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レンタルで、『寄生獣 完結編』。前編だけ見てほったらかしにしていたのだが、友だちが今頃になって、「マンガの実写映画化の中では、かなり良い」と誉めていたので、後編を借りてきた。
確かに「本当に山崎貴監督なのか?」と疑うレベルには、しっかりした映画だ。ただ、原作マンガからしてそうだったけど、田宮良子が新一に赤ん坊を託した時点で、文芸上のテーマを語り終えていると思う。深津絵里の演技も素晴らしいが、田宮良子の出演シーンは撮り方が丁寧。
寄生生物たちの拠点となった市役所で、カメラは横に移動しながら、バラバラの方向を向いて座っている寄生生物たちをとらえる。田宮はカメラが止まった場所、つまり部屋の右端で育児書を読んでいる。彼女だけ画面左側を向いて、整然と座っている。他の寄生生物と違ってカメラの移動方向を向いているので、知性を感じさせる……が、横顔なので冷たい印象を与える。
つづいて田宮は、大森南朋の演じる記者と会う。そのシーンで田宮は人間のフリをしているので、7:3の安定した構図だ。誰にでも分かると思うが、ここで田宮良子の非人間さを強調しても、まったく意味がない。あえて「人間を撮るかのような」平凡な構図が望ましいはずだ。
CG技術がどうとか、原作と設定が違うとか、そういうところに実写映画のアイデンティティは宿らない。頼むから、構図とカットワークを見てほしい。特に、映画評論家の皆さん。
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田宮良子の登場シーンで、もっとも印象的なのは、新一との再会シーンだろう。
田宮は自宅マンションに、ベビーカーを押して帰ってくる。構図は真後ろからのロング、そして真横からのミディアム・ショットだ。ファーストカットは完全なシンメトリなので、非人間的な印象が強い。
田宮は新一の気配に気がついて、立ち止まる。カットが切り替わると、すでに新一は田宮の後ろに立っている。二人は真正面を向いたまま、視線をかわさずに会話を始める。
ただし、田宮は画面中央から、やや右にずれた位置に立っている。新一を画面に入れる都合もあるが、田宮は「寄生生物と人間の共存」の話をしているので、少し人間味を加えたほうがいい。なので、中央からズラしてやるのが効果的だ。左右不対称のほうが、完全なシンメトリより、画面に柔らか味を感じないだろうか?
だが、新一は田宮の話を信じようとしない。このとき、田宮は初めて体の向きを変える。つまり、新一のほうを向く。そして、そのまま無言で歩きだす。カメラは、真横から田宮の歩きをフォローする。フレームには新一が入るが、田宮は新一の横を歩きすぎて、彼と背中合わせの位置に、ピタリと立つ(左図)。
つまり、田宮は新一に近づきはしたが、決して視線を交わそうとはしない。しかし、彼女のほうから人間側に近づいたことは確かなのだ。その微妙な距離と角度を保ったまま、田宮は「私を信じろ」と言う。信じてほしいからこそ、彼女は新一に歩み寄った。だが、2人は目を合わせるほど分かり合ってはない……素晴らしい緊張感にあふれたカットだ。
くどいようだが、このシーンは全カット、「真正面」「真横」のみである。そのために、田宮良子の持つ寄生生物らしい冷淡さが、シーン全体を覆っている。だが、新一が現れたことで、田宮は少し画面の片側に寄る。シンメトリの冷たさが、少しだけ和らぐのである。
どうだろう、「田宮良子が人間との共生を模索している」ストーリーを、構図の変化が語っているとは思わないだろうか? それとも、セリフでぜんぶ説明しているから、映像はオマケにすぎないのだろうか? 次から映画を見るとき、ちょっとだけ構図に注意してほしい。
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そして、『寄生獣 完結編』は、後半の展開に必然性がないから「駄作」なのだろうか。原作の良いところを拾ったから、「かろうじて良作」なのだろうか。
僕らは、駄作か良作かを選別するために映画を見ているのだろうか? 僕たちの人生は「良いか悪いか」「百点満点で何点か」なんて、そんなつまらないものなのだろうか?
(C)2015映画「寄生獣」製作委員会
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コメント
いつも興味深く拝見させております。私も構図とカットワークについての視点で映画を観たいと感じたのですが、その視野を広げるために廣田さんが読まれた書籍などがあれば教えて頂けないでしょうか?
投稿: tailan | 2017年5月15日 (月) 00時27分
■tailan様
こんばんは、コメントありがとうございます。
是非ともオススメしたい一冊は、塩田明彦さんの「映画術 その演出はなぜ心をつかむのか」(イースト・プレス)です。
講義を文字起こしした本なので、とても読みやすいです。ご一読ください。
投稿: 廣田恵介 | 2017年5月15日 (月) 00時34分