■0510■
篠田正浩監督、『乾いた花』をレンタルで。ファーストカット、駅に建てられた裸婦像のアップから始まる。像の向こうには、通勤する人々の群れが見えている。甲高い汽笛の音が重なり、その両手を広げた像は、やけに堂々と、超然として見える。裸婦像と汽笛の音。せわしなく職場に向かう人々。このワンカットの力強さ。これが、「画で語る」ということなのだろう。
さて、このファーストカットは本筋と関係ないのか?と言われると、実はもう一度、像が出てくる。
それは、主人公を演じる池辺良の悪夢のシーンだ。彼は、加賀まりこ演じる、謎の女賭博師に心を奪われている。賭博場で出会った怪しい男が、加賀に覚せい剤を打っている――それが悪夢の内容だ。2人の横たわるベッドを、大きな女神像が見下ろしているのだ。
もし、裸婦像と女神像が加賀の存在を強化する働きを担っているのだとすれば、ラストまでにもう一度、裸婦像か女神像が出てくるのではないか?
クライマックスで、鉄砲玉として敵対組織の要人を刺すことになった池辺。彼は、その殺人の瞬間を、加賀に見せようとする。
大きな喫茶店の中で、ターゲットに近づいていく池辺。美しい加賀は、反対側の回廊に立ったまま、殺人の様子を無表情に見ている。セリフもなければ、これといった芝居もない。ただ、超然と見つめている。つまり、三番目の「像」は加賀まりこ本人だったのではないだろうか。
こじつけにすぎないかも知れないが、ファーストカットからの「像」の効果を勘定に入れないと、加賀のキャラクターを説明しきれない。タイトルの「乾いた花」が加賀を指すのだとしたら、なおさら「像」を無視するわけにいかない気がする。
(少なくとも、このような解釈を加えないと、僕にとって映画という表現はちっとも面白くないのだ)
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「体育会系から排除されたオタクが集団を作るとさらに稚拙な体育会系を構築する」という話と補足(■)
オタク趣味の場合、単なる知識自慢、経験自慢で上下・優劣をつけようとするから、始末に終えない気がします。
プラモデルは、色を塗ったとたんに「作品」としての批評が可能になってしまうので、僕は色を塗りたくありません。「上手い・下手」の尺度の中に位置したくないのです。また、「上手い」と認められたいとも思わないです。コースから外れたところに、ひとりでポツンとしていたい。新しい価値観を発見したり、新しい面白がり方を見つけられさえすれば、それでいい。
「優れている」より「自由でいる」ことのほうが、比較にならないぐらい大事です。「自由」って誰かと競うものではないし、競ったら自由ではなくなるので。
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