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2017年9月 2日 (土)

■0902■

小~中学生のころ、よくテレビ放送されていた『ロンゲスト・ヤード』をレンタルで。
L反社会的で破滅的で、脂ぎってギラギラした男くさい娯楽作は、70年代アメリカ映画に独特のものである気がする。無作法で乱雑だけど、笑ってすませられる愛すべき映画。
ただ、クライマックスのフットボールの試合がマルチ画面(ひとつのフレームを三つや四つに区切ること)なのは、あまりにテレビっぽい。1984年版『ゴジラ』でもマルチ画面を使っていたが、途端に映画の品位が落ちる。

にも関わらず、『ロンゲスト・ヤード』のラストカット、しびれるほどカッコいいのだ。
主人公は囚人だけで構成されたチームを、刑務所長との約束を反故にして勝たせてしまう。彼は脱走を図っていると疑われるのだが、実はグランドに残されたボールを拾いに行っただけで、意気揚々と試合場から去っていく。
このとき、カメラは暗い通路の中から、明るい出口を撮っている。出口に向かって、主人公と彼の仲間が歩いていくと、2人の姿はシルエットとなる。四角い出口、つまりフレームの中に「もうひとつのフレーム」があり、そこに2人の男のシルエットが映っているわけです。そのデザイン性の高い構図のまま、ぴたりとストップモーションになる。カッコいい。

すなわちこの映画は、フレームの限界とその制約から得られる自由さを、しっかりとわきまえているように見えるのだ。


つづいて、テオ・アンゲロプロス監督の『こうのとり、たちずさんで』。
Ft0395ギリシャとアルバニアの国境で、アルバニアからの難民たちを取材するTVディレクターが主人公。だが、ギリシャのこともアルバニアのことも知らなくても、ちゃんと引き裂かれた人々の悲哀は伝わってくる。それが、このスチールの川(国境)をはさんで行われる結婚式のシーンだ。

花嫁を連れた何十人かの人々が、林に隠れている。彼らの視線の先をカメラが追うと、フレームを真一文字にパッキリと分け隔てる川がある。川沿いの道を、一台の車(国境警備隊のパトロール車)が横切った後、川の向こうの林から、アルバニア側の人々が、アリのようにわらわらと出てくる。彼らが左右に分かれると、中央に正装した男が立っている。手には、一輪の花を持っている。彼が、花婿なのだと分かる。
この端的な構図で、もはやすべてを語り終えている。先ほどの車が戻ってきて、人々は林に隠れる。だが、花嫁と花婿は、フレームの右端と左端に再び現れて、呼び合うように片手をあげる。
一言のセリフがなくとも、ギリシャやアルバニアのことを知らなくても、彼らの状況と心情はしっかり伝わってくる。


上記のシーンには、すべての状況に立ち合わせている主人公のディレクターは、映っていない。実はカメラで撮っていた、と後から明かされるのだが、それ以降のシーンはどうでもいいオマケである。
主人公は、難民たちをとりまく状況を見て歩くか、訪問者と会話するだけで、自分から事態を引き起こすことはない。もっと言うなら、この映画はクレーンやドリーを使った移動撮影がほとんどのカットを占めるのだが、なぜかと言えば、「フレームに決定権がない」からだ。

多くの劇映画は、フレームが主導権をもって人物や風景に構図を与えるわけです。だけど、『こうのとり、たちずさんで』は人物や風景が、フレームを決めさせている。さらに言うなら、ワンカットの時間も人物や風景が決めている。
主人公が花嫁と出会うカットが象徴的で、同じ構図・同じポーズで止まったまま、花嫁は微動だにしません。気まずくなった主人公が歩き出したとき、ようやくカメラも移動する。状況に対して謙虚だし、無力でもある。

映画というのは、モチーフと作家がどんな関係を結んだのか、その記録、副産物にすぎないような気がしてくる。

(C)2010 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

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