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2017年9月10日 (日)

■0910■

【懐かしアニメ回顧録第34回】サイレントとトーキー、ふたつの文法が交錯する「ラーゼフォン 多元変奏曲」の悲劇的プロット
T640_737773_2劇場アニメ『ラーゼフォン 多元変奏曲』は、テレビアニメ『ラーゼフォン』の設定をいくつか変更しつつも、作品の全体像がなんとなく分かるように構成されています。それでも、僕には「ムーリアン」と呼ばれる種族が何なのか、なぜ赤い血の人間が青い血のムーリアンに変化するのか、よく理解できませんでした。

ですから、ここに取り上げている「朝比奈浩子という少女がムーリアンに変化してしまい、その秘密を主人公に伝えられないまま、彼に殺されてしまう」、そのエピソードの意味や設定の重要度は分かりません。
しかし、朝比奈がセリフを発することができない(トラックの音にかき消されてしまう)ことで、音声としてのセリフよりも強く彼女の言いたいことを伝える、その演出の機能と効果はよく分かるのです。朝比奈を可哀想だ、主人公は気づいてやれよぐらいは思うわけです。つまり、「SF設定が分からない」ことは欠点ではありません。

それは、ギリシャとアルバニアの関係が分からなくても、国境に引き裂かれた男女のことは分かること(『こうのとり、たちずさんで』)と、まったく同じです。

『こうのとり、たちずさんで』はミニシアターで単館上映された映画であり、『ラーゼフォン』のような商業アニメとは別の位相にあるのでしょう。
商業アニメは視聴者・観客が好感度をいだけるように情報が整理されていますから、「このアニメは好きじゃない」「キャラが嫌いだから見ない」と即断されたり、逆に「(キャラが好きだから)傑作に決まっている」「テレビ版が面白かったから、劇場版も面白いはず」とフェアな評価を受けられないことが多いような気がします。
実は、毎週30分のテレビ番組を二時間に編集するフォーマットの「総集編アニメ」には、劇場用新作アニメとは異なる評価軸が必要な気がします。「そんなものどっちも同じだ、二時間あれば劇場アニメだ」「面白いかつまらないか、ふたつにひとつだ」という空気が、いちばん怖い。評価されるべき側面に、スポットが当たらない気がします。

上のレビューで取り上げた「朝比奈浩子が殺されてしまう」エピソードは、カット割や細かなセリフ、フレームサイズが異なるものの、テレビ版の素材が、ほぼそのまま劇場版に転用されています。
ということは、劇場版『ラーゼフォン』はテレビアニメの演出を繰り返しているにすぎず、劇場アニメの演出が為されているわけではないとは言えないだろうか(劇場アニメに固有の演出が存在するとして)。しかし、「テレビ/劇場の演出の差異」は今回の本題ではないので今は問わないでおく……というエクスキューズを、しっかりと意識すべきです。
「今は問わない」とはつまり、「いつかは問う」ことに他なりません。


もっと言うなら、実写映画とアニメ映画では「被写体の成り立ちが違う」ため、同じ評価の仕方をしないほうがいい(援用してもいいが混同しないほうがいい)と僕は考えています。
生身の俳優とデザインされたキャラクターは本質的に別の次元のもので、「絵なんだけど生きているように描かれている」ことと「生きている俳優が上手い演技をする」ことは別だと思います。
アニメのみを見ている人は、アニメは実写よりも優れた表現であると考えがちで、それはたとえば「クソみたいな邦画を見るより、深夜アニメを見たほうがマシ」といった言い方になるようです。アニメと実写、どちらの表現に優劣があるかという問題ではないし、それぞれどこに優と劣があるのか、誰かが見極めなくてはならないのです。

インターネットでは、端的に、キャッチーに「あの映画(アニメ)を見に行ったら、実はこうだった!」と笑えるようなことを言うか、「号泣した!」などの感情に訴えるレビューのほうが受け入れられやすい。
したがって、「実写/アニメの演出の違い」、「テレビアニメ/アニメ映画の演出の違い」などを考えることは賞賛とは無縁の、孤独な作業になるでしょう。それでもやらずにおれない人だけが、死ぬまで考えつづける。このブログが、いつもグズグズで非論理的あることは分かっています。いつか、きちっと中間報告を出したいと思っています。

(C) 2003 BONES・出渕裕/Rahxephon movie project

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