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レンタルで、『聲の形』。劇場では観てなかったのです、ごめんなさい。
だいぶ昔、あるアニメ監督から「アニメで貧困は描けない」と聞かされた。長いこと考えて「鉛筆で描いて、セルにトレスして、セルに色を塗って、何枚かの原画にさらに動画を何枚も足して……と、貧しさとか足りなさとは逆の工程を経るからですか?」と聞いたら、「イエス」との返事だった。
似た理由で、イジメも聴覚障害もアニメには向いてないテーマな気がするので、聴覚障害のヒロインが可愛らしいのはまだしも、他のキャラクターもみんなキラキラした瞳をしていてスタイルもよくて、意地悪な性格だった娘も実はいい子で……と、手持ちのカードすべてが快楽原則に回収されてしまうのは、仕方のないことだと思った。
「障害をモチーフにしながら、キラキラした夢見心地の青春ファンタジーにするな」と批判するのは酷であって、実社会には可愛かろうが可愛くなかろうが、若かろうが年寄りだろうが、身近に聴覚障害者がいるのだ……と想像するのが、大人の誠実。「こんなのあり得ない」とフィクションに責任転嫁してはいけない。
いい歳になったら、「現実は過酷」であることは大前提。少年期・青年期にどれほど軽々しく美化されたフィクションを刷り込まれても、ちゃんと実社会でつまずくから、大丈夫。
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さて、映画の主題とは無関係な話をすると、ヒロインの妹。姉貴の彼氏のフリをして主人公を翻弄する、この毒舌な妹に、僕は骨抜きにされてしまった。
フィクションにおいて、一人称が「オレ」「ボク」の少女には、基本的に逆らえない。『11人いる!』のフロル、『三つ目が通る』の和登さん、『銀河漂流バイファム』のシャロン。男勝りで自信満々で、ショートヘアでボーイッシュで……というキャラクターに弱い。
実写映画では数少ないような気がするが、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』に登場する、サッカーの得意な美少年に見えて、実は少女であることを隠して生きているヒロイン、サガ。性差の境界をさまよいつつ、女であることにあらがうキャラクターが好き。
それは、お前の二次元キャバクラ的ファンタジーであって、ボーイッシュな女の子が一方的に「好み」なだけだろう?と言われたら、もちろん否定しない。
融通無碍に、際限なく理想化して描けるから、アニメやマンガは作者と読者の内面が投影されやすい。通俗エンタメとしての度合いが強ければ強いほど、キャラクターはアイドル化を求められ、万人に好まれるよう、美しく描かれる。「美しく理想化して描く」こと自体が、自己完結的に表現としての強度を有してしまう……だから、「聴覚障害の少女が、なぜか格別に可愛らしい」のは、マンガ表現・アニメ表現の宿命とも思うわけ。
ムック本『劇場アニメの新時代』の安藤雅司さんのインタビューを読んでもらいたいんだけど、「ごく普通の女の子」を描くことすら、アニメでは非常に困難なんだよ。
「そんなもの困難と思わない、どんどん可愛く描いてやれ」というだらしのない姿勢では、表現として程度が低くなりかねない。
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自己嫌悪ってのは、猛毒だから……自分だけが生ぬるく甘ったるく気持ちいい状態に、なるべく疑いの目を向けていたい。外部から批判の声があることは、好ましい状態なんじゃないだろうか。
マンガは社会性を獲得できたのに、アニメはよく知られないままに叩かれがちな気がする。叩かれることより「よく知られていない」、多様な角度から見てもらえていないことのほうが危険だと思う。
「アニメなのに実写よりリアルだ」なんて、いまだにそんなくだらない誉められ方しかしてもらえないのは、何故なんだろう? たまに考えてしまう。
(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
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