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2017年7月11日 (火)

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【懐かしアニメ回顧録第32回】“乗り物”から読み解く「魔女の宅急便」の面白さ
T640_73219630年近く前、片思いしていた年上の女性から「一緒に行きましょう」と誘われて観にいった映画です。
当時のジブリ作品はどんどん興行収入が下落しており、『魔女の宅急便』は起死回生の一本でした(配給が東宝ではなく東映である点も、興行筋からも期待されなかったことが伺えます)。

劇中、車に数人で乗り込んで遊びに行く『アメリカン・グラフィティ』的なリア充シーンが、何度か出てきます。そのオールディーズ的な、あるいはバブル景気的な価値観が、童話的世界に生まれたキキの強敵であるような気がしました。それでこのコラムでは「自動車こそが、キキにとっては社会の象徴なのではないか」と、仮説を立てたのです。

すると、クライマックスの「ホウキで自動車を追い抜かす」シーンに、別の意味が加わって見えるのです。


せっかくなので、昨日観て来た『メアリと魔女の花』について。平日昼間、吉祥寺オデヲンは、三割ぐらいの入り。
640「ジブリ作品のパッチワーク」「特に『魔女の宅急便』のパクり」といった批判を目にしたのだが、ようはジブリ的なキャラクターデザイン、色づかい、少女と少年、ネコ、醜悪な魔女といったルックスのみをみんな問題にしているんだと思う。
実際には、ジブリ作品に直接類似したシーンや演出は見当たらない。宮崎駿作品の魅力だった生活のディテールへ偏愛も、メカニックへのフェティシズムも感じられない。絵柄をガラッと変えたら「ジブリ・オマージュ満載」なんて言われなかった気がするし、それだけアニメにとっては絵柄の占めるイメージが大きいんだろう。
いきなりテーマだのストーリーだの感情移入だのメッセージだの、映画の「内面」について語りはじめるより、表層のみに着目して何が悪い?と、僕は思う。


『夜明け告げるルーのうた』のとき、僕はアニメ映画というより、アニメ表現としての純度が高いという意味のことを書いた()。
『魔女の宅急便』は「劇映画」ならぬ「劇アニメ」として完成度が高かったけど、『メアリと魔女の花』は、「劇」「芝居」の枠組みが弱いような気がして、しかも、それをわざとやってるんじゃないのか?という疑念をいだいた。少なくとも米林宏昌監督、ウェルメイドなエンターテイメントには関心が薄いのではないだろうか。(過去の二作も異色作だったし)

宮崎駿風のルックスだけ漂わせておいて、「空を飛ぶ」ことへの信仰心もない、エコロジーもなければ人間の業もない、労働する女性の美しさも描かない。
ひょっとして、宮崎アニメへの返歌、宮崎アニメへの批評になってないか? だとすれば、米林監督は、次回作こそジブリ的なルックスを脱ぎ捨てると思うんですけど……うがちすぎだろうか? 独立第一作は安牌をとったんだろうし、「安牌とって何が悪い? だって皆さん、こういう絵柄が好きでしょ?」と言われているような気がした。


ところで、妹のキャラがドンピシャで好みだった『聲の形』()。
妹を目当てにもう一度見たら、けっこういいじゃん、これ。静かな音楽と入野自由の声のマッチングがいい。何より、セリフがいい。アニメっぽくない。つまり、「出てくる女の子がみんなキラキラしているので、女の子を目当てに観るアイドル物だ」って割り切ると、それ以外の部分が際立って見える。
聴覚障害者の女の子が可愛くて何が悪い、手話で会話するのはかっこいいぞと思えたしね。

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

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