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2017年9月25日 (月)

■0925■

ホビージャパン 11月号 発売中
Dkxi5xfueaatlmd●素材をめぐる冒険
マックスファクトリーさんのプラモデル「1/20 霞」を題材に、1980年代からレジンキャスト、ソフトビニールキット、PVC完成品へと変遷してきたフィギュア素材について、MAX渡辺さんにインタビューしながらレポートしてみました。

90年代後半から00年代初頭のフィギュア雑誌だけでなく、オークションでキャストキットやソフビキットを手に入れて、検証に徹しました。今後、他の製品についても「プラモデルとして発売されるまでの文脈」レポートを予定しています。


レンタルで、アイルランド・イギリス・カナダ合作映画『ブルックリン』。
640_21950年代、アイルランド人の女性がアメリカのブルックリンへ移り住み、イタリア人の男性と恋に落ちる。恋愛映画なんだろうけど、僕はジャンルは割と何でもいい。
まず、船で旅立つ主人公が、家族と別れるシーンが良かった。
主人公は船に乗っているので、港で見送る姉と母が小さく見えている。やがて、別れの悲しみに耐えかねた母は画面右手へ去っていく。それを追うように、姉も画面右手へと去っていく。
船から、去っていく2人を見ている主人公。船が動き出したので、彼女もまた、画面右手へ向かってゆっくり移動する。彼女の見ている、港の人々も、船の動きにあわせて、画面右側へ流れていく。いわば、別れのシーンは「画面右側へ人々が動く」ことで、美しく統一されている。
ところが、ひとりになった主人公が船内に下りてくると、彼女は後姿でタラップを降りてきて、画面奥へと歩き出す。次に、廊下へ顔を出す。廊下の奥から船員が歩いてきて、主人公を気にもとめず、画面手前からフレーム外へ抜ける。

つまり、家族との別れのシーンはゆったりした「横の構図」。ひとりになった途端、ソリッドな「縦の構図」になる。
もしかすると、船内はロケセット(実際に存在する場所をセットとして使う)で、この構図でしか撮れなかったのかも知れない。
640_2_2だけど、彼女が調和的な人物、特に恋人と一緒にいるシーンは、ほぼ間違いなく横の構図。関係のはっきりしない、あるいは調和的ではない人物は彼女の手前か奥にいる。そのほうがギクシャクした感じが出る。プロットが明快だから、よけいに構図の効果が気になる。


もうひとつ、格別に美しいシーンがある。
主人公は、移民の世話をする神父と知り合って、教会の炊き出しを手伝う。同じアイルランド人のホームレスのおじさんたちを招いて、クリスマスの夜に食事会を開くのだ。
汚いおじさんたちが食事している中、ひとりだけ歌手がまじっていて、その場に立ってアイルランドの民謡を歌いはじめる。これが郷愁を誘う、とてもいい曲なのだ。
それまで引きの絵で食事会の全体を捉えていたカメラは、ひとりひとり、ホームレスのおじさんたちがしんみりと歌に聞き入る表情をアップで撮る。前後の人物がボケているから、一見すると似たような人たちばかりのようで、実はひとりひとりに表情があると分かる。

その、朗々とした歌声がつづいたまま、みんなが乾杯しているカット、食事会が終わって眠りこんでしまった老人を起こすカットなどを、細かく入れていく。主人公がボランティアを終えて外に出ると、雪が降っている。彼女は画面手前に歩いてくるが、ちょっとスロー気味にして、アクションを飛ばしている。そして、時間経過とは関係なく、美しい歌声が続いている。
とても詩的なシーン。僕は、いまネットで調べるまで、アイルランドとイギリスの関係、アメリカへの移民などの事情は、まったく知らなかったんだけど、映画って知識をこえられる。
少なくとも、移民して仕事のない人たちの悲哀は、このシーンが美しく撮られているがためにちょっとだけ理解できたし、ちょっと調べてみようとも思うわけ。

世間では「何を」題材にした映画なのか、ジャンルやモチーフが重要視されていることも知ってはいる。だけど、モチーフが「どのように」描かれているか、そのメカニックを解き明かす人たちがいなくなってはいけないと思うのですよ。

(C)2015 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.

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2017年9月24日 (日)

■0924■

友人2人と、TOHOシネマズ新宿にて『エイリアン:コヴェナント』。
Aliencovenant120170504023409ひとりはオタク濃度が薄く、前作『プロメテウス』は見ていなかった。だが、『エイアリン』公開の年は全員が中学生だったので、一作目だけは何度も見ている。まず、『エイリアン』を覚えてさえいれば、『~コヴェナント』は理解できる。そして、『エイリアン2』以降の通俗性と作家性がごった煮となった何本かの続編シリーズは、すべて忘れてもいい。

もちろん、『~コヴェナント』が第一作目『エイリアン』の前日譚であることも理由のひとつではある。もうひとつ、『エイリアン2』で、エイリアンは女王蟻のような単一のメスが卵を産むことで数を増やしているという設定が付け加えられた。第一作目でカットされたシーンには、犠牲者の肉体が生きたままエイリアンの卵と化していくシーンがあった。つまり、エイリアンは人間さえ犠牲にすれば、個体でも繁殖していくことが出来る。その残虐な設定が気に入っていたので、クイーン・エイリアンが登場したときは、かなり白けたものだった。
『~コヴェナント』は、エイリアンが繁殖するのになぜ人間を必要とするのか、はっきりと描いている。人類の到達していない惑星で生まれたはずのフェイス・ハガーが、どうして人間の顔にジャスト・フィットしたのか。ちゃんと説明できているので、好感をもった。


また、洗練された西欧人が未知の文明と出会って価値観を変えざるを得なくなる、リドリー・スコットが頻繁に取り上げてきたテーマも、きっちりと表出している。
640前作『プロメテウス』で登場したロボット(第一作目ではアンドロイドではなく「ロボット」と呼んでいたので、これに倣いたい)が、『~コヴェナント』にも登場する。彼は、たったひとりで無人の惑星に篭り、ずっとエイリアンの研究を続けていたのだ。
その研究の様子がいい。パソコンなどのハイテク機器はひとつもなく、実験の記録はすべて紙にインクで書き、丸めて棚に整理してある。標本は、薄汚れたガラス瓶に収められている。
中世ヨーロッパの修道院のような研究施設を訪れるのが、人間に奉仕してきた同じタイプのロボットである。冒頭で、彼は(進歩した文明を象徴するかのような)真っ白な清潔な部屋で生まれた。彼には、音楽の才能がある。エイリアンの研究に耽溺しているもう一人のロボットは、原始的な笛を持っているのだが、彼は吹き方を知らない。そこで、ロボットがロボットに楽器の演奏のしかたを教えるシーンが出てくる。
異文化の邂逅にしか、リドリー・スコットの興味はないのだろうし、それで十分であることが改めて分かる。


だが、僕はモチーフ、題材を映画の本質だとは思っていないので、ロボットの知能や進化、エイリアンの秘密などには、それほどの興味はない。
一方で、『スター・ウォーズ』のように「映画の体をなしていないが、題材や被写体が猛烈に面白い」タイプの映画にも、しばしば魅了されてきた。だからこそ、モチーフの魅力で映画の価値を推し量ってはならないと思う。
カッコいい宇宙船が出てきたからカッコいい映画とはならない。それなのに、いつでも「モチーフがいかに魅力的であるか」が、映画の印象とごっちゃに語られる。「どんな知恵を使って、モチーフを魅力的に見せているか」が、映画の価値ではないのだろうか。
あるいは、モチーフの面白さに頼りすぎ、映画としてはガタガタな状態からも、別の角度から「映画の価値」は見つかるのではなかろうか。

『~コヴェナント』の冒頭に、生まれたばかりのロボットの瞳のアップがある。『ブレードランナー』でも瞳のアップがあったぞ、という比較画像がネットに出回っている。
同じ作家が同じ構図を使っていることに着目するのは、とても良いことだ。そこから、映画の本質を探る旅が始まるのだろう。だが、ネットの常で、「ホントだ同じ絵だね!」で思考停止してしまう。いつものように祭のネタとして燃焼させて終了、なのだ。

慎重を期するには、やはり紙に印刷された研究書を、孤独に読み進めるしかない。ネットには共感を求める意志が溢れすぎていて、僕はときどき怖くなる。

(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

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2017年9月22日 (金)

■0922■

レンタルで、『ピアニストを撃て』。
Mv5bmtm2mju3njgwn15bml5banbnxkftztc大学を出たばかりのころ、レンタルビデオで確実に見たタイトルなのだが、ここ半年か一年ぐらいヒッチコックを見続けて、ようやくトリュフォーの存在価値が分かった。佐藤忠男の『ヌーヴェルヴァーグ以後』をサラッと読んだだけではダメだったんだ。

ヒッチコックの映画は、とにかくおそろしく金がかかっている。セットを丸ごと建てるなんて当たり前。車での移動シーンにはスクリーン・プロセスが使われるが、単純にフィルムの量が二倍になる。現場で撮れないカットは、ミニチュアやマット・ペインティングで背景を作る。特殊効果のプロたちが、総動員されているのだ。
その点、トリュフォーの『ピアニストを撃て』はどうだろう? 街中のシーンは、カメラを街中に持ち出して、そのまま撮っている。車での移動シーンは、揺れる車内にカメラを載せて、ラジオから流れる音楽をバックに、えんえんと車窓の風景を撮ったりしている。
カット割りはどうだろう? もう、てんでデタラメだ。同じシーンなのに、望遠で撮ったり広角で撮ったりするから、別の場所のように見えてしまう。思いつきで撮り足しているのだろうか、似たようなサイズ、似たような構図の絵を無理に繋ぐものだから、芝居がつながらない。
少人数で撮っていることが丸分かりの、自主映画を見ているかのようだ。

だが、その素人くささが瑞々しい。このデタラメさが、ヒッチコックを当たり前のように見ていた1960年当時の観客にとって、どれほど衝撃だっただろう? 1960年といえば、なんとヒッチコックが(あえてモノクロで)『サイコ』を撮っている。
『サイコ』では、階段から人が落ちるカットを、わざわざ俳優と背景を合成して作っている。『ピア二ストを撃て』では、その手のトリックは皆無だ。雪の中でヒロインが撃たれる緊迫したカットを、ロングの絵で、あわてたようにカメラを振って撮っている。とてもヘタクソなのだ。だけど、計算され尽された『サイコ』に比べると、ラフで自由でおおらかで、不思議と美しい。


若いころは、いきなりヌーヴェルヴァーグやネオレアリズモを見るものだから、その価値が分からない。「撮り方がかっこいい」程度の浅い認識しかできない。
ヒッチコックや黒澤明のように、精度の高い娯楽作品を経ないと、つまり、ある程度の映画史を意識して見ないと、未熟な美意識だけで価値を定めてしまう。それでは、あまりにもったいない。

幸い、歩いて数分のところにあるレンタル店で、ヒッチコックもトリュフォーも揃っていて、たった百円で借りてこられて、何十回でも見直すことができる。
今なら、トリュフォーがヒッチコックにインタビューしていたことも知っているし、ヒッチコックの映画の価値も分かる。適切なカット割り、適切なカメラワークを理解しているからこそ、それらを無視して、ホームビデオのように映画を撮ったトリュフォーの大胆さが分かる。ヌーヴェルヴァーグは、映画を大衆に開放した。僕らが8ミリを回していられたのは、彼らが低予算でアバウトな映画の撮り方を広めたからだ。
ヌーヴェルヴァーグは20年か30年かかけて、大予算の娯楽映画に吸収されていったのだと思う。僕らが見慣れている映画には、必ず元型がある。慣れてしまったから、いま公開されている最新作こそが最も進化した映画だと信じ込む。

若い頃のほうが、若々しい映画の価値が分かるのか、というと、そんなことはなかった。「感性」なんて曖昧なものでは、物事は推し量れないのだ。
ほぼ30年ぶりに見た『ピアニストを撃て』の値打ちを理解できて、本当に嬉しい。そして、明日は小学校時代の友達と『エイリアン:コヴェナント』だ。

(C)1960 - Cocinor

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2017年9月20日 (水)

■0920■

レンタルで、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』。
640 日本に布教しに来て、そのまま消息を絶った神父(リーアム・ニーソン)を、かつて彼に師事していた若い神父たちが探索に行く。そのうち一人は、アダム・ドライヴァーなので、ちょっと『スター・ウォーズ』濃度の高い映画だ。新しい『スター・ウォーズ』にも、これぐらいの神妙さがあっていいかも知れない。

主人公は、もうひとりの若い神父(アンドリュー・ガーフィールド)である。二時間半の映画のうち、ほぼ二時間が経過した頃、ようやく彼はリーアム・ニーソン演じる師と再会する。ところが、師はとっくにキリスト教から仏教に改宗しており、日本名で平穏に暮らしている。
アンドリュー演じる若い神父は、信仰を棄てきれない。しかし、彼のせいで日本人の隠れキリシタンが拷問にあって、次々と苦しみながら死んでいく。さて、彼らを救うために自ら信仰を棄てるべきか、それとも信徒たちを見殺しにすべきなのか。
そこまで辛い局面に際しても、神は黙っている。タイトルの「沈黙」とは、そういう意味である。

なので、二時間をすぎた頃からが面白い。それまでに、キリスト教と江戸幕府、それぞれの言い分や考えの違いも、たっぷりと聞くことが出来る。勉強になる。
しかし、それは「ストーリーが面白い」というやつである。「キャラクターの内面」も、モノローグで縦横に語られる。信仰や宗教に興味のない僕でも、いろいろ考えさせられる。
だが、それは「映画が面白い」こととは違うのではないか。


会話シーンがほとんどな上、単調な切り返しばかりだ。
人物Aが話したあとに人物Bだけを映せばいいのに、人物Bを大きくとらえたカットに人物Aが小さく映っており、前のカットと仕草が違ったりする。すると画面がカクッと動くため、かなり雑な印象を受けてしまう。
この映画の原作小説は、1971年に篠田正浩が映画化している。なぜ、スコセッシが今さら映画化する必要があったのか。しかも、脚本さえ読めば理解できてしまうような映画を。
だけど、それでもいいのだ。僕がカットだ構図だと神経質なのもイヤだろうけど、戦艦だのロボットだの怪獣だのヒーローだのが出てきて、さあみんなでネタにして騒ごう、さあIMAXだネタバレ禁止だというノリにも疲れる。こういう、どこの誰が見てもある程度の“読後感”が得られる落ちついた映画を見て、ホッと一息つけるのも事実だ。

日本の閑散とした山村に西洋人が来て、そこそこ見慣れた日本人俳優たちが彼らを囲む絵づらも、程よいバランスだったんだろうな。


11月には、マルタ共和国へ旅行する。
マルタ島、ゴゾ島、ほんの小さな島ふたつだけの国である。バスで、端から端まで行けるという。島から島へは、フェリーが頻繁に行き来している。英語が公用語で、一週間ぐらいの滞在がちょうど良さそうだ。友達に話したら、「マルタ島は、きっと美しいはずだよ」と、観光地を教えてくれた。
今は、それで十分だ。お互いの喜びを分かち合える友達。他人の痛みを理解できる心。どんな知識よりも大事なことだ。認められなくとも、愛されなくとも、まったく構わない。戦場みたいな人生は、もうまっぴらだ。

派手に、にぎやかに生きている人が幸せとは限らない。孤独とは、自由の隣人だ。

(C) 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

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2017年9月19日 (火)

■0919■

中学生のころにテレビ放送されて、すっかり見た気でいた『パピヨン』を、レンタルで。
Mv5bymyzntm5zduty2qxzc00odu5lwe2yjuボートで、監獄から洋上へと脱出した主人公たち。ダスティン・ホフマンの演じるニセ国債づくりの天才が、化膿した傷口を焼いたナイフで消毒してもらう。何しろ、ボートの上である。麻酔がないので、大量に酒を飲ませてもらい、「もう私はベロベロに酔ってしまったよ」と力なく笑う。このシーンだけ、やけにハッキリと記憶していた。
特に構図がどうとか、カッティングがどうとかいう作品ではない。どちらかというと、構図やカット割りはルーズな、荒々しい作品だ。

では、何がこんなに面白いのかと考えながら見ていたのだが、ようするに次から次へと変わったシーンが展開されて、飽きさせないのだ。
前半、ギアナの監獄へ送られたスティーブ・マックイーン演じるパピヨンとダスティン・ホフマンの演じるドガが、沼での労働中、ワニを捕まえようとする。特に必然性のあるシーンではないが、本物のワニを生身の俳優二人が捕まえようと身構える、長いワンカットだけでも面白い。その後、ワニの腹をナイフで裂くシーンもある。

一度目の脱獄に失敗したパピヨンが、独房に閉じ込められる。独房の窓から頭だけ突き出した囚人たちが、ひとりひとり散髪してもらう。かと思うと独房の窓をふさがれて、画面が真っ暗となる。わずかな光の中で、ムカデやゴキブリをすりつぶして、スープに入れて食べるシーンがある。とにかく、次にどんな仰天するようなシーンが出てくるのか、それで興味をつないでいる。


脱獄に成功してからも、メチャクチャな「絵」がつづく。
海岸に流れ着いたパピヨンは制服を着た白人たちに出会うが、彼らは吹き矢を使う原住民にパピヨンを追わせるのだ。原住民の仕掛けたワナで、仲間のひとりが死ぬのだが、「だって、この方が面白いでしょ?」と言わんばかりの珍妙な形をしたワナであった。

うまく逃げのびたパピヨンは、少数民族の村にかこわれ、オッパイを丸出しにした美しい現地の娘と仲良くなり……と、ほぼ「絵」の面白さ、珍しさだけを優先したような展開が相次ぐ。オンボロのトラックから馬車へ乗り換えたり、そのために村の長からもらった真珠を使ったり、リアリティもなければ必然性もない冒険がえんえんと続く。ラストはなんと、ココナツを詰めた袋を抱えて、海へ飛びこむ。ココナツの浮力で、実際に荒波のうえでプカプカと浮かんでいるのだからすごい。
特殊メイクのハンセン病患者も出てくるし、ようするに見世物である。なにか高尚なテーマがあるわけでもないし、映画としてのレトリックが冴えているわけでもない。意外すぎるシーンとモチーフの詰め合わせ、というだけである。

70年代のアメリカ映画は、面白さに対してがめつい。“精細な感受性”など、ゴミ箱に放り捨てるようなヤケクソさ、雑駁なバイタリティがある。


前回、『ダンケルク』の縦の構図について書いた()ところ、IMAXで見ないと画面上下が切られたものを見せられることになるぞ、と複数の方から聞かされた。
しかし、画面の上下が切られた途端、被写体の位置関係が逆になったり、縦の構図が横の構図になるような大転換が生じるのだろうか? 結局、劇場都合の設備の違いやアスペクト比の違いで「分からない映画が分かるようになる」という信仰は、自分の目が信じられずに「外部」に映画の価値を委ねているのだと思う。

以前から言っているように、飛行機の機内上映の狭いモニターで見ても、面白い映画は面白い。つまらない映画はIMAXだろうと4DXだろうとMX4Dだろうと、つまらない。というより、しょせんは「自分の目」で見ているのだから、その人の審美眼が濁っていれば、何をどんな環境で見ても面白くはならない。
僕は深夜テレビで『サブウェイ』を見て、映画の半分をすぎたあたりから見たにも関わらず、その洒脱なセンスに惚れこんでしまった。友達に「こんなシーンのある映画を知らないか?」と聞きまくって、ようやくタイトルを知ることが出来た。
あるいは、名画座で抱き合わせにされた映画が、フィルムも傷だらけならカットも飛びまくる、あるいは音声が出ない、映写技師が巻数をかけ間違える……というボロボロの状況下で見ても、それでもやはり声が出ないほど感動したこともあった。

そのような「取り返しのつかない体験」だけが、その人に固有の価値観を作り上げるのだと思う。IMAXで観なければ、音響のいい映画館で観なければ……と、僕自身がこだわって映画館を選ぶことはあるが、その環境下で見ていない人の感想でも、その人に固有の体験から生じているだろうから尊重する。
自分だけの価値観を持つ――、それは人生の孤独を受け入れることだ。その覚悟のない人は、自分の外部に、自分の不幸や幸福を委ねたがる。ようするに、「人のせいにしたがる」のだ。

(C)1973 - Warner Bros. All rights reserved.

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2017年9月18日 (月)

■0918■

立川シネマシティで、『ダンケルク』。
2017090900010000piaeigat000view予備知識としては、英軍と仏軍がダンケルクという海岸まで追いつめられて、ドイツ軍から逃げねばならない。その程度しか分かっていなかった。だけど、十分に楽しめました。
この映画は、おそらく3分の2ぐらい、上のような“縦の構図”で占められています。“縦の構図”とは、画面奥に絵が展開している構図です。『スター・ウォーズ』のオープニングで小さな宇宙船を巨大な戦艦が奥へ奥へと追っていく。分かりやすくいえば、ああいう構図です。威圧感や圧迫感が出ます。しかし、全容が把握しづらいため、ストレスがたまる。

『ダンケルク』は、敵軍に追いつめられて、海から脱出しようとする話ですよね? 戦史を知らない僕でもその事情を理解できるのは、画面奥に海があって、常に海に向かって兵士たちが歩いたり走ったりするからです。
特に前半、担架を桟橋で運ぶシーン。登場人物たちは、奥へ奥へと進んでいたはずです。その先に海、すなわち脱出口があるからです。

兵士たちは、海へ(画面奥へ)逃げたい。だけど、ドイツ軍が上空から機銃掃射してきます。その着弾は、画面奥から手前にダダダッと来ます。つまり、「兵士たちが逃げたいのとは、逆方向から攻撃が来る」。……この描写だけで、どういう状況か分かるじゃないですか。通せんぼされているから、そう簡単に逃げられないってことでしょ?
セリフではなく、構図によってシチュエーションや解決せねばならない課題を言い切っている。


民間人の兄弟が、救命胴衣をボートに積んで、兵士たちの救援に向かいます。このシーンも、縦の構図です。救命胴衣を用意する弟を、背中から撮っている。顔も動作も、よく見えない。そもそも、真正面から分かりやすく人の顔を撮ることが少ない。表情なんて見せてる場合ではないんですよ、切迫してるんだから。状況をどんどんどんどん描かないと、敵が迫ってきてるんだから。

空中戦のシーンも、そうですよね。コクピットからの主観カットだと、敵機は小さく、必然的に縦の構図になります。映画の前半は、ほとんど縦の構図です。
会話シーンの簡単な切り返しでも、フレームの手前に対話している人物の肩などを入れて、いちいち、密度の詰まった構図にしています。

では、最後まで窮屈な縦の構図のままなのか? 
違います。民間船の大群が兵士たちを助けに、海の向こうから現れるシーン。ここでようやく、普通の映画のように、俯瞰ぎみの見やすい構図になります。それまでが縦の構図で占められていただけに、すごい開放感です。
つまり、友軍が現れて希望が見えてくると、“縦の構図”縛りがなくなる。パーッと開けた、安定した構図が増えていく。こんな分かりやすい映画、なかなか無いですよ。それ以降、飛行機を斜め上から撮った、ゆったりとした美しいアングルも使われはじめます。そして、危機的状況を示すシーンになると、再び圧迫感のある縦の構図が使われる。

展開に合わせて構図を変えている……というより、「構図の変化によって、展開をつくりだしている」のです。実に機能的です。


この映画は、冒頭から「物体の運度と方向」を撮っています。街中で、兵士たちは画面奥へと進む。同じカットの中で、上空から「降伏しろ」と書かれた紙が、パラパラと落ちてくる。テロップも、一行ずつ、上から下へと増えていく。上から下、手前から奥への運動が、最初の一分で提示される。
だったら、人物が四角いフレームの中で次にどっちへ動くか、気になりますよね。それさえ追っていけば、映画の面白さって分かると思うんですよ。

映画は、どうあがいても四角いフレームから逃れることはできません。立体映画という試みは過去に何度も試されてきましたが、映画がフレームを捨て去ることはありませんでした。
映画は、90分なり120分なり、一定の持続時間を与えられた四角い枠でしかない。その四角い平面の中で、視覚情報が変化する。別に、スクリーンから「テーマ」や「メッセージ」がテレパシーのように送信されてくるわけではないのです。だったら、四角いフレームを注意深く凝視するしかない。僕らと映画との関係は、とてもシンプルです。

(C)2017 Warner Bros. All Rights Reserved.

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2017年9月16日 (土)

■0916■

ホビー業界インサイド第27回:作らずに眺めているだけでもOK! テラダモケイの寺田尚樹さんが語る“リラックスできる模型の作り方”
T640_738070イベントを観覧させていただいたテラダモケイさん、ついに取材に行ってきましたよ。寺田尚樹さんは、実はデザイン雑誌にプラモデルの作例記事を連載していたのです。
「模型誌に作品を発表しているプロモデラーでなければプラモについて語る資格がない」としたら、そんな世界は闇ですよね。異業種の方が、どんどん語れる多様性ある世界が良い。そんな願いを込めての取材でした。寺田さん、ありがとうございました。本業とは別のお話をしてくださって。


レンタルで、塚本晋也監督の『野火 Fires on the Plain』。
3e9a5215_large 故・村崎百郎さんがエッセイに書いていた、「百姓一揆のシーンでエキストラを雇える金がなかったため、キャスト・スタッフ総出で10人にも満たない人数で百姓一揆を演じて、それゆえに異様な迫力の出た低予算映画」、それを思い出した。
塚本版の『野火』、見て良かった。感銘を受けた。
2015年の公開時、「しょせんは自主映画」と酷評する人もいたが、確かにメイクは白々しいし、弾着のエフェクトも血が綺麗に飛び散りすぎる。だけど、映画のリアリティは一本ごとに違うんだ。自分でチューニングを変えられないと、ハリウッド大作に価値基準が固定されて頭がカチカチになるよ。『レヴェナント:蘇えりし者』や『プライベート・ライアン』とは別のモノサシを持っているかどうかが問われる作品だ。


塚本監督の8ミリ映画『電柱小僧の冒険』や『鉄男』はショックだったけど、『ヒルコ/妖怪ハンター』で初めて商業映画を撮ったとき、あの毒々しい作家性が見事に消えうせていて、驚いたものだった。
映画って大勢でつくるから、助監督とか制作とか特機なんかの周囲がプロのスタッフで埋まって体制が整備されると、監督の個性って相対的に減ってしまう。「個性的な映画は、個性的な現場からしか生まれない」という、若いころの押井守監督の言葉は真理をついている。

さて、今回の『野火』。前述したように、メイクやエフェクトはしょぼい。エキストラも、「監督に言われて、急遽出演しました」と分かってしまうレベルの下手な人がいる。
だけど、音楽でいえば間奏のような隙間が映画のあちこちにあって、塚本監督が「ね? 確かにしょぼいかも知れないよ? だけど、どうしても撮りたかったんだよ!」と合間合間で叫んでいるように感じた。「本当は、こうはしたくなかったんだ!」「理想のシーンは、こんな予算では撮れないぐらい凄いんだよ!」と、声を枯らしているかのようだ。そこに魂をつかまれた。この枯れ果てた井戸から搾り出すような低予算ゆえの迫力は、ハリウッド映画にはないよ。
撮影も塚本監督なんだけど、手持ちでエネルギッシュにカメラを振り回して、自分の顔がアップになるときは、他のしょぼさをたった一人で補うかのように、神妙な顔つきで演じている。他の俳優が、オーバーで空々しい演技をすればするほど、塚本監督の真剣さが際立つ。監督が主演って、すさまじくカッコいい。

ハリウッドの最新作を、4DXで鑑賞するのが最高の贅沢だと思ってるでしょ? 僕は、5年前でも50年前の映画でも観られる現在のインフラを利用して、自分固有の審美眼を鍛えたいっすね。


『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が公開されたので反応を検索してみると、みんなやっぱり「ストーリー」「物語」がキモだと思っている様子だ。「物語」が不在の映画なんて、たくさんあるのに。

『電車男』が流行ったとき、「こんなのネタだろ?」という突っ込みをよく目にした。ネタ=作り話という意味で。映画を「作り話」だと思っているから、「ネタバレ」という言葉を平気で使えるんだろうな。
映画は「物語」「ドラマ」がもっとも大事と思いこんでいて、誰ひとり構図やカット割の話をしないので、僕は孤独に自分だけの楽しみに没頭できている。

映画の本質は、「時間制限のある四角い枠」です。枠の中の情報が、いかに変化するのか。あるいは変化しないのか。『ロープ』や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のように、カット割なしの映画もあるけど、時間の制約からは自由になれない。必ず始まりと終わりがある。
たとえカメラや俳優が微動だにしなくても、何らかの情報をもった枠が一定時間、上映されるのであれば、それは映画なのです。座席が機械じかけで揺れることなんて……まあ、それすらも楽しんでしまえればいいけれど、映画を規定する条件ではないですよね。座席を動かすなんてことをせずに枠内の情報の変化だけで臨場感を出す、それが劇映画の面白さです。こんな面白い表現はないぜと思ってますよ、何十年もずーっと。

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

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2017年9月15日 (金)

■0915■

EX大衆 2017年10月号 本日発売
Djmpjy8ueaisr4d●マスター・オブ『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』
小特集の構成・執筆です。京田知己監督へのインタビューも担当しました。
実際に買って読む人は少ないかと思うので書きますが、『ハイエボリューション』は、ダニー・ボイル監督の『スティーブ・ジョブズ』の影響が大きいそうです。言われてみれば、全体像を把握させるのではなく、大胆に時間を省略して、逆にシチュエーションの面白さを描きこむスタンスは、よく似ています。
テレビアニメの再編集版はプロットを重視して細部を省略した「総集編」か、設定を大きく変えて新作カットで補った「再解釈」のどちらかでした。『ハイエボリューション』は、そのどちらでもありません。テレビのフィルムを使った、単館向けの小規模・作家主義の映像作品といった趣です。
なので、「ストーリー」という観点から見るとブツ切りで終わっているのに、「次作へ続く」とはなっていません(セリフではテレビにならって「つづく!」と言っていたと思いますが、作品全編を覆う膨大なモノローグにまぎれて、スタイルの一部と化しています)。

あと、余計なことを書きます。宣伝会社の対応がいいと、たいていの映画ってヒットするんです。宣伝が面倒がったり無作法だったり、強気にあれこれと指示してくる場合は、たいていダメ。 『ハイエボリューション』は、宣伝の対応がよかったのです。


レンタルで岡本喜八監督の『血と砂』、ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』。
L後者は、どうもリラックスしすぎて余計な要素を盛りすぎではないかと思ったら、1934年につくられたヒッチコックの自作(『暗殺者の家』)のリメイクだと知って納得。特典映像に『暗殺者の家』の一部が入っているが、こちらのほうが緊張感がある。

それでも、精一杯の工夫がしてあって、唸らされる。
顔を黒く塗ってアラブ人に変装したフランス人が死ぬとき、主人公は彼の頬に触れている。ゆっくりとフランス人が地面にひざをつくと、頬に塗った黒いスミが指の形に剥がれていく。血を出すより、こっちの方が「ただならぬ死」であることが強調される。しかも、実際の撮影では黒く塗った頬の上から白い粉をつけることで剥がれたように見せていると知って、つくづく感心する。

他にも、いまにも殴り合いが発生しそうなシーンで画面の中央にライオンの剥製を大きく入れて暴力性を示唆するとか、ショッキングな電話を受けた直後に、飛行機のエンジン音を入れて衝撃を表現するとか、アイデアが豊富なんだよな……。ラストカットのユーモアは「心憎い」の一言だし。
腹が立つぐらい、余裕綽々なんだよ。そろそろ、トリュフォーのインタビュー集 『映画術』を読むべきかも知れない。


明日から取材が始まるので、ディズニー・アート展《いのちを吹き込む魔法》へ。
21728237_1443342395759670_160425911『ピーター・パン』は扱っておらず、期待していたティンカー・ベルの絵は一枚もなし。それはそれとして、メイキングに焦点を合わせた良い展示だった。マニアックになりすぎず、ナイン・オールドメンの業績やマルチプレーンカメラの開発に触れている。
ただ、観客はディズニーランドに来たような気分の人ばかりだった。係員が「並ばないで、自由に見て歩いてください」と声をかけねばならないほど、みんな並びたがる。
展示とぜんぜん関係ない世間話をしている人もいるし……鑑賞するって態度ではないですね。世の中って、そういうものなのかも知れないね。


先日、友だちとファミレスで雑談していたら、4歳ぐらいの子供をつれたお母さんが昼食をとりに来た。子供には一言も話しかけず、テーブルにスマホを置いたまま、ずっとゲームをしていた。
お母さんもストレスが溜まっているのかも知れないし、娯楽としてスマホゲームぐらいはいいでしょう。だけど、ほったらかしにされた子供は、どんな大人になるのかな、とちょっと心配に思った(もちろん、家でいっぱい構ってもらっているのかも知れない。僕が見たのは、ほんの一部にすぎない)。

認められず、誉められずに育った人は、物事のマイナス面に敏感になる。何を語るにも、否定的・攻撃的・独善的になる。よくよく話を聞くと、「周囲の大人から誉められたことがない」。
決して、その人のせいではないんだ。僕はひどい父親になるだろうから、子供をつくらなくて良かったと思う。
別れた嫁さん語録の中で、ちょっと感心したのは「かわいいかわいいと声をかけて育てれば、本当にかわいい子に育つ。いい子だいい子だと誉めてあければ、本当にいい子に育つ」。
(C)1955 Filwite Productions, Inc. Renewed 1983 Samuel Taylor & Patricia Hitchcock O'Connell, as Co-Trustees. All Rights Reserved.

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2017年9月13日 (水)

■0913■

立川シネマシティの小さなスクリーンで、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』。
6401993年放送の岩井俊二版は、大学時代の友人から「今すごいものがテレビでやってるから、フジテレビをつけろ」と夜中に電話があり、再放送を見た(番組直後に岩井監督の劇場デビューとなる『Love Letter』の予告が入っており、最高に心躍った)。
岩井監督を知る10年前、実は若者と日本映画の関係に決定的な変革が訪れていた。大林宣彦監督の『転校生』だ。1982年の公開。

『転校生』と、いま若者に受け入れられているアニメとは共通点が多い。
尾道という、あまり知られていなかった地方の古い町、昔ながらの風俗を描きながら、そのノスタルジアやセンチメンタリズムが中学生の恋愛を描くのに向いていることを証明してくれた。それまでの青春映画は、大人が若者像を勝手に規定し、「この女優とこの主題歌とこの原作で、予算はこれこれで」と、広告代理店的な発想で一方的に投下されるものばかりだった。
『転校生』は配給こそ松竹だが、制作したのは大手映画会社ではなく、インディーズとも言うべきATG(日本アートシアターギルド)だった。必然的に、作品本位・作家本位の制作体制となった。
低予算である。少数精鋭である。ヒロイン役の小林聡美は無名に近く、これが劇場デビュー作で、乳房まで見せている。しかも、まったくセクシャルではない。その時点で大手映画会社のアイドル映画とは、一線を画す。少しも飾らない、等身大の、地方都市の中学生。彼ら彼女らの、大人の介在する余地などない切実な恋愛。

中学生や高校生の観客と、初めて生(ナマ)に向き合った青春映画が『転校生』だった。
岩井版の『打ち上げ花火~』にも、昨年の『君の名は。』にも、『転校生』の誠実さが息づいているのを感じる。
簡単に言うと、それらの映画は、若い観客と被写体にしている若い俳優たちをバカにしていない。


企画の川村元気に、作家を大事にするATG的な心意気があったからこそ、シャフトと新房昭之監督に岩井作品をアニメ化させたんだと思う。新房(総)監督の前作『傷物語』シリーズの配給は東宝映像事業部で、公開規模は108~118館。今回の『打ち上げ花火~』は東宝配給で、298館でスタート。
ATG制作の『転校生』の翌年、大林が角川映画制作の『時をかける少女』で大ヒットを飛ばしたプロセスを想起させる。だけど、『転校生』と『時をかける少女』は尾道三部作という一貫性があるのに、『傷物語』と『打ち上げ花火~』の間には、大きな断絶がある。『傷物語』の第二作『熱血篇』は、アニメなのにPG-12指定だった。『打ち上げ花火~』は、なんとしてでもG指定、全年齢推奨(映倫規定の「どなたでもご覧になれます」)にしなければならない。
そこに、ちょっと齟齬を感じた。(追記:テレビアニメ『3月のライオン』の知名度やクオリティを考慮すべきなのかも知れない。)

キャラクターの顔に2コマか1コマでゆっくり寄るとか、校舎が円形で螺旋階段があるとか、640_2 幻想シーンでセルルックではない3DCGを多用するとか、いつものシャフトの演出が、「地方都市の等身大の中学生たちの、大人の介在する余地のない切実な恋愛」と噛み合わない。噛み合わないだけであって、それぞれのシーンは美しい。特に、現実世界とはまったく異なる花火の造形や海を進む単線列車の描写は、すばらしいセンスだった。

しかし、映像センスが突出しているからこそ「どなたでもご覧になれます」とは言いがたい、ちょっとマニアックな作品になってしまった。作家を大事にしすぎたのであって、そこは非常に難しい。

『転校生』を撮った大林監督の次回作が、『HOUSE ハウス』に戻ってしまったら、企画側も観客も戸惑うだろう。だとしても、同じ作家の作品なので、文句は言えない。しかし、一部の観客が『HOUSE ハウス』を期待するのであれば、実験精神の旺盛な『時をかける少女』は、しっかり期待に答えている。
同じように、今回の『打ち上げ花火~』は、いつもの新房作品、いつものシャフト作品を期待して足を運んだ観客を、裏切ってはいない。


山口百恵が『伊豆の踊り子』で初めて主演したときは小学生だったけど、松田聖子が『野菊の墓』に出たときは中学生だったので、「ああ、大人たちにナメられてるな」「真面目すぎて退屈しそうな映画を俺たちに押しつけてるな、本気じゃないんだな」とはっきり分かった。
あと、相米慎二監督のアイドル映画が面白くなるのって、アイドルをどうでもいいと思えてからだよね。ロマンポルノを撮っていた監督や脚本家たちがアイドル映画に触れるのって、本当に不潔に感じたからね。

うまく言えないけど、アニメって、子供時代や思春期を永遠に裏切れないメディアなんだと思う。そういう特殊なメディアを、若者も大人も見るようになったんだから、いい時代がめぐってきたことだけは間違いない。

(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会

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2017年9月12日 (火)

■0912■

マリリン・モンロー主演の 『お熱いのがお好き』を、レンタルで。
Lビリー・ワイルダー監督は『アパートの鍵貸します』も面白かったが、翌年公開の『お熱いのがお好き』は、カメラワークがどうとか言うより、プロットが凝っている。
トニー・カーティスとジャック・レモンのコンビが、禁酒法時代のシカゴからギャングに追われて、女性だけの楽団に忍び込む。もちろん、2人とも女装しなければならない。その楽団の中で、彼らはモンローの演じるウクレレ奏者と出会う。
ジャックは、旅先で出会った老富豪に女と間違われたまま、ついに婚約してしまう。一方のトニーは女装しただけでなく、さらに若い大富豪に化けて、モンローから熱烈に求愛される。ジャックが婚約した老富豪の客船を「僕の船だ」と偽り、トニーはモンローを誘う。つまり、ジャックの得た恋の成果を、トニーが横取りするわけだ。


感心した演出がある。
トニーはモンローを小さなボートに乗せて、豪華客船へと案内する。しかし、自分のボートではないので、操縦方法が分からない。「このボートは試作品だから、後ろにしか進めないんだよね」とごまかして、後ろ向きにボートを走らせる。
2人が逢瀬を終えて立ち去ると、本来のボートの持ち主である老富豪が戻ってくる。彼は、当たり前のようにボートを前へ走らせるのだ。この流れを、ワンカットで撮っている。

つまり、トニーが女装したうえに大富豪に化けたウソの身分では、ボートは後ろにしか進まない。ジャックに恋した老富豪が乗ると、同じボートでも前向きに走る。ジッャクとトニーが落ちたのは、どちらも道ならぬ恋である(2人とも、性を偽っているのだから)。
しかし、トニーとモンローの関係は二重にウソをついているため、道行は困難だ。だから、ボートは後ろにしか進まない。反面、ジャックと老富豪の恋はシンプルだ。だから、ボートは前へ進む。シチュエーションの対比を、「絵」(フレーム内の情報)で見せている。
ラストシーン、それぞれ正体をバラしたトニーとジャック、そしてモンローと老富豪の4人を乗せたボートは? まっすぐ前へ進んで終わり。前へ進んだ理由も、ちゃんと描かれている。


もう一本、陽気なアメリカ映画『シェフ  三ツ星フードトラック始めました』。
Chef_main_largeお気楽な娯楽作品ではあるが、実は、このミもフタもないプロットが映画の正体を明かしてくれている。
主人公は雇われシェフだったが、料理評論家に酷評されて職を解雇されてしまう。彼は元妻の前夫を頼り、彼からフードトラックをもらい、屋台で大成功する。元妻とも復縁し、料理評論家は謝罪して、主人公の味方に回る。
一応、主人公は口では「どん底に落ちた」と言ってはいるものの、周囲の人々は協力的で、とてもそうは見えない。ありきたりな葛藤は皆無である。

では、何が2時間もの上映時間を持続させているのか? 
前半では高級レストランで料理をつくる手さばき、中盤ではトラックの清掃と改装、後半は屋台での料理づくり。それぞれ、適切なアングルでシズル感を出し、テンポのいい長さで編集している。それが見せ場だ。まったく飽きない。次から次へと料理を出されたり、汚いトラックが綺麗になっていくプロセスを見せられて怒る人はいないだろう。アクション映画の気持ちよさに似ている。

この映画が、本気で親子愛や料理人の人生を描いている (描くべき)と思ったなら、それは劇映画に対する片思いと言ってもいい。「物語」は、ペースメーカーに過ぎない。映像と編集こそが主役であることを痛感させてくれる映画。

(C)1959 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved.
(C)
2014 SOUS CHEF,LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

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2017年9月10日 (日)

■0910■

【懐かしアニメ回顧録第34回】サイレントとトーキー、ふたつの文法が交錯する「ラーゼフォン 多元変奏曲」の悲劇的プロット
T640_737773_2劇場アニメ『ラーゼフォン 多元変奏曲』は、テレビアニメ『ラーゼフォン』の設定をいくつか変更しつつも、作品の全体像がなんとなく分かるように構成されています。それでも、僕には「ムーリアン」と呼ばれる種族が何なのか、なぜ赤い血の人間が青い血のムーリアンに変化するのか、よく理解できませんでした。

ですから、ここに取り上げている「朝比奈浩子という少女がムーリアンに変化してしまい、その秘密を主人公に伝えられないまま、彼に殺されてしまう」、そのエピソードの意味や設定の重要度は分かりません。
しかし、朝比奈がセリフを発することができない(トラックの音にかき消されてしまう)ことで、音声としてのセリフよりも強く彼女の言いたいことを伝える、その演出の機能と効果はよく分かるのです。朝比奈を可哀想だ、主人公は気づいてやれよぐらいは思うわけです。つまり、「SF設定が分からない」ことは欠点ではありません。

それは、ギリシャとアルバニアの関係が分からなくても、国境に引き裂かれた男女のことは分かること(『こうのとり、たちずさんで』)と、まったく同じです。

『こうのとり、たちずさんで』はミニシアターで単館上映された映画であり、『ラーゼフォン』のような商業アニメとは別の位相にあるのでしょう。
商業アニメは視聴者・観客が好感度をいだけるように情報が整理されていますから、「このアニメは好きじゃない」「キャラが嫌いだから見ない」と即断されたり、逆に「(キャラが好きだから)傑作に決まっている」「テレビ版が面白かったから、劇場版も面白いはず」とフェアな評価を受けられないことが多いような気がします。
実は、毎週30分のテレビ番組を二時間に編集するフォーマットの「総集編アニメ」には、劇場用新作アニメとは異なる評価軸が必要な気がします。「そんなものどっちも同じだ、二時間あれば劇場アニメだ」「面白いかつまらないか、ふたつにひとつだ」という空気が、いちばん怖い。評価されるべき側面に、スポットが当たらない気がします。

上のレビューで取り上げた「朝比奈浩子が殺されてしまう」エピソードは、カット割や細かなセリフ、フレームサイズが異なるものの、テレビ版の素材が、ほぼそのまま劇場版に転用されています。
ということは、劇場版『ラーゼフォン』はテレビアニメの演出を繰り返しているにすぎず、劇場アニメの演出が為されているわけではないとは言えないだろうか(劇場アニメに固有の演出が存在するとして)。しかし、「テレビ/劇場の演出の差異」は今回の本題ではないので今は問わないでおく……というエクスキューズを、しっかりと意識すべきです。
「今は問わない」とはつまり、「いつかは問う」ことに他なりません。


もっと言うなら、実写映画とアニメ映画では「被写体の成り立ちが違う」ため、同じ評価の仕方をしないほうがいい(援用してもいいが混同しないほうがいい)と僕は考えています。
生身の俳優とデザインされたキャラクターは本質的に別の次元のもので、「絵なんだけど生きているように描かれている」ことと「生きている俳優が上手い演技をする」ことは別だと思います。
アニメのみを見ている人は、アニメは実写よりも優れた表現であると考えがちで、それはたとえば「クソみたいな邦画を見るより、深夜アニメを見たほうがマシ」といった言い方になるようです。アニメと実写、どちらの表現に優劣があるかという問題ではないし、それぞれどこに優と劣があるのか、誰かが見極めなくてはならないのです。

インターネットでは、端的に、キャッチーに「あの映画(アニメ)を見に行ったら、実はこうだった!」と笑えるようなことを言うか、「号泣した!」などの感情に訴えるレビューのほうが受け入れられやすい。
したがって、「実写/アニメの演出の違い」、「テレビアニメ/アニメ映画の演出の違い」などを考えることは賞賛とは無縁の、孤独な作業になるでしょう。それでもやらずにおれない人だけが、死ぬまで考えつづける。このブログが、いつもグズグズで非論理的あることは分かっています。いつか、きちっと中間報告を出したいと思っています。

(C) 2003 BONES・出渕裕/Rahxephon movie project

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2017年9月 8日 (金)

■0908■

レンタルで、15年ほど前に大ヒットしたというミュージカル映画『シカゴ』。
Mv5bndcwmjq4mde3n15bml5banbnxkftztcその時期は結婚していて、幽閉されていたも同然だから、舞台版のタイトルを小耳にはさんだ程度だった。1920年代のシカゴ、ナイトクラブでキラキラの衣装で……モチーフだけ見ると、まったく興味がわかない。
だけど、モチーフは何でもいい、登場人物に共感できなくてもいい。どのように語ったか、どのように映画というプロトコルを使いこなしたか。そこに興味がある。

主人公の冴えない女性(レネー・ゼルウィガー)が、華やかなナイトクラブの踊り子を見ている。主人公もスターを夢見ているが、浮気相手にだまされていて、情事に没頭していく。ベッドに倒れこむ主人公と、舞台で歌う踊り子のアクションがカットバックして、ひとつのアクションを形づくる。
「おい、ちょっと待てよ」と、身を乗り出した。主人公は物理的には歌ってもいないし踊ってもいないんだけど、舞台の上の踊り子とカットバックさせることで、ちゃんと歌っているじゃないか。「これは素晴らしい、贅沢な作品が始まったぞ」と、居住まいを正したよ。


主人公はアパートで浮気相手を撃ち殺してしまうんだけど、旦那が警察官に「俺が撃った」とウソをつく。主人公の顔に、警察官の持った懐中電灯が当てられる。その光は、いつの間にか舞台の照明になっていて、主人公は自分の旦那について歌いはじめる。何の段取りもなく、彼女は舞台に立っていて、ゴージャスな衣装をまとっている。

ところが、旦那は裏切って、女房が撃ったとバラしてしまう。そのシーンはカットバックではMv5bmzjkyty2n2itmdi0mc00zdkwltg4mge なくて、「主人公のいる舞台」に「アパートにいる旦那」を合成して……と、やけに古典的な演出だな?と思いきや、合成ではない。舞台の上、暗がりをはさんだ向こうに実際に旦那が座っている。空間的な距離なんて、ヒョイッと飛び越えている。
「なんて自由な映画なんだろう!」と、胸が熱くなった。この映画だけの約束事を提示して、その力を存分に行使している。その堂々とした態度。別になにか文学的なテーマがあるわけじゃないですよ。ほとんどのミュージカルがそうであるように、「生きるって素晴らしい、歌って素晴らしい」ぐらいのものですよ。

人生にリズムを見つけ出して、そのリズムに映画を乗せている。表現することへの喜びがむき出しになっている。絞首刑のシーンだろうと裁判のシーンだろうと、ぜんぶ歌と踊りで祝福する。
その方法論が観客に通じなかったら、まっさかさまに墜落してしまう。綱渡りのように危なっかしい、だけど、すごく嬉しそう。吹きっさらしの風の中で、自分の二本だけの足で立っている、そういう表現が好きだ。勇気が出る。


でもねえ……この映画が公開されたころって、監獄のような結婚生活で、妻と一緒に見る映画は血の出るようなアクションか、エロい映画ばかりだった。人生を肯定できるような要素がなかったんですね。仕事はバカにされるし、友達とは会わせてもらえないし。
アパシー(無感情)だったですよ、離婚までの三年間。離婚届けを出したとメールをもらった夜は感動のあまり、ひとりでカラオケ屋に行って、ムーンライダーズの歌を朝までうたった。結婚時代は、好きな音楽すらバカにされていたので、すごい開放感だったよ。

あのまま結婚していたら、こんな宝石みたいな映画とは出会えなかっただろうし、出会えたとしても感動する心がなかった。静かに壊れていたんだろうな。
今は、なんと自由で穏やかな日々よ。

(C)2002 - Miramax

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2017年9月 6日 (水)

■0906■

月刊Goods Press 10月号 発売中
●大河原邦男さんインタビュー
Bandicam_20170906_105710437 特集「ザク、その革新の系譜」で、ザクの生みの親である大河原邦男さんにインタビューさせていただきました。
一般誌でもありますし、これといった新事実や斬新な切り口があるわけではありません。だけど、大河原さんの仕事に対する柔軟性あるスタンスが、鮮やかに伝わってくれるんじゃないかと思います。何度お話を聞いても、すがすがしい気持ちに立ち返ることができます。


2013年公開のモノクロ、サイレント映画『ブランカニエベス』をレンタルで。
142970703183069162179_blancanieves1大学時代に熱中した『夢見るように眠りたい』は、映画についての映画、しかも過去に封印された映画をモチーフとしていた。だから、モノクロ・サイレントという形式が似合っていたし、武器として有利に使いこなせていた。
『ブランカニエベス』は音楽のテンポ、とくにフラメンコの手拍子に合わせた美しいカットワークがある一方、やむなく効果音に頼ったカットもある。
1920~30年代の映画は、カットワークやカメラワークによって、原則的な話法を完成させていた。クローズカップで俳優の表情を強調したり、レフ・クレショフが実験したように、バラバラのカットを繋いで意味を生じさせることも出来た。
どうしても効果音を入れざるを得なかったのは、サイレント映画は不自由だという思い込みがどこかにあるためじゃないだろうか。ついつい僕らは、自分が生まれる以前の表現や娯楽は「現在よりも稚拙で、退屈だった」と決めつけてしまいがちだ。その悪癖から逃れるためにも、名画と呼ばれている作品は、ちょくちょく見直しておいたほうがいい。


クラス会で、すっかり人相の変わった元同級生が「僕のこと、誰だか分かる?」とニヤニヤしながら聞いてきたことがあって。「ごめん、誰だっけ?」と聞き返すと、「ほら、分かんないんだ。さて、誰でしょうねえ」と、えんえんともったいつけている男がいた。
仕事でも核心を言わずに、「困ったことになりましたねえ」「これはどうにかしないとアカンですねえ」と話をはぐらかすばかりで、具体的にどこをどう改善するのか聞いても「えーと……どこが悪いか、理解してます?」と、話を曖昧にする人っているでしょ? そういう人とは二度と仕事しないので、最近は僕の周囲にはいないけれど、彼らの中には「相手よりも頭の冴えた、本当の自分」がいるんだろうな。
生(なま)の、現在進行形の自分がちっぽけだから、曖昧な言い方で自分を誇大に見せる。

僕は数多く挫折してきたので、苦心しながらクリエイターとして大成した人には尊敬心を持っている。あるいは、いま現在、苦労している人に対しても。
挫折が嫉妬となり、「本当は俺だって……」と屈折している人もいるかも知れないけど、僕には「本当の自分」などという誇大な虚像がない。理想も向上心も捨ててないけど、周囲の人の下す評価が現実だと思っている。自分を認めない周囲が愚かだとも思わない。現実以外の答えはない。よって、間違ったと気づいたら謝る、助けてもらったらお礼を言うといった実務と礼儀を重ねていくしか、物事の改善方法はないと思っている。


「フリーライターなんて誰でもなれるだろ」と思われているなら、特に反論はない。僕より文章力の優れたアマチュアは、星の数ほどいる。
しかし、フリーランスで仕事を続けていくには、文章力よりも信頼が必要だ。「周囲がバカなのだ」「本当の俺は、もっともっと凄いのだ」という尊大な態度、もったいつけた言い方は、一時的に人を圧倒し、恐れさせ、従わせるだろう。
だが、そういう威圧的な人は(どれだけ突出した才能があろうと)、相手にするのが疲れる。僕には才能がないので、せめて誠意をつくそうと努力している。その結果として仕事をいただけているのなら、それ以上の喜びはない。
(C)2011 Arcadia Motion Pictures SL, Nix Films AIE, Sisifo Films AIE, The Kraken Films AIE, Noodles Production, Arte France Cinema

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2017年9月 2日 (土)

■0902■

小~中学生のころ、よくテレビ放送されていた『ロンゲスト・ヤード』をレンタルで。
L反社会的で破滅的で、脂ぎってギラギラした男くさい娯楽作は、70年代アメリカ映画に独特のものである気がする。無作法で乱雑だけど、笑ってすませられる愛すべき映画。
ただ、クライマックスのフットボールの試合がマルチ画面(ひとつのフレームを三つや四つに区切ること)なのは、あまりにテレビっぽい。1984年版『ゴジラ』でもマルチ画面を使っていたが、途端に映画の品位が落ちる。

にも関わらず、『ロンゲスト・ヤード』のラストカット、しびれるほどカッコいいのだ。
主人公は囚人だけで構成されたチームを、刑務所長との約束を反故にして勝たせてしまう。彼は脱走を図っていると疑われるのだが、実はグランドに残されたボールを拾いに行っただけで、意気揚々と試合場から去っていく。
このとき、カメラは暗い通路の中から、明るい出口を撮っている。出口に向かって、主人公と彼の仲間が歩いていくと、2人の姿はシルエットとなる。四角い出口、つまりフレームの中に「もうひとつのフレーム」があり、そこに2人の男のシルエットが映っているわけです。そのデザイン性の高い構図のまま、ぴたりとストップモーションになる。カッコいい。

すなわちこの映画は、フレームの限界とその制約から得られる自由さを、しっかりとわきまえているように見えるのだ。


つづいて、テオ・アンゲロプロス監督の『こうのとり、たちずさんで』。
Ft0395ギリシャとアルバニアの国境で、アルバニアからの難民たちを取材するTVディレクターが主人公。だが、ギリシャのこともアルバニアのことも知らなくても、ちゃんと引き裂かれた人々の悲哀は伝わってくる。それが、このスチールの川(国境)をはさんで行われる結婚式のシーンだ。

花嫁を連れた何十人かの人々が、林に隠れている。彼らの視線の先をカメラが追うと、フレームを真一文字にパッキリと分け隔てる川がある。川沿いの道を、一台の車(国境警備隊のパトロール車)が横切った後、川の向こうの林から、アルバニア側の人々が、アリのようにわらわらと出てくる。彼らが左右に分かれると、中央に正装した男が立っている。手には、一輪の花を持っている。彼が、花婿なのだと分かる。
この端的な構図で、もはやすべてを語り終えている。先ほどの車が戻ってきて、人々は林に隠れる。だが、花嫁と花婿は、フレームの右端と左端に再び現れて、呼び合うように片手をあげる。
一言のセリフがなくとも、ギリシャやアルバニアのことを知らなくても、彼らの状況と心情はしっかり伝わってくる。


上記のシーンには、すべての状況に立ち合わせている主人公のディレクターは、映っていない。実はカメラで撮っていた、と後から明かされるのだが、それ以降のシーンはどうでもいいオマケである。
主人公は、難民たちをとりまく状況を見て歩くか、訪問者と会話するだけで、自分から事態を引き起こすことはない。もっと言うなら、この映画はクレーンやドリーを使った移動撮影がほとんどのカットを占めるのだが、なぜかと言えば、「フレームに決定権がない」からだ。

多くの劇映画は、フレームが主導権をもって人物や風景に構図を与えるわけです。だけど、『こうのとり、たちずさんで』は人物や風景が、フレームを決めさせている。さらに言うなら、ワンカットの時間も人物や風景が決めている。
主人公が花嫁と出会うカットが象徴的で、同じ構図・同じポーズで止まったまま、花嫁は微動だにしません。気まずくなった主人公が歩き出したとき、ようやくカメラも移動する。状況に対して謙虚だし、無力でもある。

映画というのは、モチーフと作家がどんな関係を結んだのか、その記録、副産物にすぎないような気がしてくる。

(C)2010 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

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