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ジョン・カーニー監督の『シング・ストリート 未来へのうた』を、レンタルで。同監督の『はじまりのうた』が良かったので。
1985年のダブリン。冴えない高校生が、一目ぼれした相手の気を引くためにバンドを結成、MVに彼女を出演させる。監督はバンド経験もあるし、MVも撮っていたので、80年代の学生が撮りそうな稚拙なMVを、いい匙加減で再現している。曲が生まれた瞬間から、ワンカット内で時間を省略、演奏シーンへ繋いだりする演出は、お手の物である。
なので、「音楽の使いかたが上手い」なんて誉め方は予定調和だし、監督に失礼な気持ちすらしてしまう。後半のミュージカル・シーンも凝っていて、明らかに観客の期待に応えているので、とりたてて書くほどのことでもないだろう。
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僕が感心したのは、映画の後半、主人公が一目ぼれの彼女に幻滅しながら、親友とふたり、曲をつくるシーンだ。そのシーンでの主人公は、彼女よりも曲づくりのほうを大事にしている。
親友は「お前が彼女をロンドンに連れて行けばいい」「ついでに俺たちの曲をロンドンに売り込んで、こんな町から救い出してくれよ」と、ちょっとだけ未来の話をする。
主人公は軽く聞き流し、2人は生ギターを抱えて公園のベンチに座り、自分たちの曲づくりに熱中していく。――と、その背後で何者かが、主人公の自転車を盗む。まず親友が気づき、つづいて主人公が追いかける。
つづくシーンは、彼女にデモテープを渡しに来た主人公。彼は、前シーンで盗まれたかに見えた自転車に乗っているのだ。どうだろう、盗まれたはずの自転車に、颯爽とまたがって彼女の家の前まで来る主人公を、とても強く頼もしく感じないだろうか?
シチュエーションを整理しておくと、
●主人公は片思いしていた彼女に幻滅し、彼女を忘れようとしている。
●いまの彼にとっては、親友と曲をつくるほうが楽しい。
●しかし、親友にそそのかされ、彼女への未練も感じはじめる。
●そのため、曲の入ったテープを彼女の家の前に置く。
イニシアチブは、主人公が握っている。一目ぼれの相手から距離をおいて創作活動に没頭していく彼は、パワフルだ。余裕がある。その「強さ」を表現するには、彼に偉そうなセリフを吐かせればいいのだろうか? 盗まれた自転車を取り返すシーンを入れて、泥棒を殴ればいい? あるいは許せばいい?
殴ろうと許そうと、それを描くのは映画の話法ではない、と僕には思える。
泥棒をどうしたか段取りを説明していては、主人公の「強さ」に、回りくどい意味が加わってしまう。「自転車を取りもどした」事実さえ見せておけば、そのほうが主人公の上り調子の「強さ」が伝わるのではないだろうか。
さらに言うなら、盗まれた自転車は、画面左奥へ向かう。そこでカットが切れて、次シーン、主人公が奪い返した自転車は画面左奥から来る。つまり、「追いかけて、戻ってくる」。自転車の方向だけで「取り返した」事実が伝わるわけだ。
段取りを省き、伝達を合理化して最短にすることで、「事実」は明確に、ゆるぎなく伝わる。知性と感情と論理が連動したとき、僕は感動する。映画のファンクションによって、はじめて情緒的なものを受けとる。(俳優がいくら絶叫しても、映画は情緒的にはならないのだ。)
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サモア自治国のウポル島に旅行しようと思って、いろいろ調べてみた。
局所的に珍しい自然の景観が見られるほかは、とにかく地味な島のようだ。見どころの大部分が、海と関連しているのも、泳げない身としては辛い。
「BRUTAS」の楽園特集に載っていたダナン(ベトナム)にしようか、とも思う。王宮や遺跡もあるので、イグアスの滝やケアンズに欠けていた文化遺産に触れることができる。
ただ、成田からの直行便があるので、またしても安易な旅という気がする。
スウェーデンのような遠い国へ行って、さらにフェリーとシャトルバスまで予約していたのがウソのようだ。クロアチアでも、バスのチケットは行く先々で、あてずっぽうに購入していた。あのがむしゃらさが失われているような気がして、怖い。そこそこの難易度がほしい。
予算に余裕があるなら、もう一度、ヨーロッパに戻ってもいい。オセアニアやベトナムは、お金がなくなってからでも遅くはないような気がする。
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