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2017年8月20日 (日)

■0820■

ホビー業界インサイド第26回:バンダイ ホビー事業部に聞いた、「初音ミクのプラモデル」が発売されるまでの表の事情、裏の事情
T640_735538いままで模型誌が取材していそうで取材してこなかった、「フィギュアライズ・バスト」シリーズの企画担当者さんにインタビューしてみたら、美少女キャラが大好きな女性の方でした。
本当に好きな仕事を語るとき、人は誰でも生き生きとするものです。


しかし、メーカーが工夫して独自の技術を使っても高品位モデルを発売しても「なぜこんな余計なことをする?」「こんなに高いプラモデルを誰が買う?」と、自分の主義・事情に引き寄せて、だらしくなく開きっぱなしの口から動物的な文句を垂れ流す人たちもいるわけで。
そういう人たちは、自分がかわいいだけであって、文化や社会を良くしたいわけではないんですね。相手に無限の誠意と努力を求めて、それによって自分の気分が良くなれば収支トントンだぜ、我慢してやるよって人たち。

僕は、「こんな面白いものがあるなら、世の中、捨てたものじゃないな」と思いたいですけどね。


高校か大学のころ、吉祥寺のイトーヨーカドーに入店しようとしたら、扉がガラス製なので、ツエをついたお婆さんが、お店から出てこようとしている姿が扉の向こうに見えた。
ガラス扉はすごく重たいので、お婆さんが通るまで扉をあけて待っていたら、後ろから「行け!」という声がした。サラリーマンの男性だった。
無視して、お婆さんが通るのを待ってから通ったら、その男性は「早く行けよ」と捨てゼリフを残して、俺を追い抜かしていった。
あるいは、俺が扉を開けたら、うすら笑いを浮かべながら、ヒョイと追い抜かしていく男性もいた。たかが重たい扉を開けるだけとは言え、他人の労力にタダ乗りするのがカッコいい、弱者を追い抜かすのがカッコいいと思ってるんだろうな。こいつらのようにはなるまい、と思いましたね。

そして、先日。近所のクリーニング屋で前の人が会計を終えるのを店外で待っていたら、「どうして、外で待ってるの?」と、後ろから声をかけられた。いきなりタメ口で。
狭い店だから、前の人の真後ろで待っていたら、急かしているようで自分も相手もイヤなわけです。だから、外で待っていた。
ところが、俺の順番が来たら、その男性は俺の背中にくっついて、一緒に店内に入ってくるわけです。だから、それをやられると気分が悪いから、俺は前の客の背中にはりつくようなことはしたくなかったわけです。
僕がひとつゴミを拾うと、その場にゴミを投げ捨てていくヤツがいる。それでも、あきらめずにゴミを拾おうと思う。そうすることでしか、世の中の空気は良くならない。


僕をいつも未知の世界へ連れっていってくれる友人、内田さんの貧乏自転車旅行()。
内田さんは他人ばかりか、犬や猫にまで気をつかっているのですが、このジャンル(自転車旅行しながら自撮り)にも、いろいろな人がいるようで。

内田さんの動画はストイックで、まったく不愉快になることはないので、眠れない夜にでも見てください。

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2017年8月17日 (木)

■0817■

レンタルで、フィンランド映画『ファブリックの女王』
Qfabric_sub_6マリメッコを創設した女性、アルミ・ラティアの半生を描く……ように見えて、実はアルミの半生の演劇化と、その舞台裏を描いている。
映画に撮られているのは、すべて舞台上(撮影スタジオ内)で演じられている芝居という設定であり、簡素な舞台装置しかない。主演女優は、しばしば役について悩み、スタジオから出てきて監督に相談する。そのような過程を経て、女優はついにアルミとの一体化を遂げ、堂々とラストシーンを演じきる。
物理的な意味では、アルミを演じる「女優」が主人公だ。では、ひとりの女優を描いた映画なのだろうか。そうではない。女優がアルミについて批判的になったり、理解しようと努めるほど、アルミというその場にいない女性が強い存在感を発揮していく。


自ら作り物であることを白状してしまう映画といえば、『心中天網島』のファーストシーンや『ホーリー・マウンテン』のラストシーンが想起される。監督やスタッフを映してしまうほど露骨ではないが、ドキュメンタリー風に撮られた『アメリカの影』も、カメラの存在を強く意識させる映画だった。
しかし、『ファブリックの女王』は映画であることには自覚的でなく、演劇のフリをすることで観客をミスリードしている。カメラワークは完全に映画だし、演劇を見ている観客やスタッフなどは映らない。女優や監督が劇について語るシーンは、ほとんどが屋外(スタジオの外)で撮影されている。彼らがアルミ・ラティアについて相談する、議論することで、アルミに対する理解が深まるよう、機能的に設計されている。単に映画であることをバラすタイプの映画より一枚上手だし、劇の内容について誠実とも言える。

映画のラストは、海岸である。誰もいない寒そうな海に、アルミを演じた女優が歩いてくる。外でロケされているのだから、彼女はアルミ自身ではなく「女優」のはずだ。だが、そうなのだろうか? 舞台から降りれば、演じられていた役も消えてしまうのだろうか?
このシーンには、静かにベートーヴェンの『歓喜の歌』が流れている。その海岸は、アルミだけが辿りつけた天国のように見える。


ヒッチコック監督の『鳥』について、補足。
最初の何回か、鳥に襲われる場所には、必ず主人公の女性がいた。主人公はカフェで大勢の前で危機を訴える。ところが、周囲の理解は得られない。その時点で被害を経験したのは、主人公ひとりだけだからだ。
ところが今度は、不特定多数の人たちが見ている前で、鳥が襲ってくる。しかも、店内から窓の外を、「まるで劇場でスクリーンを見るかのように」、鳥の攻撃を目撃する。たった一羽のカモメが、ガソリンスタンドの店員を襲い、彼は倒れる。ガソリンが流れ出し、近くの車から火災が発生する。ひとりの男が焼け死ぬのを、カフェの客たちは呆然と見ている。映画を見ている我々と同じように、登場人物たちが「ただ見ているだけで何もできない」状況が出来上がる。そのシチュエーションさえ得られれば、映画への没入感は決定的になる。

さて、カメラは空撮になり、ガソリンスタンドと車が燃えさかる、地獄のような港の町をロングで撮る。
カメラの外から、風を切る音が聞こえる。カモメが一羽、また一羽とフレームインしてきて、港町へ向かう。町を襲ったのは火災であり、攻撃してきた鳥はたった一羽だった。だが、今度はたくさんの鳥たちが攻めてきたのだと分かる。
「人々は鳥の攻撃を信じていない→鳥が一羽だけ攻撃してくる→火災が発生して、死者が出る→人々が緊張する」、ここまでの段取りを組んでおいてから、待っていたかのようなタイミングで風の音を入れて、本格的な鳥の攻撃を予感させる。
物語のレベルでは乱暴にロジックを破壊しておきながら、演出は冷徹なまでにロジカル。全体として何が起きているのかは明らかにしないくせに、小さなレベルでは微に入り細をうがって事象を描きつめていく。狂っているのに正気、そこが『鳥』の怖さだ。

(C) Bufo Ltd 2015

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2017年8月13日 (日)

■0813■

EX大衆 2017年9月号 発売中
Dhbcdfgv0aafh53●オールアバウト『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』
古谷徹さんへのインタビューを含む、全4ページの企画記事です。
作品では、コロニーが一基だけ落とされた「GUNDAM CENTURY」発の歴史をトレースしているので、テレビ放映前から放映後、OVAやゲームによって、曖昧だった「戦史」がどう公式化していったか、ザッと振り返ってみました。

【懐かしアニメ回顧録第33回】「月詠 -MOON PHASE-」で描かれる “ウソだからこそ平和な”日常生活
『月詠』は日常シーンが『8時だョ! 全員集合』そっくりに、舞台上のセットで展開される。セットの裏がステージになっていたり、上から金ダライが落ちてきたり、舞台で演じられるコントそのものだ。
アクティブな、実写映画的なカメラワークは、ヴァンパイアたちと戦うシリアスなシーンに振り向けている。自覚的に抽象度を演劇に近づけたり、映画のフリをして撮ったり、表現の限界に自覚的なところが、新房昭之監督の強みだと思う。


レンタルで、ヒッチコック監督の『鳥』。
Ec6a0857d3f04d62中学生のときにテレビで見て、当時は『エイリアン』を見たあとだったので、60年代の映画は合成丸出しでショボイ、古い……という印象しかなかった。
これから見ようという人は、それぐらいナメてかかったほうが具合いいです。その分、ショックがでかいので。

正直、最初の50分はかったるくて見ていられない。いたずらに混みいった人間関係をダラダラと見せているだけで、見事なまでに何も起こらない。
だが、それでいいのである。……こうして文章で説明するのも野暮なのだが、かったるい映画だなと飽きてきたころに、理不尽に、不条理に(文脈を無視して)鳥たちが襲いかかってくる。それが、記憶とは違って合成丸出しではない。ものすごい量のスズメが、煙突をくぐって、暖炉からなだれ込んでくる。音楽は、まったくない。血糊などのメイクは、さすがに時代を感じさせるが……あとはとにかく、見てもらいたい。吐き気がするぐらい、怖いので。


鳥たちの三度目のアタックを受けた主人公(ティッピ・ヘドレン)は、町にある小さなカフェで、自分の目にした惨状を訴える。しかし、鳥類学に通じた老婆が「鳥にはそんな知能はない」「攻撃する理由がない」と、数字を並べて、きっぱりと否定する。
カウンターに座っていた酔っ払いが「世界の終わりだ」と、いい加減なことを口にする。主人公と老婆は、対立するような形になってしまう。このときの構図には、唸らされた。老婆が鳥たちに攻撃性はないと主張するカットでは、彼女の後ろに常連の客たちがいる。彼らも鳥の攻撃を目にしていないので、老婆の味方だ。
ところが、主人公が事実を話す背後には、無人のカウンターしかない。つまり、味方がいない。いや、カウンターの奥に、ひとりだけ、「世界の終わりだ」と叫んだ酔っ払いが座っている。もしかすると、本当に世界の終わりなのかも知れない。彼女の味方は、その酔っ払いだけなのだ。……とまあ、説明するのも面倒なぐらい、シャープで効果的な構図が使われているので、ぜひ覚えておいてほしい。

もちろん、時代を感じさせるところもある。俳優の演技が大げさで、白けてしまうシーンもある。それでも、映画の前半でほんのちょっとしか出さなかった鳥を、後半では画面を埋め尽くすほど出して、一切の説明なし、ロジックを破綻させる……このクールな発想センスは、決して古びない。尖っている。

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2017年8月10日 (木)

■0810■

ニュータイプ 2017年9月号 発売中
81magfm0cfl●息吹を感じて~脚本家・菅正太郎の軌跡
故・菅正太郎さんについて、佐藤竜雄監督にインタビューしました。
5年前に放送された『輪廻のラグランジェ』で、菅さんはシリーズ構成、佐藤さんは総監督という立場でした。
僕は、放送が決まってから、『ラグランジェ』のオフィッシャル・ライターとしてプロダクションI.Gに呼ばれました。Blu-rayなどのパッケージだけでなく、番組のキャッチコピー、各話あらすじ等、公式な文章はほぼすべて書きました。
「少年ガンガン」と「ヤングガンガン」に連載されていた情報ページも任されました。月刊と隔週刊なので、月に3本、まだ本編が出来上がる前に先行情報を書かねばなりません。制作スタッフは全員忙しいので、声優さんから各話についてコメントをいただくため、何度もアフレコスタジオに行きました。


僕はけっこうお節介なので、『ラグランジェ』の第二シーズンが始まる前に、徳島のマチアソビでコメンタリー付き上映会を開催して、お客さんのために入場特典を用意してもらったり、キービジュアルを提案したりしました。その頃になると、だんだん宣伝費も底をついてきたので、それらの自主的な活動はボランティアでやっていました。
また、『ラグランジェ』のムック本があまりにも軽い内容だったので、世界観の設定ページや本全体への導入パートを設けることを、会議で提案しました。そのとき、新たな設定づくりのため、菅さんに惑星の名前などを考えていただき、僕が書き上げた設定部分をチェックしてもらいました。

その延長上で、「月刊ホビージャパン」に『ラグランジェ』のメカ設定のページを連載しました。なぜなら、せっかくロボットを日産自動車のデザイナーに描いてもらったのに、本編での設定が薄すぎたからです。バンダイビジュアルさんのプロデューサーがページを確保してくれましたが、「タダでもいい」と言ったら、本当に原稿料が出なかったので、びっくりしたものです。
そして、全六回の連載のため、本編にはまったく出てこないメカの開発背景、バックストーリーを考え、菅さんにチェックしてもらい、ときにはダメ出しもあり、ときにはキャラクターや艦船の名前を考えていただき、半年ほどお付き合いが続きました。


打ち合わせの場所は、いつも吉祥寺駅からちょっと離れた喫茶店で、時間帯は夜8時ぐらい。バンダイビジュアルのプロデューサーが同席して、3人だけの打ち合わせです。
あるとき、プロデューサーがどうしても来られないことがあり、菅さんと2人で打ち合わせしていたら話が盛り上がり、「ちょっと飲んでいきましょう」と誘われて、吉祥寺の小さな焼き鳥屋で飲みました。

とりたてて、面白い話だったわけではないです。『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』はちゃんと見てくれていたか?とか、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で神山健治監督に何度も使ってもらえて、すごく嬉しかったとか、今後はもっと頑張るから見ててくれよとか、別に秘密の話でも何でもない。
僕は利害関係のない外部の人間なので、気楽に話していただけたのでしょう。それと、佐藤監督からうかがったのですが、奥さんは菅さんの仕事内容をよく知らされていなかったそうで、あまり自分の参加した作品を振り返って語る機会がなかったのかも知れません。
僕がタダで連載をやっていると話したら、「それはひどい。俺からお金が出るように言っておくよ」と怒ってくれたのを、よく覚えています。


『ラグランジェ』は、当初は別の監督とライターで進んでいたそうですが、そのお2人が抜けたので、まったく新しい設定とストーリーを考えなおしたそうです。仕事している人なら分かると思いますが、一度ポシャったところから再出発するのって、絶対に苦しい。気持ちを切り替えないといけないから、精神的にイヤじゃないですか。クリエイティブ側のスタッフは菅さんひとりしか残らなかったので、張り切るのは分かるし、責任感もあっただろうし、孤独感をおぼえるのも分かります。

その辛さとか、辛さと背中合わせのやりがいだとかは、5年たった今のほうが分かるような気がする……。菅さんは、いつでも「やってられるか」と逃げる権利を擁していたんだけど、とうとう最後の最後まで踏みとどまった。『ラグランジェ』の他のライターさんはギャグとか趣味に走っていたけど、菅さんだけは義務感を優先させていたんじゃないかな……。いちばん外側から作品全体を見ていたので、どうしてもそう思えてしまう。
そういう仕事のしかたを、他人事とは思えなくなってきた。今さらだけど。

だから、俺は作品がつまらなくても「クソ」とか「カス」とか、商業的に失敗しても「爆死w」とか、絶対に言わない。「コケた」とさえ言いたくない。「神アニメ」にも、同様の無責任さを感じる。誉め言葉になっていない。かえって失礼な感じがする。
あのね、他人の仕事を屁のように軽んじているから、「クソ」「神」と言い捨てられるんですよ。観客は当事者。作品を生かすのも殺すのも観客。生まれながらに「クソ」も「神」もないんです。99人が敵になるとしたら、俺はひとりの味方でありたいです。

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2017年8月 9日 (水)

■0809■

レンタルで、是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』。
Sub02_large『歩いても 歩いても』と同じく、阿部寛が主演。妻と別れ、興信所に勤めながら元妻が新しい恋人とデートするのを尾行したり、老いた母親のへそくりを盗んだり、どうしようもないバツイチ男を演じている。
阿部が、マンションで一人暮らししている母(樹木希林)のもとを訪ねる。樹木は、バス停まで阿部を送っていく。2人はどうでもいい話をしているのだが、車道の向こう側で街路樹が揺れているのが見える。木々が風で揺れたとき、ザァーッ……と静かな、ちょっと重たい音を立てる。遠い記憶を刺激される。
『誰も知らない』のときに書いたと思うが、ネグレクトされている子供たちに優しくしてくれる不登校の女子高生が、自分のマンションに戻る。そのシーンで、歩道橋の向こうに、鬱蒼とした木々が見えている……何十年間もの人生の、どこかで見たことのある森閑とした風景。言葉ではないし、ましてや物語ではない。
でも、映画の目的は、物語を伝えることではないので。


だらしのない元夫を、元妻の真木よう子は煙たがっている。台風の夜、いきがかり上、元夫と元妻は、子供と一緒に母の家に泊まる。
その夜、樹木希林の母親がカレーうどんをつくる。元妻も子供も手伝う。ジャガイモを切る手。冷蔵庫から取り出されるカレーの入ったタッパー。鍋に入れられるうどんのアップ。もう、顔なんて映さない。画面外から「グリンピース入れたら?」「分かってる、好きだもんね」などの会話が聞こえる。
作業のみを淡々と撮っていくためだけに、フィルムを使っている。この端的なシーンを生き生きと見せる目的で、一時間ほどシチュエーションが重ねられてきたかに思える。

さて、カレーうどんを食べ終えて母子が帰ろうとするけど、母が台風がひどいから泊まっていけと言う。泊まっていこうという話になる。そのとき、洗い終えたどんぶりがアップになる。心憎いと思った。強いて言うなら、みんながカレーうどんを食べ終えた後のどんぶりは、家族を象徴している。食べ終えたばかりの汚れたどんぶりではなく、洗ってあるから、見ていて気持ちがいいわけです。「良いことが起きる」と予感させる。そもそも、シーンの転換に、無機物のアップをポンと入れると時間経過の演出にもなるし、テンポも出る。
映画を見るんなら、そういうところを見ないとさ。

真木よう子には新しい恋人がいて、元夫の書いた小説の感想をいう。「時間の無駄とは言わないけどさ……テーマがよく分かんなかったな、僕には」。つまんない男でしょ? だけど、世の中の映画の感想も「ストーリーが」「テーマが」ばかりだよね。


だけど、こういう丁寧につくられた邦画って、ニュアンスが伝わりすぎてしまう。
是枝監督は、よくセリフに「こうすると、ほら、アレするだろ」「ああいうのって、あんまりアレだからさ」など、アレを多用する。機能的ではない不明瞭な会話って、日常性が出ていいんだけど、あまり使いすぎると意図ばかり気になってしまう。
あとね、旦那の浮気調査を依頼してくる女性が、服装も化粧もケバいとか。だらしのない阿部寛の部屋が散らかっていて、暇な時間は煙草をくわえながらパチンコしているとか、ちょっとした陳腐さが気になってしまう。

微妙なニュアンスが伝わりづらいほうが、構図やカットの機能が明らかになる。
機内上映で、字幕もなければセリフも外国語で分からない映画を何本か観たけど、それでも面白い映画ってあるんだよ。
ヒッチコックは「セリフがなくても伝わる映画が理想」と言ったそうだけど、彼の映画を観れば、それは分かりますよね。この『海よりもまだ深く』も、観終わってから早送りにすると、構成のシンプルさが分かって、けっこう良かったりする。

(C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ

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2017年8月 7日 (月)

■0807■

レンタルで観た映画は韓国映画『戦場のメロディ』と、ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』。後者は、戦前の日本では検閲のため未公開に終わったという。現在の日本では、こうして86円という無礼とさえ言える値段で観ることができる。僕にとって価値のない映画が、あなたにとっては宝物になるかも知れない。


ワンダーフェスティバルが終わったせいだろうが、僕がフィギュア・プラモデル関連のアカウントばかりフォローしているせいなのか、Twitterが殺気だっている。
ワンダーフェスティバル運営周辺については、「なるほど、ごもっとも」と得心したくなるような怒りのこもった意見が多いし、矛先が明確なので、特に言うことはない。

ちょっと気になったのが、「2000年代初頭までのフィギュアはひどい出来だった、おっさんたちが脳内美化しているだけだ」と、雑誌の写真を貼ったツイート。そこには等身大の綾波レイのフィギュアが映っている。確かにひどい出来だが、もっと良いものもたくさんあったはずだ。
とりあえず、どこから持ってきた雑誌の写真だろうと画像検索をかけると、「1996年のフィギュアってこんな程度でしたね」と記された、元ツイートが即座に見つかった。
ところが、元ツイートを「2000年代のフィギュア」と改変した本人は、「90年代の模型文化は資料に乏しい」と言い訳し、自分の間違いを指摘した人たちは「老害」なのだという。
90年代の模型雑誌など、いまはネットで格安に手に入るため、僕は手元にあった月刊モデルグラフィックス 1998年6月号のページを写真に撮り、Twitterにアップした。300ほどのアカウントにリツイートされたが、自分で調べず他人の撮った写真ですませた「2000年代初頭までのフィギュアはひどかった」はその十倍ぐらいリツイートされている。

こうして、まるで公害のように汚れた空気だけが伝播していく。最大の問題は他人の写真を拝借したことではなく、「1996年」を「2000年代」と改変したことでもなく、「ひどい出来だった」とネガティブに攻撃的に泥を塗り、「この20年間で進歩した」などとインスタントに納得したがる、その性急かつ虚無的な態度だろう。


「で、それはなにも高い年齢の方の発言という訳でもなくむしろ僕らを老害などと揶揄するくらいの年齢の人物から発せられたというのがまたポイントなのですがね。」(
これは、「SF」の解釈をめぐる山本弘さんのツイートへの返信。非常に得心がいった。「おっさん」「老害」と言いたがる人にかぎって、せいぜい30代なのにガチガチに頭が固い。それでいて、自分の内部が空洞なのは年齢のせい、相手がムカつくのも年齢のせいと、時代や世代に何もかも押しつけずにおれない焦燥感だけがヒリヒリと伝わってくる。

「こっちは若くて経験不足なんだから、ジジイどもは大目に見ろや」などと甘えている人は、やはり歳をとってからも「こっちは若いころに苦労したんだから、若者どもが譲歩しろや」と、年齢を盾にとってくるような気がしてならない。早い話、年齢は関係なくて性格が悪い。
自ら弱いほうのカードに賭けておいて、「なんで俺だけこんなに損してるんだよ!」と相手かまわず怒鳴りつけるような意地汚さがある。そういう人間は、逆に自分だけが勝ちつづけて他人が損しつづけているような不公平さをも積極的に肯定しそうで、酒の席でも仕事の場でも、決して近づきたくない。こちらが巻きぞえで被弾してしまうから。

ただ、彼らが汚してしまった空気を、ちょっとは清浄にしてやろうとは思う。僕が社会にコミットできるのは主に仕事なので、いい仕事をして、世の中そんなに悪くない、絶望することはないと読者に伝えていきたい。

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2017年8月 2日 (水)

■0802■

いままで、漠然と見た気になっていた『太陽がいっぱい』。レンタルで。
Main_largeおそらく何十年も前に本で読んだんだと思うが、アラン・ドロンが最後に完全犯罪をなしとげたと安堵したところで、警察が来る。それは知っていた。というより、観客にだけ知らせて「特権意識を持たせる」。面白い映画は、たいていそうなっている。
アラン・ドロンが警察と出会って、愕然とする……なんて余計な描写を入れたら、観客の特権意識が台無しになってしまう。「何を描かないか」って、やっぱり大事なんだ。


でね、最初の10分ぐらいは構図もへったくれも、ごちゃごちゃ。イマジナリー・ラインなんて無視しても映画は成り立つんだけど、無視するにも程がある。
だけど、主人公(アラン・ドロン)が友人を殺してからの演出は不気味なぐらい、冴えてます。
ホテルの一室で自分の殺した友人になり切って過ごしている主人公のもとへ、殺した友人の知り合いが訪ねてきてしまう。彼はアラン・ドロンを怪しいと疑って、彼への届け物(食材)を「俺が運ぼう」と申し出る。だが、部屋へ入った瞬間、頭を陶器で殴られて、その場に倒れる。
すると、食材が床に散らばる。トマトなどの野菜に混じって、手足のついたままの鳥がベタッと床に投げ出される。これ、鳥なんて要らなくないですか? だけど、鳥の死骸が床に投げ出されることで、「死」は強調される。血が一滴もでないかわりに、手足のついたままのグロテスクな鳥で「死」の生々しさを演出している。そのように見えるのは、気のせいですか?

そして、ドロンは死体を放置したまま出かけて、ホテルに戻ってから、鳥を丸焼きにして食べる。このシーンも、要らなくないですか?
だけど、平然と鳥を焼いて食べることで、ドロンの「人殺しをしておきながらも食欲はある」無神経さ、大胆さ、ルーズさが強調されてないですか? 少なくとも、この鳥は殺人シーンで初登場したんだから、「死」と無関係ではないと思うわけです。いかがでしょうか。


さて、台所で鳥の丸焼きを食べ終えたドロンは、死体の処理を始める。
そのシーンの冒頭が、この映画の中でもっとも不気味なんだけど、ドロンは台所と応接間の仕切りにもたれて、腕を組んでいる。
その画面の右側に、古い肖像画が飾られている。ドロンは、その肖像画とそっくりなポーズをとっている。しかも、台所と応接間の仕切りが、まるで額縁のように見える。肖像画とドロンが同じポーズをとっている……これって、偶然ですか?
ドロンは殺した友人になりすましているし、鏡の前で彼のモノマネをするシーンまである。ドロンが絵の中の誰だか分からない人物と同じポーズをとることで、彼は「誰にでもなる」「何でもやる」。構図が、映画がそう告げているように感じましたが、いかがでしょう。

言葉にすると牽強付会に聞こえるだろうけど、映画を見ていて「気持ち悪い」と感じたのは、これらのシーン、ショットなんです。なぜ「気持ち悪い」と感じたのか、それを腑分けする作業が、僕にとっては楽しみだし、有意義でもある。映画を見つづける意味は、「なぜ」に込められている。


書こうかどうか迷っていたけど、何人かの友人と意見交換したので、追記。

石坂浩二 追究し続け60年超…プラモデルは人生賛歌
僕は、石坂さんのプラモデルに対するスタンスは、保守的すぎて、前から好きではないです。この記事にも、実にどうでもいいことが書かれている。でも、だからこそ、石坂さんに対する人としての礼儀、距離感を忘れてはならないのです。
「なにが人生だ!」「オッサンが!」とバカにできる人は、それこそ「俺は人生経験が乏しいです、怒ったら他人に対する最低限の敬意もかなぐり捨てるガキでございます」と白状しているようなもの。

「腹が立つ」ってのは、ようするに自分では状況を変えられず「ぐぬぬぬぬ」となっている状態です。だから、女性には「ブス」とか「デブ」とか「BBA」とか、僕に対してだったら「ジジイ」「ハゲ」、媒体に対しては「マスゴミ」だとか、バイアスのかかった言葉で、安易に優位に立とうと焦ってしまう。それはフェアな議論では勝てませんと、白旗あげたも同然です。
他人への敬意を捨てて、相手にはどうにもできない欠点を責めはじめるのは、歳は関係なくて、性格ですね。性格は改善できるので、残りの人生で頑張りましょう。

(C)ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO./Plaza Production International/Comstock Group

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