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2017年6月27日 (火)

■0627■

ホビー業界インサイド第24回:シタデルカラーは、本当に魔法の塗料なのか? 高久裕輝(マックスファクトリー)が塗って語る、シタデルカラーの模型的活用法
T640_730468シタデルカラーという塗料はマックスファクトリーが扱っているわけではなく、シタデルカラーが売れたことで高久さんには一円も入らないのですが、「シタデルカラーの面白さ」を発見して言語化したのは間違いなく、高久さんです。
プラモデルって、「面白い」以外に得られるものは何ひとつない趣味なので、ダイレクトに「面白い」と感じられることだけが信頼だと思います。

アニメ業界ウォッチング第34回:地上波放映間近! 翻訳者・瀬尾友子の語る「RWBY」の魅力!
T640_730876来月から地上波放送される『RWBY』、日本語版の生き生きしたセリフの数々を生み出した瀬尾友子さんに、ファン心理丸出しでインタビューしてきました。
ローマン・トーチウィック、グリンダ・グッドウィッチ、ブレイク・ベラドンナ……キャラクターのフルネームがかっこいいですね、という話にようやく共感していただける人に出会えました。


アヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリを受賞したおかげで公開館の増えた、『夜明け告げるルーのうた』、ようやく観に行ってきた。しかし、TOHOシネマズ 新宿88席のスクリーンは空いていた。
004_size7なぜここまで遅れたかというと、『夜は短し歩けよ乙女』が、あまりに性に合わなかったため。
湯浅政明監督の完全オリジナルの『ルーのうた』、こちらの方が断然いいです。グランプリも納得できます。アヌシーでは『この世界の片隅に』が審査員賞だったけど、それも分かる。

なぜなら、『ルーのうた』は、表現がリアリズムではないから。魔法やファンタジーがいっぱい出てくるって意味ではなくて、芝居がリアリズムではない。普通の人間が、普通でない動きをしている。
クライマックスで、主人公の少年とガールフレンドが、丸い大きなバルブを、力をあわせて回す。その構図が、きれいな点対称なんです。お前ら、バレエ踊ってるんじゃなくて、必死にバルブ回そうってとき、そんなきれいな構図におさまるのかよ? さらに少年の父親とガールフレンドの祖父も加わるんだけど、彼らもピタリと点対称の位置を占める。
だけど、クライマックスでみんなが力を合わせるシーンに、点対称のきれいに収まった構図をもってくる、絵としての収まりのよさを優先する――このほうがアニメだ、実写映画をリファレンスしていない、原初的なアニメ表現じゃないか?って気がする。


日本のアニメ映画は、リアリズムが支配的すぎると気づかされた。
宮崎駿さんの仕事は、空を飛ぶシーンがあるからリアリズムではないのでしょうか? とんでもない、ちゃんと体重をもった人間の女の子の動きになっているはずです。

特に劇場アニメの場合、枚数をかけていかに既視感のある動きを描けるかがテーマ、ここ20年ぐらいのテーマだったと思う。『君の名は。』『この世界の片隅に』は、荒っぽく言えば、リアリズム路線の頂点なんだと思う。リアルな動きとポピュラリティのあるキャッチーなキャラクターの融合が、沸点に達した感がある。
「アニメなのに実写みたいだ」「実写をこえた表現」という感想に、ちょっと僕は首をかしげていた。ああ、多くの人は「アニメ映画」を「未完成な実写映画」「絵であるがゆえに実写をこえられない表現」と認識してるんだな……と。その認識もやむをえない状況が、20年ほど続いてきたんじゃないだろうか。


『ルーのうた』の背景はベテランの大野広司さんで、さびれた港町を質感豊かに描いている。写実的といっていい。
キャラクター原案は、『午前3時の無法地帯』のねむようこさんだから、地味ではあるけど、ルーもガールフレンドの女の子も、かなり可愛い。
吉田玲子さんの脚本は、もちろん難解なところはなくて、田舎の中学生たちの背中を押すような手堅いドラマになっている。
だけど、動きがドラッギーなんだ。ミュージカル・シーンなんて『ダンボ』の“Pink Elephants on Parade”みたい。快楽至上主義。だから、ウェルメイドな物語の枠組みからは離反しているんだけど、僕はそれでいいと思う。そのほうが自由だから。

だけど、僕が「これはいいものを観ているぞ」と本気でゾクゾクしたのは、主役3人が登校する序盤の地味なシーン。
006_size7閑散とした、港町の坂道を3人が登るのを、背後からロングで撮っている。そこへ、ローカル線の電車がけたたましい音をたてて横切る。3人の姿は、しばらく見えなくなる。
電車が通りすぎると、3人の姿は、もううんと小さくなっている。このタイミングで主人公たちの姿を画面から消してしまうと、彼らの存在が世界の一部にすぎない、電車一本に負けてしまうぐらい小さい存在なのだ……と解釈できるだろう、いくらでも文学的に。
だけど、何よりも、会話している主人公たちを押しつぶすように、灰色の電車が画面をさえぎる、しかもまだ彼らに馴染んでいない序盤でそれをやる大胆さに、気持ちがざわついた。ひょっとすると、あとの90分はオマケなんだよ。もう、電車のシーンで分かったから。「このアニメではすべて分かったうえで、確信犯的に好きなことをやりますよ」って宣言が聞こえてきた。

「アニメ映画」ではなく、物語の枠組みの上を間借りした「アニメ表現」をやる、ということ。実写映画には、準拠していない。その姿勢が、何より良かった。


あと、昨夜はヒッチコックの『見知らぬ乗客』をレンタルで。
黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』も借りてきたので、感想はそれと合わせて。

(C)2017ルー製作委員会

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2017年6月25日 (日)

■0625■

月刊モデルグラフィックス 2017年8月号 発売中
Dc_wbfavyaaipdg●序文「HGUCバーザムが逆照射する、ガンプラという文化」執筆
●インタビュー「バーザム語り場外乱闘!」構成

後者は、超音速備忘録()のからぱた氏に登場してもらいました。「作例を載せました」「開発者にもインタビューしました」だけでは、バーザムが発売されたことの事件性を証明することはできないように思ったので、「ガンプラ(ロボット・キャラクターの組み立てキット)を作るとは、そもそもどういう体験なのか」、語ってもらいました。
結果、特集全体を裏から有機的に貼り合わせる、接着剤のような役割を果たしてくれたと思います。

●組まず語り症候群 第56夜
今回はASUKA MODELの1/24カーモデル用アクセサリー、三種類を取り上げています。


【懐かしアニメ回顧録第31回】“見る”ことと“聞く”ことで深化する「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」の世界
この土日は、アキバ総研に記事が大量にアップされますが、このコラムだけは、ぜひ読んでください。
カットワークや構図については、ほぼまったく触れていません。アニメーションに映されているものは、実写の被写体とは質が異なるので、カットワークや構図の効果については慎重になるべきでしょう。

その代わり、誰が何を見たり聞いたりしたのか、脚本レベルのことを検証しています。
アル少年がビデオカメラでガンダムの秘密に触れ、それが物語の序盤を牽引していることは、誰にでも分かると思います。
終盤でも、やはりビデオカメラが重要な小道具となります。アル少年のビデオカメラで撮られたバーニィの遺言を、われわれは“アル少年の代わりに”直視して、バーニィの死がいかに無駄であったか、そうとは知らずに彼がどれほど真摯に戦いにおもむいたのかを眼前に叩きつけられて、呆然とするわけです。
だから、アル少年にとっての戦争は、ポケットに入るほど小さなビデオカメラの中に秘められている。
あるいは、ビデオカメラが「戦場」への入り口と出口の役割を果たしている……という受けとり方もできるでしょう。

ただ、僕は空港で酔った女が恋人に電話するシーンに触れたかったので、バーニィは「聞く」ことで主体性を獲得する、という読み方をしました。
すると、アル少年が物語の終わり近くで「見る」よりも「聞く」ことが多くなっている、バーニィから「聞く」ことを求められているのではないか……こういう仮説が立てられなくもないはずです。(ビデオカメラの重要度は変わらないので、もちろん反論もあるでしょう。)


一年戦争を舞台にした『ガンダム』シリーズは、『ポケットの中の戦争』から9年後に発売されたゲームソフト『ギレンの野望』によって、物語ではなくキャラクターやメカニックを集積したデータベースとして整理されました。正確には、ゲームより以前、プラモデル化によってモビルスーツはデータベース化されています(商品化に際して、リファインされたモビルスーツには新たな形式番号が与えられます)。

『ガンダム』にかぎらず、アニメ作品は好みのキャラクターを検索するためのデータベースとして重宝されているような気がします。二次創作を楽しむためには、物語よりもシチュエーションが大事なはずです。
だから、物語や演出を批評・評論する機会が減るのは、必然なのでしょう。だとしたら、データベースとしていかに優れているか……という批評のかたちがあってもいいような気がします。


昨日土曜は、タミヤファクトリー新橋まで、トークショーを見学に。
Kimg01581/6スケールのオートバイ・キット「Honda CRF1000L アフリカツイン」の実車とキット、双方の担当者が出席。
モータージャーナリストの方が、オートバイに試乗するためにアフリカまで行ったとか、とにかくスケールが違うんだよな……そういう世界の模型、ミニチュアを組み立てることってどういう体験なんだろう? という興味が生じて、ついつい、買うつもりのなかった1/6アフリカツインを購入。

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2017年6月22日 (木)

■0622■

映画の専門書でたびたび取り上げられる、フランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』。ようやく、レンタル店で見つけた。
Theconversationジーン・ハックマンの演じる盗聴のプロが、公園で若い男女の会話を録音する。そのまま録音テープと盗撮写真を依頼主に渡せば、自分の仕事はすむはずだったが、会話の内容から殺人事件がおきると危惧した主人公は、なんとか盗聴した女性本人に伝えられないか思い悩む。

冒頭の公園のシーンで男女のかわした会話が、何度も何度も反復される。それは、ベンチに倒れこんでいる老人を見て、「気の毒に」「ああいう人にも、赤ん坊で、両親から愛された時期があるだろうに」といった感想をかわす、何気ない会話だ。
しかし、シーンによっては、二人の会話が孤独なジーン・ハックマンのことを指しているようにも聞こえる。映画の中で提示される事実は数えるほど少ないが、反復されるほど意味が膨らんだり、深まったりする。
副次的に、男女が刺殺される決定的シーンが、はたして事実なのか幻想にすぎないのか、ぼやかされていく。聴覚の重要性が、視覚の信憑性を奪っていくのだ。


僕が気に入ったのは、盗聴テープを奪われた主人公が、雇い主のところに写真を届けにいくシーンだ。主人公は罪悪感にさいなまれ、もはや幻聴を聞くほど疲労困憊している。
彼は、雇い主のオフィスへ向かう。高層ビルの廊下に、掃除機をかけている女性がいる。その女性が自分を監視していると疑っているのか、主人公は彼女を振り返って見ている。

つづいて、彼は銀色の壁の廊下を歩く……最初に、彼のシルエットが壁面に落ち、つづいて彼の頭がフレームインする。そこからだ。また、冒頭の男女の会話が聞こえはじめる……それは、またしても彼の幻聴なのだろうか?
つづいて、主人公は、“PRIVATE”と書かれた黒いドアをノックする。そのときには、男女の声は、さっきより鮮明に聞こえている。明らかに、ドアの向こうで雇い主が聞いているのだ。雇い主が聞くことによって、いったい何が起きるのだろう? 殺人が起きるのだろうか?
緊張した面持ちで、主人公はドアを開けて、室内に入ってくる。カメラは室内に置かれ、ドアを開ける彼の足元を撮っている……と、彼の足元をすり抜けるように、真っ黒なドーベルマンが、音もなく部屋に入ってくる。果たして、そのドーベルマンは現実なのか? なにかの象徴なのか? 主人公の幻覚をさんざん見せられた僕には、もはや分からなくなっている……。

ドーベルマンは警備用に使われる犬種なので、いやでも緊張が高まる。このドーベルマンは、主人公を尾行していたのだろうか? なぜ、このタイミングで現れるのだろう?
この映画は、「盗聴」「盗撮」「監視」「陰謀」「欺瞞」「不安」「暴力」を、直接的/間接的に想起させるアイテムで溢れている。レコードをかけながら主人公がサックスを吹くシーンにも、「レコードの音が本物なのか、サックスの音が本物なのか?」という謎かけが仕組まれていて、最後まで緊張感が解けない。


先日から、えんえんと取材の日々。夜は、それらを原稿にまとめなくてはならない。
『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』()の発売から一年、少しずつ仕事は減っていくと覚悟していたのに、身動きとれないぐらい増えている。

ジーン・ハックマンのように、ひとりの人生がつづいていく。コッポラのように自信家ではない。表現者ではないから、追いつめられることもない。まれに天国を手にするが、手の中におさまってしまうほど小さい。誇りも情熱も失ってはいないが、欲望はかすんだ。
僕の若いころに死んでしまった二匹の犬に、もっといい思いをさせてやれなかったのか、ときどき悔やむ。

(C) 2013 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

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2017年6月19日 (月)

■0619■

レンタルで『北北西に進路を取れ』。とにかく、ヒッチコックを見なければ。
L主人公は広告業を営んでいる一般人なのだが、ラストにいたるまでジェームズ・ボンドのような大活躍をする。命を狙われているのに、謎の美女とのロマンスもある。それが「この映画だけのリアリティ」なのだと、中盤、飛行機に追われるシーンあたりになると納得できる。
綱渡りのようにラシュモア山のモニュメントを降りるラストも同様で、モチーフ主義というか、サスペンスとして盛り上がるならシチュエーションの不自然さも辞さない。
それでいながら、崖から転落しそうなヒロインを救い上げると、その上がふわふわした列車のベッドになっている洒落たカットつなぎで、「こんなもの、ただの映画じゃないか」と身をかわす軽妙さが、ヒッチコックの魅力なのだろう(『北北西に進路を取れ』のあと、『サイコ』で大幅に路線変更するにしても)。


ヒッチコックはカッティングやカメラワークやがどうとかいう作家ではないと思うが、『北北西に進路を取れ』ではPANが良かった。

エヴァ・マリー・セイント演じる謎の女イヴに騙されていたことを知った主人公ロジャー(ケーリー・グラント)は、彼女の居場所を探り、オークション会場にたどりつく。
そのカットは、イヴの首や肩をなでる男の手のアップで始まる。その手は、ヴァンダムという悪玉のものであることが、カメラが引いたことで分かる。イヴの首を親しげになでるヴァンダムから、カメラは右にゆっくりPANする。広々としたオークション会場。壇上の骨董品や、競買に興じる客たち。カメラが止まると、そこには苦々しい顔をしたロジャーが立っている。
この長いPANの間に、ロジャーの怒りや闘志が熟成されていく。最初にイヴの手に触れる男の手を映して、ロジャーが嫉妬する原因を見せている。同じカット内、同じ空間内にいるロジャーがどんな気持ちか、誰にでも分かるよう設計されている(カットを割ってしまっては空間が分断され、ロジャーの怒りが空気中を伝播しない)。

ついでに書いておくと、つづくカットはロジャーの主観カットで、イヴとヴァンダムを客席の向こうに見ている。そして、次のカットでロジャーは二人に向かって歩き出す。彼を追って、カメラは左にPANする。怒りの根源をたどるように、先ほどとは完全に逆方向のPANとなっている。カメラの動きに、しっかりとロジャーの「意志」が加わっている。
われわれはカメラワークの効果に心を動かされているのに、それに気づくことは滅多にない。気づいたほうが絶対に面白くなる。


感心したカットが、もうひとつある。

自分がイヴに騙されていたことを納得できないロジャーは、ラシュモア山の展望台でイヴに詰め寄るが、彼女は拳銃でロジャーを撃つ。
どのようなトリックでロジャーが生きのびたかは伏せておくが、彼は仲間の車で林の中へ運ばれる。カット頭で、ロジャーは仲間の手を借りて、車の荷台から降りる。そこから、カメラはドリー・バックする(移動して引く)。
仲間は「5分ですませろ」とだけ言って、姿を消す。ロジャーが車から降りて立つ、カメラは引きつづける……と、画面右側にイヴの車がフレームインする。車の前には、イヴが立っている。「5分ですませろ」とは、つまりイヴとの逢瀬を5分で終らせろという意味だったのだ。
構図は左端にロジャー、右端にイヴが立っているシンメトリの構図でピタリと止まる。二人は「やあ」「大丈夫?」と、遠まわしな会話をはじめる。なぜドリー・バックが効果的なのかといえば、イヴが先回りしてロジャーを待っていたことが明確に伝わるから。あらかじめセッティングされたシチュエーションの中にロジャーが放り込まれていることが、カメラワークによって明らかになる。
また、二人の間には、たくさんの木が生えている。つまり、ロジャーとイヴは同じ空間にいるのだが、木々によって画面は縦に分断されている。

一体どれだけ言葉を尽くせば、この多面的な面白さが伝わるのだろう? まだまだ、複雑な要素がひとつの画面内に混在しているのに。大声で語って聞かせたいぐらい。
PANやドリー・バックでカメラが動くことと、カットで割ることとは、明らかに違う。無神経な映画は、カメラワークもカットワークもお構いなしだが、そうした映画に価値がないかというと、そうではない。
いま、確実に言えるのは、僕らが映画をコミュニケーションの道具にしすぎていることだ。「号泣した」に始まり、映画をネタにしてどれだけ共感が得られるかばかり気にしている。実写の日本映画がマンガやアニメのコスプレばかりになったのは、そのほうが「似てる」「似てない」と、コミュニケーションのネタにしてもらえるからだ。

(C) Turner Entertainment Co.

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2017年6月16日 (金)

■0616■

EX大衆 7月号 発売中
Dcq_rpixkaa8x8m●富野由悠季インタビュー! サンライズ栄光の全史
編集部の立てた企画で、「サンライズのロボットアニメを全7ページで特集してほしい、冒頭はカラー」との依頼。
担当編集と熟考しつつ、僕からはサンライズのライツ事業部に「なにか要望があるなら、先に言ってください」と連絡。結果、冒頭は『機動戦士ガンダム Twilight AXIS』のモビルスーツ紹介と金世俊監督のミニインタビューとなりました。
さらに担当編集が交渉して、富野由悠季監督インタビューが実現しました。サンライズからは『無敵超人ザンボット3』を中心に……と、各所の希望を調整した結果、なかなか厚みのある特集となり、読者からの評判もいいようです。


さて、Twitterは漫画家に警察が「申し入れ」を行ったという話題でもちきりです。
漫画家・クジラックス先生、警察の「申し入れ」報道についてあらためて説明 「前例ができたと思ってほしくない」

作家がどう思おうが、前例ができてしまったことは間違いありません。
自分の取材した範囲でいうと、映画倫理委員会(映倫)は、警察が映画館に乗り込んできたり、映画監督をいきなり検挙するような事態が起きないよう、防波堤の役割を果たしています(もっとも、権力の介入をおそれるあまり、表現を萎縮させている面も大いにあります)。
漫画家の場合、そのような防波堤がないため、予告なしに警官が自宅を訪問する事態になったのだと思います。


どうにも気になるのは、クジラックスという方が「たいしたことではない」となだめるような態度をとっていることです。
人がオタクになったり、漫画やアニメを愛好するようになる理由には、いろいろなバックボーンがあると思います。しかし概して、遵法意識の強い保守的な人が多いように見受けられます。嵐が通りすぎるまで知らんぷりをする、事なかれ主義ですよね。
漫画に比べて、アニメやフィギュアの世界で表現規制に興味をもつ人が少ない(というより皆無に等しい)のも、事なかれ主義のあらわれだと、僕は思っています。

「やられっぱなしで、くやしくないわけ?」と思うんです。
僕は漫画よりもアニメに思い入れた中高校生でしたが、当時は体育の時間が涙がでるほど屈辱的で、人付き合いが苦手なので友だちもできづらく、本当に日々が苦しかった。「廣田って、アニメの話をするとき以外、暗いよな」と聞こえるように言われても、ただ黙っているしかなかった。
そういうマイナスの経験があったから、力の強い人間たちに一方的に蹂躙されるのは二度とごめんなのです。自由を、自尊心を死守したいわけです。

だけど、僕と同じような人生観のオタクって少ないみたい。嵐がすぎるまでおとなしく待つ人のほうが多いようで、廣田は過激で好戦的だと見なされているんでしょうね。
うろ覚えだけど、大学時代に読んだ『第二の性』に、こんな意味のことが書いてあった。「自らの怒りを大地に刻みつけられないことは、おそるべき失意である」。
どんどん声に出していかないと、失意のまま人生が終ってしまう。負けっぱなしの人生はイヤだよな、巻き返したいよな……と、今はこんな程度のことしか言えません。
この事件は社会の問題でもあるけど、個人の生き方が問われているようにも感じるのです。

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2017年6月13日 (火)

■0613■

レンタルで『ティファニーで朝食を』と『アパートの鍵貸します』。
1045view001二本の映画は、それぞれ1961年と1960年公開。ほぼ同時期だし、主な舞台がアパートの一室という点でも似ている。しかし、ラストまで目を離せないのはモノクロで撮られた『アパートの鍵貸します』のほうだ。

ジャック・レモン演じる保険会社の平社員バクスターは、重役たちが愛人と逢引するための場所として、自室を貸している。
彼が片思いしているシャーリー・マクレーン演じるエレベーターガールのフランもまた、重役たちの愛人のひとりにすぎない。
バクスターがひとりの時間に何をしているかというと、自室のテレビを眺めながら、冷凍食品(『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にも出てきたTVディナー)を食べている。まず、このシーンで観客は心をつかまれるはずだ。テレビでは映画『グランドホテル』を放映すると言いながら、CMばかり流して、なかなか本編を始めない。バクスターは椅子に座ったまま、イライラしている。
「ただ座って凝視しているしかないのに、物事が思ったように進まない」状況を見せられると、映画への没入感が増す。ウソだと思ったら、今度映画を観るとき、そういうシーンを探してみるといい。


映画の中盤、バクスターはもう一度「ただ凝視しているしかない」「思うようにならない」状況に出くわす。
バクスターの部屋で重役と逢引していたフランが、睡眠薬を飲んで自殺をはかる。バクスターは隣室の医者を呼んで、フランに応急処置をほどこしてもらう。その間、バクスターは何もできずにオロオロしているが、医者は荒療治で、意識を失いかけているフランの頬を激しく叩く。
その瞬間、バクスターは、思わず顔をそむける。そんな彼の気持ちを「分かる」と、誰もが共感することだろう。それは、殴られるフランをバクスターが「ただ見ているしかない」からだ。
もし、バクスターが自力でフランを治療していたら、おそらく共感できない。映画の中の人物が望むままに行動して、思ったとおりに目標を達成すると、椅子に縛りつけられている我々は「面白くない」のである。

医者の応急処置のおかげで、フランは意識をとりもどす。
ただ見ているしかなかったバクスターは、意気揚々と彼女の面倒を見はじめる。今度は、思うように身体を動かせずにベッドに横たわったフランが、「ただ凝視しているしかない」役を引き受ける。
このように、「思ったように行動できない人物」を絶えず映しつづけることで、映画は没入感をキープできる。僕たちは、映画の中で進行していく出来事を、我がことのように感じる。

そして、主人公が思うままに行動し、望みをかなえてしまうから「映画のラストは面白くない」のである。たいていの映画で、主人公は逃げるにしても負けるにしても、自由を獲得して好きなように振舞う――それは、観客を映画から解放するための手続きでもある。

(C) 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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2017年6月10日 (土)

■0610■

Febri Vol.42 12日発売
Db3hjnkuwaecq6u●Febri Art Style
今回は『神撃のバハムート VIRGIN SOUL』の背景美術にスポットを当てました。
もちろん作品が面白いから取り上げさせていただいたのですけど、前作でムック本を担当したとき、美術監督の中村豪希さんのインタビューが、演出面にまで踏み込んでいて、とても面白かったので。
元・小林プロの美監さんたちは、主張がしっかりしています。次は何を手がけるのか、いつもマークしています。


NHK クローズアップ現代 2兆円↑アニメ産業 加速する“ブラック労働”(
入江泰浩さんが最後に仰った、「NHKさんを含むテレビ局にお願いしたいことなのですが、コンテンツとして今後もアニメーションをつくることが決まっているのであれば、制作費を倍にして、さらにアニメーターが安心して創ることができる、そういう環境をつくっていただきたいと強く思います」、これに尽きるのかも知れない。
だって、『3月のライオン』は製作委員会方式で、NHKも名を連ねているものね。当事者ですよ。番組としては「コンピューターの導入による現場作業の効率化」に話をそらしていたけど、入江さんが話を軌道修正してくれた。

入江さんには、アニメに加えられる表現規制について、月刊「創」でお話をうかがったことがある。だから、アニメと社会のかかわりに関心の高い方だとは思っていた。
Twitterを検索すると、現役アニメーターの方たちが現場環境について、さまざまに発言なさっている。この問題をアニメ業界に取材して生活費を得ている僕らがスルーするのは、恥ずかしいことだと思う。

「スルーしてるんじゃなくて、難しいデリケートな問題だから、うかつな発言を控えているのだ」と仰るだろうけど、こういうのは性格の問題だろう。社会と対峙するには勇気が必要だけど、勇気にもいろいろな種類がある。


たとえば、都議選に出馬予定の女性に「日本のアニメでは下品なロリコンポルノが一般的に流通している」などと言われてしまうのは、アニメ業界にもその周辺にも、表現規制に反対する人が、ほとんどいないから。敏感に察知して行動に移している人は、兼光ダニエル真さんぐらいじゃない?
漫画業界には、論客が多い。だから、おいそれと漫画文化を叩けないムードが形成されている。発言するって大事なんですよ。

アニメ業界の次にボコられがちなのが、フィギュア業界だと僕は思うんです。やっぱり、「児童ポルノ」呼ばわりされたとき、業界内に立ち上がる人がいなかったから。僕の署名には、模型雑誌の編集者が名を連ねてくれたけど、メーカーは黙ったままでしたよね。それで、叩きやすいムードが生まれてしまった。
『コップのカドでグリ美ちゃん』が販売されたとき、僕はゲームセンターやコンビニの店頭からは撤去してもらうよう、電話やメールでお願いした。「売るな」「作るな」ではなく、むしろ今後も自由にフィギュアを売ったり作ったりするためには、「ここは我慢するから、ここは見逃してくれ」と調整していくしかない。反対意見を「論破する」なんて硬直した態度では、いまの社会に聞いてもらえないと思う。


児童ポルノ規正法で容疑者が書類送検されたとき、愛宕警察署が押収したフィギュアを並べたときも、「どんなに少なくてもいい」と開き直って、署名を集めた。
「フィギュア・ファンにはうるさい連中がいて、うかつに叩けないぞ」というムードをつくることが第一。そのためには、業界に近い誰かが動いた証拠を残すしかない。

話をアニメ業界に戻すと、入江さんが番組中で「制作会社もアニメーターも、交渉することに慣れていない」とおっしゃっていたでしょ? 確かに、「業界独特の学生気分のような雰囲気が好きで」という監督さんもいるし、「とにかく現場が楽しかった」という話は、本当によく出てきます。その仲間同士で楽しくやっている一種の“緩さ”につけこまれているのかも知れないけど、僕は、現場の面白さ、良さを伝えていきたいと思っている。別に、問題提起したいわけじゃないんですよ。
「やっぱりアニメは面白いよな」「プラモデルは面白いよな」と思う人が増えなければ、僕の仕事だって存在価値を失うわけだし、それよりも何よりも、世の中を柔らかくしたい。
この前も書いたように、僕は体育の時間に恥をかかされて、いまだに対人恐怖が治っていない。そういう人を増やしたくないわけ。アニメやフィギュアが息抜き、あるいは生きがい……という人たちにとって、生きやすい世の中になってほしいってだけなんです。

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2017年6月 8日 (木)

■0608 「すべてのプラモデルは接着剤によって平等に組み立てられる権利を持つ」■

Goods Press 7月号 発売中
Goodspress1707_509x720●いま再びの模型魂
戦車プラモの全8ページ、静岡ホビーショーの『スター・ウォーズ』コーナー、担当させていただきました。
戦車プラモの記事では『ガールズ&パンツァー』シリーズについてプラッツの二神泰徳さん、フィギュアについてイエローサブマリン秋葉原本店★ミントの詫摩詠規さんにインタビューさせていただきました。

Goods Pressさんのプラモデル特集を手伝うのは昨年のミリタリーモデル特集につづいて二度目なので、今回も特集全体の構成を見せていただき、マックスファクトリーの高久裕輝さんにアドバイスをいただきました。高久さんも、タミヤのF-14のレビューを書いています。


とは言え、誌名どおり「グッズ」としてのプラモデルに迫っているかというと、半分はカタログ、もう半分は塗装やディテールアップなどのハウトゥです。
だけど、プラモデルは、ディテールアップしなくてもプラモデルです。塗装しなくてもプラモデルです。作らなくても、棚に並んでいるだけでもプラモデルです。当たり前すぎて、専門誌ですら「商品」「グッズ」としてのプラモデルに肉薄できないでいるのです。

「プラモデルが上手い」という場合、たいてい「プラモデルに色を塗るのが上手い」「プラモデルを加工するのが上手い」ことを指します。
僕だって、「これは命を削って作ってるなあ……」「もはやプラモというより“作品”だよなあ……」と、呆然と見とれることはしょっちゅうです。
その一方で、塗装も加工もしない、箱の中の材料を接着剤で貼り合わせただけの、誰の目の前にも確実に、平等に現れる「プラモデルの原初の姿」は、忘れられがちです。

「色も塗ってないようなプラモデルなんて、未完成」なのでしょうか? とんでもない、メーカーはありったけの工夫を盛り込んで、「商品として完成させて」キットを世の中に送り出しているはずです。
いやもちろん、ありったけの工夫どころか、盛大に手を抜いたキットもありますよ? 説明図を見ても、形にならないキットもありますよ? そんなキットには価値がない? だけど、“幻の名盤解放同盟”のスローガンに倣って言えば、「すべてのプラモデルは接着剤によって平等に組み立てられる権利を持つ」のです。 


今日、秋葉原での取材の帰り、ヨドバシカメラの模型売り場で40分ほど悩んで、レヴェルの自動車のキットを買いました。「LEVEL 4」なら、前に作った「LEVEL 3」よりは凝ってるだろうと思って。
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別に、車に詳しいわけじゃないんです。車のプラモデルを、出来るだけ多く組みたい。バイクでもいいし、艦船もあまり組んだことないし、もう何でもいいんです。知らないメーカーでも、知ってるメーカーでも。すべてのプラモデルは、平等だから。
模型売り場で、「予算3,000円以下で」「戦車はこのまえ作ったから、飛行機で」と条件を決めて、あれこれ悩んで選ぶのが楽しい。
メーカーが、僕のような通りすがりの手ぶらの客に、何を体験させてくれるのか。そこに興味がある。

「ちょっと手を加えるだけで、脱ビギナー!」などの記事は、プラモデルを「塗ったり」「加工したり」することを前提にしている、「いずれは上達すべき」という縦軸の価値観から出てくるのだと思います。
縦軸が悪いわけではなく、横軸やナナメ軸の価値観もあるような気がするぞって話です。

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2017年6月 5日 (月)

■0605■

たまには最近の映画も見ようと思い、中国=フランス合作映画『北京の自転車』をレンタル。
O0800052810999738462農村から上京してきた青年が、宅配業に就職するが、仕事道具である自転車を盗まれてしまう。盗まれた自転車は、ガールフレンドのいる男子高校生の手に渡っていた……というプロットが複雑で、オムニバスのように、何本かの独立したプロットが併走するのかと混乱してしまう。

それほどまでに、個々のカットの撮り方が上手い。
映像って、僕らの頭の中に像を結ぶはずの文芸的プロットを瓦解させてしまうほど強力なんですよ。


ワンカットごとの完成度にこだわりすぎてないかと思ったんだけど、高校生がガールフレンドを奪われて、恋敵に暴力をふるうまでの流れは、面白かった。
高校生は、ガールフレンドとライバルの2人を待ち伏せている。壁と壁のあいだに、2人が仲よさそうに自転車で通過するのが見える。壁と壁のあいだしか視界がないので、2人の姿を一瞬しか見ることができない。高校生が、2人の関係から排除されている事実が、この左右を断ち切られた冷徹な構図から伝わってくる。

つづいて、高校生は自転車に乗りながら移動し、遠くで走っている2人の姿を見ている……が、それは自転車のスポークごしの映像である。
鋭い金属のスポークが放射状に走っているので、どこかギロチンのような切断性が画面に加わる。「あ、物騒なことが起きるぞ」と直感させられる。

だからね、映画ってそういう語り口が機能している、的確にドライブしているときが楽しいわけです。ストーリーのオチなんてものは、オマケです。


スポーツ嫌いな中学生半減の目標に波紋 ヒャダインさん「体育が嫌なのは恥をかかされるから」
ずっと前から書いているように、僕は対人恐怖というかパニック発作のようで、人前に出ると緊張して猛烈に発汗してしまうことがある。27年間、精神安定剤を服用しています。
原因をいろいろ考えてみるんだけど、まず、幼いころに父親が怖かったこと。もうひとつは体育の時間に、教師に恥をかかされ、みんなに笑われ、涙が出るほどくやしい思いをしたことだ。あれは、自尊心を根こそぎ奪われるよ。

中学~高校って、いちばん自己肯定感が必要な時期じゃないですか。水泳や球技ができなくて苦しんでいるのに、教師が「おい、廣田は何やってんだ?」と指さして、クラスのみんなが爆笑する。体育の得意なイケメンどもが「すっこんでろ」「邪魔」と怒鳴る。
はっきり言います。いまだに立ち直ってないです。いまだに自信が持てないし、いまだに集団や組織や他人が怖いです。


ひとつ、ゆるぎなく正しいことがある。
体育の授業など、サボってOK。親や教師が何を言おうと、いっさい耳を貸さなくてOK。僕は水泳がイヤだったので、ワンシーズン、まるまる仮病でサボりました。教師に呼び出されて「苦手なことから逃げるな」と説教されたけど、「ふーん」って聞き流しました。

いま体育のせいで苦しい思いをしている子たちに言いたい。
どんどんサボって、自分の好きなこと、得意なことを伸ばそう。君は、親や教師やスポーツ庁とやらの持ち物ではない。自由。かぎりない自由が、生まれた瞬間から君に与えられている。いつ起動させてもいい。決して誰にもアンインストールできない、君のための特権的アプリ、それが自由。

ていうか、スポーツ庁って何? 中学生の自由を抑圧するのが目的なら、俺にも考えがあるよ? 
だからね、もし必要なことがあるとしたら、国や機関が何を決めようと、その決定が不服なら戦うための勇気を出してほしい。大丈夫、いつも使ってないだけで、「行動力」は誰にでもあるよ。

(C) Columbia Pictures

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2017年6月 4日 (日)

■0604■

学生時代、『市民ケーン』同様、撮影専攻の友人が絶賛していた『第三の男』をレンタル。30年ぶりに見返してみたが、良さが分からなかった。
Maisquiatueharry2翌日、ヒッチコックなら理解しやすいのではないかと思い、『ハリーの災難』。
林の中で、死体が見つかる。しかし、その場で倒れたにしては、やけに整然としたポーズだし、そもそも撮り方がおかしい。シンメトリで撮っている。シンメトリは画面に象徴性を与えるが、同時に物語や情感を奪うこともできると、この映画は教えてくれる。『ハリーの災難』の中で、ハリーの死体は終始一貫して感情移入を拒む「小道具」として扱われるのだ。

だから、ハリーの顔は一度、天地逆で映るだけで、以後は必ず手前に何か置いて顔を隠している。ハリーの死体は何度も埋められたり掘りかえされたりするが、スコップで掘り出された砂の山が映るだけで、具体的に死体を埋める芝居を映すことはない。
登場人物たちがハリーの死体を邪魔に感じるのと同様、映画も死体を映すことを“面倒がり”、なるべくフレームの外に置きたがる。


僕がもっとも感心させられたのは、「自分が猟銃でハリーを撃ち殺してしまったのではないか」と勘違いした男が、たまたまそこへ通りかかった婦人と会話するシーンだ。
2人は死体を前にしているのに、午後にお茶に来ないかといった日常会話をかわす。彼らの足元に死体があるのだが、ミディアム・ショット、腰から上しか撮っていない。死体はフレームの外だ。
すると、おそろしく凡庸なシーンに見える。最後に、婦人は「それではお茶を楽しみにしています」とか何とか笑顔で挨拶して、男の前から去る。そのとき、ひょいと足を伸ばして何かまたいだことが、芝居から分かる。言うまでもなく、彼女は足元の死体を踏まないようにまたいだのだ(と、観客には合点がいく)。
死体を映さずして、死体の存在を強烈に意識させる、知性的で機能的で、かつ笑いを誘う優れたシーンだ。

「撮れば存在感が出る」ほど、単純ではない。撮らないこと、見せないことによって、観客にずっと意識させつづけることが出来る。
ヒッチコックにとっては余技なんだろうけど、豊かな時間を味わうことが出来た。

加えて、この映画で銀幕デビューしたシャーリー・マクレーンの表情の、なんと雄弁なことだろう。すっかり魅せられてしまったので、『アパートの鍵貸します』も借りてこないと。


“女性というだけで「プラモの作り方わからないだろ」とか思ってる男性が多くて、ぜーんぜん聞いてもいないし、お断りしてもしつこくご丁寧にゲート処理やら合わせ目消しやらスミ入れやらおすすめのキットを教えて下さるのですが、私がいつも思うのは「鼻フックして引きずり回しちゃろか?」です。”(
プラモデルにかぎった話ではないし、男女間にかぎった話でもない。ようは、自分が上に立てる、相手をコントロールできると確信するから、アドバイスしたい欲求が出てくるわけで。
(痴漢行為も、一種のマウンティングだと思う。ダメ男が優越感を抱くための行為であって、性欲はあまり関係ない。)

また、アドバイスを求められたからといって、「俺様の出番だ」とばかりに山のようにお節介を焼くのも、みっともない。必要最小限でいいはず。
「自分の力に自信のある人間は、礼儀正しく振る舞うわ。」(『銀河鉄道999』より)

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