか」ぐらい寄る。
同時に、背景が白く飛ぶぐらい明るくなる。おそらく、窓の外の照明をうんと明るくしているんだろう。ドリー(台車)によるクローズアップと照明。それと、俳優の顔の造形。たったこれだけ、ほんのこれだけの素材でしか、映画は「人間の内面」など描くことはできない。セリフで思っていることを語らせる、というのは演劇の手法であって、「映画でしか表現できないこと」ではない。

「人物の内面が描けてない」との批判を、よく耳にする。だけど、その「内面」は視覚から読みとるしかない。視覚に訴える具体的要素は何か? 俳優の熱演なのか。その熱演をアップで撮れば「内面」に迫れるのだろうか? ロングで風景の中にポツンと置いたほうが心情が伝わるのではないか? その取捨選択こそが演出であり、映画なのではないだろうか。


本日、IMAX 3Dで『ブレードランナー2049』鑑賞。
640冒頭、ブレードランナーのK(ライアン・ゴズリング)が、レプリカントの潜む農場へやってくる。戦いの前、キッチンで鍋が沸騰しているのが映る。ふたりの会話が緊張感を増してくると、沸騰した鍋は画面半分ぐらいを占めて、さかんに水蒸気を上げはじめる。それはもちろん、ふたりの対立がピークに達したことの比喩である。
戦いの終わったあと、Kは鍋のふたを開けて、中をのぞきこむ。何が入っていたのか見せないまま、そのシーンは終わる。

鍋の中には、何が入っていたのだろうか? そんなことはどうでもいいし、見せないほうがいい。「ある出来事が沸点に達しており、Kはそれを目の当たりにしている」――。一見無意味なこのワンカットは、これから始まるメインプロットへの壮大な伏線として機能しているからだ。
レプリカントが農業に使っていた芋虫にしても、そうだ。地下で事態が蠢いている。Kはそれを目の前にしながらも、自分とは無関係だと思っている。
画面に映るひとつひとつの事象が、プロットが進むにつれて文芸的な意味をまとっていく。思わせぶりなストイックな映像、詩的なセリフで明かされる断片的な真実とが、静かに積み上げられていく。2時間40分、トイレを我慢する価値は十分の充実感である。


前作『ブレードランナー』では、人間もレプリカントも、生身の俳優が演じていた。実は、それこそが最大の“特殊効果”だったのだと、今作を見て気づかされた。
生身の俳優が演じている以上、彼らが人間なのかレプリカントなのか見分けることは出来ない。前作のレイチェルがそうだったように、同じ俳優がある時点までは人間を、ある時点からはレプリカントを演じる。これを特殊効果と呼ばずして何という?

そこで気になってくるのが、AI美女のジョイ(アナ・デ・アルマス)だ。彼女は半透明のホログラフィに過ぎないが、Kと肉体的に交わりたい。Kも、それを望んでいる。
ではどうするのかというと、ジョイは街娼の肉体と自分のホログラフィの肉体とを重ね合わせる。「中身」は人間だが、「外側」はホログラフィである。この重ねあわされた肉体を、どう表現しているか。デジタルを使えば完璧なシンクロが可能なはずなのに、わざとジョイと街娼の動きをズラして合成している。Kに抱きつきキスするしぐさが、少しずつズレながら繰り返される。息をのむほど美しいシーンだ。
ホログラフィの美女と街娼と、いったいどちらの肉体が「本物」なのか。そもそも「本物」とは何なのか。ひとつひとつの映像が、テーマを修飾し、テーマを浮き彫りにする……というより、具体的な映像をひとつひとつ積み重ねることなしにテーマを語ることなど出来ないのが、映画の宿命なのである。


前作の終盤、ロイ・バッティがデッカードを救った理由は、よく分からなかった。性善説にもとづくヒューマニズムなのだろうか。後からどうとでも解釈可能なシーンだった。
その曖昧さ、もっと言うなら出鱈目さを『ブレードランナー2049』も継承している。プロットの緩さ、甘さを前作の基準に合わせている。そこに好感をもった。ビジュアルを前作と大きく変えながらも、思想や美学は通低している。不気味で非人間的だったフォークト・カンプフ・テストは、形を洗練させて、より無慈悲に使われている。

僕らはもっと、“映像の表面”を見るべきだと思う。表面とは、「前作のあのキャラクターが出てきた、あのメカニックが出てきた」など互換性のないモチーフの話ではなく、何がどのように映されているか、映像の成り立ちのことだ。
「雪の振る病院の前、ひとりの男が立ちつくしている」、「枯れた木の根元に、小さな花が供えてある」――こうしたシンプルでありふれてさえいる映像が、どう機能しているか。ただ美しいだけでなく、映画の進行とともに少しずつ特殊な意味を帯びていく。そんな“表層”が、『ブレードランナー2049』には散りばめられていた。

(C)AB Svensk Filmindustri
(C)STEPHEN VAUGHAN/WARNER BROS.

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2017年10月28日 (土)

■1028■

ホビー業界インサイド第28回:フィギュア原型師という「職業」と「市場」を切り拓いた男、秋山徹郎の過去と現在(
T640_742387『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいた秋山さんに、「是非また取材しに来てください」の約束どおり、お会いしてきました。
こういう記事には「懐かしいですね」とリアクションいただくことが多いのですが、僕は秋山さんがプロデュース側に回って、「フィギュアを作る人たちが食べていけるように」という若いころの理想を実現してらっしゃるから、取材する価値を感じたのです。「懐かしい」なんて動機では、お金をもらって書く記事にはならないですよ。

「懐かしい」も娯楽だし、商売になると思っています。だけど、単に「懐かしい」だけでは誉めたことにならないし、何より発展性がない。「懐かしいですね」と言われると、とても戸惑います。
だから、アキバ総研の「懐かしアニメ回顧録」という連載タイトルには、かなり抵抗しました。結果、「昔は良かった」という情緒的な内容ではなく、シンプルに演出や作劇を探る連載になっているはずです。


高校時代、『マクロス』のプラモデルを教室に持ち寄っていたら、イケメンの無趣味なクラスメートから「そんなもんに金使ってるの? いくらするの?」と聞かれたので、僕らオタク仲間は「700円」と正直に答えました。イケメンは「うわ、信じれない。俺に700円あったら……、メシ代に使うよ」とコメントして、その場を去りました。
僕は700円を趣味ではなく、食事に使うしか脳のないイケメンを気の毒に感じたし、どれほど無味乾燥とした人生を送っているんだと、心の中でバカにしました。
だいぶ後になってから、食事にお金を使わず、少しでも美味しいものを食べようとしてこなかった自分のほうが、むしろ人生を棒にふっているような気もしてきたのです。

自分は食事に無頓着で、コンビニ弁当やインスタント食品、ファストフードが好きでした。
すると、味覚が育たないわけです。いつまでも子供が食べるような食事パターンから抜け出せない。
1989年に発売された別冊宝島『おたくの本』に、オタクっぽい人はイチゴジュースとジャムパンだとか、子供のおやつのような食事が平気と書かれていて、ひそかに赤面したものでした。食事にこだわりがない癖に、「食事なんて、お菓子でいいじゃん」と割り切ることも出来ないわけです。

歳を経たから、自動的に子供時代が終了して、新たに「大人」の設定がインストールされるほど都合よくはないのです。また、子供時代や思春期を、中年になった自分と分断すべきとも思いません。思ったより地続きだろうと感じています。


“詳しい話はしらんで言うんだけど、「パクリ」とか「トレス」とか「資料見て描いたからズルい」とか言いたがる人って、つまるところ、「だから、大した事無い」と言いたいというか、そう思いたいだけなんだよな、多分。”(

僕は、「ネタバレ」にも同じようなニヒリズムを感じています。
電車男が流行したころ、「どうせネタだろ?」という言い方が流行りました。受け狙いのウソ話だろ、という程度の意味です。ネタ=ウソ話には価値がない、信じるほうがバカだというわけです。
「本当はたいしたことないんだけど、秘密にしておくことによって価値があるかに見える」、そのような薄っぺらなニヒリズムが「ネタバレ」という言葉を裏から支えているように思えます。
しょせん、どんな立派に見えるものにも手品のタネがある。タネや仕掛けを先に話してしまったら、秘密が露呈されて見る価値がなくなるかも知れない。だから、タネ明かしせずに黙っておいてやろうぜ、といった傲慢を感じるのです。

僕だけがその映画を見ていなくて、ほかの人たちが見終わっている場で、「えーと…ラストまで話しても大丈夫ですかね?」と、気を使われることがあります。
大丈夫ですよ。あなた方が話した程度で、作品の価値が減じるなんてことはあり得ませんから。たとえ蓮見重彦と四方田犬彦が目の前で話したところで、それでも映画を見る楽しみは損なわれませんので。
作品をつくる人は神ではないし、永遠不変の価値や評価が作品に与えられるわけではありません。ただし、作品と個人との出会いには何千パターン、何億パターンと予想不可能なバリエーションがあり、出会いが多様であるほど、作品の評価軸も無限に広がるのです。今日の僕にとって無価値な作品が、数十年後、あるいは明日、誰かを救うかも知れない。それは自分だけでなく、他人を信じるということです。他人を信じないと、世の中は豊かにならないと思います。

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2017年10月26日 (木)

■1026■

11/1■夜、成田発、イスタンブール(アタテュルク国際空港)経由
11/2■マルタ島(マルタ国際空港)着、チェルケウア港からゴゾ島へ
11/3■ゴゾ島観光 ゴゾ島泊
11/4■ゴゾ島からマルタ島へ移動 スリマ泊
11/5■スリマ、セントジュリアン観光 スリマ泊
11/6■スリマからヴァレッタへ移動 ヴァレッタ泊
11/7■ブルーグロットほか観光 ヴァレッタ泊
11/8■夜、マルタ島(マルタ国際空港)発
11/9■成田着

なんとなくやる気のない日程表だが、実は観光先の詳細は決めていない。バスで二時間も走れば島のどこへでも行ける雰囲気なので、おいおい考えればいいと思っている。


レンタルで、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』。
Sicario別に狙ったわけではないけど、『ブレードランナー 2049』の監督作だ。『メッセージ』も知的な映画だったし、信用できる監督と思って間違いない。
だいたい、特殊メイクや血糊、弾着や死体のプロップなどの出来がいい映画は、ほぼ「当たり」である。


エミリー・ブラントの演じるFBI捜査官が、国防総省のメキシコ麻薬カルテル殲滅作戦に参加する。ところが、チームに属しているコロンビア人の男(ベニチオ・デル・トロ)は、平然と違法行為を犯す。彼は家族を殺された私怨からチームに参加し、汚職警官を利用しては呆気なく射殺し、ついにはカルテルのボスを家族ごと皆殺しにしてしまう。
クライマックス、狭いトンネルの中をチームが進む。暗視ゴーグルとサーモグラフィを介した不鮮明な映像が続き、すさまじいストレスを感じさせる。

そのトンネルを抜けた先では、メキシコ人の汚職警官がパトカーから麻薬を降ろしている。人ひとり通れるのがやっとな長いトンネルの先に、決定的な出来事のおきるステージ、舞台が広がっている。この空間構成が、まことに冴えている。
全編、大胆なシチュエーションを展開しながら、冷静に細部を組み立て、緊張感を途切れさせない。素晴らしい充実感。


冒頭、任務中の爆発事故に巻き込まれたエミリー・ブラントがシャワーを浴びている。彼女の頭からは血が流れている。次のカットは、彼女が頭に負った怪我を、洗面所で治療しているアップ。爆発のとき、彼女も負傷していたのだと分かる。
つづくカットは、彼女が洗面所に、無言で両手をついている。その周囲には、血のついたガーゼが散らばっている。カメラはUPして、鏡に向きあった彼女の顔をとらえる……が、鏡は湯気のため曇っており、その表情までは読みとれない。
だが、安易に表情を見せないほうが、複雑な心境が伝わってくる。(表情を見せたい演出であれば、鏡が曇っている時点でNGテイクのはずである。)

麻薬カルテルの幹部が椅子に縛られ、500mのペットボトルの水を飲まされている。それが拷問のひとつなのだと、会話で分かる。
Mv5bmmm1zgjizmqtzdk5ns00zwfllwfmy2i廊下で、ベニチオ・デル・トロが上司と会話している。彼は1ガロンの大きなペットボトルに水をたっぷり入れて、それをひきずるように幹部の閉じ込められている部屋へと向う。デル・トロは幹部の両足を開かせ、体を密着させたまま会話を始める。そのシーンのラストカットは、1ガロンのペットボトルの置かれた床、そして排水口だ。カメラは、思わせぶりに排水口へ寄る。
ペットボトルの水についても、排水口についても、一言の説明もない。しかし、これから凄まじい拷問が行なわれることは十分に予感できる。密室、縛られた男、大量の水。セリフで説明されない要素だけが画面に残され、残された物だけを手がかりに、僕らの想像力は最悪の事態を予期する。


先日、片岡義男について、聞いたふうなことを書いてしまった。ちょっと反省して、『長距離ライダーの憂鬱』をダウンロードして読んでみた。素晴らしくソリッドで美しい文体で、何よりチャプターが短いので読みやすい。
そして、片岡義男を映像化するにはメカフェチ、バイク・フェチであることが最低条件なのだと理解できた。

(C)2015 - Lionsgate

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2017年10月24日 (火)

■1024■

モデルグラフィックス 2017年 12月号 明日発売
Dm48atxv4aesuoc●「旧1/100ZZ、これはこれで」
バンダイ1/100スケール「ZZガンダム」のキットレビューです。
カラー1ページ、「いつもの連載のようなノリで」と言われたので、キットを組み立てて、カメラマンに撮ってもらった写真を構成して……と、ページを丸々つくりました。

●組まず語り症候群 第60回
今回はAIRFIX製のクイックビルドキットのチャレンジャー戦車です。
旅行に行くので、次号分も続けて撮ってもらったり書いたり、いろいろ忙しく過ごしてます。


レンタルで、『スローなブギにしてくれ』。
Suro_nabugi特典映像に公開当時のパンフレットを文字起こししたものが収録されていて、藤田敏八監督の言葉が熱い。「70年代後半、優しさと倦怠に終始した都会の根無し草どもに、今80年、もっと凶々しいさすらいのロマンを! さまよいつつも、生きよ、堕ちよ」
そう、1981年公開だったのだ。僕は『ガンダム』や『イデオン』に熱中しながら、片方の耳で南佳孝のテーマソングをCMで聞いて、それは冷えびえとした煙草まじりの夕方の東京の空気だった。いつか僕にも手の届く大人のロマンがあるのに違いないと、ひそかに思っていた。ところが、憧れは醗酵しすぎると、空虚なセンチメンタリズムへと姿を変えてしまう。


古尾谷雅人の乗ったオートバイが、群青色に沈んだ朝の町を疾走している。
浅野温子が福生の駅に降り立つと、カメラは駅前ロータリーへとPANする。金髪の子供たちが、ローラースケートを履いて遊んでいる。この無国籍感。
だが、所詮は日活ロマンポルノ出身の監督のやること、下品なベッドシーンやレイプシーン、必然性のない全裸のサービスカット、仕掛けが丸出しの血糊などにより、いっぺんに火曜サスペンス劇場と化してしまう。
「片岡義男」と聞いたときにイメージする、あの乾いたポップ感は、とうとう映像化できなかったのだ。大森一樹の『風の歌を聴け』を見たときも、同じことを思った。それはつまり、監督が誰であろうとも、似たようなスタッフが集まると似たような映画になってしまうということ。

ふだん牛丼屋でメシを食い、ふだんパチンコ屋で暇をつぶしている人たちにとっては、その生活感がリアリズムとなってしまう。この時代、映画界にはそういう人材しか集まらなかったのだろう。逆を言うなら、いまは牛丼屋やパチンコ屋が当たり前のように出てくる野暮ったい映画をつくることは不可能だろう。


昭和は今よりも凶悪な犯罪が多かったし、人権意識も低かったと思う。『スローなブギにしてくれ』では、生きている子猫を電線に吊るしたり、窓から放り投げたりするシーンが出てくる。作り物ではない、本物の子猫を投げている。いま、こんなシーンを撮ったら大変な騒ぎになるだろう。

倫理観だけでなく、映像が社会に占める位置も変わった。
ケーブルテレビ用のチューナーで、YouTubeが見られるので、僕は見知らぬ誰かがキャンプしていたり、家族でバーベキューをやって、えんえんと会話している映像を見てばかりいる。とても面白いのだが、これらを果たして「映像作品」などと呼ぶ必要があるのだろうか? YouTuberの生活が、薄いモニター1枚を介して、直接、僕の部屋へ流れこんできているような感覚。

新海誠監督の『ほしのこえ』が発売された15年前、それに近い雰囲気があった。PCで予告Vlcsnap00019 を見て、どこの誰か知らないまま、DVDを予約した。下北沢トリウッドで上映しているといった情報は入ってきづらかったし、そもそも劇場で上映しているかどうかは、あまり重要ではなかった。
新海という人は何を職業にしていて、どこに住んでいるのだろう、ということが気になった。『ほしのこえ』は映画というよりは、「動画」だったのではないか。

その、PCの前に座っている匿名のひとりひとりの部屋に尋ねていくようなセンシティブな皮膚感覚を維持できているから、新海誠という個人は突出しているのではないだろうか。
大幅に話がそれた。『スローなブギにしてくれ』は、映画業界に暮らしていたプロたちの貧しさが露呈してしまっている。その暮らしなり貧しさなりが、いまでは武器になりうる。
権威が消滅したのではなく、権威を気にする必要がなくなった。価値観が変化したのではなく、ただ関係性が変わったというだけの話だ。

(C)1981 角川映画
(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films

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2017年10月21日 (土)

■1021■

アニメ業界ウォッチング第38回:キャラクターデザイナー毛利和昭さんに聞く、「ミスター味っ子」のアクの強いキャラたちの作り方
T640_741792実写映画に染まっていた大学時代、ちょくちょく見ては笑っていたテレビアニメが『ミスター味っ子』でした。今回、取材のために見直してみたら、やはり声を出して笑ってしまうほど面白い。
比喩表現としてビームや爆発が出てきたのに、カットが切り替わると、そのビームや爆発が物理現象として扱われている、パロディ的演出が冴えてました。あの闊達自在なセンスは『日常』あたりにも受け継がれていると思います。


レンタルで、『西鶴一代女』。
Mv5bmtgxntcwnzk0mv5bml5banbnxkftztc溝口健二は、学生時代に『雨月物語』と『山椒大夫』を見たきりではないだろうか。大学を出たばかりの編集者が「溝口はワンシーン・ワンカットどころか、ワーンシークエンス・ワンカットの場合がある」と話していて、唸らされた。シークエンスはシーンの高級な言い回しではないのだ。

松平家の家中が、主君の側室を探して歩く。芸妓屋の前に、ずらりと女たちが並べられている。家中は、彼女たちの間を縫うように歩き、「顔が長すぎる」「ホクロがある」などと文句をつけては、次の女、また次の女と品定めしていく。
芸妓屋の建物は、画面右奥から左手前へ、きれいなパースで収まっている。カメラは、そのパースに沿って進むのだ。家中が女たちの間を右に左に踊るように歩いていく。いちばん手前まで来たところでカメラは止まり、俯瞰で家中の歩いてきた道、女たちがずらりと並んだ風景を撮る。「こんなにいたのか」と驚くほど、ぎっしりと女たちが座っている。
カットの最後で、エキストラを増やしたのではないかと思って、もういちど見てみた。カメラは家中の歩みと一緒に進むので、一度にフレーム内に入る女は3人か4人ぐらい。最後だけ全員をフレーム内に収めるから、とても大勢に見える。よく計算された、音楽のように美しい長回しだ。


長回しは、俳優とカメラの動き、もっと言うなら撮影現場の“実務”の記録に他ならない。
撮影時、構図を変えたとき不自然に見えてしまう(背の高い俳優のほうが小さく映ってしまう)場合、位置を変えたり、俳優を台に乗せたりする。そういう工夫を「盗んで撮る」と言う。
確か、カットとカットを繋ぐときに時間を飛ばす場合も、「盗む」というんじゃなかったかな。いずれにしても、長回しは場所も時間も盗めない、嘘のつけない実務の記録なのだ。

実務とは言っても、溝口健二の場合は、流れるようなカメラの動きで流動的な構図を組み立てていくから、カメラワークに映画的作為が込められている。海外にショックを与えたのも、その流麗なカメラワークだったはずだ。
カメラが俳優と同レベルで、対等に演技している。俳優の演技を記録するだけの装置から脱却し、意志をもって動くところが画期的なのだ。


選挙でも何でも、僕は負けそうだけど、誠実にがんばっている側を応援したい。自分が多数派でいたい、優勢な側に立ちたいとはまったく思わない。

期日前投票も終わらせたし、後はもうどうでもいいんだけど、小池百合子の「東急ハンズにもニトリにもいろんなもの売ってますけども、ちょっと足りないのが希望」という発言()には絶句した。
商品を作ったり売ったりしている人たち全体を、足蹴にしている。額に汗しないで権力を得てしまった大人は、たいてい創造的な仕事に対して無神経になる。ものの価値を知ろうとも分かろうともしないので、幼稚な暴君になる。言っても直らない、話しても分からない、殺しても死なない相手なので、無言で距離を置くしかない。

「バカ」「無知」とか「頭が悪い」より、「性格が悪い」人のほうが圧倒的に多いと思う。そして、バカで無知な人よりも、性格の悪い人が社会に及ぼす実害には深刻なものがあると、マジで思います。

(C)1952 - Toho

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2017年10月17日 (火)

■1017■

録りこぼしていたアニメを、ウェブ配信で少しずつ見ている。
1_3『少女終末旅行』。軍服を着た少女ふたりが、廃墟となった無人の街を旅する。

ふたりは、終始密着しているため、動きのストロークが短い。一メートルと離れていない相手に、コーヒーカップを手渡す。相手はカップを受け取るまでに指を広げたり、指差したり、細かな演技をする。リピートも入っているが、短い距離の中に多彩な動きを織り込んでいる。絵が単純だから動きも単純なのだろう、というものではない。キャラデに惑わされてはいけない。
アニメーションは時間を組み立てるものだし、時間の推移を味わうものだと思う。


後半、飛行機のプロペラに少女ふたりが乗る。ひとりは、両足で蹴って、プロペラを回そうとする。ひとりは、落ちまいとしてプロペラにしがみついている。二回蹴ったところで、プロペラは大きく回転し、三回目の蹴りを入れようとしていた少女の体は浮いてしまい、縦に回転しながら落ちる。しがみついていた方の少女は、それこそプロペラのように手足を開いて横に回転してから落ちる。
まっさかさまに落ちるのではなく、ほんの少し滞空してから落ちる。実時間とは異なる、絵によって組み立てられた時間を感じとることが出来る。
少女であるとかミリタリーであるとか、モチーフは二の次であって、アニメーションの面白さを分解していくと、「時間をどうコントロールしているか」だけが残される気がしている。そこから副次的に、キャラが可愛いとかテーマやストーリーがどうだとか、文学的な評価へ分岐していくんだと思う。


『Just Because!』、これも第一話だけ。
Ab5e481434d8b684e7e0b9d561f5d290450「時間をどうコントロールしているか」がアニメの面白さ……と言っておいて何だが、こちらは空間を感じさせる作品だった。

教室をロングショットで捉えている。教室の入り口に立った二人の男子生徒が、机に座って日誌をつけている友人と会話をかわす。同じフレーム内に教師がいて、ふたりの女子生徒に「○○と○○は、この後、面談な」と声をかける。ひとりは「はい」と短く答え、もうひとりは「えーっ」と嫌そうな声を出す。
そのとき、入り口に立っていた男子生徒が無言でちょっと教師のほうを見る。そのさり気ない視線の移動によって、急に教室が広く見えるのである。教室は、椅子と机がBOOKに分けてあるだけで、レイヤーでいえば背景一枚だ。その一枚絵が、立場や状況の違う人物たちの芝居を交差させることにより、ちゃんと奥行きのある空間に見えてくる。


別のシーンで、廊下をふたりの人物がすれ違う。ひとりは静かに歩いていて、もうひとりは上体を思い切り前に倒して走っている。ふたりのポーズや移動速度が違うことによって、急に廊下の距離が意識される。一枚の廊下の絵が、廊下として空間的に機能する。

アニメの撮影がデジタル化されてから、撮影台に存在していた物理的な距離は消失した。だから、アニメーションだけの原理で距離を表現しなくてはならない。3DCGで背景を組んだから立体的な表現ができるわけではない(それはアニメーションの原理とは無関係に思える)。人物が息をきらして走ってくる芝居を重ねたとき、初めて距離が表現できるのではないだろうか。
つまり、空間であれ立体であれ、映像においては時間を駆使するほか、表現のしようがない。教室の広さや廊下の長さを表現するには、そこで人物を動かすしかない。あるいは、ピタリと止まった背景のみの絵でも、環境音を入れれば広がりが感じられるかも知れない。


実は、『Just Because!』には優れたカッティングがある。
転校生の少年が廊下を歩いてくるが、進行方向から女生徒ふたりが歩いてきたので、柱の陰に隠れる。手持ち無沙汰になった彼は、手近に置いてあるパンフレットを読む。
彼がふと目をあげると(ここまで、ロングショットのワンカット)、窓際にかばんが置かれている。人物はいない。完全な一枚絵だ。だが、ロングショットに直結した空舞台の(人物がいない)一枚絵は、とても広く感じられる。
すなわち、カッティングによっても空間は表現できる。しかし、音声であれカッティングであれ、結局は時間を必要とする。

『少女終末旅行』がエキサイティングなのは、なるべく演技だけで見せようとしているからだ。そこには実時間ではない、絵の連続のみによる架空の時間が流れている。
『Just Because!』のように、実写映画のロジックを援用した見せ方も面白いのだが、アニメーションとしての純度は薄まる(その分だけ実写映画には近づく)。
しかし、なぜか『少女終末旅行』のように、アニメーションならではの架空時間をむき出しにした作品のほうを、僕は「映画っぽい」と感じてしまう。
(C)つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会
(C)FOA/Just Because! 製作委員会

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2017年10月15日 (日)

■1015■

レンタルで、エリア・カザン監督の『エデンの東』。高校時代に見たはずだが、完全に忘却していたので。
Mv5bodm1mtgxnzyznv5bml5banbnxkftztc冒頭、ジェームス・ディーンの初登場が、左のカットである。
このカット、実はディーンを撮っているのではない。彼の母親であると後に判明する、ひとりの婦人の歩きを追っている。歩いている婦人をPANで追っているうち、ディーンが“たまたま画面の中に映りこんでしまった”に過ぎないのである。
続くカットで、カメラはやはり婦人の歩みをとらえている。婦人の後ろには、ディーンがためらいがちに彼女を追ってきているのが見える。だが、手前を通行人に邪魔されてしまったりして、あまりに存在感が薄い。
画面手前まで婦人が歩いてくると、カメラは再びPANして婦人を追う。その途端、ディーンはフレームの外へ消えてしまうのである。

つまり、カメラを振り向かせているのは婦人であり、ディーンはカメラがPANしたとき、“たまたま”映りこむ。あるいは、“たまたま”切れてしまう。たったそれだけの、脆弱な存在だと分かる。彼には、物語の主導権がないのだ。それはカメラワークを見れば分かる。
なおかつ、両者を同一のフレームに捉えることで、ディーンと婦人とが何か有機的な関係を結んでいるようにも見える。


驚くほど地味なドラマだが、いくつか感心させられる演出がある。
第一次世界大戦にアメリカが参戦すると決まり、ディーンの家族の住む田舎町でも派手なパレードが行なわれる。ディーンは無邪気にはしゃいでいるが、彼の兄は戦争を忌み嫌っているので不機嫌だ。
さて、このシーンで兄をどう撮っているかというと、街路樹の後ろからパレードを見ている。顔面はV字型に割れた木の枝に隠れており、片目だけが見えている。彼の隣には恋人がいるのだが、彼女の顔は隠れていない。兄の顔だけが、木の枝で大きく遮られているのだ。

つまり、登場人物が「不機嫌である」ことを表すのに、セリフや演技では足りないからこそ、「顔を隠す」「顔に傷が入っているようにも、割れているようにも見える」工夫が必要になる。
このような視覚的工夫を見過ごしながら、映画の評価などできないと思うのだが、どうだろう。


録画していたテレビアニメを見ていて、『このはな綺譚』『十二大戦』が面白かった。
16ea51f376c3a7316f304b687ea7ad87ともに第二話から見たのだが、面白いものは途中から見ようとラストが分かっていようと面白い。特にテレビアニメは、セリフがずっと聞こえず音楽だけになったり、あるいはパターンを外れた過剰なセリフが続いたりすると「?」と凝視するようになる。
つまり、音声の情報がコントロールされていると、画面に注意が向く。すると、だいたいパターンを外れた動きが展開されている。『このはな綺譚』では、振り向く芝居で二箇所、枚数を減らして原画をオーバーラップでつないでいるシーンがあった。現実の一秒間と、絵によって構築されるアニメーションの一秒間は、質的に違う。

『十二大戦』は小説が原作なせいもあるだろうが、ひとりのキャラクターの長ゼリフが多い。すると、セリフが画面から剥離して、絵の中の芝居とセリフとがズレはじめる。耳と目で、二重に流れる時間を追うことになる。その分、『十二大戦』は“長く”感じる。放送枠は30分だが、だいたい40分ぐらいのボリュームに感じる。
セリフが続いているのに芝居を見せない(代わりに別の芝居を見せる)など、情報の多層化が体感的な密度となって感じられるような気がする。「面白い」とは、情報が適度に隠され、適度に露呈され、目で画面を追いながらも、脳が画面外の箇所を探っているような状態を指すのではないだろうか。

どうも、作画枚数がかかっているからクオリティが高い、密度が濃くて面白い……というのは違うような気がする。アニメは人手がかかっているから実写より優れていて面白いなんて話では、もちろんない。
どこに何をどう割りふっているかが、大事なんだと思う。

(C)1955 - Warner Bros. All rights reserved.
(C)西尾維新・中村 光/集英社・十二大戦製作委員会

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2017年10月14日 (土)

■1014■

Febri Vol.44 発売中
Dl7otjpu8aah1br●Febri Art Style
今回は『メイドインアビス』です。美術監督・増山 修さんにインタビュー、本編で使われた背景美術をカラー4ページに構成しました。
増山さんは「仕事の8割ぐらいはロジックで成り立っている」とおっしゃいます。絵を「感性」や「好み」だけで描いていると思い込んでいる人は、まだまだ多いのではないでしょうか。

【独占インタビュー】早見沙織・下野紘・洲崎綾・斉藤壮馬が語る、「RWBY VOLUME 4」の新展開と新事実
Dl7ikdku8aab7xdほぼ一年前の『RWBY VOLUME 3』公開時に引き続いて、今回は新メンバーにインタビューさせていただきました。
前回は、物語の展開と同じくしっとり静かな雰囲気でインタビューが終わりました()。それが『VOLUME 3』の余韻とフィットして、特に小清水亜美さんの「やっぱり人間なんだな」という感想が緊張感を与えてくれました。
今回はにぎやかで、終盤は雑談と化しているのですが、それが『VOLUME 4』の先の読めない散文的な終わり方と、よくマッチしていると思うのです。『RWBY』関連のインタビューでは、いい仕事をしていると自負しています。


レンタルで、1976年の米映画『スター誕生』。
Mv5bmtq5mzmymji0ml5bml5banbnxkftztc冒頭から、カメラはコンサート会場の中に投げ込まれる。カットを割りながら歌唱するシーンはプレスコを用いねばならず、仕込みが大変なはずである。ところが、主演のバーブラ・ストライサンドの音声解説を聞くと、すべて同時録音なのだそうだ。
同録の甲斐もあって、カメラが現場に殴りこむような、荒々しい撮り方が出来ている。フレームを決めてから、俳優を配置するタイプの映画ではない。


完成度が高いのは、ラスト近くの構図だ。
落ちぶれたロックスターが、赤いスポーツカーで砂漠の中の一本道を疾走している。空撮も交えて、あらゆる角度から撮りつづける。荒々しいショットの連続で、彼が自暴自棄になっていることが分かる。
だが、カメラはその場にとどまり、画面奥へ去っていく車を凝視しはじめる。車はついに地平線をこえて、画面から消える。
カットが切り替わると、画面いっぱいの空である。車が消えた画面奥から、今度はヘリコプターが画面手前へ飛んでくる。トランシーバーを通して、「転倒による事故」「死者は男性一名」などのセリフが聞こえる。
セリフを裏付けるように、カメラがヘリの動きに合わせてティルトダウンすると、横倒しになってクラッシュした赤い車が、大きくフレームインする。横転した車は、いわば巨大な舞台装置として機能する。人々は、車の裏側で隠れるように芝居をする。

地平線の向こうへ消失した車。その消失点から現れるヘリコプター。事前と事後、決定的に違ってしまった二つの世界を表わすには、むしろ構図を共通させたほうが効果的なのだろう。
そして、カメラは去っていった車の手前に回りこんでいて、その悲惨な末路をあけすけに撮りつづける。いわば、観客を出し抜いて、何が起きたのかを目撃している。事故の瞬間を、われわれは見せてもらえない。だが、カメラは事前に知っていたのだ。
構図をどう決めるか、カメラをどう動かして、何を撮るのか。ただそれだけのことなのだが、われわれは個々のカットを頭の中でより合わせて、「とりかえしのつかいなことが起きた」と、事態を勝手に認識してしまう。われわれは、いつも映画に騙される。だから、「疑いながら見る」必要があるのではないだろうか。

(C)1976 - Warner Bros. All rights reserved.

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2017年10月11日 (水)

■1011■

【懐かしアニメ回顧録第35回】キャラクター描写にまで関与する、「THE ビッグオー」のすぐれたロボットデザイン
Dlqk8vzvwaeevoa第12話のビッグデュオとの対決について書きました。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、左目をカバーで覆っていて、右目がむき出しになった男が敵となります。彼の乗るロボットも、やはり左右不対象の顔をしています。そのロボットが、味方であるビッグオーの右目を砕いて、内部のカメラをむき出しにします。
つまり、敵の男とビッグオーが外見的特徴(右目がむき出しになる)を共有してしまうのです。ここで視聴者は「ビッグオーが倒されるのではないか」ではなく「ビッグオーに乗っている主人公が、敵のように狂ってしまうのではないか」を怖れているはずです。

つまり、「ロボットの顔」を通して、キャラクターに変化が起きてしまうのではないか、という不安が生じるのです。
いつも言っていることですが、「画面に何が映っているか」を検証することなしに、作品の価値は測れません。


レンタルで、ポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』。モノクロ映画。
Papusza_sub1_large自ら文字を習得し、ジプシー出身の詩人として注目された実在の女性・パプーシャの生涯を、時系列を前後させながら描く。しっとりした溶暗・溶明が印象的な映画だ。
ここにアップしたのは、家族に売られて、望んでいない相手と結婚させられるシーン。左右から女たちの手が伸びてきて、花嫁衣裳を着せられている。ワンシーン・ワンカットである上、スローモーション、ようするにハイスピード撮影である。
きれいに化粧してもらいながら、パプーシャの左目からは涙が流れている。なぜハイスピード撮影かというと、このカットには彼女の主観的な時間が流れているからだろう。撮影はあっと言う間だったはずだ。だが、そのあっという間に、家族に売られた彼女はどれだけ様々なことを考えただろう? それを想定すると、撮影時と上映時の時間の流れを変えて、いわば無慈悲に流れていく実時間に抵抗するしか、「人物の内面」を映画の原理をもって描く方法はないかに思われる。


もうひとつ、印象的なシーンがある。上記カットの直後である。
パプーシャを金で買った男が、花嫁衣裳のパプーシャの前に現れて「これから贅沢させてやるぞ」と得意げにしている。パプーシャはナイフを取り出す。男を刺すつもりなのだろうか。
そうではない。彼女は自分の左頬をナイフで傷つけて、「これでも結婚する気はある?」と問いただす。そこで、画面はフェードアウトする。
しかし、シーンはそこで終わりではない。短いフェードインによって、再び、自らの顔に傷をつけたパプーシャのアップが映る。彼女の声がかぶさる。「大いなる森よ、どうか私の子宮を塞いでしまってください」と。彼女の顔の傷から、血が滴り落ちる。
それから、またフェードアウト。長い黒コマがつづく。画面が明るくなると、十数年が経過している。

いちどフェードアウトで終わったはずのシーンを、なぜまた繰り返すのだろう?
二度目のパプーシャのアップでは、彼女の心の声が聞こえる。つまり、このカットは実時間ではなく、パプーシャだけが感知している「内面の時間」なのではないだろうか?
だから、フェードイン/アウトで包みこまねばならなかった。文章でいうと、( )のように。


「作中人物の内面」などという不可視のものを表現するとき、映画は機械的レトリックを駆使せねばならない。そのレトリックとは、すなわち撮影時に俳優が演技している「実時間」と、上映される「映画の時間」とを乖離させることだ。
Dbpbvbcvyaer1mたとえば、『ブレードランナー』終盤、ロイ・バッティが絶命するのを、デッカードが見ている。あのシーンで使われているのは「コマ伸ばし」。一秒間24コマで撮影した後、ひとつのコマを複数に増やして、スローモーションに近い効果を出している。
コマ伸ばしによってコントロールされたイレギュラーな時間は、一秒を一秒と錯覚させる「映画の仕組み」から逸脱する。そのようなメカニカルな手続きによってしか、「作中人物の内面」にアプローチするのは不可能。それが映画なのだと思う。(演技やセリフは、映画ではなく演劇に属している。)

(C)ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013
(C)1982 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

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2017年10月 8日 (日)

■1008■

レンタルで『突然炎のごとく』。
Ce020c8ef73e3486『ピアニストを撃て』のほうがショックが大きかったが、やはり現場で思いつきのまま撮ったようなルール不在の奔放さは健在であった。
いちばん驚いたのは、女優の表情を印象的に見せるために、ワンカットの中で何箇所か、動きをピタリと止めてしまうこと。つまり、現像したフィルムを見ながらトリュフォーが「この表情がいい」と気に入ったフレームを何十コマも複製して繋いでいるのだ。
それまでの映画は、過ぎ去っていく一瞬をいかに観客の印象に残すか、それに腐心してきたはずだろう。前後のカットや芝居、カメラワークを工夫して、俳優の表情を印象づけるのが「演出」ではないだろうか。
しかし、トリュフォーは、そんなことお構いなしだ。「観客に長く見せたい」と思ったら、そこでフィルムの流れを止めてしまう。わがままで、お茶目で痛快なルール違反なのである。


見せたい表情を、ほんの一瞬だけ「止める」。しかし、フィルムは絶えず動きつづけているので、ビデオの一時停止とは違う。二秒間止めたければ、48コマも同じ絵を繋げなければならない。
映画は、終わるまで一度たりとも止まらない。始まった瞬間から、終わりに向けて突進している。トリュフォーは、それに抗おうとした。しかし、一瞬をフリーズさせるためには、一瞬の何十倍ものフィルムが必要だ。それが、映画の宿命なのである。

俳優が、カメラの前で思いついた演技をする。カメラは、それを「現在」として記録する。その結果、大量のフィルムが残される。いわば、映画の正体は過去の累積である。しかし、映画を見るとき、われわれは瞬間瞬間、「いま起きている新しい出来事」として俳優の演技を見る。過去を未来と錯覚する。

さらに言うなら、「映画は一度たりとも止まらない」、これも錯覚である。映写機にかけられた映画は、実はちょっとずつ止まっては送られ、止まっては送られているからだ。これを間欠運動と呼ぶ。知覚できない無数の「静止」を、われわれは「動き」と錯覚しているのだ。
結局、トリュフォーは、「静止」をもって「静止」を表現したことになる。彼は、カメラと映写機が共犯してわれわれを騙していることに気がつき、映画の目論見の裏をかいたのかも知れない。


さて、アニメーションである。生身の俳優は、自分の演技が無数の「静止画像」として記録されているとは自覚していない。カメラと映写機の存在を意識していない。だが、映画を撮るとは、無数の静止画像を作ることに他ならない。
アニメーションは、「静止画像を作る」ことに自覚的だ。3秒間、俳優の動きを撮った場合、実写映画では72枚の少しずつ違った静止画像が自動的に生成される。アニメーションでは、72枚も必要ない。3コマ打ちなら、24枚の絵を描けば、3秒間の動きを生み出すことが出来る。生身の俳優が24コマ分動いたとしたら、それはどうあがいても1秒にしかならない。

一秒間24枚の静止画に対して、どのような意識と経路でアプローチしているか。それがアニメ映画と実写映画の違いなのではないだろうか。
だとするなら、俳優の芝居を誉めるように、動画を誉めてもいいはずなのだ。……ということに、『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローがピタッ、ピタッと止まりながら演技するカットを見て、ようやく理解できた。
(C)1962 by Raymond Cauchetier

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2017年10月 6日 (金)

■1006■

漫画版とアニメ版の表現を客観的に解析した書籍「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」を読んでいたら、矢も盾もたまらなくなって、オープンしたばかりのシアタス調布へ。ようやく、4回目の鑑賞。
640せっかくなので、ULTIRA上映の回を選んだのだが、どこがどう特別なのか、鈍感な僕には分からなかった。機内上映の小さなモニターやレンタルDVDで見た人は『この世界の片隅に』を見たことにならないのだろうか? 彼らの感動は本物ではないのだろうか? そんなことはない。
ある洋画について「IMAXで見ないと監督の意図が十分に理解できない」と諭してくれた人がいたが、監督の意図を正確に理解するのが目的なら、字幕でセリフを追わずに、原語を聞き分けられないとダメなのではないだろうか。そもそも、字幕の面積分、画面が削られている。それは「監督の意図」ではないよね?
こういうくだらない優越意識のスパイラルから、いい加減に脱しないと人生が無駄だよ。僕は今回たまたま、調布までバスで行って、新しい映画館で見たかったというだけで、映画は「監督の意図」を答えあわせする試験問題ではないのだ。

スクリーンや上映環境に「見せられる」のではない。映画は、自分の目で主体的に「見る」ものだ。


「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」は非常に優れた本で、第三者が再検証できるような素材からしか、作品を評価しようとしていない。
この芝居を描くのに、漫画では三コマ使っている。一コマ目はこう、二コマ目でこう、三コマ目はこういう絵だ。従って、このような効果が出ている。この効果を、アニメ版ではどう具体化しているか。一連の芝居の中で、どこが何コマ打ちで描かれているか、ひとつひとつ確かめている。
どこに何枚の絵が費やされているか量ることはディテールに過ぎず、マニアックな見方なのだろうか? 誰もが必ず目にしている「表面」にこそ、作品の正体があるのではないだろうか? 実写映画の芝居で、途中で意識してコマ数を変える(1/24コマの中で動きのタイミングを変える)なんてことは原理的に出来ない。芝居の効果を出すために結果から逆算してコマ数を調整することこそ、実はアニメ表現の正体なのではないだろうか。

そして、「ひとつの動きに動画を何枚、何コマに振り分けているか」、その事実に即して『この世界の片隅に』を評価しているのは、僕が知るかぎり、この本だけだ。
すべてのアニメ作品を、動画から評価せよと言っているのではない。フィルムに記録された「事実だけ」から映画を評価するスタンスを、僕は支持したい。
「心が温かくなった」「理由もなく泣けた」は、観客の感想としては自然だし、正しい。僕だって、泣いたり笑ったりしている。しかし、それは映画評論ではない。映画に点数をつけて定義すら曖昧な「ネタバレ」とやらを避けて、泣けるのか面白いのか見る価値があるのかを牽強付会に判断する雑談、それが映画評論と呼ばれてしまっていないだろうか。

コマ数に言及していれば頭がよくて高級、という話ではない。「とにかく泣けたんだ」という検証不能な気分、見た人の漠然とした内面だけが優先されて、「撮影され、フィルムに焼きつけられている事実」が軽視される風潮を、僕は怖いと感じる。


僕には、『この世界の片隅に』を評価する力はない。「このシーンで、実はこんな描写があった」などの発見は、もう大勢の人に言い尽くされているだろう。
主人公のすずが実家に葉書を出そうとして、住所が分からない、どこでしたっけと食卓で聞く。次のカットは、表札をサッと指差すふたつの手のアップ。セリフに頼らない、この乾いたユーモア。ひとつひとつ、意図が確実に達成されている。フリとオチが繰り返される。問いには、必ず何らかの答えが用意されている。情報を隠したり見せたりするテンポが、映画を前進させ、観客をのめり込ませるよう機能している。

もうひとつ、昭和19年はこういう時代で、広島と呉はこのような場所でした、という説明がここまで省かれているとは思わなかった。だから、観客はどういう時代で、どういう場所なのかを読みとろうと前のめりになる。「戦争は悲惨だった、戦時下は大変だった」というおぼろげな印象を材料に、いつ何が起きているのか、自分なりに検証しないといけない。
そして、何がどう悲惨で大変だったのかという問いには、答えが用意されていない。共感能力が必要とされる。これが初めから300スクリーンで上映されるようなメジャー大作だったら、「ここでこう感動してください」という最大公約数が用意されていたことだろう。
僕が心打たれたのは、「二つの『この世界の片隅に』」が事実に対して謙虚だったように、アニメ化が原作という一次成果物を最大限尊重し、どう読み解いてアニメ表現としての「解」を示すべきか、悪戦苦闘しているところ。本編のラストカットは、径子お姉さんが、娘の服を取り出す芝居だったはずだ。漫画では大勢の描かれたコマのいちばん左に描かれている芝居だが、映画ではPANして径子の姿だけ捉えていた。娘を失った径子の、意外な優しさを拾いたい姿勢が、さり気ないPANから感じられた。

僕には、径子の気持ちまでは分からない。しかし、最後にちょっとだけ径子を救ってやりたい映画のスタンスは理解できるし、共感もする。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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2017年10月 4日 (水)

■1004■

メイキング オブ 『マイマイ新子と千年の魔法』 6日発売
03352733_12011年に発売されたムック本が、電子書籍になります。
電子書籍化の話自体は、かなり前から聞かされていました。当時としては力不足でしたし、出来れば作り直したいし、そもそも僕では役不足とも思うし……。
『この世界の片隅に』の大ヒットによって『新子』にもスポットが当たったことは、とても嬉しいです。今後も、ちょくちょく上映されていくことになるだろうと思います。
冒頭の福田麻由子さんのナレーションが「去年の夏」のところで途切れて、また「去年の夏」で再開する、あの音楽のようなタイミング……時間感覚。「これは何にも代えられない、すごく大事なものが始まった」という直感は、何度見ても新鮮なままだし、いまだに何がどう凄いのか言い当てることが出来ません。


この本の発売日に東日本大震災が発生して、そのちょっと前から、僕は母の死の中でこの本を作っていたのだなあ……と、当時のあれこれを振り返ると、買ってくださった方、これから買ってくださる方には申し訳ないけど、いつか『新子』資料集の決定版が、僕以外の誰かの手によって作られるべきだと思わずにいられません。
『この世界の片隅に』を20回も観に行っている人たちは、どんな気持ちなんだろう。
『新子』が上映されるたびに何度も足を運んで、いつの間にかお客さんが途切れなくなってきて、寒い寒い冬から少しずつ春になって、「そろそろ僕が行かなくてもいいかな」と距離を置きたくなった、ちょっと胸がしめつけられるような気持ち。明らかに過剰な思いいれ。

「廣田さんが、そこまで言うなら」と、映画館に一緒に行った知り合いたち。卒業した小学校から歩いて行ける映画館で、映画そっくりにドカンを開催した日。映画そっくりに集まってくれて手伝ってくれた人たち。福田麻由子さんに渡した花束。
貴伊子の母の不在と、タツヨシの父の自死は、どこかで僕の母の死と結びついてしまっている。人生を分け合ってしまっている。この映画と僕とが。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、僕の人生から離れてくれない。他のどの映画とも違う。あのとき親密にしていた他の誰とも、分け合えない。それは「独占したい」とか「俺がいちばんよく分かっている」というくだらない感情とは、まったく違います。「孤独」なのです。この映画のことを思い返すたび。

僕の「孤独」は、この映画の中に溶け込んでいて、分けることが出来ない。僕は、この映画に甘えているのです。あまり、こういう関係はよろしくないな、と思います。


僕の世界観というのは、「何もなくて退屈だとボヤくよりは、ちょっと豊かな気持ちになれるように、ほんのちょっとの慰めがあるように」。映画やアニメも、そのためにあると思っているし。僕の仕事も「ちょっとの豊かさ」につながってくれればいいと思っているし。
広い道は敷けないけど、細くて歩きやすい道を、あまりいい思いをしていない誰かが安心して使ってくれればいいな……と思っています。

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