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2017年8月17日 (木)

■0817■

レンタルで、フィンランド映画『ファブリックの女王』
Qfabric_sub_6マリメッコを創設した女性、アルミ・ラティアの半生を描く……ように見えて、実はアルミの半生の演劇化と、その舞台裏を描いている。
映画に撮られているのは、すべて舞台上(撮影スタジオ内)で演じられている芝居という設定であり、簡素な舞台装置しかない。主演女優は、しばしば役について悩み、スタジオから出てきて監督に相談する。そのような過程を経て、女優はついにアルミとの一体化を遂げ、堂々とラストシーンを演じきる。
物理的な意味では、アルミを演じる「女優」が主人公だ。では、ひとりの女優を描いた映画なのだろうか。そうではない。女優がアルミについて批判的になったり、理解しようと努めるほど、アルミというその場にいない女性が強い存在感を発揮していく。


自ら作り物であることを白状してしまう映画といえば、『心中天網島』のファーストシーンや『ホーリー・マウンテン』のラストシーンが想起される。監督やスタッフを映してしまうほど露骨ではないが、ドキュメンタリー風に撮られた『アメリカの影』も、カメラの存在を強く意識させる映画だった。
しかし、『ファブリックの女王』は映画であることには自覚的でなく、演劇のフリをすることで観客をミスリードしている。カメラワークは完全に映画だし、演劇を見ている観客やスタッフなどは映らない。女優や監督が劇について語るシーンは、ほとんどが屋外(スタジオの外)で撮影されている。彼らがアルミ・ラティアについて相談する、議論することで、アルミに対する理解が深まるよう、機能的に設計されている。単に映画であることをバラすタイプの映画より一枚上手だし、劇の内容について誠実とも言える。

映画のラストは、海岸である。誰もいない寒そうな海に、アルミを演じた女優が歩いてくる。外でロケされているのだから、彼女はアルミ自身ではなく「女優」のはずだ。だが、そうなのだろうか? 舞台から降りれば、演じられていた役も消えてしまうのだろうか?
このシーンには、静かにベートーヴェンの『歓喜の歌』が流れている。その海岸は、アルミだけが辿りつけた天国のように見える。


ヒッチコック監督の『鳥』について、補足。
最初の何回か、鳥に襲われる場所には、必ず主人公の女性がいた。主人公はカフェで大勢の前で危機を訴える。ところが、周囲の理解は得られない。その時点で被害を経験したのは、主人公ひとりだけだからだ。
ところが今度は、不特定多数の人たちが見ている前で、鳥が襲ってくる。しかも、店内から窓の外を、「まるで劇場でスクリーンを見るかのように」、鳥の攻撃を目撃する。たった一羽のカモメが、ガソリンスタンドの店員を襲い、彼は倒れる。ガソリンが流れ出し、近くの車から火災が発生する。ひとりの男が焼け死ぬのを、カフェの客たちは呆然と見ている。映画を見ている我々と同じように、登場人物たちが「ただ見ているだけで何もできない」状況が出来上がる。そのシチュエーションさえ得られれば、映画への没入感は決定的になる。

さて、カメラは空撮になり、ガソリンスタンドと車が燃えさかる、地獄のような港の町をロングで撮る。
カメラの外から、風を切る音が聞こえる。カモメが一羽、また一羽とフレームインしてきて、港町へ向かう。町を襲ったのは火災であり、攻撃してきた鳥はたった一羽だった。だが、今度はたくさんの鳥たちが攻めてきたのだと分かる。
「人々は鳥の攻撃を信じていない→鳥が一羽だけ攻撃してくる→火災が発生して、死者が出る→人々が緊張する」、ここまでの段取りを組んでおいてから、待っていたかのようなタイミングで風の音を入れて、本格的な鳥の攻撃を予感させる。
物語のレベルでは乱暴にロジックを破壊しておきながら、演出は冷徹なまでにロジカル。全体として何が起きているのかは明らかにしないくせに、小さなレベルでは微に入り細をうがって事象を描きつめていく。狂っているのに正気、そこが『鳥』の怖さだ。

(C) Bufo Ltd 2015

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