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2017年2月18日 (土)

■0218■

自分は、つくづく「恥」を売り物にしている人間だと痛感するのですが……。

Cyzo_1703発売中の「月刊サイゾー」誌3月号にて、過去に書いていたグラビア・ポエムについて、取材を受けました。

現役で書かれているポエムへの批評が主なコーナーで、僕への取材は他の編集者といっしょに、下段4ページに掲載されているに過ぎないのですが、なかなかよく出来た記事です。取材も、丁寧でした。


バンダイ製のインジェクション・プラスティック・モデル、フィギュアライズバスト・シリーズに『ラブライブ! サンシャイン!!』がラインナップされたので、吉祥寺ヨドバシの入荷状況をチェックして、朝から買いに行ってきた。
組み立てながら写真を撮り、Twitterにアップしたところ、けっこうな数、RTされている()。

ただ、瞳をワンパーツで再現したレイヤードインジェクションが、いまだに「変態技術」「バンダイ驚異の技術」とだけ呼ばれつづけているのが、少し気になる。
「驚異の技術」という一言は、売れているクリエイターを「神」「天才」と呼んで、頭っから評価の対象にしない、疎外する態度に通じる。

レイヤードインジェクションは、80年代末期に登場したシステムインジェクションの応用だが、キャッチーな売り文句で、ユーザーの興味を係留しておきたい気持ちは、よく分かる。
だけど、メーカーが「ここを見てくれ」とちらつかせている部分しか、ユーザーが見ようとしない状況は、あきらかに閉塞している。


バンダイのキャラクターモデルは、「塗らなくても大丈夫」「接着剤すら必要ない」仕様を強く押し出している。「一見さん大歓迎」のスタンスは、「プラモデルに労力をかけたくない」「気軽に組み立てたい」層を、温かく迎えてくれる。
事実、Twitterを「素組」で検索すると、色も塗らずにガンプラを組み立てている人たちが、肩の力をぬいて楽しんでいることに気づく。

瞳まで成形色で再現したフィギュアライズバストに関しても、素組みで楽しめばよかろう、キャラ好き、アニメ好きな人たちが、気まぐれに作るプラモデルでいいのではないか……と思うのだが、「自分で手を加えれば、愛着が増す」「自分で塗れば、個性が出る」式に、勝手に「より高いフェーズ」を推してくる人には、返す言葉が見当たらない。
自分の占めたアドバンテージを、正当化しているにすぎないからだ。

プラモデル趣味から、個人の技量による「優劣」を追い出すことはできないだろうか。
「下手だから」と臆している人の背中を押すのが、「塗装にトライしてみよう!」「次はブラシ塗装だ!」といった“上級者からの指導”しかないとしたら、僕はダッシュで逃げ出したい。
「塗らなくても楽しい、適当に組んで、飽きたら次のを買う」だけの人たちを、いちいち“指導の対象”とみなす世界に、僕は未来を感じない。


プラモデルへの愛着も個性も、持ちたい人だけが持てばいい。
何も持たない、徒手空拳でプラモデルに接する自由を、僕はキープしておきたい。塗らない自由は、塗る自由を包含している。

昨年末から、自動車や飛行機などのスケールモデルを、未塗装で、日々淡々と組み立てつづけている。バンダイのキャラクターモデルとは違い、スケールモデルは接着が必須だし、塗装を前提にしている。
C4innhavcae9xmlだけど、僕は接着を楽しみこそすれ、塗装はしない。車のボディぐらいは塗ってみたいが、塗ったとたんに、評価軸が「実物の車」へと遷移してしまい、「実物と似ているかどうか」が気になりはじめてしまう。たちまち、「実物と違う=キットのマイナス点」という相対評価に組み込まれてしまう。それは、(今のところ)窮屈だ。

メーカーが何を最低保障してくれるのか。なぜ、この成形色なのか。なぜ、この工程で、この分割なのか。ニッパーと接着剤と、ピンセットとヤスリだけで組んでいると、心と指先に、軽やかなリズムが生まれる。
「今日は天気がいいから、遠くまで散歩にいこう」「だけど、飽きたら引き返そう」――そんな風のような気分で、プラモデルを作っていたい。

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2017年2月16日 (木)

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Febri  Vol.40 発売中
4910037140371今回も「Febri Art Style」担当で、『3月のライオン』の美術監督・田村せいきさんにインタビューし、美術ボードを構成しました。
田村さんは『おそ松さん』の美術監督でもあり、背景のディフォルメ加減には、共通したものを感じます。

『3月のライオン』は、『とんがり帽子のメモル』『メトロポリス』の名倉靖博さんが美術設定を担当してるのも、ちょっとしたポイントなんですよね……。


レンタルで、『レヴェナント 蘇えりし者』。
Sub2_large監督が、抽象的でよく分からなかった『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥだと知って、こんな骨太な映画を撮るのかと驚きもしたし、映画の前半を占めるワンシーン・ワンカットの長回しに納得もした。
撮影監督は、『バードマン』同様、映画一本丸々ワンカット長回しだった『ゼロ・グラビティ』のエマニュエル・ルベツキ。粘り強い、腰の座った映画である。

CGがこんなに普及する前、実写映画は、カメラの前で起きたことの記録であり、それ以下でもそれ以上でもなかった。だから、『蜘蛛巣城』で三船敏郎の首に矢が刺さった瞬間、アッと驚いた。『バリー・リンドン』で、ライアン・オニールの片足が切断されているのを見て、客席がどよめいた。
『レヴェナント』は、あの原初的な、見世物小屋感覚を蘇えらせてくれる映画だ。まず、タイトル・バックの撮影からして、驚かされる。すべるように水面ぎりぎりをカメラが移動し、最初は右から、次に左からライフルの先端がフレームインしてくる。カメラは水面からティルト・アップして、ライフルを構えた親と子の背中、そして全身をフレームにおさめる。そのまま途切れることなく、カメラは彼らの視線を追ってPANする。その向こうには、木立の中に立つヘラジカが見える。再びカメラがPANすると、銃で狙う主人公のアップになっている。仮に、ヘラジカがCGだとしても、ここまでワンカットで収めるには、徹底したリハーサルが必要なはずだ(特に、カメラマンに膨大な計算力が求められる)。

映画の前半には、「いったい、どうやって撮影したんだ?」と首をひねってしまう驚異的なカメラワーク(に付随した弾着、特殊メイク、さまざまな装置の連動)が、数え切れないほど出てくる。


白眉が、主人公が熊に襲われるワンカットだろう。ライフルを構えて森を進む主人公のバスト・ショットから始まり、背後から突進してくる熊が、鼻息でレンズが曇るほど近接し、一度は離れ、また主人公のところへ戻ってきて、彼を振り回し、ついには組み合ったまま、窪地に転がり落ちるまで、ワンカット。
この熊が縫いぐるみなのか、それともCGなのかは、微々たる問題だ。最初に、熊に一撃をくらった瞬間、主演のレオナルド・ディカプリオは骨折していてもおかしくない。それぐらい、豪快に倒れる。
なのに、スタントではなく、本人が倒れている。後から熊を合成するにしても、183センチのディカプリオの巨体を振り回す力を、どこかから調達してこなければならない。熊を演じた俳優が、そんな怪力を持っているのだろうか?

「なーんだ、CGか」と白けている場合ではない。現場で、どれほどの計画性とプロフェッショナルたちの技量が要求されたか、想像するだけで目まいがする。
映画の後半では、ワンカット長回しは減っていくが、主人公と敵役との決闘シーンは、くどいほど念の入った長回し。「どうやって仕込んだんだろう?」と呆気にとられるばかりの血糊、切断される指など、あれこれと仕掛けが満載。
あとからデジタル的に細工したにしても、入念に段取りしていないと、あんな映像にはならない。


これだけ見ごたえ十分な見世物映画なのに、「ストーリー性がない。40点」だとか書いている“映画好き”がいる。
3Dでなくとも、4DXでなくとも、画面が小さかろうと、音声がモノラルだろうと、カメラワークが損なわれるわけではない。CGの普及で、確かに、劇映画の武器のひとつだった信憑性は変化を迫られた。だが、『レヴェナント』は、その何割かを取り戻した。
そして、CGがどうであれ、カメラが進歩しようが退化しようが、カメラのフレームとカッティングだけが、映画を規定しつづける。IMAXで見ようがスマホで見ようが、フレーミングとカッティングは変わりようがない。カメラの動きに無関心で不感症だから、「ストーリー性がない」などという雑な批判が出来てしまうのだ。

もう一本、『ヴィクター・フランケンシュタイン』も観たが、『レヴェナント』に比べれば、かわいいCG映画だった。

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

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2017年2月12日 (日)

■0212■

アニメ業界ウォッチング第30回:「監督」と「演出」は、職業的にどう違うのか? 鈴木利正インタビュー!
T640_721425僕は『輪廻のラグランジェ』の公式ライターだったので、鈴木監督とは、よく顔をあわせていました。
その鈴木監督が『傷物語』の演出を担当していると知り、昨年末にご連絡して、ようやく取材が実現しました。
ちょうど、本日開催の「ラグりん祭り」にお呼ばれしたのですが、あまりに仕事が立て込んでいて……監督には、失礼をしてしまいました。

【懐かしアニメ回顧録第27回】シンメトリーの構図と舞台装置が明らかにする、「帝都物語」と演劇の相関関係
アニメに復帰しはじめた1991年に、たまたまVHSで観た『帝都物語』を取り上げました。
翌年が『ジャイアントロボ』、1994年が『マクロスプラス』ですから、あきらかにアニメが面白くなりはじめた時期。世間的には『セーラームーン』から『エヴァ』への端境期で、何度目かのアニメ・ブームが胎動していたころです。

記事の内容としては、構図と仕草なのですが、どちらにも絞りきれない文章になってしまいました。あまりにも、切り口の多すぎる作品なので……。
本当は、加藤が術をつかうとき、左手を大きくカメラに向けるカットに触れたかった。普通、左手がカメラに迫るまでを作画するところですが、手はカメラの前に固定されていて、加藤の体がズーム・アウトして、ぐーんと後ろに下がるのです。そのカットが、アニメの撮影方法をいかした異様さ、不自然さを出していて、白眉なのですよ。


男児ポルノ画像10万点 神奈川県警など6容疑者逮捕(

さみだれ式に情報が出てきているけど、NPO職員、小学校の臨時教員、大学のダンス部所属で“ミスターコンテスト”にも出場経験あり……と、容疑者のプロフィールや手口が、ここまで明らかになった【児童ポルノ】事件も珍しいだろう。
本来このような、児童への【性虐待記録物】を取り締まる法律だったはず。今回は、加害行為を隠しカメラで撮影していたそうなので、まさに「性虐待」の「記録物」だろう。
性器が映っていようがいまいが、一般人が見て興奮しようがしまいが、児童への性虐待があった事実を重視すべき。

この事件の異様さを知れば知るほど、いきなり秋葉原で合法的に売られているAVを選んで「児童ポルノだ!」と指摘する滑稽さが、さすがに分かるだろうと思う。そんな分かりやすいところで、売られているわけがない。
容疑者たちは、NPO法人のボランティアで子供たちをキャンプに案内したり、教師として食事をごちそうしたりする「善人」だった。
いつも、そう。東小雪さんの手記『なかったことにしくたない』でも、我が子を性虐待した父親は、地元で名士と言われるような有名人だった。
イギリスでも昨年、サッカー選手がコーチに性虐待されていた事件が公になったでしょ? 映画『スポットライト  世紀のスクープ』を観れば、すごい数の聖職者が性虐待していると分かる。大人社会で信頼されている者ほど、要注意……という事態になってしまっている。

「私はこのメーカーの、このAVがワイセツだと思います」と呑気なことやっている人たちは、お気楽で結構なことだ。社会の中で「子供たちにとって、良い大人」として振舞っている加害者と、対峙しなくてすむんだから。
「権威」や「良識」を疑い、その奥底に澱んだ汚泥を見つめるのは、とても勇気のいることだ。


だからいつも、児童“ポルノ”の問題は、“ポルノ”を消費する男性の問題として片付けられてしまう。「未成年の女子に欲情し、彼女たちを搾取する成人男性」といった通俗的イメージに押し込められる。
今回の「男児を性虐待する成人男性グループ」という図式は、「女子高生の制服に群がる援交オヤジ」の短絡イメージなんかより、よほどエグい。生々しい。
だから、「今回の事件は特殊」で片付けられかねない。たった今、別の立場ある大人たちが、児童を同じ目にあわせているかも知れないのに、その可能性を考慮する人は少ないだろう。

なぜなら、通俗イメージを頭に思い浮かべて、「嘆かわしきかな、日本の男」と、浮世離れした嘆き節を繰り返していたほうが楽だから。
僕は無力だが――『スポットライト 世紀のスクープ』は、誰にでも観てもらいたい。森田ゆりさんの『沈黙をやぶって』が図書館にあったら、騙されたと思って、読んでほしい。
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2017年2月 9日 (木)

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レンタルで、『ハドソン川の奇跡』。
640いまどき珍しい、90分にまとまったソリッドな映画。
開幕、すでにモチーフとなる飛行機事故が起きた後である。トム・ハンクス演じる機長は、事故から全乗客を救った英雄としてマスコミに追い回され、同時に国家運輸安全委員会から嫌疑をかけられ、家族とも会えずにいる。

事故は、回想シーンとして描かれる。そこまでで、すでに一時間が経過している。ラスト30分は、公聴会。機長の判断ミスを疑う国家運輸安全委員会、シミュレーターによる事故の再現、そしてフライト・レコーダーに残った機長と副機長のやりとり。ここでもう一度、事故が回想される。時間の省略はない。シミュレーターで四回、フライト・レコーダーで一回、計五回も、こと細かに事故の様子を再現する。
この冷徹なまでの実証の繰り返しに、感服させられる。無論、膨大な航空用語が、説明もなく飛び交う。


冗長な人間ドラマを排した、クールな構成の映画だ。

序盤、機長は理解者の少ない、孤立した立場に置かれている。
中盤、機長の身に何が起きたのか、仔細に回想する。ここで観客は「事実」を目撃する。
終盤、機長を疑っていた人々が、態度を改める。

たった、これだけ。機長の少年時代、空軍時代のエピソードが挿入されはするものの、クリント・イーストウッド監督は、彼をことさらに美化したりはしない。事故現場を描く回想シーンでも、機長の出番は少ない。英雄的活躍をするのは、たまたま通りかかった通勤フェリーの船長や、沿岸警備隊だ。
だから、機長は「私ひとりが英雄だったわけではない」と、公聴会で無名の多くの人々をねぎらう。同時に、過剰に持ち上げられたり疑われたりしていた機長のストレスも消え去る。つまり、主人公が解放される。
そのための三幕構成なのだと考えると、事故の詳細を中盤までとっておき、最初の30分で、機長の不自由な身の上を淡々と描いたのにも納得がいく。

それにしても、こういう知的でロジカルな映画が潤沢な予算をかけて製作され、しっかり評価されるアメリカ映画の世界はスケールがでかいし、健全だと思う。


映画『この世界の片隅に』が「つまらない」のは誤解だと話題に()

公開から二週間ぐらいたった頃のまとめだけど、「面白い・つまらないでは語れない映画」という誉め方が、11月時点でTwitterでささやかれはじめ、今では検索のサジェスト機能で「この世界の片隅に つまらない」と表示されるほど、定着しているようだ。
「ガルパンはいいぞ」みたいな現象なのかも知れない。「ガルパンはいいぞ」も、最初は実感のこもった誉め方だと思ったが、他の映画に転用する人がいまだに多くて、辟易する。

いま、公開から三ヶ月もたった時点で「面白い・つまらないでは語れない映画」とコピペのような誉め方をしている人は、「他人のツイートを繰り返し見ているうちに、自分の感想のように勘違いしてしまっている」んじゃないだろうか。
それはちょっと、怖い現象であるような気がする。ネットの言論は、全体主義的になりがちだよ。『この世界の片隅に』を誉めたら、『君の名は。』を誹らねばならないような空気も、よく分からない。どっちも、それぞれに面白かったんだが。


僕の友人が、Twitterで「Aという映画は音響がいい」と誉めていたので、「なるほどな」と思いつつ、僕は別の部分を誉めることにした。
その時には、「A作品は音響がいい」がコピペのように流行っていて、こんな辺境ブログにまで「音響がいいので、設備のいい映画館で見てください」「あの映画を見て、音響を誉めないのはおかしい」といったコメントまで寄せられた。

自分の意見だと固く信じていたはずが、実は他人からの影響だったりすることは、よくある。覚えず知らず、心酔している相手の言葉をオウム返しにしてしまっている場合がある。
それは仕方ないにしても、「この映画の価値が分からないヤツらは、劣等感性」というレビューを見て、慄然とした。すごいな。感性に優劣があるのか。
SNSは、同質化を迫る。異質なものを排撃する傾向にある。個性やオリジナリティよりも、集団への帰属願望や優越意識が強くなりがちなんだろうな。

(C)2016 Warner Bros. All Rights Reserved

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2017年2月 8日 (水)

■0208■

昨夜は吉祥寺プラザまで歩いて、『この世界の片隅に』、三回目を鑑賞。ゼロ号試写ふくめて三回目だから、明らかに少ない。『マイマイ新子と千年の魔法』だったら、この時期、十数回は行っていたのに。
640まず、吉祥寺プラザでの上映が今週で終わってしまい、回数も夕方から一回のみに減っていたので、ちょっと慌てたことが理由のひとつ(吉祥寺プラザは、いまどきネット予約も座席指定もない、古風な映画館)。
もうひとつ、新宿ピカデリーの大スクリーンで『マイマイ新子』を観て()、「やっぱり『この世界~』も、早めに観なおさないといかんな」と感じたこと。共通点を探したいと思った。

街中で演技しているモブの人たち、ひとりひとりの仕草にあわせて、セリフが当ててある。中島本町と三田尻駅前は似ていて、“裏づけのあるざわつき”が密度を出している。
それ以上に、主人公のモノローグ、“話し方”が、映画のテンポを生み出す点が共通している。『マイマイ新子』では「春になると、緑のコジローがうるさい」という福田麻由子さんの第一声で、「あ、これは好きなタイプの映画だ」と直感した。試写会終わってすぐ、「アニメージュオリジナル」編集部に、「福田麻由子さんの取材を追加でお願いします」と電話したぐらい。
バックにはMinako“mooki”Obataさんのスキャットが流れていて、そこに福田さんの防府弁が重なって、「お洒落な映画」「センスのいい映画」という(僕の受けた勝手な)イメージが、音によって形成された。

『この世界~』も、のんさんの広島弁が映画全体のテンポをつくるんだけど、開幕すぐ、ワンカット目で、いきなり音楽なしのモノローグから始まる。これは、勝負に出ている。のんさんの第一声で観客を引き込めなかったら、もうそこで負けていたかも知れない。
こういう大胆な賭けをできるのは、片渕須直監督が音響監督(音響演出)も兼ねているからだろう。


声について感じたのは、演技そのものは、戦争中の話し方を意識していないこと。1950年代の映画なんて見ると、当時の日本人はけっこう早口。小津安二郎の映画でも、みんな早口だよね。
だけど、のんさんもそう、藩めぐみさんもそう、いまの話し方なので、ちゃんと2016年の映画になっている。プロデューサーさんから「周作の声は、オルガですよ」と聞かされたとき、「ああ、その手があったか」と納得したし、安心もした。
細谷佳正さんもそう、小野大輔さんもそう、売れている若いプロ声優たちが、懐古ではない「いまのアニメ」のカテゴリーにとどめてくれたような気がする。

『シン・ゴジラ』と同じく、2016年の日本と日本人の映画になっている。戦争や震災、観客が目をそむけたいものを、観客の生理に沿いながら、寄り添うように見せてくれたから、支持されてるんじゃないだろうか。
原爆投下のシーンで、後ろの方の座席から「……来た!」という声が聞こえた。つまり、この映画のバックボーンを、あらかじめ僕らは知っている。ずるいことに。
この映画を観ることで、誰もが神の視点に立てる。大和が沈んだことも、日本が敗戦したことも、知った気で見ている。
神の視点に立たせてもらい、世界を俯瞰しながらも、その傲慢さをたしなめられる。いや、「誰かに、戦争や震災に対するうしろめたさを優しくたしなめてほしい」という願望が潜在的にあって、この映画は、そのニーズに(意図せずして)答えてくれたのかも知れない。

ラストカットに「ほらご覧 いま其れも 貴方の一部になる」という歌詞がかかる。その一説が呪いのようでもあり、寿ぎでもある。戦慄と感傷と安堵が、同時に襲いかかってくる。
心から「すげえ」と思ったけれど、応用性の幅広さ、解釈の自由さという点で、僕は『マイマイ新子』のほうが好き。というか、やはり別の映画。別々の良さがある。(『マイマイ新子』には、遊び心というか、出来心でポロッと生まれた粗野な奔放さがある。)


前にも書いたとおり、僕は当初、クラウド・ファンディングには反対だった。
だけど、今なら企画・制作段階から実費で支える「片渕須直ファンクラブ」があっていいと思うし、ファンが直接支援して、片渕さんが自由にアニメをつくれるなら、それが誰にとっても幸せなことのように思える。(『この世界~』は、製作委員会に名を連ねる会社の数に対して、ほとんど片渕監督の個人作品のような質感だけどね……。)


レンタルで、アルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ!』。
L1967年にテレビ初放映された日本語版が収録されており、放映されなかったシーンは英語のまま。どこがどうカットされたのか分かるので、勉強になる。

ただ、この映画は戯曲を映画化した作品。映画であらねばならない原理性は、かなり薄い。
にも関わらず、面白い。それは、演劇が映画を内側から侵略したことの証左でもあろうと思う。「脚本がいい」という場合、たいてい「映画の皮をかぶった演劇」を誉めている。その文脈・構造は、いつも意識しておきたいと思う。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
TM & (C) Warner Bros. Entertainment Inc.

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2017年2月 5日 (日)

■0205■

レンタルで、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』。
主演のマット・デイモンが自ら書き下ろした戯曲をもとにしているため、「どうしても映画でなければ表現できない」作品ではない。にも関わらず、最後まで目を離せないほど、引きこまれる。
Mattdamongoodwillhunting主人公は、天才的な数学の才能を持ちながら、清掃や土木工事などの力仕事から離れようとしない、屈折した青年。わざとトラブルを起こして、刑務所に送られそうなところを、彼の才能を見抜いた大学教授が、週に二回のカウンセリングと引き換えに、彼を救い出す。
ところが、救われたはずの青年は、カウンセラーたちを馬鹿にして、大企業や政府機関からの就職の誘いを、次々に断る。

ようするに、主人公の青年だけが勝手気ままに振る舞い、他の登場人物は、ひとり残らず彼を追いかける構図になっている。ロビン・ウィリアムズの演じる心理学者が、かろうじて彼に追いついたところで、ドラマは終焉を迎える。
最後尾を走っているのは、最初に青年の才能に気づいた大学教授……ではなく、彼の助手だ。教授が青年の才能に夢中になってしまったので、助手は手持ちぶさたに、居心地悪そうにしている。僕たち観客は、この助手の立場に近いところに位置している。

前回のブログにも書いたように、自由すぎる主人公が横暴にふるまっても、共感はできない。主人公のせいで不自由な立場に追いこまれるサブ・キャラクターが点描されることで、ようやく、僕たちは映画全体を見渡すことができる。
(無敵の主人公がバリバリ勝ちまくってもダメであって、どこかに対照的な人物を配置しておかないと、観客が映画に入っていくことは出来ないのである。)


昨日は、まだまだ重たい腰と、連動して痛くなってしまった左膝を引きずって、吉祥寺まで歩いた。帰りに三鷹駅前の市民ギャラリーで開催されている『根付 ~江戸と現代を結ぶ造形~』展へ。
体が重たいのだが、家の近くのギャラリーだし、なんとか発奮して、広い会場を回る。
意識して体を動かさないと、どんどん消極的になってしまう。腰痛の本当の怖さは、精神的に脆くなってしまうことだろう。


もう一本、友人から薦められたロシア映画『草原の実験』をレンタル。
Sogen_main_largeまず何より、主人公の少女を演じるエレーナ・アンの美しさに、陶然とさせられる。アップが非常に多く、後半では髪型も変わるので、彼女のPVだと割り切ると、かなり眼福な映画だ。

全編セリフ無しのチャレンジングな作品ながら、監督は美しい少女とシズル感のある水や光などのモチーフにぞっこんだったのだろう。構図やカットワークには、さして意味が込められていない。
ただ、ひとつだけ感心したカットがある。少女の父親が病気になってしまう。画面の奥には、父親が寝ている。ベッドに横になった父親の前に、医者が背中を向けて座っている(父親を診察している)。さらに手前に、椅子に座った少女が椅子に座って、父親と医者の様子を見ている。
このカットに引き込まれるのは、父親を診ている医者、その様子を見ている少女、さらに、その画面を見ている僕たち……という、入れ子構造が生じているためだ。

映画には、必ず駆動原理がある。「思い」だけでは、何事も為せない。メカニズムを経由させないと、「思い」は現実世界で力を発揮できない。

(C) 1997 Miramax
(C)Igor Tolstunov's Film Production Company

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2017年2月 2日 (木)

■0202■

レンタルで、『さらば冬のかもめ』。
Lastdetailtrio“The Last Detail”という味気ない原題に対して、水兵の話で、雪の降るシーンがラスト近くにあるので、邦題は『さらば冬のかもめ』。映画全体を詩的に包みこむ、見事なセンス。
3人の水兵が、「世界一うまいソーセージ・サンド」など、ジャンク・フードをあれこれ食べる。安そうな缶ビールを次々と買ってきては、いっぱい飲む。3人のうち、ひとりは囚人として護送中なのに、どんどん寄り道していく。その寄り道の数日間を描いた映画だ。

最後に、3人は冬の公園にたどりつく。ジャック・ニコルソンのモノローグとともに、雪景色をえんえんとPANする。その長いPANが「この映画の終わりも近いんだな」と、しっとり伝えてくれる。
PANが終わると、3人は公園でソーセージを焼いて、木の枝にさして食べている。ホットドッグを作るつもりが、バンズを買い忘れてしまったのだ。ランディ・クエイド演じる、まだ18歳の新兵が、焼いたソーセージをマスタードの瓶に直接つっこみ、うまそうにかぶりつく。

冷たい雪とソーセージを焼く火。買い忘れたバンズと新品のマスタードの瓶。「寒い/暖かい」、「無い/有る」の静かなコントラストによって、「楽しい時間は、そう長く続かないのだな」といった無常観がただよう。


この映画では、囚人として拘束されたランディ・クエイドを、自由放漫なジャック・ニコルソンが解放する。その二年後、ジャック・ニコルソンは『カッコーの巣の上で』劇中で、精神病院に入院する。
誰もが完全に自由な映画は、どういうわけか面白くない。
不自由な身から自由へと解放されていく、あるいはその逆に、不自由に追いこまれていくシチュエーションを描いている映画ほど、面白い。


【先行レビュー】デアゴ版『バック・トゥ・ザ・フューチャー』デロリアン1/8モデル、重さ8kgの怪物だった(

たったひとりで、模型ジャーナリズムを開拓している、からぱた氏の鮮烈なレビュー。
たとえば、ガンプラの新製品をちょこっとレビューするんでも、この人に挑むつもりで取り組まないと、模型の世界は進歩しないと思う。
「工作や塗装の知識と技術を身につけ、苦しくても頑張ってプラモデルを完成させる」根性論は、多様化しつづける模型シーンに追いついていないと思います。多色成形、接着剤不要キットが、わずかながらスケールモデルの世界へも広がり、部分塗装用・お手軽仕上げ用のマテリアルが各社から販売されている状況下、プラモデルは必ずしも「上達」を目的とするホビーではなくなってきているのではないか(……という話を、いまだ疑問形で話さないと、保守的な人たちから怒られそう)。


僕は、年末年始、タミヤのスケールキットばかり、8箱ほど未塗装で作りました。
塗装は苦手だし、なによりも製品の“素”の味わいを楽しみたいし、吸いつくように組み合わさるパーツ間に接着剤を流すだけで、かなり贅沢している気分に浸れます。
他人に見せることが目的でなく、単に組み立てることが楽しい……という人は、僕のほかにもいるかも知れないし、「基本工作ぐらい覚えろ」「色を塗らないと話にならない」といった金科玉条が、僕たち野良モデラーにとって圧力になるような状況が生じているとしたら……もしそういう状況でも、野良モデラーはニッパーとヤスリと接着剤だけで、生き延びると思いますけどね。

ただ、素うどんを味わうようなこの楽しみを、うまく言語化したいなあ……とは思います。

(C)1973,RENEWED 2001 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES,INC.

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