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2017年4月20日 (木)

■0419■

1973年のイングマール・ベルイマン監督作品『叫びとささやき』を、レンタルで。
Viskningarochrop19721 このスチールのような、床も壁も赤い屋敷の中で、三姉妹の幸せとは言いがたい人生の結末が描かれる。
フェードアウトもフェードインも、黒ではなく赤い画面に被写体が溶け込んだり、出てきたりする。この映画の世界は、ベースに赤い色がある。黒ではない。(当然、タイトルバックも赤である。)
人物が赤い壁をバックに立っていると、俳優の眼の隅や唇の赤みが気になってくる。つまり、壁や床の赤色は血の色なのではないか……と思いはじめた矢先、人物のひとりが、自分の体をガラス片で傷つけて、血を顔に塗る。もうひとつ、腹にナイフが刺さって、シャツが血に染まるシーンもある。
もし、背景が普通の屋敷だったら、これらの流血描写は、何らの象徴性も帯びなかっただろう。

流血シーンと考えあわせると、この屋敷の壁や床は、皮膚をはがした生肉の世界、「内側」の世界と捉えられる。医者と不倫している次女の回想シーンで、彼女は赤いドレスを着ている。その頃のほうが内面に忠実に生きていた……という暗喩に受けとれる。それを敷衍する、医者のセリフもある。
映画の9割を占めるのが赤い「内側」の世界だとしたら、まだ母親が生きていたころ、三姉妹が仲良くしていたころの回想シーンが庭や林の中といった「外側」であることに、意味が生じる。「あの頃は、みんなが幸せだった」という文学性が、セット/ロケといった撮影手法によって、初めて加わるような気がする。

僕は、映画の表層、「何が眼に見えているのか」を、もっと語るべきだと思っている。映画は面と時間によってしか成立できないからだ。


立川シネマシティで、『夜よ短し歩けよ乙女』。
以前にも書いたように、押井守監督は自作『うる星やつら オンリー・ユー』を「でかいテレビ」だと感じて、『ビューティフル・ドリーマー』で心機一転した。テレビ・フォーマットから始まって、どうすれば「映画」に着地できるか、総集編以外の経路からアプローチした。
それには「(実写)映画」に対する洞察力が欠かせなかったんだと思う。アニメ映画は、数ある映画ジャンルのひとつに過ぎないのか。それとも「アニメ映画」の中に、もっと多くのジャンルがあるのだろうか? (ここでいうジャンルとは「日常系」とか「ファンタジー」って意味ではなく、止め絵とモノローグが延々と続くだけのような実験性の高いアニメも「アニメ映画」に含まれるのか?という形式の問題。)


ひょっとして、絵柄やキャラデがどうであれ、日常芝居の巧みな一部のアニメが、「劇映画」の仲間入りをさせてもらっているに過ぎないのかも知れない。
だとしたら、それはそれで真摯に受け止めないといけない。「アニメだからって差別するな」というスタンスは無力なので、実写映画に匹敵するような「質」と「密度」を、作画や演出で獲得しなくてはならない。
上映時間を90分~120分に設定したから、何でもかんでも「映画になる」とは、僕はまったく思わない。上映時間に見合った設計が必要だと思う。監督がのほほんと作っていても、プロデューサーにパッケージングのセンスがあるとか、製作委員会の誰かが「これでは映画にならない」という問題意識をもっていないと、「なんとなく、上映時間をアニメ絵でつぶしました」という事態に陥ってしまう。

『君の名は。』の場合、仮に新海誠監督が「いつもの調子」でつくっていたとしても、川村元気というプロデューサーが東宝系の映画館を空けさせるだけのキモ、セールス・ポイントをつかんでいた。新海作品は「質的に映画になり得る」と、彼は確信していたんだろう。
だけど、そういう確信をつかんだうえで、自覚的にアニメ映画がつくられる例は、まだまだ少ない気がする。
(C) 1972 - Cinematograph AB

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