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レンタルで『バタフライ・エフェクト』。
少年時代、悲惨な事件に遭遇した青年が、過去の日記を読み返すことで、その時点へタイムリープする力を手に入れる。少年時代へタイムリープして、その場の言動を選択しなおすと、現在の状況が激変している……という、恋愛シミュレーションかビジュアルノベルのような脚本。
ちょっと前の僕なら、「ドラマ性がない」とでも言って、鼻で笑っただろうと思う。人物設定は、明らかに類型的だ。だが、この映画にはデジタルネイティブだけが感じることのできるリアリズムがある。
何度となく現在をリセットして、フラグを立てたり立てなかったりすることでハッピーエンドを目指す構成は、文芸的とは言いがたい。しかし、デジタル的な方法論で再編された映画脚本は、小説や戯曲の近辺で停滞している映画脚本より、よほど進歩しているとは言えないだろうか?
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ざっと検索したところ、ビジュアルノベルやアドベンチャーゲームの文脈から、この映画を評価する声は(13年も前の映画のせいか)、ネットには見当たらない。例によって「面白いか退屈か」「感動ではたかどうか」を、点数評価つきで語ったレビューが目立つ。
日本にも『魔法少女まどか☆マギカ』や『STEINS;GATE』、『orange』のようなマルチエンディングを孕んだ作品群がある。『orange』は実写映画化もされてヒットしたが、ひょっとして「ゲーム文脈」から分析すべきだという僕の脳が古いのだろうか。
「面白いか、感動したか」「傑作なのか、凡作なのか」だけが問われる平面的世界で、果たして僕たちの審美眼は鈍磨しないのだろうか?
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マンガ『寄生獣』の中に、「ひょっとしておまえ……鉄でできてるんじゃないのか」というセリフがある。無残な殺され方をした母親をめぐって、父と息子の間に断絶が生じ、母の死を乗り越えた息子は、父から見ると「鉄でできてる」ように見える。
20代のころに『寄生獣』を読んだ僕は、「鉄でできてる」男になろうと努めた。何度となく女性にフラれていたので、3日で立ち直れるよう訓練した。それだけ、女性に依存していたのだと思う。15年前の結婚、12年前の離婚にいたるまで、僕の心を支配していたのはアパシー(無感情)だった。
僕は事務処理をこなすように、淡々と離婚の手続きを進めた。ひとかけらの感傷もなかった。無感情は最強だと思った。
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その6年後、母親が殺された。そのときも、僕はアパシーを行使した。取り乱すことなく、事務処理を優先した。結果、目的どおりに犯人を刑務所に送ることが出来た。(周囲の人は泣くことを優先しすぎて、目的を見失っていた。)
ところが、友人との関係は、異性や肉親のようにはいかない。なぜなら、友情は「どこまで相手を許せるか」によって成り立っているから。許せるパートが8割、何とかしてほしいパートが2割ぐらいで、良好な関係を保てているのであって、その割合がいつ逆転するかは分からない……。
僕が相手を許しても、相手の「許せないゲージ」が上昇したまま、元に戻ってくれないことがある。
他人に「僕のことを、そのように思うな」と命令することは、できない。どのように思われようとも、どちらの責任でもない。違和感のある関係をつづけていくと、ほぼ間違いなくとんでもない結末が待っている。
僕が違和を感じていなくても、相手が感じているなら、仕方がない。他人は他人である以上、無限に自由なのだ。人の心に命令はできない。こうした気まずさと、僕らは永遠に戦いつづけなくてはならない。さもなくば、僕らは簡単に堕落する。
NewLineCinema/Photofest/MediaVastJapan
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