■0519■
デンマーク映画『ある戦争』、レンタルで。
緊張感に満ち、知的なパッションに支えられた見事な映画だった。
タリバン政権下のアフガニスタンに駐留する、デンマーク軍兵士たち。部下思いの隊長が、ある作戦で民間人殺傷事件に巻き込まれてしまう。
この映画は、ほとんど手持ちカメラで撮影されている。被写界深度は浅く、2人の人物が並んでいたとしても、どちらかにピントが合っていて、どちらかはボケている。すると、自分がその場に居合わせているかのような臨場感が出る。
戦場へ向かうシーンで、兵士たちが現地の子供たちのために作ってやった凧が、木にからまっているのがチラリと見える。それだけで、ギクリと嫌な予感がする。しかし、手持ちカメラなので、本当に「チラリ」としか見えない。ホラー映画ならカットを割って、ズームで寄るべきところだろうが、この映画では“目撃感”が大事だ。一秒しか見えなかったものは、一秒以上映さない。知的な態度だと思う。
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一方、後半を占める日常シーンでも、手持ちカメラは効果的に使われている。
事件のために帰国した隊長は、妻と再会する。彼らは庭で向かい合っているが、妻が「なぜ急に帰国することになったの?」と聞く。言葉につまった隊長は家の中に入り、妻は彼の後をついていく。ところが、カメラは家の外にとどまりつづける。
ガラスごしに、隊長が妻に説明しているのが見える。セリフは聞こえないが、事件のあらましを知っている我々には、彼が妻に何を話しているのか分かる。
すなわち、カメラは確実に人物や状況を“目撃”しているのだが、映画は人物や状況のあいだに距離を置いている。
ラフに、ランダムに動くカメラワークが“文芸性”を発生させている。シナリオではなく、カメラワークが語っている。
ラストで、主人公(隊長)は自分の子供を寝かしつけていて、ハッとする。毛布から、我が子の素足が見えている。それは、アフガニスタンで殺されてしまった子供の素足とそっくり同じアングルだ。だから、彼はドキッとしたのだろう。
……いや、ちょっと待ってほしい。「毛布から出た子供の素足」は、カメラで撮影されたアングルなのである。だから、僕ら観客は「ああ、アフガンで殺された子供と同じだ」と気づく。隊長はカメラとは別の位置に立っているので、「ああ、アフガンで殺された子供と同じだ」とは認識できないはず。(自分の体験を「映画」として見てないかぎり。)
にもかかわらず、隊長はハッとして考えこんでしまうわけです。そこに映画にしか為しえない詐術が、レトリックが機能している。
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このような矛盾を、僕は“映画ならではの文芸性”として受け入れる。
ネタバレネタバレうるさい人は、カメラアングルの話をしても「そんな小難しいディテールの話はどうでもいい」とでも思うんだろう。
だけど、「この映画の倫理観や家族愛を描いているのはカメラワークなんだ、撮影なんだ」と僕が言いつづけていないと、ついには誰も口にしなくなるような気がして、怖い。
(C)2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S
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