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EX大衆 2017年10月号 本日発売
小特集の構成・執筆です。京田知己監督へのインタビューも担当しました。
実際に買って読む人は少ないかと思うので書きますが、『ハイエボリューション』は、ダニー・ボイル監督の『スティーブ・ジョブズ』の影響が大きいそうです。言われてみれば、全体像を把握させるのではなく、大胆に時間を省略して、逆にシチュエーションの面白さを描きこむスタンスは、よく似ています。
テレビアニメの再編集版はプロットを重視して細部を省略した「総集編」か、設定を大きく変えて新作カットで補った「再解釈」のどちらかでした。『ハイエボリューション』は、そのどちらでもありません。テレビのフィルムを使った、単館向けの小規模・作家主義の映像作品といった趣です。
なので、「ストーリー」という観点から見るとブツ切りで終わっているのに、「次作へ続く」とはなっていません(セリフではテレビにならって「つづく!」と言っていたと思いますが、作品全編を覆う膨大なモノローグにまぎれて、スタイルの一部と化しています)。
あと、余計なことを書きます。宣伝会社の対応がいいと、たいていの映画ってヒットするんです。宣伝が面倒がったり無作法だったり、強気にあれこれと指示してくる場合は、たいていダメ。 『ハイエボリューション』は、宣伝の対応がよかったのです。
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レンタルで岡本喜八監督の『血と砂』、ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』。
後者は、どうもリラックスしすぎて余計な要素を盛りすぎではないかと思ったら、1934年につくられたヒッチコックの自作(『暗殺者の家』)のリメイクだと知って納得。特典映像に『暗殺者の家』の一部が入っているが、こちらのほうが緊張感がある。
それでも、精一杯の工夫がしてあって、唸らされる。
顔を黒く塗ってアラブ人に変装したフランス人が死ぬとき、主人公は彼の頬に触れている。ゆっくりとフランス人が地面にひざをつくと、頬に塗った黒いスミが指の形に剥がれていく。血を出すより、こっちの方が「ただならぬ死」であることが強調される。しかも、実際の撮影では黒く塗った頬の上から白い粉をつけることで剥がれたように見せていると知って、つくづく感心する。
他にも、いまにも殴り合いが発生しそうなシーンで画面の中央にライオンの剥製を大きく入れて暴力性を示唆するとか、ショッキングな電話を受けた直後に、飛行機のエンジン音を入れて衝撃を表現するとか、アイデアが豊富なんだよな……。ラストカットのユーモアは「心憎い」の一言だし。
腹が立つぐらい、余裕綽々なんだよ。そろそろ、トリュフォーのインタビュー集 『映画術』を読むべきかも知れない。
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明日から取材が始まるので、ディズニー・アート展《いのちを吹き込む魔法》へ。
『ピーター・パン』は扱っておらず、期待していたティンカー・ベルの絵は一枚もなし。それはそれとして、メイキングに焦点を合わせた良い展示だった。マニアックになりすぎず、ナイン・オールドメンの業績やマルチプレーンカメラの開発に触れている。
ただ、観客はディズニーランドに来たような気分の人ばかりだった。係員が「並ばないで、自由に見て歩いてください」と声をかけねばならないほど、みんな並びたがる。
展示とぜんぜん関係ない世間話をしている人もいるし……鑑賞するって態度ではないですね。世の中って、そういうものなのかも知れないね。
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先日、友だちとファミレスで雑談していたら、4歳ぐらいの子供をつれたお母さんが昼食をとりに来た。子供には一言も話しかけず、テーブルにスマホを置いたまま、ずっとゲームをしていた。
お母さんもストレスが溜まっているのかも知れないし、娯楽としてスマホゲームぐらいはいいでしょう。だけど、ほったらかしにされた子供は、どんな大人になるのかな、とちょっと心配に思った(もちろん、家でいっぱい構ってもらっているのかも知れない。僕が見たのは、ほんの一部にすぎない)。
認められず、誉められずに育った人は、物事のマイナス面に敏感になる。何を語るにも、否定的・攻撃的・独善的になる。よくよく話を聞くと、「周囲の大人から誉められたことがない」。
決して、その人のせいではないんだ。僕はひどい父親になるだろうから、子供をつくらなくて良かったと思う。
別れた嫁さん語録の中で、ちょっと感心したのは「かわいいかわいいと声をかけて育てれば、本当にかわいい子に育つ。いい子だいい子だと誉めてあければ、本当にいい子に育つ」。
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実際に買って読む人は少ないかと思うので書きますが、『ハイエボリューション』は、ダニー・ボイル監督の『スティーブ・ジョブズ』の影響が大きいそうです。言われてみれば、全体像を把握させるのではなく、大胆に時間を省略して、逆にシチュエーションの面白さを描きこむスタンスは、よく似ています。
テレビアニメの再編集版はプロットを重視して細部を省略した「総集編」か、設定を大きく変えて新作カットで補った「再解釈」のどちらかでした。『ハイエボリューション』は、そのどちらでもありません。テレビのフィルムを使った、単館向けの小規模・作家主義の映像作品といった趣です。
なので、「ストーリー」という観点から見るとブツ切りで終わっているのに、「次作へ続く」とはなっていません(セリフではテレビにならって「つづく!」と言っていたと思いますが、作品全編を覆う膨大なモノローグにまぎれて、スタイルの一部と化しています)。
あと、余計なことを書きます。宣伝会社の対応がいいと、たいていの映画ってヒットするんです。宣伝が面倒がったり無作法だったり、強気にあれこれと指示してくる場合は、たいていダメ。 『ハイエボリューション』は、宣伝の対応がよかったのです。
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レンタルで岡本喜八監督の『血と砂』、ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』。

それでも、精一杯の工夫がしてあって、唸らされる。
顔を黒く塗ってアラブ人に変装したフランス人が死ぬとき、主人公は彼の頬に触れている。ゆっくりとフランス人が地面にひざをつくと、頬に塗った黒いスミが指の形に剥がれていく。血を出すより、こっちの方が「ただならぬ死」であることが強調される。しかも、実際の撮影では黒く塗った頬の上から白い粉をつけることで剥がれたように見せていると知って、つくづく感心する。
他にも、いまにも殴り合いが発生しそうなシーンで画面の中央にライオンの剥製を大きく入れて暴力性を示唆するとか、ショッキングな電話を受けた直後に、飛行機のエンジン音を入れて衝撃を表現するとか、アイデアが豊富なんだよな……。ラストカットのユーモアは「心憎い」の一言だし。
腹が立つぐらい、余裕綽々なんだよ。そろそろ、トリュフォーのインタビュー集 『映画術』を読むべきかも知れない。
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明日から取材が始まるので、ディズニー・アート展《いのちを吹き込む魔法》へ。

ただ、観客はディズニーランドに来たような気分の人ばかりだった。係員が「並ばないで、自由に見て歩いてください」と声をかけねばならないほど、みんな並びたがる。
展示とぜんぜん関係ない世間話をしている人もいるし……鑑賞するって態度ではないですね。世の中って、そういうものなのかも知れないね。
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先日、友だちとファミレスで雑談していたら、4歳ぐらいの子供をつれたお母さんが昼食をとりに来た。子供には一言も話しかけず、テーブルにスマホを置いたまま、ずっとゲームをしていた。
お母さんもストレスが溜まっているのかも知れないし、娯楽としてスマホゲームぐらいはいいでしょう。だけど、ほったらかしにされた子供は、どんな大人になるのかな、とちょっと心配に思った(もちろん、家でいっぱい構ってもらっているのかも知れない。僕が見たのは、ほんの一部にすぎない)。
認められず、誉められずに育った人は、物事のマイナス面に敏感になる。何を語るにも、否定的・攻撃的・独善的になる。よくよく話を聞くと、「周囲の大人から誉められたことがない」。
決して、その人のせいではないんだ。僕はひどい父親になるだろうから、子供をつくらなくて良かったと思う。
別れた嫁さん語録の中で、ちょっと感心したのは「かわいいかわいいと声をかけて育てれば、本当にかわいい子に育つ。いい子だいい子だと誉めてあければ、本当にいい子に育つ」。
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