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2017年5月 5日 (金)

■0505■

【懐かしアニメ回顧録第30回】躍動的な「破裏拳ポリマー」の世界と、視聴者とを媒介する“動けないキャラクター”
Nbc11すべての秘密を知っていながら、作中人物にそれを教えることのできないキャラクターは、テレビの中に入れない視聴者に、最も近い存在なのではないでしょうか?

だするなら、『破裏拳ポリマー』では“男爵”というセントバーナード犬に着目する必要があります。“男爵”だけがポリマーの正体を知っているのですが、それを誰も伝えることができません。
自由自在に動き回れるスーパーヒーローは、実は視聴者からもっとも遠いところに位置しているため、作劇上の工夫なくして、感情移入させることは不可能なのです。


レンタルで黒澤明監督『どですかでん』。
10010418_h_pc_l中学のころにテレビで観て、「黒澤明はカラーで撮るようになってからダメになった」という俗説を信じこみ、それで分かった気になっていた。いま観なおすと、色の使い方は前衛的かつ野心的で、創造する喜びに満ちている。

仲のいい2人の日雇い労働者が、それぞれ赤と黄色の服を身に着けている。彼らの手にする小道具、家の外装、内装、すべて赤と黄色にパッキリと塗り分けられている。中盤から、2人は妻を交換して暮らしはじめるので、一見して判別できる目印がなければいけない。2人を一瞬で見分けるために、赤と黄色の衣装が機能する。
後半、妻を田中邦衛(赤い衣装)にゆずったはずの井川比佐志(黄色い衣装)が酔っ払って、自分の家(黄色い家)に帰ってきてしまう。家の中は、ほとんどの小物が黄色で占められている。その黄色い家へ、赤と紺の衣装を着た田中邦衛が入ってくる。
すると、ちゃぶ台の代わりに使われていた道路標識が倒れて、画面左側に大きく映りこむ。「止まれ」と書かれたその標識だけ、赤と紺で塗られている。つまり、画面左側に位置する田中邦衛と道路標識だけが、赤と紺なのだ。そして、彼は黄色い家を出て、赤く塗られた自分の家へ戻っていく――この配色や位置関係は、はたして偶然なのだろうか?

誰が何色の服を着ているか……それは、ディテールに過ぎないのだろうか? 灰皿や洗面器が、黄色と赤に塗り分けられていることは、映画の本筋と無関係なのだろうか?
セリフに振り回されていないか、警戒したほうがいい。たとえセリフがまったく聞こえなくとも、田中邦衛と井川比佐志が家と妻とを交換したことは、(色分けしたおかげで)絶対に誰にでも分かるように組み立てられている。セリフではなく「画面」が関係性を提示し、画面と画面の連なりや衝突がストーリーを構築していく。その刺激的なプロセスを、『どですかでん』では目撃することができる。


しかし、何よりも圧倒されたのは、たくさんの男と寝てきた女(楠侑子)が、大きな腹を抱えながら悠然と歩くシーンだ。
楠が戸口から外に出ると、道端で働いていた男たちが立ち上がり、彼女の後を追う。カメラは楠の歩調にあわせて、ゆっくりと移動しながら、彼女を正面にとらえている。そこへ、別の男たちが右側からフレームイン、左側からフレームインし、次々と彼女に声をかけたり、体に手を回したりする。そのたび、楠は手で払いのけたり、無視したりする。
楠が「縦の動き」をしているなら、男たちは「横の動き」をしていると言える。また、ひとりで歩く楠が「個」なら、男たちは「群」。楠が「静」なら、男たちは「動」。いくつもの対比がぶつかりあい、また調和しながら、この力強いカットを編み上げている。

この映画は、あらゆる対比で占められている。仕事している者の奥には、なまけて酒を飲んでいる者がいる。平坦な道の左右には、うずたかく瓦礫が積まれている。その鮮やかな構図に、黒澤明なりの「世界の把握の仕方」を見てとることが出来る。
そのような豊かで生き生きと機能しているカット、構図、動きに出会うことが、映画を観る目的だ。誰もがストーリーが、あらすじが、テーマが……と言いすぎる。
まずは、何が映っているのか、どう撮られているのか、色眼鏡を外して見つめることだ。カメラの動き、俳優の動きは「ディテール」なのだろうか? ストーリーが、映画の「本質」なのだろうか? 自分が何に感動しているのか、立ち止まり、振り返って、よく確かめてほしい。

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