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モデルグラフィックス 2017年 12月号 明日発売●「旧1/100ZZ、これはこれで」
バンダイ1/100スケール「ZZガンダム」のキットレビューです。
カラー1ページ、「いつもの連載のようなノリで」と言われたので、キットを組み立てて、カメラマンに撮ってもらった写真を構成して……と、ページを丸々つくりました。
●組まず語り症候群 第60回
今回はAIRFIX製のクイックビルドキットのチャレンジャー戦車です。
旅行に行くので、次号分も続けて撮ってもらったり書いたり、いろいろ忙しく過ごしてます。
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レンタルで、『スローなブギにしてくれ』。特典映像に公開当時のパンフレットを文字起こししたものが収録されていて、藤田敏八監督の言葉が熱い。「70年代後半、優しさと倦怠に終始した都会の根無し草どもに、今80年、もっと凶々しいさすらいのロマンを! さまよいつつも、生きよ、堕ちよ」
そう、1981年公開だったのだ。僕は『ガンダム』や『イデオン』に熱中しながら、片方の耳で南佳孝のテーマソングをCMで聞いて、それは冷えびえとした煙草まじりの夕方の東京の空気だった。いつか僕にも手の届く大人のロマンがあるのに違いないと、ひそかに思っていた。ところが、憧れは醗酵しすぎると、空虚なセンチメンタリズムへと姿を変えてしまう。
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古尾谷雅人の乗ったオートバイが、群青色に沈んだ朝の町を疾走している。
浅野温子が福生の駅に降り立つと、カメラは駅前ロータリーへとPANする。金髪の子供たちが、ローラースケートを履いて遊んでいる。この無国籍感。
だが、所詮は日活ロマンポルノ出身の監督のやること、下品なベッドシーンやレイプシーン、必然性のない全裸のサービスカット、仕掛けが丸出しの血糊などにより、いっぺんに火曜サスペンス劇場と化してしまう。
「片岡義男」と聞いたときにイメージする、あの乾いたポップ感は、とうとう映像化できなかったのだ。大森一樹の『風の歌を聴け』を見たときも、同じことを思った。それはつまり、監督が誰であろうとも、似たようなスタッフが集まると似たような映画になってしまうということ。
ふだん牛丼屋でメシを食い、ふだんパチンコ屋で暇をつぶしている人たちにとっては、その生活感がリアリズムとなってしまう。この時代、映画界にはそういう人材しか集まらなかったのだろう。逆を言うなら、いまは牛丼屋やパチンコ屋が当たり前のように出てくる野暮ったい映画をつくることは不可能だろう。
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昭和は今よりも凶悪な犯罪が多かったし、人権意識も低かったと思う。『スローなブギにしてくれ』では、生きている子猫を電線に吊るしたり、窓から放り投げたりするシーンが出てくる。作り物ではない、本物の子猫を投げている。いま、こんなシーンを撮ったら大変な騒ぎになるだろう。
倫理観だけでなく、映像が社会に占める位置も変わった。
ケーブルテレビ用のチューナーで、YouTubeが見られるので、僕は見知らぬ誰かがキャンプしていたり、家族でバーベキューをやって、えんえんと会話している映像を見てばかりいる。とても面白いのだが、これらを果たして「映像作品」などと呼ぶ必要があるのだろうか? YouTuberの生活が、薄いモニター1枚を介して、直接、僕の部屋へ流れこんできているような感覚。
新海誠監督の『ほしのこえ』が発売された15年前、それに近い雰囲気があった。PCで予告
を見て、どこの誰か知らないまま、DVDを予約した。下北沢トリウッドで上映しているといった情報は入ってきづらかったし、そもそも劇場で上映しているかどうかは、あまり重要ではなかった。
新海という人は何を職業にしていて、どこに住んでいるのだろう、ということが気になった。『ほしのこえ』は映画というよりは、「動画」だったのではないか。
その、PCの前に座っている匿名のひとりひとりの部屋に尋ねていくようなセンシティブな皮膚感覚を維持できているから、新海誠という個人は突出しているのではないだろうか。
大幅に話がそれた。『スローなブギにしてくれ』は、映画業界に暮らしていたプロたちの貧しさが露呈してしまっている。その暮らしなり貧しさなりが、いまでは武器になりうる。
権威が消滅したのではなく、権威を気にする必要がなくなった。価値観が変化したのではなく、ただ関係性が変わったというだけの話だ。
(C)1981 角川映画
(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films
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