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アニメ業界ウォッチング第38回:キャラクターデザイナー毛利和昭さんに聞く、「ミスター味っ子」のアクの強いキャラたちの作り方(■)実写映画に染まっていた大学時代、ちょくちょく見ては笑っていたテレビアニメが『ミスター味っ子』でした。今回、取材のために見直してみたら、やはり声を出して笑ってしまうほど面白い。
比喩表現としてビームや爆発が出てきたのに、カットが切り替わると、そのビームや爆発が物理現象として扱われている、パロディ的演出が冴えてました。あの闊達自在なセンスは『日常』あたりにも受け継がれていると思います。
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レンタルで、『西鶴一代女』。溝口健二は、学生時代に『雨月物語』と『山椒大夫』を見たきりではないだろうか。大学を出たばかりの編集者が「溝口はワンシーン・ワンカットどころか、ワーンシークエンス・ワンカットの場合がある」と話していて、唸らされた。シークエンスはシーンの高級な言い回しではないのだ。
松平家の家中が、主君の側室を探して歩く。芸妓屋の前に、ずらりと女たちが並べられている。家中は、彼女たちの間を縫うように歩き、「顔が長すぎる」「ホクロがある」などと文句をつけては、次の女、また次の女と品定めしていく。
芸妓屋の建物は、画面右奥から左手前へ、きれいなパースで収まっている。カメラは、そのパースに沿って進むのだ。家中が女たちの間を右に左に踊るように歩いていく。いちばん手前まで来たところでカメラは止まり、俯瞰で家中の歩いてきた道、女たちがずらりと並んだ風景を撮る。「こんなにいたのか」と驚くほど、ぎっしりと女たちが座っている。
カットの最後で、エキストラを増やしたのではないかと思って、もういちど見てみた。カメラは家中の歩みと一緒に進むので、一度にフレーム内に入る女は3人か4人ぐらい。最後だけ全員をフレーム内に収めるから、とても大勢に見える。よく計算された、音楽のように美しい長回しだ。
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長回しは、俳優とカメラの動き、もっと言うなら撮影現場の“実務”の記録に他ならない。
撮影時、構図を変えたとき不自然に見えてしまう(背の高い俳優のほうが小さく映ってしまう)場合、位置を変えたり、俳優を台に乗せたりする。そういう工夫を「盗んで撮る」と言う。
確か、カットとカットを繋ぐときに時間を飛ばす場合も、「盗む」というんじゃなかったかな。いずれにしても、長回しは場所も時間も盗めない、嘘のつけない実務の記録なのだ。
実務とは言っても、溝口健二の場合は、流れるようなカメラの動きで流動的な構図を組み立てていくから、カメラワークに映画的作為が込められている。海外にショックを与えたのも、その流麗なカメラワークだったはずだ。
カメラが俳優と同レベルで、対等に演技している。俳優の演技を記録するだけの装置から脱却し、意志をもって動くところが画期的なのだ。
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選挙でも何でも、僕は負けそうだけど、誠実にがんばっている側を応援したい。自分が多数派でいたい、優勢な側に立ちたいとはまったく思わない。
期日前投票も終わらせたし、後はもうどうでもいいんだけど、小池百合子の「東急ハンズにもニトリにもいろんなもの売ってますけども、ちょっと足りないのが希望」という発言(■)には絶句した。
商品を作ったり売ったりしている人たち全体を、足蹴にしている。額に汗しないで権力を得てしまった大人は、たいてい創造的な仕事に対して無神経になる。ものの価値を知ろうとも分かろうともしないので、幼稚な暴君になる。言っても直らない、話しても分からない、殺しても死なない相手なので、無言で距離を置くしかない。
「バカ」「無知」とか「頭が悪い」より、「性格が悪い」人のほうが圧倒的に多いと思う。そして、バカで無知な人よりも、性格の悪い人が社会に及ぼす実害には深刻なものがあると、マジで思います。
(C)1952 - Toho
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