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【懐かしアニメ回顧録第35回】キャラクター描写にまで関与する、「THE ビッグオー」のすぐれたロボットデザイン(■)第12話のビッグデュオとの対決について書きました。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、左目をカバーで覆っていて、右目がむき出しになった男が敵となります。彼の乗るロボットも、やはり左右不対象の顔をしています。そのロボットが、味方であるビッグオーの右目を砕いて、内部のカメラをむき出しにします。
つまり、敵の男とビッグオーが外見的特徴(右目がむき出しになる)を共有してしまうのです。ここで視聴者は「ビッグオーが倒されるのではないか」ではなく「ビッグオーに乗っている主人公が、敵のように狂ってしまうのではないか」を怖れているはずです。
つまり、「ロボットの顔」を通して、キャラクターに変化が起きてしまうのではないか、という不安が生じるのです。
いつも言っていることですが、「画面に何が映っているか」を検証することなしに、作品の価値は測れません。
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レンタルで、ポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』。モノクロ映画。自ら文字を習得し、ジプシー出身の詩人として注目された実在の女性・パプーシャの生涯を、時系列を前後させながら描く。しっとりした溶暗・溶明が印象的な映画だ。
ここにアップしたのは、家族に売られて、望んでいない相手と結婚させられるシーン。左右から女たちの手が伸びてきて、花嫁衣裳を着せられている。ワンシーン・ワンカットである上、スローモーション、ようするにハイスピード撮影である。
きれいに化粧してもらいながら、パプーシャの左目からは涙が流れている。なぜハイスピード撮影かというと、このカットには彼女の主観的な時間が流れているからだろう。撮影はあっと言う間だったはずだ。だが、そのあっという間に、家族に売られた彼女はどれだけ様々なことを考えただろう? それを想定すると、撮影時と上映時の時間の流れを変えて、いわば無慈悲に流れていく実時間に抵抗するしか、「人物の内面」を映画の原理をもって描く方法はないかに思われる。
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もうひとつ、印象的なシーンがある。上記カットの直後である。
パプーシャを金で買った男が、花嫁衣裳のパプーシャの前に現れて「これから贅沢させてやるぞ」と得意げにしている。パプーシャはナイフを取り出す。男を刺すつもりなのだろうか。
そうではない。彼女は自分の左頬をナイフで傷つけて、「これでも結婚する気はある?」と問いただす。そこで、画面はフェードアウトする。
しかし、シーンはそこで終わりではない。短いフェードインによって、再び、自らの顔に傷をつけたパプーシャのアップが映る。彼女の声がかぶさる。「大いなる森よ、どうか私の子宮を塞いでしまってください」と。彼女の顔の傷から、血が滴り落ちる。
それから、またフェードアウト。長い黒コマがつづく。画面が明るくなると、十数年が経過している。
いちどフェードアウトで終わったはずのシーンを、なぜまた繰り返すのだろう?
二度目のパプーシャのアップでは、彼女の心の声が聞こえる。つまり、このカットは実時間ではなく、パプーシャだけが感知している「内面の時間」なのではないだろうか?
だから、フェードイン/アウトで包みこまねばならなかった。文章でいうと、( )のように。
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「作中人物の内面」などという不可視のものを表現するとき、映画は機械的レトリックを駆使せねばならない。そのレトリックとは、すなわち撮影時に俳優が演技している「実時間」と、上映される「映画の時間」とを乖離させることだ。たとえば、『ブレードランナー』終盤、ロイ・バッティが絶命するのを、デッカードが見ている。あのシーンで使われているのは「コマ伸ばし」。一秒間24コマで撮影した後、ひとつのコマを複数に増やして、スローモーションに近い効果を出している。
コマ伸ばしによってコントロールされたイレギュラーな時間は、一秒を一秒と錯覚させる「映画の仕組み」から逸脱する。そのようなメカニカルな手続きによってしか、「作中人物の内面」にアプローチするのは不可能。それが映画なのだと思う。(演技やセリフは、映画ではなく演劇に属している。)
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