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2017年8月31日 (木)

■0831■

レンタルで、『ボーン・アルティメイタム』。
328151view002シリーズ三作目をいきなり見たせいもあるが、「物語」の大枠、設定などはさっぱり分からなかった。しかし、そんなものどうでもいいんじゃない?……と思わせるぐらい、編集テクニックがすごい。アクションシーンともなると、一秒間24コマに満たないです。一秒間に3カットぐらい入ってるんじゃないかと思う。
そんな短いカット割りで、何が起きているのか分かるのか? ぎりぎり分かる。顔のアップが多いので、「いま殴られた人が壁にぶつかったんだな」と認識できる。パッと振り向いたら、ほぼ同時に奥にピントを送って、何を見たのか瞬間的に分からせる。カット尻でカメラを振って、絵をブレさせたり(そうすると情報がリセットされて、次のカットが頭に入ってきやすい……だが、リセット後に視認されるカットが、また恐るべきスピードで過ぎ去っていく)。


そもそも、「分からせる」ことが目的のカット割りではない。たぶん、「飽きさせない」「眠らせない」ことを目的にした結果、このような密度が生じてしまったのではないだろうか?
僕は、黒澤明やアルフレッド・ヒッチコックのような、機能的で合理的で、何が起きたかを文脈をもって理解させるカメラワーク、カッティングが好きだ。だが、単に「好き」であるだけで、黒澤やヒッチコックの映画を見終わった後、「いいストーリーだった」「よく出来た物語だ」とは思わない。「言葉にしづらい事柄を、映像で伝えるのが上手いな」、と感心するのである。

映画を見る目的を、「サッと一言で説明可能なレベルにまで、物語を理解すること」だと思うから、いろいろつまらなくなる。
『ボーン・アルティメイタム』は、終幕間際になってセリフで何が起きたか説明して、「物語」を了解しようと努める観客たちの攻撃をかわしている。また、主人公を常に監視するカメラやシステム、組織を登場させることで、あたかも「すべてを観客に理解させている」かに誤解させる。その詐術も見事だ。
だが、裸眼で見たなら、この映画が効率を度外視して、殴り合いやチェイスを膨大なカットで見せているにすぎないことは分かるだろうし、それは何ら責められるべきことでもない。


来月公開予定の『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』は、物語の理解を放棄させた点で、特筆すべきアニメーションだ。
20170823eurekaseven02 半年なり一年間なり放送されたテレビアニメを「総集編」として無理やり2時間の劇映画に仕立てる試みは数限りなく試されてきたが、『ハイエボリューション1』はそのくびきから逃れることに成功している。
主人公・レントンの絶えることのない、とりとめないモノローグ。テロップの挿入で何度も何度も巻き戻され、ちりぢりになった時系列。結果、語り口の軽妙さだけが残される。カッコつけではなく、ちゃんと笑いを誘うところもいい。

「テレビアニメ→劇場アニメ」のフォーマットでないと、こういう作り方はできない。その観点からも日本のアニメって特殊だと思うんだけど、完成した作品は「映画っぽい」。単館系でよくある感じの一本になっているのだが、なぜそう見えるのかは、もう一回見てから慎重に考えたい。

(C)2007 Universal Studios. All Rights Reserved.
(C)2017 BONES/Project EUREKA MOVIE

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2017年8月28日 (月)

■0828■

アニメ業界ウォッチング第36回:荒牧伸志監督が語る「3DCGとモーションキャプチャにこだわる理由」
T640_736196神山健治監督と『攻殻機動隊』をつくりはじめた、荒牧伸志監督に取材させていただきました。
神山監督の話題も面白く聞かせていただいたのですが、それは情報解禁になるまで待ってとのことで、今回は荒牧監督の作品に、話を絞っています。


レンタルで、アイルランドのアニメ『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』、ケイト・ブランシェット主演の『キャロル』など。『ウェディング・シンガー』という映画が、なかなか面白い試みをしていた。
結婚パーティ専門の歌手の男性が、婚約者に逃げられてしまう。その彼が結婚予定のウェイトレスと出会って、紆余曲折の果てに彼女と結ばれるという、まあなんてことない恋愛映画だ。
このシンプルな筋立てを、衣装とセットの色で演出している。主人公が落ち込んでベッドで眠っているときは、彼のパジャマもシーツもモノトーン。ちょっと元気が出てきたら赤いシャツを着ているとか、「いつの間に着替えたんだよ?」と笑ってしまうぐらい、展開に応じて衣装がどんどん変わる。

いちばん感心したのは、このスチールの衣装。右側が、主人公だ。
1080003557このシーンで、ヒロインはピンクのシャツと黒いジャケットというコーディネート。また、彼女の婚約者(主人公のライバル)もピンクのシャツを着ている。したがって、2人が並ぶと「ピンクでお揃いの服を着ている」わけだ。
だが、ヒロインは主人公にも好意をもっている。彼女が主人公の近くに行くと、彼女は横を向いて話しているので、下に着ているピンクのシャツは見えない。すると、今度は主人公の黒いジャケットと「お揃いの服を着ている」ように見える。これは、実によく人間関係を視覚化しているよ。
主人公とライバルとの間に、衣装の共通点は皆無。だが、ヒロインは2人の間で揺れ動くわけだから、2人の衣装それぞれに呼応したコーディネートになっている。

徹頭徹尾、そのような設計で衣装が選ばれているわけではないけど、部分的に衣装が強烈に主張してくる。ドラマを奏でるのは、何もセリフだけとは限らないのです。


『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』は、良質なアニメーションであることは分かるんだけど、やはり「アニメーション」と「映画」とは、別の表現手法ではないだろうか。
劇映画は、「フレーム内の情報の変化」と「カットを割っても劇が持続していること」、その二つが成立条件だ。ストーリー性というより、劇性のあるアニメーションも、その成立条件を拠りどころにしてはいるんだけど、フレーム内の「情報の質」が、実写映画と違いすぎるんだよな。乱暴に言うと、写真と絵は別のものだから。

『君の名は。』も『この世界の片隅に』も、実写「的」な奥行きと立体感をもった絵づくりをしてはいるんだけど、「絵」であることの優位性は、それほど評価されていない。それどころか、「実写よりリアルだ」「絵とは思えない」といった混乱を招く評価のされ方が多い。
フレーム内の「情報の質」について気にする人が案外少なくて、いつもストーリーテリングに話題が集束してしまう。

(C) MCMXCVIII New Line Productions, Inc. All Rights Reserved.

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2017年8月25日 (金)

■0825■

モデルグラフィックス 2017年 10 月号 発売中
Dhzuuluwaahcyd
●組まず語り症候群
第58回です。前号で美少女パンツ系に走ってしまったので、今回は地味に、熱気球のプラモデルです。

●バンダイ 1/72 ミレニアム・ファルコン 開発チーム インタビュー
前号につづき、後編になります。
地味なページではありますが、企画、実物への現地取材、造形、設計、成型……と、ひととおりプラモデル開発の流れを押さえています。別冊が出るときには、増ページしたいですね。


さて、週末である。夕方にTSUTAYAへ行くと、ドスドスとやけに大きな足音が聞こえてきた。「もしや」と振り向くと、予想は当たった。DQNと言って古ければ、リア充というのだろうかウェイ系というのだろうか、とにかく自信満々、生まれてこのかた悩んだことなど一度もないといった雰囲気のカップルであった。男女というよりオスメスのつがいと呼びたくなるような、近寄りがたい生命力にあふれている。
なるべく距離をとったつもりなのに、何しろ生まれつき声がでかい人たちなので、会話が丸聞こえだ。「かなわんな」と思いながら、アニメのDVDを二枚手にとって、レジへ急いだ。

そのとき、僕の嗅覚が、さっきのカップルよりさらに危険な匂いを感知した。
僕より年上だろうか年下だろうか、きれいに剃りあげたスキンヘッド。僕のように、年齢にまかせてだらしなくハゲたわけではない。お洒落なハゲだ。しかも、肌が小麦色によく焼けている。
小柄だが、かなり鍛えているらしく、四肢が引き締まっている。さらに、着ているシャツもお洒落なのだが、服などオマケのようなものだ。とにかく動物レベルで「強そう」なおじさんである。
僕が「お呼びするまで、こちらにお並びください」と書かれたラインで、ボーッと待っていると、このおじさんがスルッと僕を追い越して、先にレジで会計をはじめた。こういうとき、「ちょっと待って、僕のほうが先ですよ」と言えない人間なのである、僕は。目すら合わせられない。
(この手の男性は、必ず尻ポケットからニョキッと黒い財布が突き出ている。生物的に、スリを近づけさせないからである。)

こういうことを書くと卑屈だとか臆病だとか、いい歳なんだから自分に自信を持てだとか、的外れなアドバイスをくらいかねない。態度や年齢や心構え以前に、生き物として相手のほうが「強い」のである。この感覚が分からないと、他人に優しくはできない。
話は、まだ続く。


アニメのDVDを二枚借りて、帰途についた。
僕の家は駅の反対側にあるので、地下をくぐるトンネルを歩いて渡らねばならない。坂道にさしかかった頃、うしろから「さあ、行くぞ!」と、大きな声が聞こえてきた。自転車の前後に子供を乗せたお父さんが、「ビューン!」と叫びながら爆走し、僕と僕の前を歩いていたお兄さんを追い抜かしていくのであった。
トンネル内では自転車を降りて歩くよう注意書きがあるのだが、そういう問題ではない。そのお父さんのほうが、「生き物として強い」のである。猛獣が突進してきたら、人間のほうが避ける。それと同じレベルの話だ。

猛獣が走り去ってから、僕の前を歩いていたお兄さんは、僕の後ろに自転車に乗った女性(60代ぐらい)がいるのに気づき、立ち止まって道をゆずろうとした。僕も、彼にしたがって、道をあけた。
すると、自転車の女性はきれいな声で、「私は歩きますので、お先にどうぞ」とおっしゃった。お兄さんは納得した様子で歩きはじめ、僕も女性にお辞儀をして、歩きだした。ようやく、人間の世界に帰ってこられた。今日のTSUTAYAは、野生の草原だった。
あのお兄さんは歳をとっても女性や親子づれに道をゆずるだろうし、あの女性は若い頃から礼儀ただしかったのだろう。相手を、自分と同じ人間として意識して尊重するからこそ、そこに社会が生まれる。


僕が大学を卒業する年に始まった『宮本から君へ』は、途中からラグビー部所属で外務省に就職が決まっている“生物的強者”をいかにして倒すか?が、物語の貫徹目標になっていく。
(主人公・宮本の彼女はライバルの男にレイプされてしまうのだが、彼女の「若い子がもったいつけると、カッコ悪いよ」という言葉の説得力は忘れられない。年齢を聞かれて「いくつに見えますか?」ともったいつける男ほど、醜悪なものはない。)
宮本がライバルに勝つ過程には、いくつか不満もある。だが、生き方や態度では決して回避できない屈辱を、この作品は正しく描いている。

『シン・ゴジラ』は、大学の部活のようなノリでオタクの集団が国難を乗り越える……いや、自分たちの能力だけを駆使して、自分たちを虐げてきた強者たちをも、丸ごと「勝たせてやる」ところに愉悦があるのだと思う。
だから、実社会で強者として勝っている観客たちには、さぞかし腹正しい映画に見えたのではないだろうか。

人間は平等ではない。宮崎県日向市PR動画、あんなものを見て喜んでいるのは、男女問わず強者だけではないか。男ならサーフィンぐらい出来るべき、飲み会で女の子に肩を叩かれてこそ一人前……すべて圧力、醜悪な圧力の塊だ。
勝たなくてもいい、そもそも戦わなくていい、いたるところ逃げ道だらけの社会なら、誰もが自己実現できるだろうに。嫉妬も生まれまいに。

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2017年8月24日 (木)

■0824■

サンライズフェスティバル2017翔雲のレイトショーにて、テアトル新宿で『ガンヘッド』。
21077288_1417957191631524_907070594驚いたことに、『マイマイ新子と千年の魔法』公開時、いっしょに上映を盛り上げてきた友人が来場していた。もちろん、『ガンヘッド』とは無縁の人で、今回が初見だそうである。
上映後、「どうでした、何が起きているか分かりましたか?」と聞いてみると「いえ、さっぱり……」と苦笑。そう、それでいい。


僕は『ガンヘッド』を1989年の公開時に3回観に行って、2007年にDVDが発売されてからも繰り返し観ているが、いまだに争奪戦の中心にある「鉱石」にどんな機能があるのか、敵のコンピュータ「カイロン5」が何故、どうやって世界を滅亡させようとしているのか、さっぱり分からない。
分からないのだが、そのような「他の映画と同水準の」分かりやすさは、この映画の魅力とは無関係と思っている。テレビ放映時には、あちこちにセリフを付け加え、難解なセリフを簡素にし、すべての演技にも感情をこめてアフレコをやり直していたが、僕に言わせれば「何もかもぶちこわし」である。

たとえば、主人公のブルックリンが「(仲間の)ニムとイレブンに関する情報は?」と聞く。ガンヘッドのAIが、ぶっきらぼうに「NO」と答える。ブルックリンは「愛情のない言い方だな……」と呟く。
Photoところが、テレビ版では「愛情のない言い方だなあ!」とムッとするように、演技が変更されていた。ダサい。意味が「ブルックリンがガンヘッドの愛情のなさに怒っている」だけになってしまい、元のセリフが持っていた「お前も愛想のない言い方するね、まあいいけどさ」といった乾いたユーモアが消えてしまっている。『ガンヘッド』のセリフ回しには、外国映画でも観ているかのようなニュアンスの揺れ幅が感じられ、そこが他の映画にない魅力となっている。

感情をはっきり示す、登場人物が何を考えているのか明確にして、感情移入、ようするに共感させねば観客に受け入れてもらえない……そのような作り手の焦りは、最近になってますます強くなっている(だから日本映画では、激怒したり泣き叫んだりするシーンを入れたがる)。
観客の側も「感情移入できたか、できなかったか」、「泣けた」すなわち「登場人物に共感できた」ことを、映画の評価軸にしたがる。
コミュニケーションの円滑さだけが重視され、分かりづらさは悪しきものと断じられ、「名作か駄作か」の即断が迫られる。


話がそれた。
好きなセリフ回しは、まだいっぱいある。エレベーターで敵タワーの頂上を目指すガンヘッドとブルックリンだが、ガンヘッドは燃料切れで動けない。途中のフロアで止まり、ブルックリンが燃料タンクを調達せねばならない。
Photo_5その段取りを相談する中で、ブルックリンは「なんでこんなに暑いんだよ」とボヤく。それに答えてガンヘッドは、カウントダウンまでに脱出しなければ、自分たちのいるタワー全体が超高温の原子炉になってしまうと告げる。
「じゃ、炉心にいるんじゃねえかよ! そういうことってさあ! ……最初に言うべきことじゃない?」と、ブルックリンは最初こそ怒っているんだけど、セリフの後半では呆れと諦めが混じって、子供に言い聞かせるようなかわいい話し方になっている。このセリフ回しにも、「ニュアンスの揺れ幅」が含まれている。
確かに、タワーが高温化したらブルックリンは死ぬ。だが、その危機感よりも、いまは燃料タンクの補給が最優先だ。つねに大きな危機と主人公の状況が多層化し、ときにズレており、必ずしも合致していない。命の危険が迫っているからといって、「一刻も早く脱出して、必ず生きて帰らねば」と悲壮感を出すと、ストレートすぎてダサい気がするのだが、どうだろうか?
「カウントダウンが来たら確実に死ぬのだが、今はとにかく燃料タンクを運んでこなくてはならない」、その状況のズレ、怒ったり焦ったりしていられない事情が、シーンに臨場感を与えている。

もちろん、最初に書いたように、敵がどうやって地球を滅ぼすのかは、さっぱり分からないよ? ラスボスの巨大ロボットを本当に倒さないといけないかのかどうかも、よく分からない。だけど、主人公には、とりあえず今やらなくてはいけない「雑務」が常にあって、そのめんどくささにイライラしたりヤケになったりする、それを見ているだけで、僕は面白い。
それとも、大状況や設定をきっちり理解できてないと、映画は楽しめないのだろうか? 僕たちが瞬間瞬間に目の前にしている演技、構図、カット割のカッコよさを楽しむことは間違っているのだろうか?


僕たちは90分なり120分なりの映画の構図やカット割を、見終わったあとまですべて記憶することは出来ません。90分~120分、流れすぎていく映像を見つめてることしかできない。カットや構図、そしてセリフはすべて「印象」にすぎないのです。だから観終わった直後は、頭の中で構成された「ストーリー」を話すしかない。カットや構図を、ほとんど忘れてしまっているからです。
「ストーリー」を機能的に伝えるための構図やカット割のメソッドは、1950年代以前に完成されており、そこより先へ進めなくなったからヌーヴェル・ヴァーグのような運動が起きたし、予定調和を裏切るアメリカン・ニューシネマが台頭しました。

映画は、フレームの中で起きていること、それをどう編集するかでしか、形を成すことができません。フレームとカッティングによってしか「ストーリー」は伝えられない。「ストーリー」によって観客の理解と共感を得たいがあまり、どんどんセリフが説明的になり、どんどん演技がオーバーになり……という惨状を、僕らは数多く目にしてきたはずです。
ストーリーなど分からなくても、特撮がチャチでも、カッティングのテンポ感とセリフと演技の多層的な膨らみで十分に魅了してくれた映画、それが『ガンヘッド』なのです。

(C)東宝・サンライズ

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2017年8月21日 (月)

■0821■

イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン監督の『ファーゴ』、レンタルで。
Imageシンボリックな構図の多用で知的好奇心を喚起し、個性的な顔つきの俳優たちのかもすユーモラスな雰囲気で親近感をあたえる。よって、90分間のあいだ、まったく飽きることはない。
いつものようにストーリーが、テーマが、メッセージが……と文学的に解釈しがちな方でも、プロセスの積み重ねやシチュエーションの展開に興味を持てるのではないだろうか?


誰でも気づくと思うが、ものを食べるシーンがとても多い。
主人公(だとしても、登場までに30分もかかる)の女性警察署長マージは、妊娠しているせいか、とにかく大量に食べる。登場シーンは、ベッドで寝ているところを電話で起こされるという凡庸なものだが、夫が料理した朝食をとって、事件の捜査に出発する。
雪の中の犯行現場に着いてからは、部下にコーヒーを勧められる。つわりで吐き気を催すものの、すぐさま「お腹が空いたわ」などと言い出す。
次のシーンは、狂言誘拐をもくろんだ中古車ディーラーたちが、カフェで朝食をとっている。誘拐犯たちの動きを見せたあと、マージ署長が警察署に戻ってくる。すると、夫が山ほどのハンバーガーを差し入れに来ている。
さらに、マージ署長がビュッフェ形式のレストランで料理を皿に盛るシーンを、やけに長々と撮っている。ほかにも、ドライブスルーでハンバーガーを買い、車内で頬張るシーンもある。
プロセスの進行を遅延させる、無駄とも思えるシーンばかりだ。それでも、食事シーンが映画や人物にまろやかな感触を与えているのは間違いない。


誘拐犯たちは、ブレーナードという小さな町に寄り道する。町の入り口には木こりの像が立っており、劇中に三度、登場する。二度目は、最初の殺人が発生する直前だ。まさかりを担いだ木こりの像を、ゆっくりと舐めるようにティルト・アップで撮っている。下から光が当たっているので、木こりが殺人者のようにも見える。
ラスト近く、誘拐犯が仲間の死体を解体しているところを発見され、捕まる。彼がパトカーの中からゆっくりと見上げるのが、やはり木こりの像である。

実は、そのような暗喩的なシーン、カットに溢れた映画なので、いちいち解釈するのが癪ではある。だが、映画はドラマだ、ストーリーが大事だという思い込みを駆逐するだけのパワフルな密度の映画であることは間違いない。


20年ぶりぐらいに、根本敬さんの著書を買った。『夜間中学』という穏当なタイトルからして、以前に比べると薄味になっているかと思いきや、あの生命力に満ちた毒々しさは健在で、心の底から「頼もしい」と感じる。
「生活感だらけの街、銀座の角を曲がると釜ヶ崎」……韓国について触れたページで、このような美しいフレーズと出会った。

生きることへの図太さを教えてくれた根本敬さんは、心のセーフティネットだった。この人の存在を知らなかったら、とっくに野垂れ死んでいただろう。

(C)1996 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved

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2017年8月20日 (日)

■0820■

ホビー業界インサイド第26回:バンダイ ホビー事業部に聞いた、「初音ミクのプラモデル」が発売されるまでの表の事情、裏の事情
T640_735538いままで模型誌が取材していそうで取材してこなかった、「フィギュアライズ・バスト」シリーズの企画担当者さんにインタビューしてみたら、美少女キャラが大好きな女性の方でした。
本当に好きな仕事を語るとき、人は誰でも生き生きとするものです。


しかし、メーカーが工夫して独自の技術を使っても高品位モデルを発売しても「なぜこんな余計なことをする?」「こんなに高いプラモデルを誰が買う?」と、自分の主義・事情に引き寄せて、だらしくなく開きっぱなしの口から動物的な文句を垂れ流す人たちもいるわけで。
そういう人たちは、自分がかわいいだけであって、文化や社会を良くしたいわけではないんですね。相手に無限の誠意と努力を求めて、それによって自分の気分が良くなれば収支トントンだぜ、我慢してやるよって人たち。

僕は、「こんな面白いものがあるなら、世の中、捨てたものじゃないな」と思いたいですけどね。


高校か大学のころ、吉祥寺のイトーヨーカドーに入店しようとしたら、扉がガラス製なので、ツエをついたお婆さんが、お店から出てこようとしている姿が扉の向こうに見えた。
ガラス扉はすごく重たいので、お婆さんが通るまで扉をあけて待っていたら、後ろから「行け!」という声がした。サラリーマンの男性だった。
無視して、お婆さんが通るのを待ってから通ったら、その男性は「早く行けよ」と捨てゼリフを残して、俺を追い抜かしていった。
あるいは、俺が扉を開けたら、うすら笑いを浮かべながら、ヒョイと追い抜かしていく男性もいた。たかが重たい扉を開けるだけとは言え、他人の労力にタダ乗りするのがカッコいい、弱者を追い抜かすのがカッコいいと思ってるんだろうな。こいつらのようにはなるまい、と思いましたね。

そして、先日。近所のクリーニング屋で前の人が会計を終えるのを店外で待っていたら、「どうして、外で待ってるの?」と、後ろから声をかけられた。いきなりタメ口で。
狭い店だから、前の人の真後ろで待っていたら、急かしているようで自分も相手もイヤなわけです。だから、外で待っていた。
ところが、俺の順番が来たら、その男性は俺の背中にくっついて、一緒に店内に入ってくるわけです。だから、それをやられると気分が悪いから、俺は前の客の背中にはりつくようなことはしたくなかったわけです。
僕がひとつゴミを拾うと、その場にゴミを投げ捨てていくヤツがいる。それでも、あきらめずにゴミを拾おうと思う。そうすることでしか、世の中の空気は良くならない。


僕をいつも未知の世界へ連れっていってくれる友人、内田さんの貧乏自転車旅行()。
内田さんは他人ばかりか、犬や猫にまで気をつかっているのですが、このジャンル(自転車旅行しながら自撮り)にも、いろいろな人がいるようで。

内田さんの動画はストイックで、まったく不愉快になることはないので、眠れない夜にでも見てください。

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2017年8月17日 (木)

■0817■

レンタルで、フィンランド映画『ファブリックの女王』
Qfabric_sub_6マリメッコを創設した女性、アルミ・ラティアの半生を描く……ように見えて、実はアルミの半生の演劇化と、その舞台裏を描いている。
映画に撮られているのは、すべて舞台上(撮影スタジオ内)で演じられている芝居という設定であり、簡素な舞台装置しかない。主演女優は、しばしば役について悩み、スタジオから出てきて監督に相談する。そのような過程を経て、女優はついにアルミとの一体化を遂げ、堂々とラストシーンを演じきる。
物理的な意味では、アルミを演じる「女優」が主人公だ。では、ひとりの女優を描いた映画なのだろうか。そうではない。女優がアルミについて批判的になったり、理解しようと努めるほど、アルミというその場にいない女性が強い存在感を発揮していく。


自ら作り物であることを白状してしまう映画といえば、『心中天網島』のファーストシーンや『ホーリー・マウンテン』のラストシーンが想起される。監督やスタッフを映してしまうほど露骨ではないが、ドキュメンタリー風に撮られた『アメリカの影』も、カメラの存在を強く意識させる映画だった。
しかし、『ファブリックの女王』は映画であることには自覚的でなく、演劇のフリをすることで観客をミスリードしている。カメラワークは完全に映画だし、演劇を見ている観客やスタッフなどは映らない。女優や監督が劇について語るシーンは、ほとんどが屋外(スタジオの外)で撮影されている。彼らがアルミ・ラティアについて相談する、議論することで、アルミに対する理解が深まるよう、機能的に設計されている。単に映画であることをバラすタイプの映画より一枚上手だし、劇の内容について誠実とも言える。

映画のラストは、海岸である。誰もいない寒そうな海に、アルミを演じた女優が歩いてくる。外でロケされているのだから、彼女はアルミ自身ではなく「女優」のはずだ。だが、そうなのだろうか? 舞台から降りれば、演じられていた役も消えてしまうのだろうか?
このシーンには、静かにベートーヴェンの『歓喜の歌』が流れている。その海岸は、アルミだけが辿りつけた天国のように見える。


ヒッチコック監督の『鳥』について、補足。
最初の何回か、鳥に襲われる場所には、必ず主人公の女性がいた。主人公はカフェで大勢の前で危機を訴える。ところが、周囲の理解は得られない。その時点で被害を経験したのは、主人公ひとりだけだからだ。
ところが今度は、不特定多数の人たちが見ている前で、鳥が襲ってくる。しかも、店内から窓の外を、「まるで劇場でスクリーンを見るかのように」、鳥の攻撃を目撃する。たった一羽のカモメが、ガソリンスタンドの店員を襲い、彼は倒れる。ガソリンが流れ出し、近くの車から火災が発生する。ひとりの男が焼け死ぬのを、カフェの客たちは呆然と見ている。映画を見ている我々と同じように、登場人物たちが「ただ見ているだけで何もできない」状況が出来上がる。そのシチュエーションさえ得られれば、映画への没入感は決定的になる。

さて、カメラは空撮になり、ガソリンスタンドと車が燃えさかる、地獄のような港の町をロングで撮る。
カメラの外から、風を切る音が聞こえる。カモメが一羽、また一羽とフレームインしてきて、港町へ向かう。町を襲ったのは火災であり、攻撃してきた鳥はたった一羽だった。だが、今度はたくさんの鳥たちが攻めてきたのだと分かる。
「人々は鳥の攻撃を信じていない→鳥が一羽だけ攻撃してくる→火災が発生して、死者が出る→人々が緊張する」、ここまでの段取りを組んでおいてから、待っていたかのようなタイミングで風の音を入れて、本格的な鳥の攻撃を予感させる。
物語のレベルでは乱暴にロジックを破壊しておきながら、演出は冷徹なまでにロジカル。全体として何が起きているのかは明らかにしないくせに、小さなレベルでは微に入り細をうがって事象を描きつめていく。狂っているのに正気、そこが『鳥』の怖さだ。

(C) Bufo Ltd 2015

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2017年8月13日 (日)

■0813■

EX大衆 2017年9月号 発売中
Dhbcdfgv0aafh53●オールアバウト『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』
古谷徹さんへのインタビューを含む、全4ページの企画記事です。
作品では、コロニーが一基だけ落とされた「GUNDAM CENTURY」発の歴史をトレースしているので、テレビ放映前から放映後、OVAやゲームによって、曖昧だった「戦史」がどう公式化していったか、ザッと振り返ってみました。

【懐かしアニメ回顧録第33回】「月詠 -MOON PHASE-」で描かれる “ウソだからこそ平和な”日常生活
『月詠』は日常シーンが『8時だョ! 全員集合』そっくりに、舞台上のセットで展開される。セットの裏がステージになっていたり、上から金ダライが落ちてきたり、舞台で演じられるコントそのものだ。
アクティブな、実写映画的なカメラワークは、ヴァンパイアたちと戦うシリアスなシーンに振り向けている。自覚的に抽象度を演劇に近づけたり、映画のフリをして撮ったり、表現の限界に自覚的なところが、新房昭之監督の強みだと思う。


レンタルで、ヒッチコック監督の『鳥』。
Ec6a0857d3f04d62中学生のときにテレビで見て、当時は『エイリアン』を見たあとだったので、60年代の映画は合成丸出しでショボイ、古い……という印象しかなかった。
これから見ようという人は、それぐらいナメてかかったほうが具合いいです。その分、ショックがでかいので。

正直、最初の50分はかったるくて見ていられない。いたずらに混みいった人間関係をダラダラと見せているだけで、見事なまでに何も起こらない。
だが、それでいいのである。……こうして文章で説明するのも野暮なのだが、かったるい映画だなと飽きてきたころに、理不尽に、不条理に(文脈を無視して)鳥たちが襲いかかってくる。それが、記憶とは違って合成丸出しではない。ものすごい量のスズメが、煙突をくぐって、暖炉からなだれ込んでくる。音楽は、まったくない。血糊などのメイクは、さすがに時代を感じさせるが……あとはとにかく、見てもらいたい。吐き気がするぐらい、怖いので。


鳥たちの三度目のアタックを受けた主人公(ティッピ・ヘドレン)は、町にある小さなカフェで、自分の目にした惨状を訴える。しかし、鳥類学に通じた老婆が「鳥にはそんな知能はない」「攻撃する理由がない」と、数字を並べて、きっぱりと否定する。
カウンターに座っていた酔っ払いが「世界の終わりだ」と、いい加減なことを口にする。主人公と老婆は、対立するような形になってしまう。このときの構図には、唸らされた。老婆が鳥たちに攻撃性はないと主張するカットでは、彼女の後ろに常連の客たちがいる。彼らも鳥の攻撃を目にしていないので、老婆の味方だ。
ところが、主人公が事実を話す背後には、無人のカウンターしかない。つまり、味方がいない。いや、カウンターの奥に、ひとりだけ、「世界の終わりだ」と叫んだ酔っ払いが座っている。もしかすると、本当に世界の終わりなのかも知れない。彼女の味方は、その酔っ払いだけなのだ。……とまあ、説明するのも面倒なぐらい、シャープで効果的な構図が使われているので、ぜひ覚えておいてほしい。

もちろん、時代を感じさせるところもある。俳優の演技が大げさで、白けてしまうシーンもある。それでも、映画の前半でほんのちょっとしか出さなかった鳥を、後半では画面を埋め尽くすほど出して、一切の説明なし、ロジックを破綻させる……このクールな発想センスは、決して古びない。尖っている。

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2017年8月10日 (木)

■0810■

ニュータイプ 2017年9月号 発売中
81magfm0cfl●息吹を感じて~脚本家・菅正太郎の軌跡
故・菅正太郎さんについて、佐藤竜雄監督にインタビューしました。
5年前に放送された『輪廻のラグランジェ』で、菅さんはシリーズ構成、佐藤さんは総監督という立場でした。
僕は、放送が決まってから、『ラグランジェ』のオフィッシャル・ライターとしてプロダクションI.Gに呼ばれました。Blu-rayなどのパッケージだけでなく、番組のキャッチコピー、各話あらすじ等、公式な文章はほぼすべて書きました。
「少年ガンガン」と「ヤングガンガン」に連載されていた情報ページも任されました。月刊と隔週刊なので、月に3本、まだ本編が出来上がる前に先行情報を書かねばなりません。制作スタッフは全員忙しいので、声優さんから各話についてコメントをいただくため、何度もアフレコスタジオに行きました。


僕はけっこうお節介なので、『ラグランジェ』の第二シーズンが始まる前に、徳島のマチアソビでコメンタリー付き上映会を開催して、お客さんのために入場特典を用意してもらったり、キービジュアルを提案したりしました。その頃になると、だんだん宣伝費も底をついてきたので、それらの自主的な活動はボランティアでやっていました。
また、『ラグランジェ』のムック本があまりにも軽い内容だったので、世界観の設定ページや本全体への導入パートを設けることを、会議で提案しました。そのとき、新たな設定づくりのため、菅さんに惑星の名前などを考えていただき、僕が書き上げた設定部分をチェックしてもらいました。

その延長上で、「月刊ホビージャパン」に『ラグランジェ』のメカ設定のページを連載しました。なぜなら、せっかくロボットを日産自動車のデザイナーに描いてもらったのに、本編での設定が薄すぎたからです。バンダイビジュアルさんのプロデューサーがページを確保してくれましたが、「タダでもいい」と言ったら、本当に原稿料が出なかったので、びっくりしたものです。
そして、全六回の連載のため、本編にはまったく出てこないメカの開発背景、バックストーリーを考え、菅さんにチェックしてもらい、ときにはダメ出しもあり、ときにはキャラクターや艦船の名前を考えていただき、半年ほどお付き合いが続きました。


打ち合わせの場所は、いつも吉祥寺駅からちょっと離れた喫茶店で、時間帯は夜8時ぐらい。バンダイビジュアルのプロデューサーが同席して、3人だけの打ち合わせです。
あるとき、プロデューサーがどうしても来られないことがあり、菅さんと2人で打ち合わせしていたら話が盛り上がり、「ちょっと飲んでいきましょう」と誘われて、吉祥寺の小さな焼き鳥屋で飲みました。

とりたてて、面白い話だったわけではないです。『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』はちゃんと見てくれていたか?とか、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で神山健治監督に何度も使ってもらえて、すごく嬉しかったとか、今後はもっと頑張るから見ててくれよとか、別に秘密の話でも何でもない。
僕は利害関係のない外部の人間なので、気楽に話していただけたのでしょう。それと、佐藤監督からうかがったのですが、奥さんは菅さんの仕事内容をよく知らされていなかったそうで、あまり自分の参加した作品を振り返って語る機会がなかったのかも知れません。
僕がタダで連載をやっていると話したら、「それはひどい。俺からお金が出るように言っておくよ」と怒ってくれたのを、よく覚えています。


『ラグランジェ』は、当初は別の監督とライターで進んでいたそうですが、そのお2人が抜けたので、まったく新しい設定とストーリーを考えなおしたそうです。仕事している人なら分かると思いますが、一度ポシャったところから再出発するのって、絶対に苦しい。気持ちを切り替えないといけないから、精神的にイヤじゃないですか。クリエイティブ側のスタッフは菅さんひとりしか残らなかったので、張り切るのは分かるし、責任感もあっただろうし、孤独感をおぼえるのも分かります。

その辛さとか、辛さと背中合わせのやりがいだとかは、5年たった今のほうが分かるような気がする……。菅さんは、いつでも「やってられるか」と逃げる権利を擁していたんだけど、とうとう最後の最後まで踏みとどまった。『ラグランジェ』の他のライターさんはギャグとか趣味に走っていたけど、菅さんだけは義務感を優先させていたんじゃないかな……。いちばん外側から作品全体を見ていたので、どうしてもそう思えてしまう。
そういう仕事のしかたを、他人事とは思えなくなってきた。今さらだけど。

だから、俺は作品がつまらなくても「クソ」とか「カス」とか、商業的に失敗しても「爆死w」とか、絶対に言わない。「コケた」とさえ言いたくない。「神アニメ」にも、同様の無責任さを感じる。誉め言葉になっていない。かえって失礼な感じがする。
あのね、他人の仕事を屁のように軽んじているから、「クソ」「神」と言い捨てられるんですよ。観客は当事者。作品を生かすのも殺すのも観客。生まれながらに「クソ」も「神」もないんです。99人が敵になるとしたら、俺はひとりの味方でありたいです。

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2017年8月 9日 (水)

■0809■

レンタルで、是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』。
Sub02_large『歩いても 歩いても』と同じく、阿部寛が主演。妻と別れ、興信所に勤めながら元妻が新しい恋人とデートするのを尾行したり、老いた母親のへそくりを盗んだり、どうしようもないバツイチ男を演じている。
阿部が、マンションで一人暮らししている母(樹木希林)のもとを訪ねる。樹木は、バス停まで阿部を送っていく。2人はどうでもいい話をしているのだが、車道の向こう側で街路樹が揺れているのが見える。木々が風で揺れたとき、ザァーッ……と静かな、ちょっと重たい音を立てる。遠い記憶を刺激される。
『誰も知らない』のときに書いたと思うが、ネグレクトされている子供たちに優しくしてくれる不登校の女子高生が、自分のマンションに戻る。そのシーンで、歩道橋の向こうに、鬱蒼とした木々が見えている……何十年間もの人生の、どこかで見たことのある森閑とした風景。言葉ではないし、ましてや物語ではない。
でも、映画の目的は、物語を伝えることではないので。


だらしのない元夫を、元妻の真木よう子は煙たがっている。台風の夜、いきがかり上、元夫と元妻は、子供と一緒に母の家に泊まる。
その夜、樹木希林の母親がカレーうどんをつくる。元妻も子供も手伝う。ジャガイモを切る手。冷蔵庫から取り出されるカレーの入ったタッパー。鍋に入れられるうどんのアップ。もう、顔なんて映さない。画面外から「グリンピース入れたら?」「分かってる、好きだもんね」などの会話が聞こえる。
作業のみを淡々と撮っていくためだけに、フィルムを使っている。この端的なシーンを生き生きと見せる目的で、一時間ほどシチュエーションが重ねられてきたかに思える。

さて、カレーうどんを食べ終えて母子が帰ろうとするけど、母が台風がひどいから泊まっていけと言う。泊まっていこうという話になる。そのとき、洗い終えたどんぶりがアップになる。心憎いと思った。強いて言うなら、みんながカレーうどんを食べ終えた後のどんぶりは、家族を象徴している。食べ終えたばかりの汚れたどんぶりではなく、洗ってあるから、見ていて気持ちがいいわけです。「良いことが起きる」と予感させる。そもそも、シーンの転換に、無機物のアップをポンと入れると時間経過の演出にもなるし、テンポも出る。
映画を見るんなら、そういうところを見ないとさ。

真木よう子には新しい恋人がいて、元夫の書いた小説の感想をいう。「時間の無駄とは言わないけどさ……テーマがよく分かんなかったな、僕には」。つまんない男でしょ? だけど、世の中の映画の感想も「ストーリーが」「テーマが」ばかりだよね。


だけど、こういう丁寧につくられた邦画って、ニュアンスが伝わりすぎてしまう。
是枝監督は、よくセリフに「こうすると、ほら、アレするだろ」「ああいうのって、あんまりアレだからさ」など、アレを多用する。機能的ではない不明瞭な会話って、日常性が出ていいんだけど、あまり使いすぎると意図ばかり気になってしまう。
あとね、旦那の浮気調査を依頼してくる女性が、服装も化粧もケバいとか。だらしのない阿部寛の部屋が散らかっていて、暇な時間は煙草をくわえながらパチンコしているとか、ちょっとした陳腐さが気になってしまう。

微妙なニュアンスが伝わりづらいほうが、構図やカットの機能が明らかになる。
機内上映で、字幕もなければセリフも外国語で分からない映画を何本か観たけど、それでも面白い映画ってあるんだよ。
ヒッチコックは「セリフがなくても伝わる映画が理想」と言ったそうだけど、彼の映画を観れば、それは分かりますよね。この『海よりもまだ深く』も、観終わってから早送りにすると、構成のシンプルさが分かって、けっこう良かったりする。

(C)2016 フジテレビジョン バンダイビジュアル AOI Pro. ギャガ

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2017年8月 7日 (月)

■0807■

レンタルで観た映画は韓国映画『戦場のメロディ』と、ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』。後者は、戦前の日本では検閲のため未公開に終わったという。現在の日本では、こうして86円という無礼とさえ言える値段で観ることができる。僕にとって価値のない映画が、あなたにとっては宝物になるかも知れない。


ワンダーフェスティバルが終わったせいだろうが、僕がフィギュア・プラモデル関連のアカウントばかりフォローしているせいなのか、Twitterが殺気だっている。
ワンダーフェスティバル運営周辺については、「なるほど、ごもっとも」と得心したくなるような怒りのこもった意見が多いし、矛先が明確なので、特に言うことはない。

ちょっと気になったのが、「2000年代初頭までのフィギュアはひどい出来だった、おっさんたちが脳内美化しているだけだ」と、雑誌の写真を貼ったツイート。そこには等身大の綾波レイのフィギュアが映っている。確かにひどい出来だが、もっと良いものもたくさんあったはずだ。
とりあえず、どこから持ってきた雑誌の写真だろうと画像検索をかけると、「1996年のフィギュアってこんな程度でしたね」と記された、元ツイートが即座に見つかった。
ところが、元ツイートを「2000年代のフィギュア」と改変した本人は、「90年代の模型文化は資料に乏しい」と言い訳し、自分の間違いを指摘した人たちは「老害」なのだという。
90年代の模型雑誌など、いまはネットで格安に手に入るため、僕は手元にあった月刊モデルグラフィックス 1998年6月号のページを写真に撮り、Twitterにアップした。300ほどのアカウントにリツイートされたが、自分で調べず他人の撮った写真ですませた「2000年代初頭までのフィギュアはひどかった」はその十倍ぐらいリツイートされている。

こうして、まるで公害のように汚れた空気だけが伝播していく。最大の問題は他人の写真を拝借したことではなく、「1996年」を「2000年代」と改変したことでもなく、「ひどい出来だった」とネガティブに攻撃的に泥を塗り、「この20年間で進歩した」などとインスタントに納得したがる、その性急かつ虚無的な態度だろう。


「で、それはなにも高い年齢の方の発言という訳でもなくむしろ僕らを老害などと揶揄するくらいの年齢の人物から発せられたというのがまたポイントなのですがね。」(
これは、「SF」の解釈をめぐる山本弘さんのツイートへの返信。非常に得心がいった。「おっさん」「老害」と言いたがる人にかぎって、せいぜい30代なのにガチガチに頭が固い。それでいて、自分の内部が空洞なのは年齢のせい、相手がムカつくのも年齢のせいと、時代や世代に何もかも押しつけずにおれない焦燥感だけがヒリヒリと伝わってくる。

「こっちは若くて経験不足なんだから、ジジイどもは大目に見ろや」などと甘えている人は、やはり歳をとってからも「こっちは若いころに苦労したんだから、若者どもが譲歩しろや」と、年齢を盾にとってくるような気がしてならない。早い話、年齢は関係なくて性格が悪い。
自ら弱いほうのカードに賭けておいて、「なんで俺だけこんなに損してるんだよ!」と相手かまわず怒鳴りつけるような意地汚さがある。そういう人間は、逆に自分だけが勝ちつづけて他人が損しつづけているような不公平さをも積極的に肯定しそうで、酒の席でも仕事の場でも、決して近づきたくない。こちらが巻きぞえで被弾してしまうから。

ただ、彼らが汚してしまった空気を、ちょっとは清浄にしてやろうとは思う。僕が社会にコミットできるのは主に仕事なので、いい仕事をして、世の中そんなに悪くない、絶望することはないと読者に伝えていきたい。

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2017年8月 2日 (水)

■0802■

いままで、漠然と見た気になっていた『太陽がいっぱい』。レンタルで。
Main_largeおそらく何十年も前に本で読んだんだと思うが、アラン・ドロンが最後に完全犯罪をなしとげたと安堵したところで、警察が来る。それは知っていた。というより、観客にだけ知らせて「特権意識を持たせる」。面白い映画は、たいていそうなっている。
アラン・ドロンが警察と出会って、愕然とする……なんて余計な描写を入れたら、観客の特権意識が台無しになってしまう。「何を描かないか」って、やっぱり大事なんだ。


でね、最初の10分ぐらいは構図もへったくれも、ごちゃごちゃ。イマジナリー・ラインなんて無視しても映画は成り立つんだけど、無視するにも程がある。
だけど、主人公(アラン・ドロン)が友人を殺してからの演出は不気味なぐらい、冴えてます。
ホテルの一室で自分の殺した友人になり切って過ごしている主人公のもとへ、殺した友人の知り合いが訪ねてきてしまう。彼はアラン・ドロンを怪しいと疑って、彼への届け物(食材)を「俺が運ぼう」と申し出る。だが、部屋へ入った瞬間、頭を陶器で殴られて、その場に倒れる。
すると、食材が床に散らばる。トマトなどの野菜に混じって、手足のついたままの鳥がベタッと床に投げ出される。これ、鳥なんて要らなくないですか? だけど、鳥の死骸が床に投げ出されることで、「死」は強調される。血が一滴もでないかわりに、手足のついたままのグロテスクな鳥で「死」の生々しさを演出している。そのように見えるのは、気のせいですか?

そして、ドロンは死体を放置したまま出かけて、ホテルに戻ってから、鳥を丸焼きにして食べる。このシーンも、要らなくないですか?
だけど、平然と鳥を焼いて食べることで、ドロンの「人殺しをしておきながらも食欲はある」無神経さ、大胆さ、ルーズさが強調されてないですか? 少なくとも、この鳥は殺人シーンで初登場したんだから、「死」と無関係ではないと思うわけです。いかがでしょうか。


さて、台所で鳥の丸焼きを食べ終えたドロンは、死体の処理を始める。
そのシーンの冒頭が、この映画の中でもっとも不気味なんだけど、ドロンは台所と応接間の仕切りにもたれて、腕を組んでいる。
その画面の右側に、古い肖像画が飾られている。ドロンは、その肖像画とそっくりなポーズをとっている。しかも、台所と応接間の仕切りが、まるで額縁のように見える。肖像画とドロンが同じポーズをとっている……これって、偶然ですか?
ドロンは殺した友人になりすましているし、鏡の前で彼のモノマネをするシーンまである。ドロンが絵の中の誰だか分からない人物と同じポーズをとることで、彼は「誰にでもなる」「何でもやる」。構図が、映画がそう告げているように感じましたが、いかがでしょう。

言葉にすると牽強付会に聞こえるだろうけど、映画を見ていて「気持ち悪い」と感じたのは、これらのシーン、ショットなんです。なぜ「気持ち悪い」と感じたのか、それを腑分けする作業が、僕にとっては楽しみだし、有意義でもある。映画を見つづける意味は、「なぜ」に込められている。


書こうかどうか迷っていたけど、何人かの友人と意見交換したので、追記。

石坂浩二 追究し続け60年超…プラモデルは人生賛歌
僕は、石坂さんのプラモデルに対するスタンスは、保守的すぎて、前から好きではないです。この記事にも、実にどうでもいいことが書かれている。でも、だからこそ、石坂さんに対する人としての礼儀、距離感を忘れてはならないのです。
「なにが人生だ!」「オッサンが!」とバカにできる人は、それこそ「俺は人生経験が乏しいです、怒ったら他人に対する最低限の敬意もかなぐり捨てるガキでございます」と白状しているようなもの。

「腹が立つ」ってのは、ようするに自分では状況を変えられず「ぐぬぬぬぬ」となっている状態です。だから、女性には「ブス」とか「デブ」とか「BBA」とか、僕に対してだったら「ジジイ」「ハゲ」、媒体に対しては「マスゴミ」だとか、バイアスのかかった言葉で、安易に優位に立とうと焦ってしまう。それはフェアな議論では勝てませんと、白旗あげたも同然です。
他人への敬意を捨てて、相手にはどうにもできない欠点を責めはじめるのは、歳は関係なくて、性格ですね。性格は改善できるので、残りの人生で頑張りましょう。

(C)ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO./Plaza Production International/Comstock Group

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