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昨日夜中は『生ワンホビTVは朝から朝まで生放送!夜の部』に出演させていただいたが、昼間は、前から予約してあった演劇を観るため、彩の国さいたま芸術劇場へ。そのあと、池袋で開催されている「タツノコプロ55周年 Go! Go! 記念展」と「タミヤモデラーズギャラリー2017」へ。タツノコプロ展のお土産屋で、『アクビガール』のグッズをバカ買い。
吉田すずかさんのコーナーがあったのも嬉しかったけど、『宇宙エース』や『科学忍者隊ガッチャマン』などの古い背景画、版権イラストの下描きや生セルがぎっしりと展示されていて、びっくり仰天した。この質感は、印刷物では再現できない。
夕方5時すぎに行ったら、日曜日なのにガラガラ。額縁に顔をくっつけるように見ても、ぜんぜん誰の邪魔にならないところが凄い。写真も撮り放題だが、肉眼でじっくり見るべき。8/8まで。
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さて、芝居は「マームとジプシー」の『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』。3本の作品を再構成したせいか、ラスト近くで登場人物を自殺させたり、飼い猫が死んだりといった泣かせのプロットが混入するのに戸惑う。泣かせるプロットをもって、クライマックスに充当している。飼い猫の、おそらく実際に死んだばかりの写真までプロジェクターに映してしまうのは、表現として“負け”といった感じすらする。
なぜなら、左右に並んだこの大きなプロジェクターこそが、重要な大道具だからだ。タイトルの「ヒダリメノヒダ=左眼の襞」とは、冒頭近くで解剖される豚の眼球の中の含まれている器官だ。豚の眼球は、実際に舞台上で俳優たちの手によって解剖され、カメラで撮影され、プロジェクターに投影される。また、俳優たちが印象的な芝居をするときも、別々のアングルからカメラで撮られ、投影される(カメラは別の俳優が持ってきて、その場に据えつける)。俳優たちが、この巨大なプロジェクターの存在を意識することはない。それは、観客にしか見えていないのだ。
平行に並んだプロジェクターが常に背景に位置し、俳優が「右目をバンソウコウで隠しているときにだけ、左目の視界に現れる女の子」の話を繰り返し、さらに別の俳優が「目だけでは物を見ることは不可能で、脳の中でないと像は結べない」と説明するため、観客はふたつのプロジェクターこそが自分の右目と左目なのだと錯覚してしまう。
だから、舞台上で起きているすべてを、自分の脳内のように感じはじめる。これは実は、たいした仕掛けではないだろうか。
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舞台が舞台であることをやめ、俳優が俳優であることをやめ、演出家の思念だけが空間に残される。こんなキザったらしい言い方しか出来ないが、それこそが演劇の醍醐味だという気がする。
『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』では、ひとりの俳優がセリフを話していると、背後から別の俳優が録音機を近づけて、いま喋っているセリフを録音しながら再生する。すると、その多層化された音声は「一分以内に話されるセリフ」ではなくなり、「セリフを発することで生成される時間」へと置き換わる。音を伝える空気までもが、日常では感じ得ない別の媒体へと変化していく。
一秒は、一秒であることをやめる。数万秒、数億秒にもなる。舞台上のプロジェクターに「10年後」と表示されるとき、われわれは10年間を想像する。思い描く。それは、時計やカレンダーの記す10年間ではない。単位に変換できない、言葉にも言い表せない感触。そこに、演劇ならではの原初的な解放がある。
くだらない演劇は、一分を時計の中でしか数えられない。
坂東玉三郎の『ナスターシャ』では、ムイシュキンとナスターシャの二役を玉三郎がひとりで演じた。俳優がひとりでも、百人の人物を表現できる。目に見えるもので、見えないものを表現する。それが演劇の値打ちなのだと思う。
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