■0723■
なんとなくレンタル屋で手にとったスペイン映画、『マーシュランド』。素晴らしかった。僕らは、つい「ストーリーがよかった」と言いがちだけど、それは言語化して文脈に置き換えないと思考できない、僕らの脳の欠陥のあらわれであるような気がする。
『マーシュランド』のストーリーを説明しろと言われても、スペインの政治的バックグラウンド(時代設定は1980年)を理解していないし、主役の刑事コンビの関係、どういう事件を追って田舎町まで来たのか、なかなか分からない。
にもかかわらず、映画が終わるころには「正義とは何か?」「罪悪感とは……」など、空しい言葉が頭の上をよぎる。ハエのように。そのハエを、まずは追い払うんだ。
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なぜ「面白い」と感じて、身を乗り出すようにして最後まで見てしまうのか?
最初のほうでバラバラに提示された小道具やシーンが、後半で意味を帯びてくるから。疑問を提示しておいて、忘れたころに答えを出す。それで「理解した気にさせられる」。本当には理解していなくても、「私は知ってるぞ」と優越感をいだかせてくれる。実は、映画が「面白い」とは「理解した気にさせられて、悦に入る」ことに他ならないのではないか。
映画の前半で、熱で溶けかけたネガ・フィルムを刑事たちは手に入れる。
そのネガを現像すると、殺害された少女たちが映っている。間違いなく、犯行がおこなわれた場所だ。その中に一枚だけ、ハンティング・トロフィー(鹿の角の壁飾り)が飾られた部屋が映っている。漠然と記憶に残るんです、その写真は。七秒ほど、ちょっとティルト・アップして撮っているだけなんだけど。
そして後半、湿地帯の中に建っている宿を、刑事たちは訪ねる。若い刑事が鏡を見ると、鏡の中に、あのハンティング・トロフィーが映る。写真で見たものを、今度は鏡の中で見る。刑事の主観カットでバーンとアップになったら、しらけるでしょ? その大仰さを回避しつつ、既視感を惹起し、観客に「ここが犯行現場だ」と確信を抱かせるには、「ネガ」→「鏡」がぴったりでしょ、像が反転してるんだから。
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そして、「鏡」に映るのは、ハンティング・トロフィーだけではない。もうひとりの老刑事が、宿のおかみさんを締め上げているのが、鏡の中に映る。若い刑事は「おい、何をしている?」と、同僚をとがめる。
つまり、「ネガ・フィルムに映ったものは犯罪に関連あるもの」であり、同じものを若い刑事が鏡の中で目撃した以上、「鏡に映るもの」も犯罪性を帯びてしまう。この映画の中だけのルールとして。
そして、若い刑事は老刑事が乱暴を働いているのを「とんでもない行為」と受けとめねばならない。だったら、鏡の中で行為を目撃させればいい。「ネガ」→「鏡」の連想を、「鏡」→「ネガ」と逆流させればいい。
果たして、老刑事が過去に何をしていたのか、最後になって「写真」として出てきます。フィルムや鏡に映ったものは、この映画の世界では犯罪性を帯びてしまう……。
結局、僕らが映画の中で目にしているものは、印象や象徴の連なりでしかない。映画は一方向にしか進まないので、一切は記憶であり、だからこそ映画を語るときには、鑑賞者が勝手に作り上げた文脈が必要とされる。ついつい、「お話がよかった」って感想になってしまう。
だけど、「お話」と乱暴にくくる前の印象、文脈に整理する以前に自分が何を目撃したのか、それを僕は書きとめておきたい。
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たとえば、車の中で老刑事が盗聴したテープを聞いている。それは被害者と犯人との会話だ。老刑事は、電話番号をメモして、若い刑事に見せる。「あの宿の番号だ」とセリフで確認する。犯人と犯行現場が明らかになる。そのシーンで、車の窓に少しずつ雨粒が当たりはじめる。
雨は次第に強くなり、2人の刑事が宿に乗り込むシーンでは、土砂降りの大雨になっている――伏線の回収だけが、ドラマではない。どんどん強くなっていく雨を使って、状況の変化をドラマチックに演出している。あまりにストレートで、それゆえに強力な演出だ。
観客にルールを手渡しておいて、どこかでルールを破るような図太さが、この映画にはある。
「これが映画の見方だ」って決めてしまうと、いずれつまらなくなる。予想以外の異物を受け止めるバッファが乏しくなる。
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