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2017年10月31日 (火)

■1031■

レンタルで、ベルイマン監督の『冬の光』。
Mv5bzjkxztqzowetotmxmc00ngu2ltgwzme信仰をめぐる映画なので、難解な会話劇が主体だ。左のカット、苦悩したマックス・フォン・シドーが主人公の神父(グンナール・ビョルンストランド)に相談しにくるものの、幻滅した様子で去っていく。
この構図のまま、カメラは取り残された孤独な神父の顔に、グーッと寄っていく。それこそ、「これ以上アップにしたら、もはや人間の顔だと識別できなくなるのではないか」ぐらい寄る。
同時に、背景が白く飛ぶぐらい明るくなる。おそらく、窓の外の照明をうんと明るくしているんだろう。ドリー(台車)によるクローズアップと照明。それと、俳優の顔の造形。たったこれだけ、ほんのこれだけの素材でしか、映画は「人間の内面」など描くことはできない。セリフで思っていることを語らせる、というのは演劇の手法であって、「映画でしか表現できないこと」ではない。

「人物の内面が描けてない」との批判を、よく耳にする。だけど、その「内面」は視覚から読みとるしかない。視覚に訴える具体的要素は何か? 俳優の熱演なのか。その熱演をアップで撮れば「内面」に迫れるのだろうか? ロングで風景の中にポツンと置いたほうが心情が伝わるのではないか? その取捨選択こそが演出であり、映画なのではないだろうか。


本日、IMAX 3Dで『ブレードランナー2049』鑑賞。
640冒頭、ブレードランナーのK(ライアン・ゴズリング)が、レプリカントの潜む農場へやってくる。戦いの前、キッチンで鍋が沸騰しているのが映る。ふたりの会話が緊張感を増してくると、沸騰した鍋は画面半分ぐらいを占めて、さかんに水蒸気を上げはじめる。それはもちろん、ふたりの対立がピークに達したことの比喩である。
戦いの終わったあと、Kは鍋のふたを開けて、中をのぞきこむ。何が入っていたのか見せないまま、そのシーンは終わる。

鍋の中には、何が入っていたのだろうか? そんなことはどうでもいいし、見せないほうがいい。「ある出来事が沸点に達しており、Kはそれを目の当たりにしている」――。一見無意味なこのワンカットは、これから始まるメインプロットへの壮大な伏線として機能しているからだ。
レプリカントが農業に使っていた芋虫にしても、そうだ。地下で事態が蠢いている。Kはそれを目の前にしながらも、自分とは無関係だと思っている。
画面に映るひとつひとつの事象が、プロットが進むにつれて文芸的な意味をまとっていく。思わせぶりなストイックな映像、詩的なセリフで明かされる断片的な真実とが、静かに積み上げられていく。2時間40分、トイレを我慢する価値は十分の充実感である。


前作『ブレードランナー』では、人間もレプリカントも、生身の俳優が演じていた。実は、それこそが最大の“特殊効果”だったのだと、今作を見て気づかされた。
生身の俳優が演じている以上、彼らが人間なのかレプリカントなのか見分けることは出来ない。前作のレイチェルがそうだったように、同じ俳優がある時点までは人間を、ある時点からはレプリカントを演じる。これを特殊効果と呼ばずして何という?

そこで気になってくるのが、AI美女のジョイ(アナ・デ・アルマス)だ。彼女は半透明のホログラフィに過ぎないが、Kと肉体的に交わりたい。Kも、それを望んでいる。
ではどうするのかというと、ジョイは街娼の肉体と自分のホログラフィの肉体とを重ね合わせる。「中身」は人間だが、「外側」はホログラフィである。この重ねあわされた肉体を、どう表現しているか。デジタルを使えば完璧なシンクロが可能なはずなのに、わざとジョイと街娼の動きをズラして合成している。Kに抱きつきキスするしぐさが、少しずつズレながら繰り返される。息をのむほど美しいシーンだ。
ホログラフィの美女と街娼と、いったいどちらの肉体が「本物」なのか。そもそも「本物」とは何なのか。ひとつひとつの映像が、テーマを修飾し、テーマを浮き彫りにする……というより、具体的な映像をひとつひとつ積み重ねることなしにテーマを語ることなど出来ないのが、映画の宿命なのである。


前作の終盤、ロイ・バッティがデッカードを救った理由は、よく分からなかった。性善説にもとづくヒューマニズムなのだろうか。後からどうとでも解釈可能なシーンだった。
その曖昧さ、もっと言うなら出鱈目さを『ブレードランナー2049』も継承している。プロットの緩さ、甘さを前作の基準に合わせている。そこに好感をもった。ビジュアルを前作と大きく変えながらも、思想や美学は通低している。不気味で非人間的だったフォークト・カンプフ・テストは、形を洗練させて、より無慈悲に使われている。

僕らはもっと、“映像の表面”を見るべきだと思う。表面とは、「前作のあのキャラクターが出てきた、あのメカニックが出てきた」など互換性のないモチーフの話ではなく、何がどのように映されているか、映像の成り立ちのことだ。
「雪の振る病院の前、ひとりの男が立ちつくしている」、「枯れた木の根元に、小さな花が供えてある」――こうしたシンプルでありふれてさえいる映像が、どう機能しているか。ただ美しいだけでなく、映画の進行とともに少しずつ特殊な意味を帯びていく。そんな“表層”が、『ブレードランナー2049』には散りばめられていた。

(C)AB Svensk Filmindustri
(C)STEPHEN VAUGHAN/WARNER BROS.

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