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2017年10月 6日 (金)

■1006■

漫画版とアニメ版の表現を客観的に解析した書籍「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」を読んでいたら、矢も盾もたまらなくなって、オープンしたばかりのシアタス調布へ。ようやく、4回目の鑑賞。
640せっかくなので、ULTIRA上映の回を選んだのだが、どこがどう特別なのか、鈍感な僕には分からなかった。機内上映の小さなモニターやレンタルDVDで見た人は『この世界の片隅に』を見たことにならないのだろうか? 彼らの感動は本物ではないのだろうか? そんなことはない。
ある洋画について「IMAXで見ないと監督の意図が十分に理解できない」と諭してくれた人がいたが、監督の意図を正確に理解するのが目的なら、字幕でセリフを追わずに、原語を聞き分けられないとダメなのではないだろうか。そもそも、字幕の面積分、画面が削られている。それは「監督の意図」ではないよね?
こういうくだらない優越意識のスパイラルから、いい加減に脱しないと人生が無駄だよ。僕は今回たまたま、調布までバスで行って、新しい映画館で見たかったというだけで、映画は「監督の意図」を答えあわせする試験問題ではないのだ。

スクリーンや上映環境に「見せられる」のではない。映画は、自分の目で主体的に「見る」ものだ。


「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」は非常に優れた本で、第三者が再検証できるような素材からしか、作品を評価しようとしていない。
この芝居を描くのに、漫画では三コマ使っている。一コマ目はこう、二コマ目でこう、三コマ目はこういう絵だ。従って、このような効果が出ている。この効果を、アニメ版ではどう具体化しているか。一連の芝居の中で、どこが何コマ打ちで描かれているか、ひとつひとつ確かめている。
どこに何枚の絵が費やされているか量ることはディテールに過ぎず、マニアックな見方なのだろうか? 誰もが必ず目にしている「表面」にこそ、作品の正体があるのではないだろうか? 実写映画の芝居で、途中で意識してコマ数を変える(1/24コマの中で動きのタイミングを変える)なんてことは原理的に出来ない。芝居の効果を出すために結果から逆算してコマ数を調整することこそ、実はアニメ表現の正体なのではないだろうか。

そして、「ひとつの動きに動画を何枚、何コマに振り分けているか」、その事実に即して『この世界の片隅に』を評価しているのは、僕が知るかぎり、この本だけだ。
すべてのアニメ作品を、動画から評価せよと言っているのではない。フィルムに記録された「事実だけ」から映画を評価するスタンスを、僕は支持したい。
「心が温かくなった」「理由もなく泣けた」は、観客の感想としては自然だし、正しい。僕だって、泣いたり笑ったりしている。しかし、それは映画評論ではない。映画に点数をつけて定義すら曖昧な「ネタバレ」とやらを避けて、泣けるのか面白いのか見る価値があるのかを牽強付会に判断する雑談、それが映画評論と呼ばれてしまっていないだろうか。

コマ数に言及していれば頭がよくて高級、という話ではない。「とにかく泣けたんだ」という検証不能な気分、見た人の漠然とした内面だけが優先されて、「撮影され、フィルムに焼きつけられている事実」が軽視される風潮を、僕は怖いと感じる。


僕には、『この世界の片隅に』を評価する力はない。「このシーンで、実はこんな描写があった」などの発見は、もう大勢の人に言い尽くされているだろう。
主人公のすずが実家に葉書を出そうとして、住所が分からない、どこでしたっけと食卓で聞く。次のカットは、表札をサッと指差すふたつの手のアップ。セリフに頼らない、この乾いたユーモア。ひとつひとつ、意図が確実に達成されている。フリとオチが繰り返される。問いには、必ず何らかの答えが用意されている。情報を隠したり見せたりするテンポが、映画を前進させ、観客をのめり込ませるよう機能している。

もうひとつ、昭和19年はこういう時代で、広島と呉はこのような場所でした、という説明がここまで省かれているとは思わなかった。だから、観客はどういう時代で、どういう場所なのかを読みとろうと前のめりになる。「戦争は悲惨だった、戦時下は大変だった」というおぼろげな印象を材料に、いつ何が起きているのか、自分なりに検証しないといけない。
そして、何がどう悲惨で大変だったのかという問いには、答えが用意されていない。共感能力が必要とされる。これが初めから300スクリーンで上映されるようなメジャー大作だったら、「ここでこう感動してください」という最大公約数が用意されていたことだろう。
僕が心打たれたのは、「二つの『この世界の片隅に』」が事実に対して謙虚だったように、アニメ化が原作という一次成果物を最大限尊重し、どう読み解いてアニメ表現としての「解」を示すべきか、悪戦苦闘しているところ。本編のラストカットは、径子お姉さんが、娘の服を取り出す芝居だったはずだ。漫画では大勢の描かれたコマのいちばん左に描かれている芝居だが、映画ではPANして径子の姿だけ捉えていた。娘を失った径子の、意外な優しさを拾いたい姿勢が、さり気ないPANから感じられた。

僕には、径子の気持ちまでは分からない。しかし、最後にちょっとだけ径子を救ってやりたい映画のスタンスは理解できるし、共感もする。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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