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レンタルで、エリア・カザン監督の『エデンの東』。高校時代に見たはずだが、完全に忘却していたので。冒頭、ジェームス・ディーンの初登場が、左のカットである。
このカット、実はディーンを撮っているのではない。彼の母親であると後に判明する、ひとりの婦人の歩きを追っている。歩いている婦人をPANで追っているうち、ディーンが“たまたま画面の中に映りこんでしまった”に過ぎないのである。
続くカットで、カメラはやはり婦人の歩みをとらえている。婦人の後ろには、ディーンがためらいがちに彼女を追ってきているのが見える。だが、手前を通行人に邪魔されてしまったりして、あまりに存在感が薄い。
画面手前まで婦人が歩いてくると、カメラは再びPANして婦人を追う。その途端、ディーンはフレームの外へ消えてしまうのである。
つまり、カメラを振り向かせているのは婦人であり、ディーンはカメラがPANしたとき、“たまたま”映りこむ。あるいは、“たまたま”切れてしまう。たったそれだけの、脆弱な存在だと分かる。彼には、物語の主導権がないのだ。それはカメラワークを見れば分かる。
なおかつ、両者を同一のフレームに捉えることで、ディーンと婦人とが何か有機的な関係を結んでいるようにも見える。
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驚くほど地味なドラマだが、いくつか感心させられる演出がある。
第一次世界大戦にアメリカが参戦すると決まり、ディーンの家族の住む田舎町でも派手なパレードが行なわれる。ディーンは無邪気にはしゃいでいるが、彼の兄は戦争を忌み嫌っているので不機嫌だ。
さて、このシーンで兄をどう撮っているかというと、街路樹の後ろからパレードを見ている。顔面はV字型に割れた木の枝に隠れており、片目だけが見えている。彼の隣には恋人がいるのだが、彼女の顔は隠れていない。兄の顔だけが、木の枝で大きく遮られているのだ。
つまり、登場人物が「不機嫌である」ことを表すのに、セリフや演技では足りないからこそ、「顔を隠す」「顔に傷が入っているようにも、割れているようにも見える」工夫が必要になる。
このような視覚的工夫を見過ごしながら、映画の評価などできないと思うのだが、どうだろう。
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録画していたテレビアニメを見ていて、『このはな綺譚』『十二大戦』が面白かった。ともに第二話から見たのだが、面白いものは途中から見ようとラストが分かっていようと面白い。特にテレビアニメは、セリフがずっと聞こえず音楽だけになったり、あるいはパターンを外れた過剰なセリフが続いたりすると「?」と凝視するようになる。
つまり、音声の情報がコントロールされていると、画面に注意が向く。すると、だいたいパターンを外れた動きが展開されている。『このはな綺譚』では、振り向く芝居で二箇所、枚数を減らして原画をオーバーラップでつないでいるシーンがあった。現実の一秒間と、絵によって構築されるアニメーションの一秒間は、質的に違う。
『十二大戦』は小説が原作なせいもあるだろうが、ひとりのキャラクターの長ゼリフが多い。すると、セリフが画面から剥離して、絵の中の芝居とセリフとがズレはじめる。耳と目で、二重に流れる時間を追うことになる。その分、『十二大戦』は“長く”感じる。放送枠は30分だが、だいたい40分ぐらいのボリュームに感じる。
セリフが続いているのに芝居を見せない(代わりに別の芝居を見せる)など、情報の多層化が体感的な密度となって感じられるような気がする。「面白い」とは、情報が適度に隠され、適度に露呈され、目で画面を追いながらも、脳が画面外の箇所を探っているような状態を指すのではないだろうか。
どうも、作画枚数がかかっているからクオリティが高い、密度が濃くて面白い……というのは違うような気がする。アニメは人手がかかっているから実写より優れていて面白いなんて話では、もちろんない。
どこに何をどう割りふっているかが、大事なんだと思う。
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(C)西尾維新・中村 光/集英社・十二大戦製作委員会
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