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2017年5月31日 (水)

■0531■

レンタルで、『市民ケーン』。
Kaneborges学生時代に、たしか授業で観て、撮影を専攻した友人が絶賛していた。当時の僕には、何がいいのか、さっぱり分からなかった。今回は画質の悪いDVDで見たが、それでも度肝を抜かれた。
映画そのものより、研究や批評のほうが目立つぐらい、語りがいのある映画だ。いま読んでいる映像表現の本でも、何度か取り上げられている。
日本公開は1966年だが、制作されたのは1941年。映画がトーキーになってから、ようやく20年が経過したころだ。やはり、40~50年代に構図とカッティングによる劇映画の様式は完成されてピークを越えてしまい、だからこそ50年代の終わりごろにヌーヴェル・ヴァーグが台頭したのではないだろうか。
アメリカン・ニューシネマはさらに後、僕の生まれた1967年に始まったとされる。僕が少年時代に親しんだテレビの洋画劇場は、ほとんどが70年代のアメリカ映画。そのまま80年代のSFXブームに突入すれば、映画の好みや価値観は偏って当然だ。

『市民ケーン』は、多くの人々の研究心を触発した。だが、30年前の僕は不感症だった。いま『市民ケーン』を見てつまらない人も、30年後には驚かされるかも知れない。


『市民ケーン』の特殊な絵づくりについては、ほとんど言及されつくされている。「これは自分の発見だ」と思っても、どこかの研究熱心なブログに言い当てられている。
強いて言うなら、僕がいつも指摘する効率的な構図、機能的なカッティングよりも、ワンカットの中での明暗の変化が“語っている”ことが新鮮だった。

この映画では、人物の顔が黒くつぶれる演出が頻繁に使われる。画面奥にいた人物が身を乗り出すと、スッと顔が闇に溶け込む。あるいは、手前にいた人物が画面奥に歩いていくと、顔が影に隠れる。つまり、表情を見えなくすることで、セリフに含みを持たせたり、真意を曖昧にする。
明確な意図が読みとれないため、僕が読んだ範囲でも、実に多様な解釈が生まれている。だから、いまだに研究対象として注目されつづけているのだろう。


明けて本日、立川シネマシティで、『メッセージ』。
世界各地に、宇宙人のUFOが飛来してパニックになる凡庸なプロットに没入できるのは、主人公の女性言語学者ルイーズが、UFOやパニックの様子をモニターで見るばかりで、自分から積極的に事態に関わろうとしないからだ。『裏窓』のとき書いたように()、ベッドの上で、デスクの前でモニターを傍観するだけのルイーズと、僕たち座席に座ったままの観客とが同一化する。主人公が、アバターの役目を果たしているのだ。
(そういえば、ルイーズが何度も幻視する娘とすごすシーンも、POV(主観カット)を多用して、彼女を「見る側」に係留しつづける。)

そして、ルイーズが宇宙人に「文字を見せる」シーンによって、ようやく彼女は「見るだけの側」か640ら脱する。そのシーンまでの間に、僕ら観客はルイーズが傍観してきたものを「自分の目撃したもの」と信じきっている。ルイーズが僕らの分身のように「見るだけ」で主体的に行動しなかったおかげだ。簡単だが、実に巧妙なレトリックだ。
そして、映画が主人公の主観を脱却したあたりで、ジェレミー・レナーの演じる理論物理学者のナレーションによって、事態の全貌が客観的に語られる。第三者の視点が入ることで、映画に強固な信憑性が加わる。
実は、その構造を見られただけで、僕は十分に満足した。後半の危機的状況も、その解決法も、劇映画の様式にすぎないと思うので、とくに不満はない。よく考えられていると思う。


今は、映画を「ネタ」にして、いかに自分が熱狂しているかアピールしたり、斜に構えた解釈を加えることで注目を集めようとしたり、映画がコミュニケーション・ツールと化している。
そのムーブメントは引き返せない道だと思うので、最近ようやく「ほっとこう」という気持ちになれた。僕は映画に驚きたいし、映画の中で何が自分を驚かせたのかを解明したいだけなのだ。

(C) 2016 CTMG

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2017年5月29日 (月)

■0529■

アニメ業界ウォッチング第33回:吉田健一が語る「キャラクターデザイン」に求められる能力
T640_728722吉田さんとは『Gのレコンギスタ』のパンフレットとムックで、二度お会いしただけです。だけど、Twitterのダイレクトメールでちょっとやりとりしたこと、また舘野仁美さん、安藤雅司さんのお2人がそれぞれ吉田さんのお話をされていたので、いい頃合だと思い、取材をお願いしました。

結果、思いがけず、『君の名は。』評をお聞きすることができました。“「君の名は。」の作画は、2時間見ていても疲れない”……これは線が少ないとか、形をディフォルメして単純化してあるという意味ではないと思います。
たとえば、『ドラえもん』の劇場アニメは、(作品によりますが)動画の線を途切れさせて情報量を増やしています。テレビのシンプルな絵のまま、2時間見せられたら、それこそ疲れるんじゃないでしょうか。映画として見せるのに適切な情報量を、探っていると思うんです。

『この世界の片隅に』は、片渕須直監督ご自身が、かなり初期から作画のタイミングについて語っておられたので、動きが評価対象になっていたように思います。『君の名は。』の作画については、どうでしょう? 僕は試写を見て、作監の安藤雅司さんにインタビューしたきり、ぜんぶ分かった気になっていました。


吉田さんの“「君の名は。」の作画は、2時間見ていても疲れない”という指摘でピンと来たのは、僕が実写映画とアニメ映画とをレンタルしてきたら、「アニメ映画のほうが楽に見られるな」と、無意識に比較していることです。

仮に退屈したとしても、実写で退屈させられるほどの拷問ではないだろうとタカをくくってしまいます。なんというか、アニメで退屈したとしても、実写映画とは退屈さの質が違うような気がします。
アニメ映画は、脚本や構図やカッティングなど、劇映画から大枠を借りているので、ついつい劇映画の論法を借りて批評しがちです。それが罠であるような気がしてきました。
大枠を借りてきているだけで、成り立ちはぜんぜん違います。批評のしかたも異なって然るべきではないでしょうか?

「映画秘宝EX 劇場アニメの新時代」の安藤雅司さんのインタビューを読んでほしいのですが、アニメでは「普通の女の子」でも、つい可愛く描いてしまう。だから、安藤さんは『思い出のマーニー』では脚本に介入して、セリフで説明してもいいから、その子のマイナス要素を足してあげたんだそうです。脚本で工夫したうえで絵にして、ようやく「普通の女の子」になるのではないか、ということを作画監督が考えている。
同じ脚本で実写映画を撮ると、ちぐはぐな結果になる。そういう方向性の差異を考慮しなくていいのかな……と考えてしまいます。どっちの表現が上とか下とかいう話ではなく。


大学時代、名前は忘れてしまったけど、「映画は、どこからどこまでが映画なのか」「何をもって映画と定義づけるのか」考える授業があって、僕はその授業だけはノリノリで聞いていました。映画のDVDは、ただの記録媒体であって、映画ではない。映画を「これが映画だよ」と手渡すことは出来ない。
あの授業を、まだひとりでやり続けているような気がします。

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2017年5月23日 (火)

■0523■

我慢できず、今夜もヒッチコック。漠然としか知らなかった『裏窓』。
Fenetresurcourrearwindowgracekellyj軽妙なサスペンスなんだけど、全編セット撮影で、がっちりとお金がかかっていて、アイデアもみっちりと敷き詰めてあって、こんな宝石箱みたいな映画を見つけてしまって、エンドタイトルではポロポロと涙がこぼれた。僕だって、映画を観て、しょっちゅう泣いてます。
ただ、「泣けたから優れた映画」と、感情と評価を直結させるのが怖いので、それはやらない。


『裏窓』は、骨折して部屋から動けない主人公が観客に最も近い状態で、それゆえに感情移入できるのだ……という話は、研究書で読んでいた。
ジェームズ・スチュワートが裏窓から覗き見る人々の生活は、それぞれがショートストーリーになっている。あんなに赤裸々に窓を開け放って、分かりやすいシーンだけ見られるわけがないんだけど、それがこの映画だけのリアリティ、嘘のつき加減であって、とても洒落てると思った。

ファーストカットで、庭を囲むアパート群をぐるりとパンして、主人公の額のアップで止まるけど、途中、ハトが二羽も横切る。もちろん、カメラの動きにあわせて飛ばせているわけです。窓から見える人々の生活も、入念にリハーサルしないと、カメラが過ぎるとき、あんなに自然な動きにはならない。
だからまず、すごい時間と手間がかかった贅沢な映画。だけど、会話は洒落ているし、これといってテーマがあるわけでもない。ちょっとした挿話、小話みたいな感じ。そのギャップが粋で、大人っぽい。


そして、ジェームズ・スチュワートは事件を「見ているだけ」なので、この映画では外部に置かれている。彼の存在がなくても、事件は描き得る。カメラを、事件の起きたアパートの中に入れてしまえば、ちゃんと成立する。
だけど、あえて彼を『アバター』のように、『マトリックス』のように、座席から動けない観客を映画の内部にジャック・インさせるための依り代として設定している。だから、クライマックスでは自分が殺されてしまうかのような緊迫感で、息が詰まりそうになった。
「動けない主人公」を設定するだけで、猛烈に没入感が増す。これは、すごい発明だよ。4DXどころじゃないですよ。

そして、主人公の恋人(グレース・ケリー!)が約束を破って、犯人の部屋に勝手に窓から入ってしまうシーンで、その大胆かつコケティッシュな行動力に胸がドキドキした。もちろん、主人公も僕も「同じように傍観しているしかない」から、ドキドキするわけです。
これは、本当に贅沢な体験。VRかと思ってしまう。だって、グレース・ケリーが自分の恋人になるんですよ、そのシーンでは。ただ観客の立場と、主人公の立場を入れ子構造にしただけで。

それが、映画の「機能」です。面白いことの裏には、必ずロジックやメカニズムがあるのです。
ネタバレという言葉の大嫌いな僕だけど、この映画の、小粋な愛らしいラストシーンに触れるつもりはありません。『成金泥棒』の真犯人を書くつもりもありません。
それが、礼儀だからです。ネタバレって「禁止」を促すものでしょ? 「ネタバレだから言えません」って、まるで言論統制じゃないですか。
上に書いたように、『裏窓』の面白さは、主人公が傍観者に徹している、その秀逸な作劇上のアイデアです。ラストシーンは、気のきいたオマケであって、映画の「ネタ」なんかじゃありません。

(C) 1954 Patron, Inc. Renewed 1982 Samuel Taylor & Patricia Hitchcock O'Connell, as Co-Trustees. All Rights Reserved.

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2017年5月22日 (月)

■0522■

ホビー業界インサイド第23回:美少女フィギュアか伝統工芸か? 永島信也が彫る“美少女根付”は、どこへ向かう?
T640_728241初めて永島さんの作品を見たのがどこだったのか、もう覚えていません。だけど、インタビューだけはさせていただきたいと、ずっと思ってきました。
羊毛フェルトを材料に使う土方クロネさんもそうでしたが、こういう方たちを「フィギュア」作家として認識したいと、つねづね思っています。「フィギュア」の概念って、もっと広いんじゃないかなあ……と。


レンタルで、ヒッチコック監督の『泥棒成金』。
Sub_largeこんなチャーミングな映画を観てなかったことを、誠に恥だと思う。義務感でヒッチコックの映画を観はじめたのだが、この作品のロマンス、サスペンス、ユーモアのさじ加減には、すっかり魅了された。
ただ、それでも僕はカメラワーク、特に構図の話をしたい。

ケーリー・グラントの演じる「猫」とあだ名される元・宝石泥棒が、ふたたび盗みを働きはじめたと警察に誤解され、やむなく逃亡をつづける。逃げる途中、グレース・ケリーの演じる美しい富豪の娘と知り合う。その娘は強気な性格で、自分の知り合った男性が「猫」だと見抜いている。飄々と追求をかわしていた「猫」は、彼女の強引な誘いに乗せられて、どんどんペースを崩していく。その過程が、ロマンチックで素晴らしいわけです。
さて、ケーリー・グラントの「猫」は、映画の前半では、画面の左側に立っている。歩くとしたら、画面左から右へと歩く。窓の外を見るとしたら、左側に立ち、右下を見る。
誰かと話すシーンでは、いくつかの例外を除いて、「猫」が左側、もうひとりが右側に立っている。

このルールが、娘と出会うあたりから、崩れはじめる。
娘は母親を含めた4人で会話するが、彼女はまず、「猫」が占有していたはずの画面左側のポジションを奪う。彼よりも、娘のほうが左側に座っているのだ。
次に、娘は「猫」を海水浴に誘うため、彼を部屋に呼びつける。そのシーンでは「猫」が画面右側に立っており、娘が画面左側から悠然と歩いてくる。
つまり、娘がペースを握りはじめると、彼女は画面左側を支配するようになる。それまで画面左側に落ち着いていた「猫」は、強気な娘に定位置を奪われてしまった……と考えると、この構図の逆転に説明がつく。


もうちょっと、分かりやすい例をあげよう。
「猫」は、真犯人をつきとめるべく、単身で行動を開始しはじめる。だが、彼の正体を知っている娘は、「猫」を待ち構えていて、強引に運転手役を申し出る。車もお弁当も用意してあるからと、「猫」を説き伏せる。
そのシーンでは、「猫」が左側、娘が右側だ。しかし、あまりに強引な娘の申し出に「猫」が折れると、娘はヒョイと「猫」を追いこして、画面左側に移動するのだ。それはつまり、主客転倒した、娘が主導権を握った……という意味にならないだろうか?

そして、娘がハンドルを握った車は、画面右から左へと疾走する。冒頭、「猫」の車が警察の車を振り切ったときには、画面左から右へと走っていたのに、完全に逆方向となる。
Catch_a_thief_photo僕の分析は早急すぎて雑とは思うが、主人公の立つ位置や向かう方向が、映画の前半と後半で逆転しているのは偶然なのだろうか? 「どっちでもいい」「どっちに立とうが向かおうが、面白さに変わりはない」んでしょうか? だとしたら、「構図」って何のためにあるんですか?

俺は、構図やカッティングに「ぞわっ」と来る人間なので、その真意や秘密に気づかぬまま死んでいくのは、まっぴらごめんなのです。
だから、つねに敏感でありたいし、考えることをやめたくない。

(C)1954 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.

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2017年5月19日 (金)

■0519■

デンマーク映画『ある戦争』、レンタルで。
640緊張感に満ち、知的なパッションに支えられた見事な映画だった。
タリバン政権下のアフガニスタンに駐留する、デンマーク軍兵士たち。部下思いの隊長が、ある作戦で民間人殺傷事件に巻き込まれてしまう。
この映画は、ほとんど手持ちカメラで撮影されている。被写界深度は浅く、2人の人物が並んでいたとしても、どちらかにピントが合っていて、どちらかはボケている。すると、自分がその場に居合わせているかのような臨場感が出る。
戦場へ向かうシーンで、兵士たちが現地の子供たちのために作ってやった凧が、木にからまっているのがチラリと見える。それだけで、ギクリと嫌な予感がする。しかし、手持ちカメラなので、本当に「チラリ」としか見えない。ホラー映画ならカットを割って、ズームで寄るべきところだろうが、この映画では“目撃感”が大事だ。一秒しか見えなかったものは、一秒以上映さない。知的な態度だと思う。


一方、後半を占める日常シーンでも、手持ちカメラは効果的に使われている。
事件のために帰国した隊長は、妻と再会する。彼らは庭で向かい合っているが、妻が「なぜ急に帰国することになったの?」と聞く。言葉につまった隊長は家の中に入り、妻は彼の後をついていく。ところが、カメラは家の外にとどまりつづける。
ガラスごしに、隊長が妻に説明しているのが見える。セリフは聞こえないが、事件のあらましを知っている我々には、彼が妻に何を話しているのか分かる。
すなわち、カメラは確実に人物や状況を“目撃”しているのだが、映画は人物や状況のあいだに距離を置いている。

ラフに、ランダムに動くカメラワークが“文芸性”を発生させている。シナリオではなく、カメラワークが語っている。
ラストで、主人公(隊長)は自分の子供を寝かしつけていて、ハッとする。毛布から、我が子の素足が見えている。それは、アフガニスタンで殺されてしまった子供の素足とそっくり同じアングルだ。だから、彼はドキッとしたのだろう。
……いや、ちょっと待ってほしい。「毛布から出た子供の素足」は、カメラで撮影されたアングルなのである。だから、僕ら観客は「ああ、アフガンで殺された子供と同じだ」と気づく。隊長はカメラとは別の位置に立っているので、「ああ、アフガンで殺された子供と同じだ」とは認識できないはず。(自分の体験を「映画」として見てないかぎり。)
にもかかわらず、隊長はハッとして考えこんでしまうわけです。そこに映画にしか為しえない詐術が、レトリックが機能している。


このような矛盾を、僕は“映画ならではの文芸性”として受け入れる。
ネタバレネタバレうるさい人は、カメラアングルの話をしても「そんな小難しいディテールの話はどうでもいい」とでも思うんだろう。
だけど、「この映画の倫理観や家族愛を描いているのはカメラワークなんだ、撮影なんだ」と僕が言いつづけていないと、ついには誰も口にしなくなるような気がして、怖い。

(C)2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

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2017年5月18日 (木)

■0518■

痴漢行為を疑われて逃走した男性が死亡した事件の余波だろう、Twitterが痴漢犯罪や痴漢冤罪の話題でにぎわっている。
「痴漢冤罪防止のために、署名をやるべきだ。問題は、誰が署名活動を始めるか」というツイートがあり、「またか」とため息が出た。
どんなことでも、思いついた人間がやる以外、何事も実現しないというのに、延々とスマホに向かって「世の中変われ、俺(私)の望みどおりに変われ」と、願い事を書き込んでいるだけの人たち。

二年前、僕は『痴漢被害根絶のため、「車内防犯カメラの設置」と「学校での性暴力対策教育」を求めます。』という署名を行った()。
なぜ「防犯カメラ」と「性暴力対策教育」を掲げたかというと、先立ってアンケートを行い、上位の意見を採用したため()。
また、前後して痴漢被害を啓発するステッカーも自費で製作して、中野駅前でひとりで配ったこともあった。

……なぜ、そこまでやったのか?
Twitterで二万人ぐらいフォロワーのいる男性が「防犯カメラ設置の署名を集めようか!」と盛り上がっては途中で投げ出し、男性デザイナーが「痴漢被害啓発ステッカーをデザインしました!」と盛り上がっては途中で投げ出し……という醜態を目にしてきたからだ。
彼らの周囲で「やりましょう!」「がんばりましょう!」と盛り上がっていた男女も、申し合わせたように口を閉じてしまった。
だったら、誰かが身体ひとつで動いて見せなくてはダメでしょう? 願いを達成させるための最低限度の、たったひとつの方法が「自分で動く」ことではないのですか?


結局、誰ひとり着いてこなかった。署名が失敗に終わったときの気持ちは、二年前のブログに書いてある()。以下に一部、引用する。

何の成果もないから関心が低いのは分かるけど、こんな気の長い話より、「痴漢が捕まって、顔も名前もさらされて一生苦しむ」って有り様を、みんな早く見たがってるじゃなかろうか……?って気がしてしまう。あのね、何より怖ろしいのは「法を最大限に活用して、フェアに、潔く戦ってみせよう」なんて、誰も考えてないんじゃないか?ってことなんです。

性犯罪者を憎む気持ちを理解したい、でもだからこそ、社会の真ん中を走るルートを使って、法治国家にふさわしい形で無念を晴らしましょうよ。こちら側だけでも、きちっと筋道を通しましょうよ。そう考えるから、僕は顔と名前を出して行動できるんですよ。
だけど、誰も僕のあとに着いてこないのは、「コイツのやってることは回りくどい」ってことなんでしょう。驚くほど、みんな社会に要望を通す手続きを知らない、関心がないんです。

それ以前にやった行動も、すべて僕はスジを通したつもりだった。
児童の人権を擁護する法律に「児童ポルノ」という言葉はふさわしくないから、「性虐待記録物」に変更しましょう。それには、「性虐待」について、正確な知識を得ていないと、それこそ子供をダシにしてしまうことになる。
だから、専門書をたくさん読んだし、児童虐待の勉強会にも行った。個人や団体に取材もしたし、性犯罪・性虐待を告発する映画を支援もした。

性犯罪・性虐待が残す心理的外傷が、あまりにも深刻なので、見て見ぬフリはできない。
だけど、たとえば児童ポルノ規制法の話題は、いつも表現規制へ向かってしまう。合法的に売られていたポルノ作品を「疑わしい」とあげつらったりするばかりで、犯罪過程で撮影された性虐待記録物こそを根絶しよう……という動きには、決してならない。


松山市の中等教育学校で、かつて小学生の担任だった男性が、児童のスカート内を盗撮していた()。
教師の性犯罪はとても多いし、警察官が痴漢していた事件もよく耳にする。だけど、「教師や警官をこそ疑おう」「抗議しよう」という世論にはならない。秋葉原でエロ漫画やアイドルDVDを買ってるオタクたちが危ないぞ……と、矛先をそらす人たちがいる。

女性は、社会的に不公平な立場におかれていると思います。性犯罪・性虐待は「男権」や「父性」の醜い暴走であるし、根絶したい。だけど、何らかの行動を起こすと、まったく次元の違う問題に巻き込まれ、いつもいつも本質がブレてしまう。
「みんな、本気じゃないんだな……」と、ため息さえ尽きるのです。

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2017年5月15日 (月)

■0515■

レンタルで、『寄生獣 完結編』。
164471_1前編だけ見てほったらかしにしていたのだが、友だちが今頃になって、「マンガの実写映画化の中では、かなり良い」と誉めていたので、後編を借りてきた。
確かに「本当に山崎貴監督なのか?」と疑うレベルには、しっかりした映画だ。ただ、原作マンガからしてそうだったけど、田宮良子が新一に赤ん坊を託した時点で、文芸上のテーマを語り終えていると思う。深津絵里の演技も素晴らしいが、田宮良子の出演シーンは撮り方が丁寧。

寄生生物たちの拠点となった市役所で、カメラは横に移動しながら、バラバラの方向を向いて座っている寄生生物たちをとらえる。田宮はカメラが止まった場所、つまり部屋の右端で育児書を読んでいる。彼女だけ画面左側を向いて、整然と座っている。他の寄生生物と違ってカメラの移動方向を向いているので、知性を感じさせる……が、横顔なので冷たい印象を与える。
つづいて田宮は、大森南朋の演じる記者と会う。そのシーンで田宮は人間のフリをしているので、7:3の安定した構図だ。誰にでも分かると思うが、ここで田宮良子の非人間さを強調しても、まったく意味がない。あえて「人間を撮るかのような」平凡な構図が望ましいはずだ。

CG技術がどうとか、原作と設定が違うとか、そういうところに実写映画のアイデンティティは宿らない。頼むから、構図とカットワークを見てほしい。特に、映画評論家の皆さん。


田宮良子の登場シーンで、もっとも印象的なのは、新一との再会シーンだろう。
田宮は自宅マンションに、ベビーカーを押して帰ってくる。構図は真後ろからのロング、そして真横からのミディアム・ショットだ。ファーストカットは完全なシンメトリなので、非人間的な印象が強い。
田宮は新一の気配に気がついて、立ち止まる。カットが切り替わると、すでに新一は田宮の後ろに立っている。二人は真正面を向いたまま、視線をかわさずに会話を始める。
ただし、田宮は画面中央から、やや右にずれた位置に立っている。新一を画面に入れる都合もあるが、田宮は「寄生生物と人間の共存」の話をしているので、少し人間味を加えたほうがいい。なので、中央からズラしてやるのが効果的だ。左右不対称のほうが、完全なシンメトリより、画面に柔らか味を感じないだろうか?

だが、新一は田宮の話を信じようとしない。このとき、田宮は初めて体の向きを変える。つまり、新一のほうを向く。そして、そのまま無言で歩きだす。
A0c7f7cc997523af54cc9d1779ccc90aカメラは、真横から田宮の歩きをフォローする。フレームには新一が入るが、田宮は新一の横を歩きすぎて、彼と背中合わせの位置に、ピタリと立つ(左図)。
つまり、田宮は新一に近づきはしたが、決して視線を交わそうとはしない。しかし、彼女のほうから人間側に近づいたことは確かなのだ。その微妙な距離と角度を保ったまま、田宮は「私を信じろ」と言う。信じてほしいからこそ、彼女は新一に歩み寄った。だが、2人は目を合わせるほど分かり合ってはない……素晴らしい緊張感にあふれたカットだ。

くどいようだが、このシーンは全カット、「真正面」「真横」のみである。そのために、田宮良子の持つ寄生生物らしい冷淡さが、シーン全体を覆っている。だが、新一が現れたことで、田宮は少し画面の片側に寄る。シンメトリの冷たさが、少しだけ和らぐのである。
どうだろう、「田宮良子が人間との共生を模索している」ストーリーを、構図の変化が語っているとは思わないだろうか? それとも、セリフでぜんぶ説明しているから、映像はオマケにすぎないのだろうか? 次から映画を見るとき、ちょっとだけ構図に注意してほしい。


そして、『寄生獣 完結編』は、後半の展開に必然性がないから「駄作」なのだろうか。原作の良いところを拾ったから、「かろうじて良作」なのだろうか。
僕らは、駄作か良作かを選別するために映画を見ているのだろうか? 僕たちの人生は「良いか悪いか」「百点満点で何点か」なんて、そんなつまらないものなのだろうか?

(C)2015映画「寄生獣」製作委員会

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2017年5月14日 (日)

■0514■

レンタルで『バタフライ・エフェクト』。
321766view008少年時代、悲惨な事件に遭遇した青年が、過去の日記を読み返すことで、その時点へタイムリープする力を手に入れる。少年時代へタイムリープして、その場の言動を選択しなおすと、現在の状況が激変している……という、恋愛シミュレーションかビジュアルノベルのような脚本。
ちょっと前の僕なら、「ドラマ性がない」とでも言って、鼻で笑っただろうと思う。人物設定は、明らかに類型的だ。だが、この映画にはデジタルネイティブだけが感じることのできるリアリズムがある。
何度となく現在をリセットして、フラグを立てたり立てなかったりすることでハッピーエンドを目指す構成は、文芸的とは言いがたい。しかし、デジタル的な方法論で再編された映画脚本は、小説や戯曲の近辺で停滞している映画脚本より、よほど進歩しているとは言えないだろうか?


ざっと検索したところ、ビジュアルノベルやアドベンチャーゲームの文脈から、この映画を評価する声は(13年も前の映画のせいか)、ネットには見当たらない。例によって「面白いか退屈か」「感動ではたかどうか」を、点数評価つきで語ったレビューが目立つ。
日本にも『魔法少女まどか☆マギカ』や『STEINS;GATE』、『orange』のようなマルチエンディングを孕んだ作品群がある。『orange』は実写映画化もされてヒットしたが、ひょっとして「ゲーム文脈」から分析すべきだという僕の脳が古いのだろうか。
「面白いか、感動したか」「傑作なのか、凡作なのか」だけが問われる平面的世界で、果たして僕たちの審美眼は鈍磨しないのだろうか?  


マンガ『寄生獣』の中に、「ひょっとしておまえ……鉄でできてるんじゃないのか」というセリフがある。無残な殺され方をした母親をめぐって、父と息子の間に断絶が生じ、母の死を乗り越えた息子は、父から見ると「鉄でできてる」ように見える。

20代のころに『寄生獣』を読んだ僕は、「鉄でできてる」男になろうと努めた。何度となく女性にフラれていたので、3日で立ち直れるよう訓練した。それだけ、女性に依存していたのだと思う。15年前の結婚、12年前の離婚にいたるまで、僕の心を支配していたのはアパシー(無感情)だった。
僕は事務処理をこなすように、淡々と離婚の手続きを進めた。ひとかけらの感傷もなかった。無感情は最強だと思った。


その6年後、母親が殺された。そのときも、僕はアパシーを行使した。取り乱すことなく、事務処理を優先した。結果、目的どおりに犯人を刑務所に送ることが出来た。(周囲の人は泣くことを優先しすぎて、目的を見失っていた。)

ところが、友人との関係は、異性や肉親のようにはいかない。なぜなら、友情は「どこまで相手を許せるか」によって成り立っているから。許せるパートが8割、何とかしてほしいパートが2割ぐらいで、良好な関係を保てているのであって、その割合がいつ逆転するかは分からない……。
僕が相手を許しても、相手の「許せないゲージ」が上昇したまま、元に戻ってくれないことがある。

他人に「僕のことを、そのように思うな」と命令することは、できない。どのように思われようとも、どちらの責任でもない。違和感のある関係をつづけていくと、ほぼ間違いなくとんでもない結末が待っている。
僕が違和を感じていなくても、相手が感じているなら、仕方がない。他人は他人である以上、無限に自由なのだ。人の心に命令はできない。こうした気まずさと、僕らは永遠に戦いつづけなくてはならない。さもなくば、僕らは簡単に堕落する。

NewLineCinema/Photofest/MediaVastJapan

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2017年5月11日 (木)

■0511■

ジョン・カーニー監督の『シング・ストリート 未来へのうた』を、レンタルで。同監督の『はじまりのうた』が良かったので。
6401985年のダブリン。冴えない高校生が、一目ぼれした相手の気を引くためにバンドを結成、MVに彼女を出演させる。監督はバンド経験もあるし、MVも撮っていたので、80年代の学生が撮りそうな稚拙なMVを、いい匙加減で再現している。曲が生まれた瞬間から、ワンカット内で時間を省略、演奏シーンへ繋いだりする演出は、お手の物である。
なので、「音楽の使いかたが上手い」なんて誉め方は予定調和だし、監督に失礼な気持ちすらしてしまう。後半のミュージカル・シーンも凝っていて、明らかに観客の期待に応えているので、とりたてて書くほどのことでもないだろう。


僕が感心したのは、映画の後半、主人公が一目ぼれの彼女に幻滅しながら、親友とふたり、曲をつくるシーンだ。そのシーンでの主人公は、彼女よりも曲づくりのほうを大事にしている。
Fotos_pelicula_este_es_tu_momento05親友は「お前が彼女をロンドンに連れて行けばいい」「ついでに俺たちの曲をロンドンに売り込んで、こんな町から救い出してくれよ」と、ちょっとだけ未来の話をする。
主人公は軽く聞き流し、2人は生ギターを抱えて公園のベンチに座り、自分たちの曲づくりに熱中していく。――と、その背後で何者かが、主人公の自転車を盗む。まず親友が気づき、つづいて主人公が追いかける。
つづくシーンは、彼女にデモテープを渡しに来た主人公。彼は、前シーンで盗まれたかに見えた自転車に乗っているのだ。どうだろう、盗まれたはずの自転車に、颯爽とまたがって彼女の家の前まで来る主人公を、とても強く頼もしく感じないだろうか?

シチュエーションを整理しておくと、
●主人公は片思いしていた彼女に幻滅し、彼女を忘れようとしている。
●いまの彼にとっては、親友と曲をつくるほうが楽しい。
●しかし、親友にそそのかされ、彼女への未練も感じはじめる。
●そのため、曲の入ったテープを彼女の家の前に置く。
イニシアチブは、主人公が握っている。一目ぼれの相手から距離をおいて創作活動に没頭していく彼は、パワフルだ。余裕がある。その「強さ」を表現するには、彼に偉そうなセリフを吐かせればいいのだろうか? 盗まれた自転車を取り返すシーンを入れて、泥棒を殴ればいい? あるいは許せばいい?

殴ろうと許そうと、それを描くのは映画の話法ではない、と僕には思える。
泥棒をどうしたか段取りを説明していては、主人公の「強さ」に、回りくどい意味が加わってしまう。「自転車を取りもどした」事実さえ見せておけば、そのほうが主人公の上り調子の「強さ」が伝わるのではないだろうか。
さらに言うなら、盗まれた自転車は、画面左奥へ向かう。そこでカットが切れて、次シーン、主人公が奪い返した自転車は画面左奥から来る。つまり、「追いかけて、戻ってくる」。自転車の方向だけで「取り返した」事実が伝わるわけだ。

段取りを省き、伝達を合理化して最短にすることで、「事実」は明確に、ゆるぎなく伝わる。知性と感情と論理が連動したとき、僕は感動する。映画のファンクションによって、はじめて情緒的なものを受けとる。(俳優がいくら絶叫しても、映画は情緒的にはならないのだ。)


サモア自治国のウポル島に旅行しようと思って、いろいろ調べてみた。
局所的に珍しい自然の景観が見られるほかは、とにかく地味な島のようだ。見どころの大部分が、海と関連しているのも、泳げない身としては辛い。

「BRUTAS」の楽園特集に載っていたダナン(ベトナム)にしようか、とも思う。王宮や遺跡もあるので、イグアスの滝やケアンズに欠けていた文化遺産に触れることができる。
ただ、成田からの直行便があるので、またしても安易な旅という気がする。
スウェーデンのような遠い国へ行って、さらにフェリーとシャトルバスまで予約していたのがウソのようだ。クロアチアでも、バスのチケットは行く先々で、あてずっぽうに購入していた。あのがむしゃらさが失われているような気がして、怖い。そこそこの難易度がほしい。

予算に余裕があるなら、もう一度、ヨーロッパに戻ってもいい。オセアニアやベトナムは、お金がなくなってからでも遅くはないような気がする。

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2017年5月10日 (水)

■0510■

篠田正浩監督、『乾いた花』をレンタルで。
Noir2ファーストカット、駅に建てられた裸婦像のアップから始まる。像の向こうには、通勤する人々の群れが見えている。甲高い汽笛の音が重なり、その両手を広げた像は、やけに堂々と、超然として見える。裸婦像と汽笛の音。せわしなく職場に向かう人々。このワンカットの力強さ。これが、「画で語る」ということなのだろう。

さて、このファーストカットは本筋と関係ないのか?と言われると、実はもう一度、像が出てくる。
それは、主人公を演じる池辺良の悪夢のシーンだ。彼は、加賀まりこ演じる、謎の女賭博師に心を奪われている。賭博場で出会った怪しい男が、加賀に覚せい剤を打っている――それが悪夢の内容だ。2人の横たわるベッドを、大きな女神像が見下ろしているのだ。
もし、裸婦像と女神像が加賀の存在を強化する働きを担っているのだとすれば、ラストまでにもう一度、裸婦像か女神像が出てくるのではないか?

クライマックスで、鉄砲玉として敵対組織の要人を刺すことになった池辺。彼は、その殺人の瞬間を、加賀に見せようとする。
大きな喫茶店の中で、ターゲットに近づいていく池辺。美しい加賀は、反対側の回廊に立ったまま、殺人の様子を無表情に見ている。セリフもなければ、これといった芝居もない。ただ、超然と見つめている。つまり、三番目の「像」は加賀まりこ本人だったのではないだろうか。
こじつけにすぎないかも知れないが、ファーストカットからの「像」の効果を勘定に入れないと、加賀のキャラクターを説明しきれない。タイトルの「乾いた花」が加賀を指すのだとしたら、なおさら「像」を無視するわけにいかない気がする。
(少なくとも、このような解釈を加えないと、僕にとって映画という表現はちっとも面白くないのだ)


「体育会系から排除されたオタクが集団を作るとさらに稚拙な体育会系を構築する」という話と補足

オタク趣味の場合、単なる知識自慢、経験自慢で上下・優劣をつけようとするから、始末に終えない気がします。
プラモデルは、色を塗ったとたんに「作品」としての批評が可能になってしまうので、僕は色を塗りたくありません。「上手い・下手」の尺度の中に位置したくないのです。また、「上手い」と認められたいとも思わないです。コースから外れたところに、ひとりでポツンとしていたい。新しい価値観を発見したり、新しい面白がり方を見つけられさえすれば、それでいい。

「優れている」より「自由でいる」ことのほうが、比較にならないぐらい大事です。「自由」って誰かと競うものではないし、競ったら自由ではなくなるので。

(C) 1964 松竹株式会社

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2017年5月 5日 (金)

■0505■

【懐かしアニメ回顧録第30回】躍動的な「破裏拳ポリマー」の世界と、視聴者とを媒介する“動けないキャラクター”
Nbc11すべての秘密を知っていながら、作中人物にそれを教えることのできないキャラクターは、テレビの中に入れない視聴者に、最も近い存在なのではないでしょうか?

だするなら、『破裏拳ポリマー』では“男爵”というセントバーナード犬に着目する必要があります。“男爵”だけがポリマーの正体を知っているのですが、それを誰も伝えることができません。
自由自在に動き回れるスーパーヒーローは、実は視聴者からもっとも遠いところに位置しているため、作劇上の工夫なくして、感情移入させることは不可能なのです。


レンタルで黒澤明監督『どですかでん』。
10010418_h_pc_l中学のころにテレビで観て、「黒澤明はカラーで撮るようになってからダメになった」という俗説を信じこみ、それで分かった気になっていた。いま観なおすと、色の使い方は前衛的かつ野心的で、創造する喜びに満ちている。

仲のいい2人の日雇い労働者が、それぞれ赤と黄色の服を身に着けている。彼らの手にする小道具、家の外装、内装、すべて赤と黄色にパッキリと塗り分けられている。中盤から、2人は妻を交換して暮らしはじめるので、一見して判別できる目印がなければいけない。2人を一瞬で見分けるために、赤と黄色の衣装が機能する。
後半、妻を田中邦衛(赤い衣装)にゆずったはずの井川比佐志(黄色い衣装)が酔っ払って、自分の家(黄色い家)に帰ってきてしまう。家の中は、ほとんどの小物が黄色で占められている。その黄色い家へ、赤と紺の衣装を着た田中邦衛が入ってくる。
すると、ちゃぶ台の代わりに使われていた道路標識が倒れて、画面左側に大きく映りこむ。「止まれ」と書かれたその標識だけ、赤と紺で塗られている。つまり、画面左側に位置する田中邦衛と道路標識だけが、赤と紺なのだ。そして、彼は黄色い家を出て、赤く塗られた自分の家へ戻っていく――この配色や位置関係は、はたして偶然なのだろうか?

誰が何色の服を着ているか……それは、ディテールに過ぎないのだろうか? 灰皿や洗面器が、黄色と赤に塗り分けられていることは、映画の本筋と無関係なのだろうか?
セリフに振り回されていないか、警戒したほうがいい。たとえセリフがまったく聞こえなくとも、田中邦衛と井川比佐志が家と妻とを交換したことは、(色分けしたおかげで)絶対に誰にでも分かるように組み立てられている。セリフではなく「画面」が関係性を提示し、画面と画面の連なりや衝突がストーリーを構築していく。その刺激的なプロセスを、『どですかでん』では目撃することができる。


しかし、何よりも圧倒されたのは、たくさんの男と寝てきた女(楠侑子)が、大きな腹を抱えながら悠然と歩くシーンだ。
楠が戸口から外に出ると、道端で働いていた男たちが立ち上がり、彼女の後を追う。カメラは楠の歩調にあわせて、ゆっくりと移動しながら、彼女を正面にとらえている。そこへ、別の男たちが右側からフレームイン、左側からフレームインし、次々と彼女に声をかけたり、体に手を回したりする。そのたび、楠は手で払いのけたり、無視したりする。
楠が「縦の動き」をしているなら、男たちは「横の動き」をしていると言える。また、ひとりで歩く楠が「個」なら、男たちは「群」。楠が「静」なら、男たちは「動」。いくつもの対比がぶつかりあい、また調和しながら、この力強いカットを編み上げている。

この映画は、あらゆる対比で占められている。仕事している者の奥には、なまけて酒を飲んでいる者がいる。平坦な道の左右には、うずたかく瓦礫が積まれている。その鮮やかな構図に、黒澤明なりの「世界の把握の仕方」を見てとることが出来る。
そのような豊かで生き生きと機能しているカット、構図、動きに出会うことが、映画を観る目的だ。誰もがストーリーが、あらすじが、テーマが……と言いすぎる。
まずは、何が映っているのか、どう撮られているのか、色眼鏡を外して見つめることだ。カメラの動き、俳優の動きは「ディテール」なのだろうか? ストーリーが、映画の「本質」なのだろうか? 自分が何に感動しているのか、立ち止まり、振り返って、よく確かめてほしい。

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2017年5月 4日 (木)

■0504■

レンタルで『裸足の季節』、『路上のソリスト』、デンマーク映画『恋に落ちる確率』。
Reconstruction『恋に落ちる確率』は、「恋の魔法をかけるロードショー」とのキャッチコピーで、シネセゾン渋谷で公開された。恋愛映画として売るより仕方なかったのも納得の、実験映画である。
画面を占めるのは、16ミリ・フィルムで撮ったような荒々しい質感の映像、コマが飛んだようなアクションの飛躍、抽象的イメージの二重露光など。
平然とイマジナリー・ラインを無視するカットワークは、ロジカルな作劇のためではなく、単に風変わりなデザインとして存在しているように見える。


ストーリーに意味があるとは思えない。主人公の青年は、恋人と地下鉄に乗っているとき、美しい女性に目を奪われ、彼女を追いかける。ふたりは一夜をともにするが、次の日から青年の家は消滅し、恋人はもちろん、友人や父親さえも彼の存在を忘れ去ってしまう。
ただひとり、一夜をともにした女性だけが、彼と約束したレストランにあらわれる。だが、彼女は青年に惹かれこそすれ、「あなたとは初めて会った」と語る。このようなボタンのかけ違いが随所に発生し、翻弄された青年は女性にふられて、地下鉄の駅に取り残される。
彼が残された地下鉄のホームに、三枚の写真がポスターとして貼られている。それは女性と初めて出会った夜、机の上に並べた写真とまったく同じ絵柄だ。彼はそのとき、「この写真に映った女性には、三つの選択肢がある」と語った。
彼の言葉どおり、映画では3パターンの虚構世界が繰り返されたのだと思う。だが、検証するだけの価値は感じない。三枚のポスターと三枚の写真が符合していることに気づけば、それで十分な気がする。

『恋に落ちる確率』には表層しかないが、それは決して悪いことではない。
良くないのは、『路上のソリスト』のように、観客が映像から感じるべき要素を、すべてセリフに変換して安心したがることだ。そうした親切な映画に慣れた観客は、セリフに振り回される。
『恋に落ちる確率』は、「この映画にはロジックなど皆無で、表層だけで彩られた映画だ」と気づいていくプロセスに、価値がある。その発見の過程は、十分に面白い。束の間、好奇心を満たしてくれる。


プラモデルでも映画でも、同じこと。僕たちはエンタメを語るために変幻自在の視点、豊富な語彙をキープしておかねばならない。

それには、まずはインターフェース、僕らと接する面、表層をしっかりと見つめなければいけない。
現状、映画であれば「ストーリー、テーマ、ネタバレ」ばかりが話題になって構図も演出もカットワークも「ディテール」として無視されている。プラモデルであれば、いきなり塗装や工作といった応用テクニックに話が飛躍し、どのようなパーツ割なのか、どんな成形色なのかは、「どうせ塗るから関係ない」と、評価の対象から外されてしまう。

簡単に言うと、個人の茫洋とした感覚がボディ(本体)になってしまっている。
塗装されたプラモデルも、ストーリーやテーマで語られる映画も、個人の移ろいやすい感覚に依拠している。たとえば、「感動した」などという曖昧な「気分」は、誰にでもシェアできるものではない。不可視のものだから、何とでも言えてしまう。
「動かしがたい事実」=「表層」を見つめる態度を維持しないと、文化は膨張する「気分」によって押しつぶされてしまうだろう。自覚のある人は、どうか危機感をもってほしい。

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