■0312■
【懐かしアニメ回顧録第28回】メカニックの“呼び分け”によって生じる「機動戦士ガンダム」の多面的リアリズム(■)

この手の話では、リアリティを感じさせるために「RX-78-2」などと表記した時点で、悪手となります。番組がオンエアされる瞬間まで、モビルスーツという単語すら、誰も聞いたことがなかったはずです。
富野由悠季監督はファンから「御大」などと祭り上げられ、ガンプラは新しいブランドが出るたび、それが最新の「リアルな」「メカニックとしての」回答である……という反復に陥っています。
「ガンダムはリアルだからリアルなんだ」と繰り返す、怠惰で不毛な状態が、ここ20年ぐらいは続いているのではないでしょうか。
セルとポスターカラーで描かれた世界に、確かな存在感をおぼえたはずです。その生の感覚を、「みんなが理解しやすい形にまとめてしまおう」とする動きは、とてもつまらない。おそろしいとすら感じます。お台場に設置されていた1/1ガンダム、あれが答えのわけがないでしょう。だからわざわざ、第一話まで戻ってみたんです。
■
■
本日は、午後から三鷹市主催の「戦跡を訪ねるフィールドワーク講座」に参加。
三鷹コミュニティシネマ映画祭のとき、漠然と聞いていた企画だが、同映画祭で『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』の上映、片渕須直監督のトークイベント(■)を企画したドカン隊長から教えられて、応募した(残念ながら、ドカン隊長は抽選から漏れてしまった)。
どこか『この世界の片隅に』の感覚を引きずったまま、三鷹市内の大沢コミュニティセンターへ向かった。
フィールドワークは、調布飛行場を守るための高射砲跡。
四つの高射砲台座跡は、今ではなんと保育園の敷地内にある。
現地の方の説明が、すごかった。まるで目の前で戦場が展開されているかのような言い方で、「あの林の陰からグラマンが低空で飛んでくるでしょ? もう間に合わないですよ」と、今でも残る林を指さす。
「後ろからは、味方の高射砲の撃った弾丸が空中で破裂して、その破片が、ここら辺にバラバラと降ってくるわけです。たまったものじゃないですね」とお笑いになる。
目の前に広がる風景に、まるでVRで戦闘機や高射砲が重ねられたような、異様な臨場感があった。距離感が生々しいんだ。
もちろん、『この世界の片隅に』の映像が頭の中で反復されたことは言うまでもない。現実の光景を想像するのに、アニメの記憶を援用するという倒錯。しかし、あの映画にはそれぐらいの説得力があったし、僕はフィクションを使わないと、現実にアクセスしづらい。
■
もうひとつの目玉は、公園内に二基のみ残っている“掩体壕”。
本日は、午後から三鷹市主催の「戦跡を訪ねるフィールドワーク講座」に参加。
三鷹コミュニティシネマ映画祭のとき、漠然と聞いていた企画だが、同映画祭で『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』の上映、片渕須直監督のトークイベント(■)を企画したドカン隊長から教えられて、応募した(残念ながら、ドカン隊長は抽選から漏れてしまった)。
どこか『この世界の片隅に』の感覚を引きずったまま、三鷹市内の大沢コミュニティセンターへ向かった。
フィールドワークは、調布飛行場を守るための高射砲跡。

現地の方の説明が、すごかった。まるで目の前で戦場が展開されているかのような言い方で、「あの林の陰からグラマンが低空で飛んでくるでしょ? もう間に合わないですよ」と、今でも残る林を指さす。
「後ろからは、味方の高射砲の撃った弾丸が空中で破裂して、その破片が、ここら辺にバラバラと降ってくるわけです。たまったものじゃないですね」とお笑いになる。
目の前に広がる風景に、まるでVRで戦闘機や高射砲が重ねられたような、異様な臨場感があった。距離感が生々しいんだ。
もちろん、『この世界の片隅に』の映像が頭の中で反復されたことは言うまでもない。現実の光景を想像するのに、アニメの記憶を援用するという倒錯。しかし、あの映画にはそれぐらいの説得力があったし、僕はフィクションを使わないと、現実にアクセスしづらい。
■
もうひとつの目玉は、公園内に二基のみ残っている“掩体壕”。

ここに隠されていたのが、タミヤからプラモデルが発売されて間もない飛燕であったという。現地には、1/10スケールの模型もあった。
ここでもやはり、僕はプラモデルというホビーを介して、現実との接点を見つける。それはやはり、ちょっと恥ずべきことなのだろう。
参加者の半分ぐらいは、70代の男性だったと思う。
言葉づかいがハキハキしていて、間違ったことを言ったら「申し訳ありません」と笑顔で頭を下げられる70代は、向上心を失わず、自己鍛錬してきた人なのだろうと想像する。年齢と品位は反比例する。それに抗う生き方を、目の前にした。
実は、そのことに最も教えられた、日曜日の午後だった。明日からは、また取材と原稿の日々が始まる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
> 恥ずべきこと
そこまで卑下するものでも無いと思います。
歴史に触れる・思案する「入り口」としてプラモデルは良く機能していると思います。
戦争が身近に無い以上(その『兆候』は出て来ておりますが)、フィクションを媒介するのは止むを得ないものであり、体験しない事を、我が身に引き寄せるのが、フィクションの役割の一つと考える次第です。
投稿: 印度総督 | 2017年3月12日 (日) 21時59分
■印度総督さま
ご無沙汰しております。
「現実との触れ合い方」が、どうもあまり上手く行っていないのが、僕のコンプレックスです。
なので、ちょっと聞きかじったことを針小棒大に知ったかぶりする癖も、抜けません(優越感は、劣等感の裏返しですから)。
>体験しない事を、我が身に引き寄せるのが、フィクションの役割の一つと考える次第です。
確かに、おっしゃる通りです。なるべく、前向きに考えるようにします。
投稿: 廣田恵介 | 2017年3月13日 (月) 09時28分