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2017年5月31日 (水)

■0531■

レンタルで、『市民ケーン』。
Kaneborges学生時代に、たしか授業で観て、撮影を専攻した友人が絶賛していた。当時の僕には、何がいいのか、さっぱり分からなかった。今回は画質の悪いDVDで見たが、それでも度肝を抜かれた。
映画そのものより、研究や批評のほうが目立つぐらい、語りがいのある映画だ。いま読んでいる映像表現の本でも、何度か取り上げられている。
日本公開は1966年だが、制作されたのは1941年。映画がトーキーになってから、ようやく20年が経過したころだ。やはり、40~50年代に構図とカッティングによる劇映画の様式は完成されてピークを越えてしまい、だからこそ50年代の終わりごろにヌーヴェル・ヴァーグが台頭したのではないだろうか。
アメリカン・ニューシネマはさらに後、僕の生まれた1967年に始まったとされる。僕が少年時代に親しんだテレビの洋画劇場は、ほとんどが70年代のアメリカ映画。そのまま80年代のSFXブームに突入すれば、映画の好みや価値観は偏って当然だ。

『市民ケーン』は、多くの人々の研究心を触発した。だが、30年前の僕は不感症だった。いま『市民ケーン』を見てつまらない人も、30年後には驚かされるかも知れない。


『市民ケーン』の特殊な絵づくりについては、ほとんど言及されつくされている。「これは自分の発見だ」と思っても、どこかの研究熱心なブログに言い当てられている。
強いて言うなら、僕がいつも指摘する効率的な構図、機能的なカッティングよりも、ワンカットの中での明暗の変化が“語っている”ことが新鮮だった。

この映画では、人物の顔が黒くつぶれる演出が頻繁に使われる。画面奥にいた人物が身を乗り出すと、スッと顔が闇に溶け込む。あるいは、手前にいた人物が画面奥に歩いていくと、顔が影に隠れる。つまり、表情を見えなくすることで、セリフに含みを持たせたり、真意を曖昧にする。
明確な意図が読みとれないため、僕が読んだ範囲でも、実に多様な解釈が生まれている。だから、いまだに研究対象として注目されつづけているのだろう。


明けて本日、立川シネマシティで、『メッセージ』。
世界各地に、宇宙人のUFOが飛来してパニックになる凡庸なプロットに没入できるのは、主人公の女性言語学者ルイーズが、UFOやパニックの様子をモニターで見るばかりで、自分から積極的に事態に関わろうとしないからだ。『裏窓』のとき書いたように()、ベッドの上で、デスクの前でモニターを傍観するだけのルイーズと、僕たち座席に座ったままの観客とが同一化する。主人公が、アバターの役目を果たしているのだ。
(そういえば、ルイーズが何度も幻視する娘とすごすシーンも、POV(主観カット)を多用して、彼女を「見る側」に係留しつづける。)

そして、ルイーズが宇宙人に「文字を見せる」シーンによって、ようやく彼女は「見るだけの側」か640ら脱する。そのシーンまでの間に、僕ら観客はルイーズが傍観してきたものを「自分の目撃したもの」と信じきっている。ルイーズが僕らの分身のように「見るだけ」で主体的に行動しなかったおかげだ。簡単だが、実に巧妙なレトリックだ。
そして、映画が主人公の主観を脱却したあたりで、ジェレミー・レナーの演じる理論物理学者のナレーションによって、事態の全貌が客観的に語られる。第三者の視点が入ることで、映画に強固な信憑性が加わる。
実は、その構造を見られただけで、僕は十分に満足した。後半の危機的状況も、その解決法も、劇映画の様式にすぎないと思うので、とくに不満はない。よく考えられていると思う。


今は、映画を「ネタ」にして、いかに自分が熱狂しているかアピールしたり、斜に構えた解釈を加えることで注目を集めようとしたり、映画がコミュニケーション・ツールと化している。
そのムーブメントは引き返せない道だと思うので、最近ようやく「ほっとこう」という気持ちになれた。僕は映画に驚きたいし、映画の中で何が自分を驚かせたのかを解明したいだけなのだ。

(C) 2016 CTMG

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