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2017年9月27日 (水)

■0927■

モデルグラフィックス 12月号 発売中
Dkikizxvwaax5rs●組まず語り症候群 第59回
今回は、ぞっこんコレクション『まじかるタルるートくん』より、「1/10 江戸城本丸」(バンダイ)です。このシリーズについては、ほぼ歴史の闇に葬られているのではないでしょうか。
ついつい、気を緩めると、この手のフィギュアネタに走ってしまうのですが、「まだそんなことやってんの?」と言われるぐらい、しつこく続けたいと思います。誰が読んでるか分からない、雑然としているけど無限に自由な連載でありたいのです。このブログも、そうですね。


レンタルで、『チャンス』。この映画も、中学生の頃にテレビで見たきり、すっかり分かった気でいた。
Mv5bnzbkzgi0mzitowq3mc00n2izltkymtqたぶん、概要はよく知られているのではないだろうか。生まれてからほとんど外出したことのない無学な庭師が、初めて街に出る。たまたま大統領とも付き合いのある実業家夫婦と知り合ったことで、庭師としての他愛ない発言が勝手に誤解され、政治的影響力を持ちはじめてしまう。
優れたコメディなのだが、後味は悪い。空虚といえるぐらいの人間不信が根底にある。原作・脚色のジャージ・コジンスキー氏の数奇な運命を知ると、その不信感も納得である。


主人公の庭師は、人と会っているとき以外は、テレビばかり見ている。
彼自身が副大統領の代理でテレビ出演するシーンからは、テレビ番組を見ている人々にカメラが向けられて、視点が複数になる。
14706_005庭師である主人公と暮らしていた黒人の家政婦が、黒人ばかり集まったホテルで、テレビを見ている。そのシーンはテレビ画面のアップから始まるのだが、テレビの性能が悪いのか、画面は真赤である。家政婦は「白人なら、この国ではどうとでもなる」「本当は頭が空っぽなのに、白人だからテレビに出られた」と、いわば真実を言い当てている。しかし、彼女が見ている画面は真っ赤で、本来あるべき色ではない。
色眼鏡をかけているのは彼女なのだろうか、それともテレビなのだろうか。


「テレビを見ている」といった、登場人物の受動的な状態を見てしまうと、観客は(自分も映画のスクリーンを見ているかしかないので)登場人物と自分とを重ね合わせてしまう。冒頭から、ピーター・セラーズの演じる庭師はテレビを眺めているだけだ。いやでも映画に没入してしまう。
さらに、「実は彼は世間知らずの庭師にすぎない」と知っているのは観客だけなので、観客は優越意識をもって映画を見ることができる。彼の正体を知る弁護士や家政婦の再登場によって、その優越感は揺らぐ。

もうひとり、庭師の正体に気がついた者がいる。実業家の家に寝泊りして、彼の治療をつづけている医者である。周囲の人間が庭師の言動にうっとりと魅了されているとき、医者だけが不審の目を向けている。
彼の登場シーンにも、ちょっとした工夫がある。庭師は実業家に薦められて、葉巻を吸おうとしている。歓談する2人の背後でひとり、ビリヤードのキューを構えているのが医者なのである。いわば、彼だけが勝負に出ているというか、戦闘状態に置かれている。
そして後半、医者は庭師の情報を外部にリークしようと、電話をかける。そのシーンで、医者は右手を椅子の背もたれにかけて後ろに引き、左手を机のうえ、まっすぐ前に伸ばしている。つまり、ビリヤードで玉を突くのと、まったく同じポーズをしているのである。

映画を見るなら、こういうところを見ないと。「監督の意図ではないから認識する必要はない」「監督の意図を受け取れたものが、正しい観客」という考え方は、文化を萎縮させる。


『けものフレンズ』の監督降板をめぐるTwitter上の騒ぎには、うんざりさせられた。
監督=作家の側を神聖視しすぎ、例によって「僕は彼のことをちょっとは知っている立場なんだけど」と事情通の顔をしたがる者。人気の出た過去のコンテンツについて「実は、あれは俺が仕掛けたんだよね」と得意顔になる者。
第一線で戦いつづけている者は、いつだって「今」と「明日」の話しかしない。「昨日」の話をすればするほど、第一線は遠のいていく。

(C)United Artists Corporation

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